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2018.2.18 『裏庭のバジル』 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 new








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making a song day 1

不定期のアップロードとなります。スマートフォンで室内スピーカーの再生音を録音して、その映像をリンキンパークみたいにインターネット上に公開してみたかっただけです。一日目を終えてもう満足したようにも感じますが、そのうちday2以降の音楽作業も少しずつ進めていきます。お付き合いくださる方、どうぞよろしくお願いします。

姪ら、菓子ばかり食べるなよ、という曲です。







裏庭のバジル 40 



 特に何の変哲もなく、それでいて店主にとっては心障りのない四週間だった。彼の期待していたとおり、ドロテが家見に訪れた日から、息子の所在を示す赤印がセガワ家の敷地に表示されなくなった。店主自身の携帯電話に搭載された電子地図に、息子の位置情報を確認する必要が無くなった。
 何の変哲もない四週間だった。行きつけのコンビニの閉店セールでサングラスを買った。職場の上司が退職した。仕事の帰りに立ち飲みに寄る機会が多くなった。古本屋にいた男の客が手持ちの鞄に商品を差し込んでその場を立ち去った。電車に乗っていた数人の女子学生のうち一人が、雨の匂いを植物の脂の匂いであると話していた。配送業者の手から段ボール箱を受け取る際、重いですよ、と言った男の息が店主の顔にかかった。銀行のATMのフックに掛けた傘を取りに店内に戻り、利用待ちの列に並ぶのをやめて店を出た。トイレットペーパーなどの日用品をインターネットで定期購入することにした。息子が料理に興味を持つようになった。
 いつから息子の足取りを電子地図に追うようになったのかと、その時期を振り返ってみるが、それが息子との二人暮らしを始めた時期と本当に重なるのか店主自身にも分からなかった。元妻の希望で息子に携帯電話を与えた日から地図の確認を続けてきたような覚えがある。息子が生まれた日からずっと毎日つづけてきたような気もする。
 いずれにしても、そうして万が一の事態にそなえて息子の居場所に注意を払い続けてきた。その日中の行動範囲を把握してそれを一応の管理義務と考える一方、それを建前として息子への精神的な依存欲求を満たしてきた。職場にいる数人の男親から家庭の愚痴を聞かされて他家の内情を知った。家庭維持と家庭管理の違いを考えるようになった。区の主催するレクリエーションに息子と参加した。その体験が父子関係の杭になったとは思えなかった。携帯電話の画面に赤印を眺めることによって、息子に対する行き過ぎた保護を避けられる。息子が平生の行動範囲を移動しつづけるかぎり、その身の安全を思い込むにあたって必要となる最低限の客観性をいつも手元に得られる。店主は、そう考えることで毎日の生活を維持してきた。

 ドロテの入居から五週目を過ぎた火曜の夜、セガワ家の窓に灯りがつかなかった。
 翌朝、新聞を取りに玄関先へ行ったついで、店主は屋外スリッパの擦り音を足元に短く立ててセガワ家の前まで数メートルを歩いた。そして、年若い女の住まいを朝っぱらから見上げている自分をいたたまれなく思い、とっさにその場で新聞を開いて紙面に目を落とした。当然のこと、肌寒い朝の屋外に立って読むべき記事は何もなかった。新聞を閉じて自宅に戻った。
 それから二日間、ドロテが家に戻った様子は無かった。
 金曜の朝になって、店主は気迷いに構わず思い切ってセガワ家の敷地に足を踏み入れた。玄関前のタイル床にはカトレアの植木鉢が置いてあった。草丈は三十センチ程度で、三本の株ともに大きな薄紫の花が咲いていた。それから店主は裏庭の水道場へ行って、柄杓を突っ込んだバケツに水道水を汲んだ。縁側のシャッターは閉めてあった。四週間の短さを店主は感じた。玄関前に戻ってバケツに汲んだ水をカトレアの株元に流し入れ、そのバケツと柄杓を元あった場所に戻しにまた裏庭へ行った。カトレアの育て方をインターネットで調べてみると、寒さに弱く、冬場には”鉢の土を乾燥ぎみにしておくこと”と書いてあった。
 そして翌日の土曜の午後、店主がカトレアの植木鉢を両手に抱えて半身を起こしたところ、ちょうど銀色のワンボックス・カーがセガワ家の前に停まり、青い上下の作業服を身に付けた三名の男が車を降りた。助手席からも一人の女。車を降りると女は、門柱の向こうにセガワ家の外観を眺めて、感じ入るとも呆れるともいったような声をみじかく飛ばした。白のニットセーターと黒いチノパンツを身に付けて、白いマスクで顔の半分を覆っていた。ラクダ色のムートンコートが本人の高い背丈をさらに際立たせていた。店主は植木鉢を腹の前に持ったまま玄関先のアプローチを歩いた。
「どなた?」
 女は店主と向い合せに立ち止まって訊いた。
「隣の家の者です」休日の張りの無い笑みを浮かべて店主はそのあと、両手に抱えてあった植木鉢をななめに見下ろした。「これは、この家の住人が持ち込んだ花です」
「なかなか出来ることじゃないわ」女は目尻に深い皺を寄せて微笑した。「引っこ抜いてゴミに出すのも、ある意味じゃ良心だけど」と、言い加えるや女は石敷きのアプローチを玄関へと真っ直ぐに歩いた。手持ちのスクラッチバッグから取り出した鍵で扉を開けた。
 加護の作陶映像に映っていた女だった。容貌や体型には大した変わりは無いが、重ねた年数ぶんの老いが紛れもなく顔に出ていた。黒いベリーショートの髪には張りがなく、額の生え際には短く細い髪がまとまりなく垂れていた。落ちた頬には小さな染みが点々と付いていて、鼻の両脇から顎にかける二本の皺のあいだには赤みの失せた唇があった。後年のセガワチサトの顔付きを思い浮かべるには、その老いた女の顔に個人的な苦労の跡が色濃く付き過ぎているように見て取れた。
 店主は、女のあとを歩いてきた作業服の男らに便宜的な挨拶をしながら、開いた玄関のわきに立ち位置を変えた。年配の清掃者が軽く一礼をして戸口をくぐり、手に持っていたクリップボードを指差して、その紙面に記載された作業工程を手短に説明した。チサトの母親は「はい」やら「うん」やら「お願いします」などの相槌を素っ気なく打った。
 その母親の背後から、今度は年若い男の声がした。一人は肉付きの良い大柄の男、もう一人は頭にタオルを巻いた赤ら顔の男だった。二人はそれぞれ掃除機を手に提げて家に上がった。家の一階と二階に作業担当の場を分けると、二人とも家中の窓を開けて回った。

 年配の清掃者は説明を終えて、クリップボードを靴箱の上に置いた。それから彼は配電盤の位置を女に訊いたが、答えたのは女ではなく店主だった。清掃者は玄関先にいた店主を振りかえり、好奇と疑念を滲ませた表情を顔に出して礼を言った。そして男はそのあと、作業服の腰ベルトに取り付けたホルダーから小型のトランシーバーを取り出し、配電盤の取付けてある場所を社員に伝えた。
「あなた、良く知ってるのね」と、女は店主の顔を見て冗談まじりに言った。年配の清掃者は玄関先に止めてあった台車からモップや道具箱や洗剤のボトルを詰めたコンテナなどを屋内に運び込んだ。女は「どうする?」と、店主の顔を見て訊いた。「知里が普段どんな生活をしていたのか、よかったら教えてくれないかしら」
 店主は戸口のわきに立って内玄関から程近い場所にある階段を物思わしげに眺めていた。二階に上った社員の鼻歌が聞こえてくると、店主は女の顔に視線を移して、おざなりの返事につづけて訊いた。「すこし二階にお邪魔しても良いですか?」
 こざっぱりとした顔で、良いわよ、と女は答えた。あなたも一緒に掃除をするの?
 店主は愛想を込めて遠慮がちに笑い、お邪魔します、と、屋外用のスリッパを脱ぎ置いて早足に階段を上がった。二階を担当する大柄の男は、掃除機の電源コードのプラグをコンセントに差し込み、階下から近づいてくる足音に聞き耳を立てた。知里の母親は、階段の上り口に立ってその突き当りの壁を見上げ、用事が終わったら下へ来てねと、語尾を短く伸ばして言った。
「寝室に入りました?」
 店主は寝室の前へと廊下を歩きながら、後ろを振り向いて清掃者の男に訊いた。
「窓を開けなきゃいけなかったので」と男は答えた。
 それを聞いて店主は返事がわりに気軽な調子で一方の手を掲げた。廊下の突き当たりを右に折れて、寝室の前に歩を止めた。部屋の中から漏れ出した木材の匂いが廊下に薄っすらと満ちていた。店主は手で扉を三回ノックし、他方の手に握ってあったレバーハンドルを下げて扉を開けた。
 先日に見たとおり、部屋には一台のベッドだけが置いてあった。クローゼットの扉も閉めてあった。窓から風が吹き込み、開いたレース・カーテンの端が揺れていた。いまひとつ室内の明かりが足りず、店主は壁付けの照明スイッチを押して寝室の灯りを点けた。すべてが先日と変わりなく、そして特に何の疑わしい点も無いように見えた。そうありながらも、しかしベッドフレームの収納の引き出しの部分にだけは何かしらの異変が見受けられるようでもあった。フレームの全体には花や孔雀などを密にあしらった東洋的な模様が彫り込んであった。蛇行する細長い葉状の模様の内側には、それこそ葉の断面図のような緻密な描写がしてあった。羽を開いた蝶や、足を広げた甲虫など、フレームの表面の空間を埋めるようにして小さな模様が点々と数多く描いてあった。それらの模様はすべて位置関係やサイズの大小の点において規則性が無かった。同種の虫のおなじデザインが二つ揃えてある場合もあれば、スペースに合わせて虫の拡縮を変えてあるものもあった。ちょうど、ネズミよりも蟻のほうが大きく描いてある、といった具合に。
 しかしそれは、ただそれだけのことでしかなかった。店主の目には何の異変も見えていなかった。結局のところ、ベッドフレームに掘り込んである模様が彼の目に留まったに過ぎなかった。フレーム全体の濃い色合いが長い年月の経過を想わせるが、収納の引き出しがレールの上を滑らかに動く様子からすれば、そのベッド本体には何の有義な時代性も無いように思えてきた。
 店主はそしてベッドの引き出しを大きく開けて、予想のひとつに沿った状況を眼下に眺め下ろした。知里の作品が跡形もなく消えていた。少量の黒い粒が引き出しの底板に散らばっていた。息絶えたドロテがそこに横たわっていないだけまだ良かった。と、その不謹慎な発想そのものに知里の“ドラマ好き”の趣味の影響を思わずにはいられず、店主は自嘲じみた笑いを落とした。
 引き出しを足の先端でゆっくりと閉じて、そのまま部屋を出ようと戸口に向かった。それから、壁付けの照明スイッチに手を伸ばそうとした矢先、彼の視界の端にクローゼットの折戸が映った。それは店主の自宅にある物とまったく同じ、オーク材の突板を張り付けた軽量の扉だった。だが、それを開いて中を確認するつもりは無かった。折戸の内側から人の声が漏れ出てでもいないかぎり、隣家の寝室のクローゼットを無断で開けて良いはずが無い。
 なぜ私をここに来させたんだ、と、店主は疑問に思った。クローゼットの扉を開けた直後、内部の天井照明が点いた。
 左右に渡してある備え付けのハンガーパイプには、男用と女用の衣服が左右にわけて掛けてあった。多くは冬物のコートやブルゾンだった。パイプの右端には予備のハンガーが数本、そのすべてがおなじ色と形をしていて、それとおなじハンガーが何本か店主の目の前にも掛けてある。備え付けの棚には収納用の小箱が整然と積み重ねてあった。折戸の内面に取り付けたパイプには真新しいネクタイが何本か吊ってあった。店主はもういちど目の前にある空のハンガーを見て、そこにセガワ夫妻の冬の身なりを思い返そうとしてみたが、どうも上手くいかない。それはハンガー以外の何物でもない。
 ところが、三着目の上着を持ち出した人物像にドロテを当てはめてみると、思いのほか具体的な想像を浮かべることができた。知里の作品に上着を被せて、それを一方の脇に抱えて家を出る。人目を避けて夜道の端を縫うように歩く。たかだか十五分程度で陶製の作品の重みを身をもって知る。といって――そこは夜の住宅街だ――歩く以外には移動のしようがない。道端のアスファルトに作品を下ろすとき、力の加減に気が回らず、作品の足先を地面によわく打ちつけてしまう。その様子をドロテは無言に眺め下ろしている。額には薄っすらと汗の湿りがある。汗粒が背筋のくぼみを流れ落ち、肌着の繊維に自分の汗が染み込んでいく。すでに呼吸は落ち着いているが、そうして考えがまとまっていく中、自省の思いが静かに掻き立てられる。欠損した陶のなだらかな断面を見ているうちに息が落ちつく。――知里の作品を腕に抱えて、なにも自暴自棄に屋外を歩き続けたわけではない。どこか人目につきにくい場所に作品を置いてこようと思った。それが、歩きはじめて家々の窓明かりを何度も通り過ぎていくうち、町の住人の多さをひどく漠然と思い、とたんに気が逸れてしまった。気づけば、ただ歩き続けていた、ぼんやりと人の暮らしを思い浮かべながら。
 ここで店主の想像が打ち切られる。「すみません」と、年の若い清掃者が寝室の戸口に首を突っ込んで言った。「掃除したいので、入っても良いですか?」
 その場の微妙な雰囲気を見取って、どうぞ、と、店主は少しばかり声を張った。クローゼットの扉を閉じたあと、寝室を出る間際になって部屋を振りかえり、コンセントの挿し口の位置を言い知らせようとして、そうするのをやめた。
 階下におりて奥へと廊下を歩いていくと、家の奥のほうから掃除機の音が聞こえて来た。その音の出所を家の奥のどこかに聞き定めようと耳を澄ませながら、店主は何の気なくリビング・ダイニングの出入り口の前に立ち止まった。台所に立っていた知里の母親がカウンター越しに店主を呼んだ。母親はその口元を白いマスクで覆っていた。一枚の未使用のマスクを店主に差し向けて、小旗を振るように指の先でマスクを揺らした。
「他に行く場所がなくてね」母親はさめざめとした演技を交えながらも嫌味なく言った。そしてそのあと、店主の顔に目を留めて今度はあっさりとした調子で口早に訊いた。「二階で何事かありました?」
「何事もありませんでした」店主は首を振って答えた。
「何事か、あるはずだったんでしょう?」
「はい。ですが、本当に何もありませんでした」
「そう」母親は年増の見せる意味ありげな笑みを浮かべた。「何があって何が無いのかしら」と言い足し、それからまたさらに続けて「それが言えないのよね?」

 立ち話を始めてしばらくのあいだ、知里の母親は思いの丈を吐き出そうとでもするように立てつづけに話した。
「電話が掛かってきたかと思ったら、いまフランスにいるって言うんですよ」「しかも一人で」「フランスで陶芸の先生をしてるって」「言葉が通じないのに、どうやって外国の人にモノを教えられるんでしょうね」「べつに、知里が何をやったからって、たいていのことじゃ私は驚きませんけど」「結婚するとか、家を建てたとか、旦那さんがいなくなったとか、庭で人が死んだとか、警察がそっちに行くと思うとか」「知里から来る連絡はぜんぶそんな感じですよ」「亡くなった方のご両親がわざわざ家にお見えになって」「謝ってお帰りになったわ」
 切れ目なく、それでいて辻褄を合わさずに母親が話を進めたもので、店主には何とも返事のしようが無かった。ただ、知里が自分の身辺に起きた事実の報告を母親にし続けていたことに対しては、ただ単純に妙な安心を覚えた。
「今回のことで気を悪くなさったでしょうけど」そう言ったあと母親は頭をすっと下げて、「許してください」と、子供の作文の締めくくりを読むような平べったい声で言った。母親の話し方には、それまで何度となく謝り続けてきた者の諦めが込められているようでもあった。その乾いた謝罪の声が店主の胸にこびりついたが、しかしそれは彼女の声色に子供の作文の終わりの一節を連想したからだった。ただそれだけのことだった。
 開け放されたリビングの大窓からは冷ややかな空気が入ってきた。窓辺から離れた位置にある座面に向い合せで座ってみたが、母親と店主の足はソファのどこに挿し入れようもなく、ただ冷気に晒されるばかりだった。
「立会人も楽じゃないわね」知里の母親が悪気なく言った。
「窓を閉めましょうか」店主はその気も無く言ったあと、ソファから立ちあがって窓際ではなく台所へ向かった。「お茶を淹れますよ」
 母親は店主の後ろ姿に視線を沿わせて「これじゃまるで、あなたの家みたいじゃない」と無邪気に笑った。店主にはそれが当たり障りのない嫌味であるようにしか聞こえなかった。知里の母親はそのあと、ひと笑いを溢して目をしばたき、目尻に笑みを残したまま言った。
「まちがえて隣の家に入っちゃいそうになるわね」
「玄関に入れば気づきますよ」店主は台所のカウンターから知里の母親に視線をやった。「匂いが違いますから」と、そう言って調理台の脇のタイル壁に吊り下げてあったミルクパンに水を入れてそれをガス台の上に置いた。指でガス台のスイッチを押し込むと、何の問題もなく火が着いた。ガス台にはタイマー機能が付いていた。グリルの引き出しの窓に多少の油汚れがあった。店主は、配電盤のスイッチを切って家を出たドロテを想った。知里の母親は愛嬌を目じりに滲ませ、つい今しがた呟いた言葉をそれとまったくおなじ静かな口調で「そうよね」と繰り返した。「においが違うわ」

 知里が幼稚園児の頃のことだった。左側が自分の家だったが、彼女は右の家に入った。隣り合わせのどちらも小さな平屋だった。
 その家の玄関を入ってすぐ右手には台所があった。歳の頃にして八十過ぎの一人住まいの老婆が夕食の煮物を作っていた。老婆は玄関に立つ知里を見て、あっちがお嬢ちゃんの家でしょ、と、台所の一方の壁を指して言った。それにも関わらず、知里は日を分けて何度も自宅を間違えた。知里の母親はそれを異常とは見なさなかった。それどころか、自分の思い付いたその悪戯の成果を頭に浮かべて頬をゆるめる始末だった。
 通園バスを降りて知里が家に入ると、実の母親が台所に立って料理を作っていた。染みた衣服の匂いが台所に漂い、食器棚には水垢の付いた茶碗や湯呑が置いてあった。知里の背丈にちょうど合うぐらいの小型の冷蔵庫が置いてあった。一人暮らしに見合った冷蔵庫だった。ところが、知里はそれらを気に掛ける様子もなく台所に上がり、そのまま平然と奥の居間に入った。
 それを何度か繰り返して知里と老婆の親しい付き合いが始まった。
「お婆ちゃんは喜んでくれたし、だから別に良いのよ、危険な遊びをしているわけでもないから」「玄関に花を飾っているほうがウチだよ、とか、竿に知里の下着を干している家がウチだよって」「だけど何を言っても駄目なの」「私が家の玄関に立って知里の帰りを待っていてやらないと駄目なの」「毎日そうしていてやらないと、別の家に入っちゃうのよ」「でも、なんで間違えるの?――って訊いても、答えなかったわ、何度訊いても、ただ黙り込むだけ」「いまのあなたみたいにね、何て言って良いのか分からないってふうに、ただ黙ってるの」「でもだからって別に、それが原因で私が病んじゃったってわけじゃなくて」「みんな、あの子に良くしてくれたから」「私たちがあの家を出るまでずっと」「ただ、やっぱり、いまでも訳が分からないのよ」「だから私一人で勝手に思い込むことにしているの」「知里には全部の家が自分の家みたいに見えていたのかな、って」 「全部、同じ家だったから」
 店主は物思いに視線を落としてそれを部屋の床にゆっくりと這わせ、それからまた視線を目の前のテーブルに戻した。手持ちぶさたに湯呑みを掴んで、生温かい茶を喉に流し入れる。
「翌年の秋に、お婆ちゃんは亡くなるんだけど、知里がそれを見取ったのよ、お婆ちゃんの家財やら貯金をぜんぶ受け継いで」母親は交えた左右の足先を擦り合わせて言った。そして手持ちのスクラッチバッグを開き、中から取り出した二冊の本をテーブルの上に静かに置くと、「知里が “これをあなたに” って」そう言ってまた視線を浮かせた。
 店主は台所に見つけた木製の薄いトレイに湯呑みを二個置いた。さらに、戸棚に入れてあったクラッカーの小袋をためらいなくトレイにのせて、ちょうど機械人形がそうするようにトレイを腹の前に持ってリビングへ慎重な足取りで向かった。知里の母親は、戻ってきた店主の顔を斜めに見上げて「窓、閉めちゃおうかしら」と、思い付いた悪戯を打ち明けるように言った。
 一冊には『まちのクジラ』、そしてもう一冊には『うみのクジラ』と題してあった。古じみた絵本だった。店主は本の表紙にある著者の名を目でなぞり、その一冊を右の手で取り上げた。絵本のことだけあって厚みは無かった。裏表紙には各種コードと価格が表示してあった。大判の絵本の定価を五百円とするその時代性を考えてみれば、出版年の古さをだけはうかがい知れた。絵本の裏表紙を開けてみる。

1962年2月16日 初版
1970年1月5日 10版
著者 かがりまち
発行所 (株) 白岩社
代表者 田波淳

 その他、発行所の所在地や電話番号が裏表紙の見返しに記載してあった。紙肌の微かなザラツキが店主の指先に伝わってきた。紙面には経年の匂いや薄っすらとした変色があった。そしてその見返しの直前のページには未開封の袋とじが紙面いっぱいに貼り付けてあった。店主は平常心をよそおって袋とじから注意を引き剥がし、さらに前にさかのぼってページを一枚めくった。見開きの両ページの隅々にまで、何処かの街並みが描いてあった。その片方のページには大きく皮のめくれ上がった一頭の痩せた鯨が描かれていた。赤黒い肉の所々にまだ白い皮下脂肪が残っていて、それはまるでどこかの列島をでも描いてあるようだった。鯨の生死を説明づける描写は何も無かった。大通りや建物の壁に塗りたくった血の跡が、その街の一帯に歪んだ線となって長々と延びていた。震える老人の手で描いた円のようでもあった。
 見開きの両方のページの端に、誰のものとも知れない科白があった。

これは わたしいがいの なにものかのちですが
わたしは それをしりません

 店主は裏表紙を閉じて、その絵本をもう一冊の絵本の上に重ねて置いた。鼻から息をしずかに押し出して、それから知里の母親の顔をガラステーブル越しに見た。
「あなた疲れてるんじゃない?」知里の母親は店主をまっすぐに見て訊いた。
「今日は仕事が休みですから」店主は首を振って答えた。
「そんなこと訊いたんじゃないの」
 知里の母親はソファに背をもたせて脚を組んだが、そのあとすぐに解いた脚をひたりと閉じて、ソファから引き剥がすように背を起こした。そしてそれから軽い口調で「エアコン付けよう」と、立ち上がって目星をつけた場所へと歩を進めた。店主はもういちど絵本を手にとって裏表紙を開き、カバーのそでに印刷してある『全三部』の文字を指してそこに知里の母親の注意を引いた。
「この絵本はシリーズ物になっていて、全部で三冊あるんです」そう口に出して言った店主だが、彼にとってその冊数は大した問題ではなかった。何かの話題を出して母親との会話に結ぼうと考えただけのことだった。
「知里が持っているんでしょ」
 エアコンの本体を見上げて母親は言った。低い作動音と共に、エアコンのルーパーが開いていく。リモコンを片手にリビングのソファに戻ってくると母親は、店主の掲げていた絵本の”カバーのそで”に目を注いだ。そして一方の腕を背もたれに掛けて、温みの残る座面にゆっくりと腰を落とした。絵本のカバーには『ベストセラー』の売り文句が太い文字で印刷してあった。朗読のカセットテープも同じ出版社から販売されていて、“どちらも好評発売中!”とある。
「知里に電話で訊いておきましょうか?」母親は手に持っていたリモコンの画面を見て、設定温度の調節ボタンを軽く何度か指で押した。「いいえ」と、店主は首を振った。
 リビングダイニングの外の廊下では、「他の部屋からにしよう」と、年配の清掃者の声がした。それを聞いて知里の母親は、お言葉に甘えてもう少し話しましょう、と、今度はリモコンの風向き調節ボタンを何度か押した。彼女はそれから店主の顔に色のない視線をやった。すっかり席を立つ時機を逃してしまった店主だったが、仕方なく彼はそのあと知里の夫の行方に話題を変えようとして、「セガワ」と、そう言いかけて途中でやめた。「知里さんの旦那さんは、まだ見つかっていないんですか?」
 母親は部屋の遠くにエアコンの本体をながめて温風の吹きだす音に耳をそばだてていた。思い出したようにリモコンをガラス・テーブルに置いて、「柔和そうな人だったでしょ」と言うと、左右の肘をすっと上げて、両方の手で横髪をすくい、そのまま手先を後ろ髪の裾へと流した。「清潔そうな人だった」さらに視線をテーブルに落として矢継ぎ早に、「何の後ろめたいこともないって顔をしてて、そう、なんていうか、純粋で傷つきやすくて」その言葉の途中から母親の視線がテーブルをまっすぐに這い進んだ。そして、店主の上体から首元へと渡った視線が、直後、店主の目の位置にさっと引き上げられた。
「塗料をつくる仕事なんて、それを作り終えちゃったらもう立派な達成じゃない。なのに、分をわきまえずにそれ以上の何かを欲しがるから、だから自分のことがよく分からなくなっていくの」「結局、スタートラインと自分の足首に縄をくくり付けておかなきゃ駄目なのよ」「大学生のとき、美術品の修復のアルバイトをしていたんだけど、そのことであの子、ずいぶんと悩んだみたいで」――「これは知里の話ね」――「他の作家さんの仕事に手を入れるのは、考えていたよりもずっと難しいことだって」「それが出来る人もいるけど、私には上手く出来ないって」「――でもね。あの子の腕はけっこう評判が良かったから、仏像の服の皺とか、手の部品とか、仏像の後ろにある、あの、ほら、サーフィンの板みたいなやつね」「あと、その他にも、ブロンズ像を作る職人さんの中に混じって、すごく大きなやつよ、お寺の門番みたいなやつ――ほら、分かるでしょう?――そう、そういう仕事もしてたみたいだけど、でも、自分には上手くやれないって」「だからって、もちろんそんなこと、周りの職人の方は気にしてくれないわ。だって、知里は実績を出し続けるんですから。仕事を続けようと思えば、きっといつまででも続けられたのよ」
「羨ましいです」と店主は言った。そう言葉を選んでおくのが無難だと思った。「誰かに求められるような、特別な腕が私にもあれば良かったな」
「誰にでもひとつぐらい取り柄があるわ」呆気から豊かな微笑へと、母親の顔になだらかな表情の変化があった。「羨ましいだなんて思っちゃ駄目よ。目が曇るわ」
 店主は力なく笑った。目の前にいるのが知里の母親であって他の誰でもないように思えた。
「話が横に逸れちゃったけど、とにかく悪い人じゃなかった。身なりは清潔だったし、お酒を飲むと人懐っこく笑った」「――でも、そうね、ズボンの丈が少し短かったわね。もっと長ければ、今でも二人で仲良くやっていたかもしれないって思うわ。ほら、だって、すこし長いぐらいのズボンを履いている人とのほうが夫婦生活がうまくいきそうだもの」「美術じゃなくて裁縫のセンスが知里にあれば、もしかしたら、って思うわよね」
 店主は母親の顔をまんじりと眺めていたが、思い出したように小さく頷いた。
「あのね」「当たり前だけど、おたがい離れた場所に住んでいると、普段の付き合いなんて全くないの。だから、娘婿の性格がどんなかなんて私には分かりっこないのよ」「ただ、ひとつだけ言えることがあるとしたら、嘘を付き慣れていない大根役者は出来の悪いギャグ漫画の脇役にしかなれない、ってこと」
 室外の廊下に鳴っていた掃除機の音が止んだ。
「セガワ君のことを仰っているんですか?」店主は部屋の出入り口から視線を戻して言った。
「そうじゃなきゃ、今みたいな言い方しないわ」と母親は答えた。「あなたに言っても仕方がないって、分かっているの。でも、つい愚痴を言いたくなるの」
 まくし立てるように言いながら彼女は、ガラステーブルの脚に立て掛けてあったスクラッチバッグを手で掴み取った。その中から携帯電話を取り出し、親指と二本の指で画面を操作して、それから少しの間を置いて今度は人差し指でその画面を縦の方向にスライドした。
「食事会の日取り、どうする?」と母親は画面を見ながら語尾を上げて言った。「お父さんって、体を洗ってから風呂の湯に浸かってた?」「夫婦に一番大事なのは寛容だって思うんだけど、お母さんは寛容だった?」「うちの家紋って、どんなんだった?」
「知里さんからのメールですか?」
「四件よ」
 と母親は短く吐き捨てるように言った。「検索に引っかからないメールもあるから、正確な件数は分からないけど」「――あれだけ何でもかんでも書いて寄こしてたのに、自分の夫に関わるのが“たったの四件”」
 たったの四件。その数の多少は店主にとって大した意味はなかった。そのとき彼の頭の中には、加護幸久の話を聞き出すかどうかの考えしか無かった。知里の母親の携帯電話に保存されている送受信のメールの中に加護幸久を話題とした内容のメールが複数あるはずだった。例の作陶映像を思い起こしてその判断を付けかねていたところだが、知里の母親と無言に視線を合わせつづけているうちに、その考え自体がまとまらなくなった。「知里さんは、小さい頃からカヌーをされていたとか」
「カヌーね」
 と、承認でもするように短く言ったあと、母親はソファに背をもたせて指で携帯電話の画面の操作をはじめた。「カヌーは、ざっと百八十通以上はあるわ」――釣り具の大型店で見付けたライフジャケットの値段が四着分――部活の合宿先から送られてきた練習内容の箇条書き――カヌー部の先輩と体の関係を持った話――整形外科の院内から送られてきた診断結果――朝の練習のときに見たウミガメの話――
「全部読む?」
 そう訊いたあと母親は、店主の返事を待つ様子もなく携帯電話の画面を指でスライドさせた。その指の動きに合わせて、受信メールのタイトルの一覧表示が縦の方向にすばやく流れていった。「いろいろあったのよ」――カヌー競技の県大会のレギュラーに選ばれた――チームメイトが病院に担ぎ込まれた――その入院先でチームメイトと一緒に写真を撮った――合宿の夕食に川魚や旬の山菜の料理が出た――知里の母親は本の目次を読み上げるように立て続けに話した。そして、その自覚もなく口調を弱めていくと、タイトルの一覧に過去の思い出を振りかえって一人笑いをこぼし始めた。
 店主は何ということなく室内の壁にエアコンを見上げた。上着を脱いでそれをソファの背もたれに引っかけてソファから立ち上がり、糸を吐き出すように口から息を抜いた。リビングテーブルに置いてあるリモコンの画面には『30℃』の表示があった。エアコンからは温風の吹きだす音が大きく鳴っていた。部屋の外では業務用の洗剤をつかった床の拭き掃除がつづいていた。
 この最後のやつが、なんだかよく分からないの。
 そう言って母親は沈黙を切ると、うしろを振りかえって店主の様子をうかがうように台所を見た。店主は知里やドロテが取っていた手順をまた思い返しながら、壁棚の所定の置き場所から茶葉の缶を手で掴み取った。「最後ですか?」と、店主が知里の母親をリビングに眺めやると、母親はまた新聞の見出しを読むようにメールの文面を声に出して読んだ。

この前、クジラが浜に打ち上げられたでしょ。あのとき知らない人に話しかけられて、君は海で死ぬから気を付けなさいって言われたの。だけど、ちょうど私すごく気持ち悪くて吐いちゃってたから、その人の顔を見上げる気分じゃなくて。なんか、おじいさんみたいな声で、きっと私を見て可哀想って思ったんだと思う、ずっと私の背中をさすっていてくれたの。いま思うと少し気味が悪いけど、でも、そのときは本当にそんなんじゃなくて。死刑になる人に情けをかけるみたいに、疲れた声で優しく言ったの。
私思うんだけど、やっとこれでカヌーは終わりなんだよ。医者でもコーチでもなくて無関係な人の話を最後に聞いて、それで終わり。あの人が本当に私の知らない人だったら良いのにって思うよ。

 店主は知里の母親の背姿をしばらく眺めていたが、戸口に立つ年配の清掃者の姿に気づいてその男に頭を浅く下げた。「お話し中、失礼します」と清掃者の男が言うと、母親は部屋の出入り口を振りかえって表情を和らげた。
「お二階ですが、いまはエアコンの掃除をしている最中です」男は慣れた口調で言った。「カーペットの染みを抜いて、お二階の掃除は終わりになります」男はそのあとダイニングとリビングをぐるりと見回し、「一階の掃除は、こちら以外の場所はだいたい終わりました」
「さすがプロの方です」そう言って母親が同意を求めるように店主の顔を見ると、店主は調子を合わせて二度つづけて頷いた。
「それで、お布団の丸洗いをご依頼されていましたので、のちほどお預かりして工場に持ち帰って、後日、配送業者のほうに宅配を頼んでおきます――(手持ちのクリップボードに挟み込んであった印刷紙をぺらぺらと形ばかりにめくり上げながら)配送先は、こちらの住所になっていますね」そこで言葉を切ると男はそのあと、めくってあった紙をひとまとめに下ろした。
「私がお待ちしております」と母親が軽い調子で言った。
「宅配の日程については、また後日、お母様のお電話にご連絡差し上げますので」
 知里の母親が快く相槌を打つ。
「ではまた、こちらのお掃除の際にお邪魔しますので、ひとつご協力をお願いします」
「ごめんなさいね。ちょっと話が弾んじゃって」
 母親は愛想のいい表情を顔に出してそう言うと、ついでリビングの大窓を指して気兼ねのない明るい口調で訊いた。「窓は開けておいたほうが良いんですよね?」
 それを聞いて清掃者の男は口調を和らげて気さくに答えた。「こちらの掃除に取り掛かる際にまた開けますから、結構ですよ、いちど閉めてくださって――ですので、えっと、代わりに玄関を開けておきましょうか。いちおう、“清掃中”の看板を立てておきますから」
 言い置いて男は部屋をあとにした。知里の母親はいそいそとソファから立ち上がり、身をこごめて窓辺に向かった。大きく開けてあった窓を閉めると、飛び込むようにまたソファに腰を落とした。
「看板を立てておけば、知らない人が家の中に入って来ないのよね?」と、母親は台所に立つ店主を見やった。
「すくなくとも、人は入って来ませんよ」と店主は笑った。
「野良猫が入ってくれば良いわね」目尻に笑みを残したまま、母親は独り言のように言った。
 好意的に相槌を打ってはおいた。しかしその店主自身、自宅の敷地内では昆虫の一匹すら見かけたことがない。セガワ夫妻から聞いていたとおり、害虫の忌避効果についてはその成果が目に見えて明らかだったが、その他、猫や鼠はおろか、家グモや秋虫の類でさえ敷地内には一匹も入って来ない。思い立って調理台の引き出しをいくつか開けてみる。ゴキブリの卵や糞は一粒すら無い。

 屋内では拭き掃除がひどく静かに続けられていた。店主には作業の進捗を確かめようがなかった。部隊か何かに周囲を固められていくような時間が過ぎていく中、いつまでも母親と悠長に話を続けられるはずがなく、そして、いつかまた成り行きで一室に居合わせでもしないかぎり、知里の母親と話をする機会はおそらくもう二度とない。そもそも初めから特に何も話すことはなかったのだが、遠縁の知人との面会時間の終わりが差し迫ってでもいるように思えて気が落ち着かない。なんとも妙な気分だったが、ただひとつだけ確かなのは、知里に対する店主の個人的な関心が現実に晒されて薄れていくということだった。生母の口から娘の過去が語られるにつれて、その知里本人の実在が紛れもない事実となって感じられた。
 気付けば、湯呑みから湯気が立っていた。
 リビングテーブルには口をつけた湯呑みが二個置いてあるが、ちょうどそれとおなじ乳白色の湯呑みが台所の食器棚に何個も並べてある。水瓶のような卵型をしていて、表面のガラスにはくすみひとつない。そして、その他のカップから各サイズの皿や器まで、棚に並んだすべての陶器が同じ色味の物で揃えてある。店主は、洗う食器の数には気も留めず、加護の作陶映像に記録されていた場面を思い起こした。それは“素焼き” を終えた状態の物を知里が投げ壊す映像だったのだが、そのときの薄茶色の器と、セガワ家の食器棚に置いてある器は、強度と色の違いをのぞいてどちらも器としての体を成していて、同時に無個性でもあった。どちらも知里本人の作家性とは関係のない無個性の器だった。
 では、彼女の作品であることの根拠とはいったい何だろうか。知里が美術品の修復ではなく陶芸活動に就いた理由は、生来の作家であるという実証の出来ない理由の他にも何かあったのだろうか。「知里さんは、いつから陶芸をされていたんですか?」と店主は訊いた。
 母親は店主が台所から持ってきた湯呑みを受け取ると、手元にあった空の湯呑みを無言にテーブルの隅に寄せた。そして、注ぎたての湯呑みをテーブルのガラスに置いて「そうね」と過去を振りかえり、またもういちど傍に伏せてあった携帯電話を手に取った。
「中学のときにクラスのみんなでお皿を作ったのよ、たしか。
 ちゃんと陶芸を始めたのはそのあとでしょ、いつだったか覚えていないけど。
 少なくても百通以上はあるわね。この頃にはまだ、毎日、何通も送られてきた。
 でも、高校生になってからは段々と、たぶん、それが親離れだったのね」
 母親の物言いには、もう特に何の棘立つ調子も無かった。過去の母子関係をいとおしむのでもなければ、その関係を手放そうと思い込んでいるのでもなく、ただ過ぎた日を遠くに眺めているだけのことだった。気の済むまで泣き散らした子供の寝言のように母親は話した。知里はその後、美術大学への入学を機に、中高時代を過ごした町を離れて一人暮らしを始めた。
「陶芸家の方に作り方を教えてもらっていたんじゃないかしら」と母親は言った。
 かご・ゆきひさ――店主は胸の内にそう呟いた。
「“カゴさん” っていう方よ」
「セガワ君も、知里さんと同じ大学に通っていたんですか?」
 店主は母親の言葉に上塗りするようにして口早に訊いた。
 どうかしらね、と、母親は携帯電話の画面に指先を置いた。

『カヌー部の先輩と寝たけど、これって別に嬉しくも悲しくもないね』
なんていうか、人が裸になってべたべた好んで触り合うっていうのは、
酔ってなきゃ出来ないことなんじゃないの、って思ったの。それで、顔
を洗うみたいにセックスが出来るようになったら、それはトイレをす
るのと同じようなものじゃないの、って。
それで美術部の友達に訊いたの、セックスはファンタジーなんじゃな
いかなって。そしたら、何事もない顔で彼女が言ったのよ、

 知里の母親はそこで言葉を切って店主に真顔を差し向けた。
「色気じみたことを、私の口からは言わないほうが良い?」
 店主は無言に首を小さく振った。

もしそうだとしたら、ワタシは画を描いてセックスをしているのね、って。
だけど私にはその考えがあまりよく分からなくて、なんとなく分かってる
ような顔をして黙ってたら、彼女が言ったの、男は女の裸にファンタジー
を感じているでしょ、たぶん男ほどじゃないけど、女も同じように男の裸
を見ている、そうやって現実にある身近なファンタジーを大事にしてる、
だから要するに、男女が肌を触り合うみたいに、ワタシはキャンバスを
筆で撫でるのよ、って。
経験したことあるような言い方するのね、って私が言ったら、美術部に
も男はいるわ、だって。でも、それは音楽室のベートーベンと同じ意味で
の男じゃないの? って私、もちろん言わなかったけどね。だって、実際
美術部には男子が半分ぐらいいるから。

 母親は目を力なく開いて、親指の背で笑い涙をぬぐった。そして、ふっと息を吐き出すと、わずかに表情をゆがめて鼻をひとすすりした。その彼女の様子を見て店主は何ということなく視線をテーブルに下げた。母親の仕草に女の一時の悲哀を思い込むことも、しようと思えば出来たはずだったが、それがただ酷く空しいことのように思えた。
 押し黙った店主の様子を目の隅に置いたまま、母親は自分の読み上げた文面を振りかえった。そこに書かれていた “カヌー部の先輩” をセガワ本人に結びつけて、ゆるやかな物言いで憶測まじりに話をつづけた。だが、その話の架空には疑いようが無かった。セガワの細身の体格からは体育系のどの部活を思い浮かべることも出来ない。少なくとも店主にはそう思えた。セガワに対するそれは母親の当り障りない愚痴でしかなく、彼女自身がその自分の立てた憶測をどこかで否定しないかぎり、いつまでも話が当てなく続いていくようだった。そしてそれは実際にそのとおりだった。
「日本でだって暮らせるじゃない」
 しばらくして母親は知里の海外志向がセガワの職業に影響されたものだったと話した。目の前にいる仮想の相手を優しく問い詰めてでもいるような話し方だった。心もとなげに声が少しだけ震えていた。
「旅行じゃ駄目なのかしら」
 それを聞いて店主は寝息のような曖昧な返事を言葉みじかく漏らした。海外赴任で日本を出る者がいて、望んで海外生活を始める者もいる。赴任に頭を悩ませる者がいれば、日本に居心地の悪さを感じる者もいて、日本の国内であれば居場所は何処であっても良いと思えるはずだろうし、たとえ何処であったとしてもその本人の感じる息苦しさには変わりが無い。店主にはそれ以外の良心的な説明の仕方が思い付かなかった。
「日本を思い出すとき、きっと知里さんはお母さんを思い出しますよ」
 口を衝いたにしては良く出来た言葉だった。店主の口元にひどく自然な笑みが落ちた。
 そしてその後、鍵穴の交換をしに業者が家を訪れるまでのあいだ、二人は清掃者らに居場所を明け渡して、台所で立ち話をつづけた。

 玄関先で店主を見送る際、楽しかったわ、と、母親は視線を浮かせて言った。それから店主の顔をもういちどまっすぐに見て、ありがとう、と言い加えた。無表情でありながら、顔の皺々が彼女にわずかな表情を付けているようでもあった。
 たしかに店主の目には母親が笑ったように見えた。

 その日の夜、ベッド脇の照明をつけて、木製の簡素なスツール椅子に二冊の絵本を重ねて置いた。その取り合わせが懐古主義者の慰めにでもなりそうだった。明かりに照らされた絵本の表紙には、取るに足らない細い線傷が何本も入っていた。ただ見ているだけで本紙の匂いが鼻元にまで漂ってきそうだった。それはたしかに店主の想像したとおりの芳しい匂いだった。過去に何度か嗅いだことのある匂いだった。中程のページに挟んであった栞にも、巻末に付けてある未開封の袋とじにも、それらすべてに古書の匂いが染み付いていた。土曜の夜の安らかな眠りを誘うには十分だったが、一方で、巻末の袋とじの中身を思うと寝つきが悪くなりそうでもあった。どちらの袋も未開封のままだった。
 一冊の絵本の袋とじには水の封入が記載してあった。すでに水は揮発していて、袋の外からでは液状を思わせる触感はない。中にはただ小さな固形物だけがいくつか入っている。その硬く丸みを帯びた粒が店主の指先を押し返す。絵本の題名は「うみのクジラ」――そして、もう一冊の絵本の袋とじには細かく砕いた瓦礫の封入が記載してあった。その大きさの不揃いが袋ごしに指先に感じ取れた。ちょうど手にひと掴みできる程度の量で、絵本そのものを斜めに傾けると、袋の中を何かが“ざっ”とすべり落ちた。題名は「まちのクジラ」。その二冊のどちらの袋とじにも――みんなで種を育てよう――とあった。
 店主は首元まで布団をかぶってスツールに置いた絵本の表紙を眺めていた。枕元の照明を消しもせず、彼はそしてそのまま耐えようもなく眠りに落ちた。土曜の夜の安らかな寝入りだった。
 
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『まちのクジラ』 かがりまち 著

 場所は明記されていない。街中の壁という壁に、黒く細い線が数多く縦に引いてある。
 一頭の鯨が路上にべったり横たわっている。皮膚は乾いて艶がない。路上の砂塵が無数の傷跡の溝を埋めている。
 擦り傷や切り傷をまた負えば、めくれ上がった端のほうから皮膚が段々と剥がれていく。鯨は痛みをそれと感じ取ると、そのつど身をしならせてビルの谷間を跳ね進む。発達した胸びれと尾羽がしなやかに路面を払う。路面に散らばるガラス片がいっせいに一度だけ小さく跳ねる。
 大小の瓦礫で鯨の残りの皮下脂肪が削り取られ、その奥から血が滲み出る。興奮を鎮めて痛みを抑え付けようとして、鯨は街中の壁に身を打ち付けて這い進む。ずずずと這って、ずずと這って、だん、と壁を打つ。こそげ落ちた尾肉が、ひび入った壁に薄くこびり付いている。
 またひとつ壁を打つ。巨体を斜めに押し上げた瞬間、ついに疲労に耐え切れずに胸びれの骨が折れる。
 日ごとに鯨の血が街中の壁に塗り重ねられていく。胴の赤黒い肉は削られ、頭の白骨はほぼすべて剥き出しになっている。下顎の骨が途中で折れてあらぬ方を向いている。目はもう潰れているが、臓器はまだ動いている。

 
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『うみのクジラ』 かがりまち 著

 十頭の群れ。その中に一頭の細身のメス鯨がいる。あるとき、海流に沿って虹が大きく渦巻いているのを見掛ける。虹を眺めていてメス鯨は眠ってしまう。
 細身のメス鯨は深く潜れない。ある水深を越えてはそれより下へ泳ぎ進めることが出来ない。他のメスはもっと深くにまで軽々と潜っていく。
 水中ライトを持った人間が足ビレを付けて群れの前にあらわれる。細身のメス鯨の目は、人間と向かい合って薄赤色に光る。他のクジラの目は青く光る。
 十頭のメスの群れに一頭のオスが加わる。オスは複数のメスと交尾をする。
 その数々のメスと同様、やがて細身のメス鯨にも子が生まれる。子鯨は体をよじって臍の緒をちぎり、泳ぐとも沈むともなく海中を下りていく。メス鯨は尾を大きく振って一泳ぎに子を追う。以前の深さにまで潜り進めることが出来ない。呼吸が持たず、胸が苦しい。
 水を掻いて身をひるがえし、すばやく明るみに向かう。海から顔を突き出すと、メス鯨の頭に人の顔がある。水に濡れた長い髪をしっとり垂らしている。その容貌の変化に自分では気付いていない。
 いつものように息を吸うなり、また水に頭を浸ける。昼間の海の中にある、そのありとあらゆる色を、瞬きのひとつもせずに呆然と見下ろしている。


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 インターネットに公開されていた趣味の個人サイトに、管理者の書評を取りまとめた投稿ページがあった。紹介されていたのは新刊ばかりではなかった。主には近代小説を取り上げていたが、その他にも江戸時代の通俗小説や国内外の政治小説、そして漫画や絵本の論評や感想など、冊数にして二百近くはあった。略説が斜体で書かれ、作中描写への解釈や時代背景の解説をしてあった。短くまとめた感想を書いて、最後に『以上です』と締めていた。 
 管理者は “かがりまち” の描いた絵本を二冊紹介していた。その二作ぶんの書評記事がつづけて投稿してあった。記事の日付からも連日の投稿が見て取れた。
『うみのクジラ』と題した記事の略説の下に改行をいくつか入れて――絵本であって児童書ではありません――という見出しの一文が太い文字で書いてあった。そしてその記事の最後に、前日に書かれた記事の内容を兼ねた管理者のコメントが沿えてあった。

 元の出版社が倒産し、版権を引き継いだ出版社からの復刊となったシリーズですが、本の内容が時代に沿わず、売り上げが伸びずにその後、出版停止となりました。社の判断で巻末の袋とじが付属されなかった事も、売上げの不調の原因のひとつだったと言われています。
 私の読んだ二冊は古書店に置いてあったものではなく、図書館の設置端末に保存されたデジタル図書です。新しく登録された本の一覧通知が送られてきての閲覧となり今回の書評となりました。
 二冊の閲覧をとおして興味深い話をインターネットサイトで見つけました。この「クジラ」シリーズの残りの一冊となる「さばくのクジラ」は、それ以前の二冊の好評にもかかわらず初刊の発売から数ヶ月で販売停止となったそうです。ただ、それだけではありません。クジラ・シリーズの復刊の計画が立った当初から、同著だけが再刊の枠から外されてもいたのだそうです。
 どうやら、前述した袋とじの中身に問題があったという見方が強いようです。残念ながら、その問題の事実を詳しく書いたサイトを見つけられませんでしたが、私のように普段から何事に対する憶見も怠らない諸先輩方の見方では、その袋とじの中身に社会倫理的な問題と人体の健康被害を招く原因が含まれていた可能性が高いのだそうです。おまけに、袋の中に混ぜてあった種子から被爆樹の芽が出るのだという意見までありました。
 もしかしたら、ただ単に作者との権利調整が上手くいかなかっただけなのかもしれません。絵本の評価には無関係だと出版社が判断したのかもしれませんし、定価を下げる目的があったとも考えられます。

 先の諸先輩方と同様、私も都市伝説的な誇大妄想を好みます。シリーズの復刊にあたって三部すべての巻末から袋とじが除外されることになった背景には、袋とじにまつわる出版制作側の事情が本当に何かあったのでしょうか?

まちのクジラ  広島や長崎の被爆遺構
うみのクジラ  ビキニ環礁の海底に沈む戦艦内部の水
すなのクジラ  中国の核実験場の砂

 Fドットコムの名○さん、なんとかなりませんかね?(笑)

                    ○

 翌日、店主は会員制の共用サイトに『Chisato Segawa』と表示されたページを見つけた。
 友人登録の申請をしたところ、数時間後に承認が下りた。




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太平洋戦争開戦ラジオ放送




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農家の方から頂いたブロッコリーです。
仮にブロッコリーのつぼみがすべて花を咲かせていたとして、そのブロッコリーを器に盛ってスライスした赤パプリカと千切りのニンジンを散らしておけば、もうそれだけで色映えのする生野菜が食卓に並んだということになります。
花がすべて咲いていれば良かったです。

24時間で75%も‼ブロッコリーが「がん幹細胞」を“殺す”事が判明 - NAVER まとめ







 


Heilung Krigsgaldr [Official Video]







 

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合わせ鏡です。中年の僕がこれを見ても、それなりには楽しめました。

書を捨てよ町へ出よう プロモーション映像 予告編-動画[無料]|GYAO!|映画


朗読「ドグラ・マグラ」