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2017.5.5 連作短編 『裏庭のバジル』 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 new











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裏庭のバジル 36 

「先日おうかがいしたように、あの木の映像がありましたな」と加護は言った。「今と比べると、だいぶ若い頃の様子でしたが」

 店主が初めて加護に連絡を取ってから数日後、今度は加護から店主のもとに電話が掛かってきた。通話中、加護は自身の所有していたビデオと店主の自宅にあった映像の違いに触れて話を進めた。
 加護の所有していたビデオには、クジラの座礁現場や、チサトの吐瀉する場面が収録されていなかった。『さばくのクジラ』と題された絵本の内容や、イエスと名付けられた木の外見、そして、チサトの背中が露出する場面と、チサトの母親の姿もまた収録されていなかった。クジラの座礁現場にあった生々しい血肉やチサトの吐瀉する様子が陶芸展の館内映像の内容に不適切であったのはもちろん、絵本にまつわる会話の内容にしても展の主旨には合っておらず、それらの撮影シーンがビデオに収録されていないのは当然のことだった。またイエスの木にしてみても、植物倫理的な批判の起きる恐れから映像の公表は望ましくなく、チサトの母親を撮影した映像については、陶芸展の主旨に関わらず、初めから母親本人が映像の使用を許可していなかった。
 対して加護の所有していた映像には、焼成の長時間にわたる作業風景と、素焼きをした陶器をチサトが投げ壊す映像が収録されていた。陶芸展の会場で放映する用途に合わせて内容が編成されていたわけだが、薪の爆ぜる音や、作業者らの足音や、作陶風景の映像をただ淡々と時間をかけて放映したのは、それが陶芸展の会場の主題性に見合っていたからだった。焼成作業の臨場感が生々しく伝えられており、ドキュメンタリーとしての価値が高かったのだ。それと同様、素焼きを終えた作品を投げ壊す工程にしても、加護の作陶における特徴的な様式として紹介しておく価値のあるものだった。そして、またもうひとつ特徴といえば、チサトの上気した表情がカメラにはっきりと捉えられていたが、加護自身、その映像を個人的な趣味の範疇において陶芸展の会場に放映することを良しと考えていた節があった。
 そうしてしばらくのあいだ彼らは、それぞれの手元にあった映像の内容の違いに触れて意見をみじかく言い合った。加護の話には撮影当時の工房の様子が織り交ぜられていて、チサトの奔放な人柄が垣間見える逸話で話のオチが付くことが何度かあった。加護の笑いにつられて店主も笑った。
 だが、途中で話がどう転んだところで、ひとたびイェフスの木の話題に戻れば、二人の会話の調子に微妙な変化が起きた。受話口を通して、夜の静まりが店主の耳元に細く吹き出してくる。店主は、自宅から羽織ってきたダウンジャケットのフードを頭にかぶせて首元までジッパーを手早く引き上げ、「いまも成長を続けているんですか?」と、率直な疑問を投げた。そしてそれから彼は聞きかじりの知識を交えて、それとなく加護に話を促した。「枝と枝の相性のようなものが関係してくる、という話ですが」
「ええ、じつは、あのあとも何種類かの果物の枝を接ぎましてな」と、答えて加護は自身の過去を振り返り、明瞭な声で言った。「それでも、何の拒絶も起こさずに成長を続けたんですよ」
 加護の言った“拒絶”の指す意味は理解できたが、それがどれほど特殊な状態であるか店主には見当が付かなかった。一本の木に数種類の果物の枝を接いであるにもかかわらず、とくに何の遺伝的な問題も起きることなく種の共存が続いている。それを無類の神秘と見て取るか、非人間の薄気味わるい特異現象と捉えるか、店主にはその両者に明らかな違いが感じられない。
「あの木が他の色々な樹種を受け入れるのは、あの木の特有の性質のように思えてきます」そう言って加護は更に言葉をつづけた。「どんな樹種ですら受け入れるように思えてくるんです、もちろん、実際には例外もありましたが」
 店主は考えを巡らせながら言った。「もしかすると、これは加護さんに対して、失礼にあたるかもしれませんが」と、そこで言葉を切って静かに息を吸う。
「どうぞ、おっしゃってください」と加護が応じる。
「そうお思いになられることを、加護さんご本人が望んでいらっしゃるということでしょうか」
「どうでしょうな」と、加護は微かに笑い、そのあと間髪を入れず「幸い、僕は幻覚を必要としておりませんので」
 そのとき店主は加護が意図的に話題を“幻覚”にすり替えたものと直感した。ささやかな愛想を込めて店主が適当な相槌を打つと、一方の加護が声を落として言った。
「チサトの夫があなたに話したとおり、あの木には幻覚作用があります」
 その加護の静かな言葉には独白にも似た響きがあった。「正しく言えば、木ではなく、種子と根に何かしらの幻覚成分が含まれているようです」
 店主は、以前の通話中に挙げた話題とその内容の中から実になりそうな話を振り返った。「セガワ君が言うには、輸入検査を通るのが難しい木だという話でしたが」
「そうでしょうね」と、加護はあっさりした口調で答えた。「その特殊な性質に対する認識を人が持たないうちは、当然、誰にも気づかれずに検査を通るでしょう。まして、それが“小さな種や何か”であったとすれば尚更です」
 すると途端に、話がきな臭くなってくる。そのとき店主の頭に浮かんだのは、一冊の絵本に描かれていた印象的な一場面と、その絵本の巻末に付属していた“袋とじ”の中身だった。
「どこであの木を手に入れられたんですか?」と、店主は好奇にまかせて訊いた。
「あのビデオの中で私が言っていたとおり、どこにでもあるんですよ」と加護は答えた。
「山の中に、ですか?」
「普段よく見掛けますよ」
 店主は加護の口ぶりの些細な変化を聞き取り、さっと好奇を押し殺して相槌を打った。
「僕には必要ありませんが、その幻覚を必要とする者は必ずいるはずです」と加護は言った。「それを必要とする者は、誰にも教わらず木の性質に気付いて、自宅に持ち帰るでしょう――」
 店主は加護の言った「誰にも教わらず」というその一点につよく不可解を感じたが、ただ静かに相槌を打って加護の話の段落を待つことにした。
「――といっても、その木を人目に晒すのを誰も良しとは考えない。そこで、日照環境の整わない場所を選んでそこに木を植えるわけですが、それがかえって良くない、日差しが足らず木の成長に影響が出る」
「影響が出る」と、店主は注意を引く気で言った。「それもセガワ君の話していたとおりです」
「ユニークな木だと思いますよ」と加護は言った。「あの木が植わっている山の中には特有の植生があるようで、どうやら、樹勢のつよい木が一本も植わっていないようなんですな」
 どういうことですか、と店主は訊いた。
「あの木にとって不都合となる木がちかくに一本も生えていないんです」
「一般的にそういうものでしょうか」と店主は言葉を探しながら言った。「たとえば雑木林には、いくつかの種類の木が“ごったに”生えているでしょう」
「人の目にそう見えているというだけのことで、やはり雑木林の植生にも何か秩序のようなものがあるんだと思いますよ」
「それは、秩序が自然に作り出されるということですか?」
「そのとおりです。大体をいえば、自然林の美しさには人の手が加わっていないですからな」
 店主は、ひどく曖昧に自然林の様相を思い浮かべた。
「僕の他にも、木を自宅に持ち帰った者がいるでしょうな」 加護は声を落としてもういちど言った。
「私の自宅のまわりにそんな木が何本も植わっているかと思うと、正直、気が落ち着きませんよ」店主は吐き出す思いで言った。
「管理なさることですよ」と加護は返した。「どの樹種の木で生垣を組んだにせよ、どのみち木の管理をし続けることにはなります。ですから、その手間を省くには、業者に管理を依頼するか、生垣ではなく……そう、木柵か金属フェンスをご自宅のまわりに立てておくしかありません」
 それを聞いて店主は迷わず言った。「それが、なぜか私自身、あの木を切ろうとは考えていないんです。切るのが面倒というわけではありませんし、生垣を植える費用のことでセガワさんに義理を感じているわけでもないんです。――ただ、どういうわけか、あの生垣の手入れを続ける気でいるようでして」そう言って店主はどこか照れくさそうな笑いを漏らし、「“いるようでして”というのも妙な話ですが」
「結構なことです」と、加護は笑い声を上げた。「木というのは簡単に伐採できますよ。ですから、そうしない理由を何かお持ちでらっしゃるなら、そのまま木を生やし続けておくのが一番です」、それから加護は声を少しだけ落して「それに僕に言わせていただくなら、木は、おたくに正しい時間を与えてくれるはずです」
「と言いますと?」
「おたくを正しい時間の経過の中に留めておくための指標のひとつになるんです、その、生垣そのものが」
 店主は関心の声を小さく上げた。
「僕らは、実時間とは違った体感時間というものを知覚します。ですが、自然の中で成長をつづける木はそうではありません」と加護は淀みない口調で言った。「健全な環境下にある木といえば、その大体が昼と夜の規則的な成長を一箇所の土の上で長いあいだ続けますからな」
 店主はそのとき、いつか加護の言った“標”という言葉を思い返していた。
「余談ですが、あのビデオに水源林が映っていたでしょう」と、加護は更に続けて言った。「あのあと、ハイキング・コースをつくるため、と言って、林を伐採したんですよ、観光振興課がですね。そうしたら、近くにあったブナの大木が次々と枯れてしまいました」
 店主は呆けたような声を漏らし、二本目以降の木がドミノの碑のように倒れていく様子を思い浮かべた。「木を切ったのが原因ですか?」
「詳しいことは分かりませんが、木を切る以前とくらべて地中の水分量が変わったのかもしれません」と加護は答えた。「もしくは何らかの病原菌か、虫か何かでしょうな」
「ブナの大木とおっしゃいましたか?」
 店主は、木が倒れていく様子を実際に見たことが過去に一度も無かった。
「ええ」と加護は短く答えた。
「大木が、そう簡単に枯れるものですか?」
「簡単には枯れないでしょうが、やはり枯れはしますよ」と加護は答えた。「以前、古いクヌギ――聞いたところでは、樹齢が百年は悠に超えていたという話でしたが、その木が枯れ死した原因は、カミキリムシの幼虫でした」
 加護は店主の感心めいた相槌を聞いたあと、「あっけない最期でしたが、しかし、あれはあれでなかなか見ものでしたよ」
 大木の倒れる様子が店主にはうまく想像できず、「見ものだったでしょうね」と、ただ調子を合わせて口先にそう溢した。
「木が枯れる前の、一、二年のあいだ、大量のカブトムシや蝶々なんかが集まって来たんですが、それは要するに、クヌギの樹液が外に漏れ出していたからなんです。発見者が気付いたときにはもう、木は“虫食いの穴だらけ”になっていたわけですな」
 昆虫の群がるクヌギの木の噂を聞き付けて現場を訪れた地元の子達の中には、カミキリムシの幼虫を気味悪がって二度と昆虫採集に来なかった子たちが多くいた。
 カミキリムシの幼虫には店主も幼い頃の見覚えがあった。色味はカブトムシの幼虫と似ているが、形状ひとつを見れば比べるまでもなく違う。
 クヌギの木はその後、木材としての利用価値が無いものと判断され、チェーンソーで小切りにされたのちに焼却処分となった。その話を聞いて店主は、水源林に生えていたというブナの木の枯れ死と、何らかの幼虫との関連性を思い、イェフスの木の特性と、虫の這いまわった木の、いったいどちらが不気味なのかと考えた。
 ほどなく話は一端の終わりに差し掛かった。加護は自身の所有するビデオの視聴を店主に勧めた。もともと店主は通話の最後にその願い出をするつもりだった。加護の手元にあった映像の内容を知ったところでセガワチサトの行方に見当を付けられるのでは無いが、そうしてチサトを話題に選んでおけば加護の機嫌を損ねることなく加護やチサトの過去の話が聞ける。店主にはその目的があった。店主自身の対人関係を見ても、そこに加護やチサトをのぞく職業陶芸家は一人もおらず、ちょうど無名俳優の出演する映画やテレビのドキュメンタリー番組にも似た性格の話を期待できるように思ったのだ。
 午後四時の滲みかけた空が店主の自宅のリビングの窓の遠く向こうにある。加護は夕食の材料を取りに菜園に向かうと言って電話を切った。一方の店主は携帯電話をリビングのソファに置いて、それから寝室に入ってクローゼットの前で身支度を始めた。友達の家に遊びに行った息子の帰りを待って、町の駅前にある中華料理屋で息子と食事を取ることにした。
 夕食のメニューを考えながら、ふと店主は自家用車の購入を思い立った。バスや電車で移動する日々に飽きたのではないし、これといって特に不便を感じているのでもない。だからこそ彼にはそれまで車を持つ必要がなかった。ところが何のきっかけもなく、自宅の敷地に駐車スペースを設けてそこに車を停めておくことの家庭像に淡い憧れを持ったのだった。

 のちに店主はその自家用車を手放し、自宅から駐車スペースにかけて家を増築してそこで駄菓子屋を開くのだが、町道に接するセメントの敷地に当たり障りのない小さな昆虫を見かけたとき、彼は感情の変化を自覚することなく弾けるような笑いをみじかく上げた。自宅の周囲に巡らしてあった生垣の一部を切り払ったのは店主ではなく、彼の息子だった。




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裏庭のバジル 35 


 電源の切れたテレビ画面にリビング・ダイニングの一角が映り込んでいる。そのテレビの前に敷いてあるホットカーペットの上では一人の男児が仰向けで眠っていて、天井灯の付いたダイニングには上下のスウェットを身に付けた一介の父親――(のちに自宅の一角を店舗に改築して駄菓子屋を始める男)――その店主の姿がある。このとき店主は食卓の椅子に座り、携帯電話を一方の手に持って卓上のノートパソコンを斜めに見下ろしていた。彼の手元のメモ用紙にはボールペンで“加護幸久”の走り書きがある。“ユキヒサ”の小ぶりな文字だけが二重線で記してあって、おまけに氏名そのものを幾重かの乱雑な楕円で囲ってある。
「ちょっと待って」と、店主の耳元にサワムラの声がした。「おかあさんに代わらなくて良い?」
 予想外の話に店主は思わず息を止めた。そして彼は語気のわずかな変化を自覚せず不平じみた声で訊いた。「なぜ君のお母さんに代わる必要があるんだ?」
「余計なお世話をしたくなる歳だから」と、きっぱりとした口調でサワムラは答えた。そのサワムラの声に冗談めいた調子を聞き取れず、店主はただ曖昧な相槌を打つにとどめた。
「“子はカスガイ”って言うのよ」とサワムラは唐突に言った。
「知ってるよ、もちろん」
「どうかな」とサワムラは素っ気なく言った。
「知ってるよ」と店主はもういちど言った。リビングのカーペットに横たわる息子の寝姿からノートパソコンの画面に視線を戻し、食卓に置いてあった湯呑を一方の手のひらで包んだ。「お互い、どこかで大事なタイミングを見逃していたんだと思う」
「なにそれ?」
「君のお母さんが言ったんだ」口元に寄せていた湯呑をかたむけて、微かに湯気の立つ茶を喉の奥に流し込んだ。いつか元妻と交わした会話の一部が彼の脳裏に張り付いている。
 数秒の沈黙があった。サワムラは声を弱めて「分かるよ」と言った。「きっと本当に、そんなふうに言ったんだろうなって、想像できる」
 店主は音を立てないように湯呑をテーブルの上に置いた。サワムラは喉の奥から息を捻り出したあと、「なんでかな」と言った。「おかあさんとおじさんが仲良くなっても、私、本当は嬉しくもなんともないんだけど」
「お母さんとおじさんが仲良くなっても、きっと誰も嬉しくならないよ」
「やっぱり、そうかな」
 店主は手元のメモ用紙に書いたばかりの“サワムラアリサ”の文字を楕円で囲んで、先に書き付けてあった“加護幸久”の文字とのあいだに線を引いた。「理不尽に傷付くのは、まず君自身だろうからな」そう言って店主はそのまま何の意味も成さない線状の落書きをつづけた。受話口からサワムラの子供っぽい思案の声が漏れ出してくる。
「あの子と電話で話をしていると、私があの子のおかあさんを取っちゃったような気がしてくるの」とサワムラは言った。「それって、すごく嫌な気分なんだけど、そういうのって分かる?」
「君が心の優しい子だってことは分かるよ」
 店主の手元のメモ用紙には無作為で意味のない線画が描いてある。
「ありがとうございます」とサワムラは僅かに険のあるの声で言った。「いつか加護さんに会えたら良いですね」
 店主は一言で相槌を打つなり、落書きの手をとめて視線を上げた。それから椅子の背もたれに寄り掛かり、自身の強気を冗談にくるみ込んで言った。「会わなくて済む相手には会わなくても良いというのが、おじさんの持論なんだけど。どうかな?」
 受話口から沈黙が漏れ出してくる。店主はキッチンの置時計を振り向き、そのあと前に向き直ろうとして、もういちど置時計を見やった。指針が十五時二十三分を指していた。とっさに店主はリビングの掛け時計を振り向いた。そこには現在の時刻が正しく表示されていた。
「よし、もう切るよ」
 店主は口早に言った。サワムラは「おやすみ」と呟くように言った。
 通話を終えて店主は携帯電話をスウェット・パンツのポケットに入れた。スリープ状態を解除したノートパソコンの画面にブラウザを表示させて、検索ウィンドウにキーワードを打ち込み、その検索結果の一覧に目を見張った。
 “加護”の姓につづく複数の“ユキヒサ”を想定していた。しかしそれらの男性名はひとつも表示されなかった。店主は世の中にいるカゴユキヒサが途端に身を潜めてしまったように感じて、“加護幸久”の氏名を持つその唯一の人物に親近感をおぼえたが、同時にその親しみの感情がほとんど意味を成していないようにも思えた。店主はそれから検索結果の最上部に表示されたタイトルにポインタを合わせて、パソコンの薄いモニター画面にページを表示させた。そして思わず両手を机に突いて、上体を前にかたむけた。
 パソコンの画面の明かりを薄っすらと顔に浴びて、すっと微かに目を細める。
 ページのタイトルは『yukihisa kago pottery store(ユキヒサ・カゴ陶器店)』――そのページの上辺には、鮮明な画質で撮影された一枚のヘッダー画像が配置してあった。撮影された窯小屋の外観には目立った経年の跡が見て取れない。店主は妙に違和感を覚えたが、例の記録映像の視聴を終えたばかりとあって、多少の経年に対する視覚的な違和感を覚えて仕方がないようにも思った。サイトに投稿されたヘッダー画像をのぞく全ての画像には、時間の流れに沿った加護の経年が見て取れた。その素朴な恰好や表情があってこそ、例の記録映像に撮影されていた加護の表情に“静かな険しさ”を振り返ることも出来るように思えた。
 サイトには加護の工房の住所や電話番号の他に、交通アクセスや窯焚きの体験コースの説明や料金などが記載されてあった。またそれとは別に、外部ページにある陶器の販売サイトが紹介してもあった。その販売サイトのメインページには、個別の商品ごとに鮮明な数枚の画像と、制作年の記載を含めた短い説明書きがあった。白を基調とした無機的なページにシンプルなデザインで構成されたウェブサイトだった。ページの最下部にはyukihisa kago potteryの文言を含むコピーライトの表記があったものの、ページそのものに対する印象から思い起こすのは、加護ではなく、妻のセガワの人間像だった。
 リビングの掛け時計を見やると、ちょうど午後8時に差し掛かろうとする頃だった。開きっぱなしにしてあったリビングのカーテンの向こうには、石敷きのアプローチを挟んで生垣が横並びしている。店主は食卓の椅子から立ち上がってリビングへ歩を運び、両開きのカーテンを手早く閉じた。そして手に持っていた携帯電話の画面に視線を落として、ついさっき打ち込んだばかりの電話番号の数字を左から右へ、これといって特に何を意識するでもなく目でなぞった。
 通話ボタンを押してから八度目の呼出し音が鳴り始めた直後のことだった。
「はい、もしもし」と、店主の耳元で女の声がした。
 店主はその声に聞き覚えを感じて一呼吸のあいだ黙り込んだが、その心持を率直に相手に伝えるわけにもいかず、はじめに自分の姓名を伝えておいてから、加護の記録映像と陶器販売のウェブページを話題にあげて、電話を掛けたいきさつを説明した。
「少々お待ちください」
 受話口の向こうに女の声が止んだあと、水のせせらぎを模したデジタルの保留音が流れた。店主は携帯電話を耳に押し付けたまま、リビングを横切って廊下に出た。玄関の鍵をあけて冷気に満ちた戸外へ踏み出し、彼自身の息子の所在を思い浮かべて玄関を振り返ろうとして、そうするのをやめた。電話の保留音が止んだのは、ちょうど店主が自宅の門柱を通り抜けようとするときのことだった。
「変わりました、加護です」店主の耳元に男の声がする。
「夜分に恐れ入ります」
 店主は頭を小さく下げて言うと、先と同じように自分の姓名を伝えておいて今度は電話をかけた“いきさつ”をいくらか簡略して話した。するとそれに対して加護は、やや掠れの帯びた太い声で応じた。記録映像に収録されていた本人の声と比べれば、冷たく乾いた響きが含まれていたが、同時にその豊かな低音の声には危うい陽気もうかがえた。店主は陶器の通販サイトにまつわる会話に一段落が付くのを読み取って、さりげない関心の含みを持たせた声で言った、「すこし、おうかがいしたいことがあるんですが」
 なんでしょうか、と加護は応じた。
「先ほどお電話に出られた女性は、加護さんの奥様かお嬢様ですか?」
「妻ですが」と加護は答えた。
 それを聞いて店主はわずかながら愛嬌をにじませて相槌を打った。「私の知っている方の声に似ているような気がしたもので」
 二秒ばかりの沈黙だった。店主が言葉を継ごうと声を漏らすと、それまで押し黙っていた加護が変わらず陽気な声で言った。「どなたの声に似ていましたか」
 店主はいちど記録映像の件に話を戻して、そこに収録されていた一人の女について話を始めた。隣人の関係にあったセガワ夫妻に関するところから、妻のセガワと“店主の息子”とのあいだに築かれていた“微笑ましい”と言って語弊のない微妙な関係性へと話は及び、そして最後に、店主の自宅にあった段ボール箱の中身へと話題が移った。【館内 放映用】と題された数本の映像メディアについて話を聞かされて加護は「うんうんうん」と、唸るように言った。「たしかに、あのとき、(館内の)いろんな場所に薄いテレビが置いてありましたよ、大きいのから、小さいのまで」
 まず店主はその陶芸展の話題に感心を示しておいて、そのあと陶芸家としての加護の名前に対する無知を恐縮の口調で伝えると、例の記録映像に対する好意的な感想を素直に話した。「ですので、あのビデオを私の家でお預かりしておいて良いものかどうか、いちど加護さんにおうかがいしておこうと思いまして」
「どうぞどうぞ」と、カゴは抑揚を付けた親しみのある声で言った。「僕もビデオのコピーを自宅に保管してありますから、そちらにとってご迷惑でなければ、どうぞご自宅に保管なさっておいてください。きっと、お宅の息子さんもそれを希望されるでしょう」
 そう言ったあとに加護は嬉しげに息を吐くと、それまで何度か繰り返したように「今夜は良い夜です」と言い加えた。それを聞いて店主は、ついつい陶器の販売サイトの件を振りかえって加護の機嫌をさらに取りたい気にもなるのだが、いやと思い直して、風邪に気を付けるよう加護に伝えた。古い友人にでも話しかけているような気がした。
 おなじく店主の体調に気を掛けて加護は、途切れた会話に言葉を投げた。
「うちの妻の声と 知里 の声が似ているのは、二人の声が生身の人間の声ではないからでしょうな」
 言い終えるやいなや、加護は耐えかねた様子で弱弱しい声を垂れ流した。そして、その彼の声が店主の耳元を遠ざかり、まもなく盛大な くしゃみ の音が鳴った。加護は鼻をひとすすりして短く息を吐き出すと、「すっかり冬ですな」と言った。店主は調子を合わせるつもりで、今しがたの加護の話に触れて疑問を投げた。
「聞くところでは、この僕らの声も、肉声ではなく機械の声なんだそうですよ」
 そう答えて加護は、さらに店主の無言にかまわず話を続けた。「この世の中に“同じ声”を持つ方々が何人かいるとすれば、きっと彼らは皆、自分の耳を受話機に押し付けて誰かと話をしているんでしょうな」
「なるほど」と、店主は表情のない声で言った。
「なるほど」加護は笑い、そして思い出したように言った。「そうだ。今夜のご用件をまだおうかがいしておりませんでした」
 店主もまた思い出したように相槌を打った。「取り留めのない、とでも言いますか、その、自分の見知った相手の若い頃の顔を見ていて……なんというか、感慨があったとでも言いますか」
「知里のことでしょうな」と、加護は淀みなく言った。
「はい」と店主は答えた。
「たしか、あの子が高校を卒業して以降だったかとは思いますが、これまでに一度もチサトとは会っておりません。ですので、ここ最近のチサトの様子は、私よりもあなたのほうがよくご存じのはずです」
「一度もお会いしてらっしゃらないんですか?」と店主は訊いた。
 一度も、と加護は答えた。「もしこのあと都合がよろしければ、なにかお話をお聞かせいただけないでしょうか、あの子のことを、どのようなことでも結構ですので」
「一度も、ですか?」
 たったの一度も、と加護は答えた。

 店主がセガワと初めて会ったのは、セガワ家の建築中のことだった。家の敷地の前に立っていたセガワ・チサトに通りがかりの挨拶をして以来、店主は隣家の玄関先で度々セガワと顔を合わせて事務的に挨拶を交わした。組み上がったその木枠の形状からすれば、店主自身の自宅のサイズとほぼ大体おなじで、いつかセガワ・チサトの夫から聞き知っていたとおり、両家のデザインは同じ種類のものだった。そして、やがて隣家の外観の造りに完成の目途が付く頃にもなれば、その家の固有の特徴が目に見えて明らかになった。店主の自宅の前面部の造りと対称するように、隣家の外観の左右の造りが逆になっていたのだ。住宅地の一角に両家ともが同じ方角を向いているだけのことあって、事の経緯を知らない近隣の住人がその立ち並ぶ二軒の家に奇異の目を向けるのも当然だった。
 チサトの夫は国内で自然塗料の開発に携わっていた。海外に出張して塗料の素材となる樹皮を日本に持ち帰ることをひとつの職務とするかたわら、日本語の臨時教員として短期間の海外生活を送っていた。それに対してチサトは若手の陶芸家であり、会派に所属して国内外の陶芸展に作品を出展する一方、自身の陶芸スタジオで定期的に作陶教室を開いて生計を立てていた。その二人の職種を思えば、夫妻それぞれの人柄と彼らの生活の根底に流れる静けさに魅力が感じられるようでもあった。店主は何かの折に自身の結婚生活を振り返ることがあった。多様な家庭の在り様について、感心に似た思いを持たずにはいられなかった。
 隣人関係が格別良いわけではない。といって、悪くもなかった。両家が付き合いを始めた当初から、店主の息子はチサトに懐いた。子供のいない夫妻のあいだに遠慮がちに入り込んで自分の居所を得ようとする様子がどことなく愛らしくも見えたが、その結果として夫妻の家庭環境に悪影響が出ることを店主は気に掛けてもいた。両家の外観は異様だった。それはセガワ夫妻の人柄とはまったく関わりのない無機的な異様だった。それにも関わらず、しかし同時に店主は砂を飲み込むような生理的な嫌悪感を覚えてもいた。彼自身、その感情の矛先をはっきりとは自覚していなかった。
 そして、その不可解の原因とも思える事実を店主はのちに知った。
 それはいつかチサトの夫に招かれてセガワ家を初めて訪れたときのことだった。店主は屋内の間取りに家主の執念じみた意図を見て取った。家の外観だけでなく、間取りもまた店主の自宅と左右対称を成すように造ってあった。あらかじめ描き換えておいた図面に合わせて排水管などの埋設工事までもしてあり、台所のシンクやトイレや風呂場など、夫のセガワに案内されたその屋内の行く先々に、店主の想像するとおりの家の構造があった。チサトの夫は、それがすべてチサトのアイデアであったことを店主に話した。
 さらに加えてもうひとつ、セガワ夫妻の提案によって両家の敷地のまわりに生垣が植え巡らされるのだが、生垣に利用される木々というのが、害虫の忌避効力に長けた樹種のものであった上に、一般的に見ればそれは生垣に利用される種類の木ではなく、さらにその特性として“人に幻視を見せる“というものだった。チサトの夫は一枚の画像をプリントしたコピー用紙を店主に見せて、そこに撮影されていた一本の木を『イェフス』と呼んだ。チサトの話によれば、それはいつか彼女の夫が臨時赴任したラトビアの現地で、住人らが愛称として呼んでいた造語だった――the tree of yephs(イェフスの木)
 そして、それからしばらく月日が経ち、何の前触れもなく夫のセガワが行方をくらました。やがてチサトまでもが持病の療養を目的として家を出た。彼女が三年あまりを暮らした家は、その後、住人不在のまま空家同然の静かな様相を見せていた。
 そんなあるとき、同家の裏庭で一人の男の自殺事故が起きた。男はチサトの所属していた会派のメンバーのひとりだった。脱会したチサトの行方を追うようにして男は彼女の自宅に向かい、失意のうちに首を吊って死んだ。既婚のチサトをひとりの異性として慕っていた。
 店主が加護幸久の名を知ったのは、その自殺事故から数日後のことだった。自宅のリビングに置いてあった段ボール箱の中に十数点の映像メディアが個々のパッケージに入れて収めてあり、そのうちの一本に加護の姿が撮影されていた。
 その動画には、加護の自宅のわきにある菜園の様子も収めてあった。園内の一角に一本の成木が植わっていて、枝の一本に取り付けた小さなアルミプレートには、マジックペンで『イエス』と書いてあった。その木には数種の果樹の枝が何本か接いであった。時季が来ればその枝々にそれぞれ別種の果実が付くのだと、加護が涼しい顔で説明していた。

 ひととおり話を終えて店主は、ゆるく息を吐きながら上体を前にかたむけて、そのまま重心を前に移動させて“踏み石から”腰を上げた。そしてその場に立ち上がり、左を向いて目先にある自宅の外観を見やった。横並びの生垣越しに自宅の縁側の軒が見えた。ごく微かな月明かりの中にあって、自宅そのものが夜の向こう側に浮かんでいるようだった。店主の視界の一角には、踏板を外したブランコが静かに佇んでいた。いつか彼自身の刈り払った芝草は短く生え揃っていて、そこに植物の成長を見て取ることは出来なかった。風は止んでいた。眼前の世界の時間が止まっているように見えた。それは何者にも犯されることのない夜の平穏だった。店主は、はっきりと自覚しながら安堵の息を吐いた。目先にある自宅を、彼はそのときセガワ家の裏庭から眺めていた。
「僕の家に保管してあるビデオと、そちらのご自宅に保管されているビデオとでは、すこし内容が違っているようですな」
 と加護は言った。その声には若干の陰りがあった。
 加護の意見を聞いて、店主もまた自身の感じ取っていた違和感について話した。店主の観た記録映像には、イエスの木を撮影した場面だけでなく、チサトの母親の姿までもが収録してあった。チサトの背中の露出に関しては、チサト本人の承諾があったのだから、それを映像化するにあたって特に何も問題は無かったはずだが、しかし、チサトの母親の姿が映像に収められたことには合点がいかない。クジラの座礁現場で撮影された生々しい血肉と、その現場の一角で吐瀉するチサトの様子をそのまま映像に組み込んだ理由も店主には分からない。
 話を聞いて加護は言った。「僕にしてみても、あの木を人目に晒すつもりはありませんでした。ビデオの撮影こそ禁止してはいませんでしたが、館内での放映は許可していなかったんです」
 それは店主の推測するところでもあった。木の存在の倫理性を見れば、映像の使用を差し控えておくのが妥当なところではある。
「あなたのお手元にあるビデオは、チサト一人に宛てられたビデオなんではないでしょうか」と、加護はそう言ったあと自嘲ぎみに笑った。「そんなビデオがあるとは誰からも聞かされておりませんが、そんなビデオが本当にあったのだとして別におかしくも何ともありません」
 店主もそう思った。セガワ・チサトの撮影参加を提案したのは加護だったが、(映像中にも語られていたとおり)あとになって映像の企画内容に変更を加えたのは撮影者その本人だった。収録された映像の多くの割合をチサトが占めているのは、それがチサト個人に宛てた映像だったからだ。
「ご迷惑でなければ、そちらにあるビデオを僕にも観せていただけないでしょうか」そう言って加護は鼻をひとすすりした。「この歳になりますと、過去をひとりで懐かしむのもまた一興です」
 それを聞いて店主は愛想を込めて短く笑い、映像の受け渡しを約束した。
「まだまだおうかがいしたいことがあるにはありますが、今夜はもう時間も時間です。また日をあらためてお話をお聞かせいただけませんでしょうか」と、声に親しみを込めて加護は言った。
 そしてその言葉の流れで通話の終わりに差し掛かかろうとしたとき、「ひとつ、よろしいですか」と加護が唐突に言い加えた。「“イェフス”という名前が付いた理由からしても、あの木と関わった者の心境がどれも似通っているのだろうという気がします」
「その名付けの所以を、加護さんは信用されますか」と、店主は短い沈黙を切った。
「ラトビアでしたか?」と加護が訊くと、「はい」と店主が答える。
「遠い国の話です。国の歴史をまともに知らない僕には確かなことは何も言えません」
 そこで言葉を切って加護は「ですが……そうですな」と、ゆるく一息を吐いた。「信用できるだけの根拠が無いんです、結局をいえば」
 それを聞いて店主は静かに相槌を打った。「仰るとおりです」
「ただ、いつの時代にあっても、その話が普遍の意味を持つには違いありませんよ」と、加護は何ひとつ声色を変えずに淡々とした口調で言った。「“イェフスとは何か”といえば、それは名付け親の後ろ盾であって、ときに、その本人を生かすための“身代わり”や生贄の象徴とありうるでしょう」
 淀みのない口ぶりだった。店主は左右の目尻に皺をよせて無言に笑った。イェフスの木の形状を人間に見立てて加護が話をしていることは明らかだった。
「加護さんも、ご自分の身代わりを立てられたわけですか?」
「いえいえ」と、おどけた調子で声に抑揚を付けて加護は答えた。「僕のあれは、墓標にするつもりです」
 店主はその聞き慣れない“ボヒョウ”の発音を頭の中で反芻し、ボヒョウですか、とだけ口先に漏らした。
「妻の死を考えると、どうも私には墓標が要るように思えます」
 その発音と語意を死に結びつけて店主は何がしかの返事をしようとしたが、とっさに何を言えば良いのか見当が付かず、「なるほど、墓標ですか」と、暗に語意の理解をだけ示しておいた。
「もちろん将来の話です。今のところ妻は健康でいますから」
「奥様がお元気でいらっしゃって何よりです」と店主は言葉を探しながら言った。そして他の余計な言葉を避けるために店主自身の思い当たる節に話題を移した。「その、私の立場に置き換えてみますと、私にとっては息子が墓標だという話になりますか?」
「不謹慎ですが、奥様は?」
 その問いに対して「はい?」と、店主の口から上擦った声が出た。
「奥様はご健在でいらっしゃいますか?」
「ええ」と、店主は率直に答えた。そして、ふっと息を吐くと、そのまま呼気にのせて遠慮がちに短く笑った。「いや、どうも、勘違いをしていました――妻とは数年前に別れまして、いまは私と息子の二人で暮らしています。それに、彼女は彼女で再婚して、どこかで新しい生活を送っているようです」
「そうですか」と、加護は親しみのある声で言った。「でしたら、あなたの息子さんは墓標ではなく、生き標でしょうな」
 店主は妙な感銘をおぼえて黙り込んだ。考えてみれば、社会生活において加護幸久のような人柄を持った人物に巡り会う機会は乏しい。日常生活の中で精神的な対人関係を実感できる相手はほとんどおらず、思い当たる他者といえば、シックな店柄のバーカウンターに立つ口数の少ない年配のバーテンダーぐらいのものだが、しかし実際のところを見れば、そのバーテンダーと店主自身の関係性は甚だ薄い。
 わずかでさえ精神的な関係性を実感出来てなどいないのかもしれない。カウンター越しの対人関係が妙に心地よく感じられるが、グラスを片手に酒気を吐き出しながらでは、お互いの精神性も何もあったものではない。
 自宅の風呂場の方から、湯を打つ音が聞こえてくる。店主はセガワ家の裏庭を自宅へと歩き出した。“生き標でしょうな”と言ったその電話越しの相手こそ、店主にとって面識のない他者そのものだった。




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裏庭のバジル 34 

 窯の天井の一カ所に、ひと盛りの塩と神酒が供えてある。作業者の三名が揃って目をつむり、耐熱の手袋をはめた両手を合わせて“窯焚き”の安全を祈願する。その彼らの面子の中には、臨時に雇われた一人の老人男性の姿がある。白い長袖のシャツと、濃い緑のワークパンツを身に付けて、緩く撓んだ竹のような佇まいで立っている。短く刈り上げた髪の全体が白く変色し、広い額の下部には数本の濃い皺が長々と刻み付けられ、窪んだ眼には薄っすらとした影、そして、黒目の縁には 老人環 が白く浮きでている。男性はその眼でカメラを無言に眺めて、わずかに背筋を伸ばす。
 午前9時前。
 全長8メートルの穴窯の全体が灰色がかった色をしている。その塗り直したばかりの窯土の表面にはまだ一本のヒビも入っていない。あらかじめ石材を置いてアーチ状の窯口を上下の二か所に区切ってあり、数本の小切りの廃材を窯口の前に置いて焚火を起こせば、その炎の熱が窯口の下部の通気口に吸い込まれていく。
 そうして釜の室温をゆっくりと上げていくあいだ、数十個の煉瓦を積みかさねて窯口の上部の穴を狭めていく。煉瓦同士のわずかな隙間に少量の窯土を塗り込めていけば、そのうち四角い焚口が出来上がる。窯の外に設置してある温度計の表示を見ながら、小切りの廃材を数本まとめて焚口にくべて窯の温度を少しずつ上げていく。時間を分けてカゴと老人が交代に作業を進める間じゅう、女は小屋の壁際にうず高く積み重ねてある廃材を両腕に抱えてそれを焚口の近くへ運び移していく。

『カゴの作品の焼成は、一年に二度しか行わない。その合間に多数の作品の“形成”と“素焼き“を済ませておく。数か月をかけて2tトラック約1台分の薪を用意し、数人のスタッフを雇って焼成の作業に入る。客用に“窯焼き”をする際にも顔馴染みのスタッフを雇う。――今回の日中の作業に駆り出されたのがこの高齢の男性で、彼がカゴと顔を合わせるのは一年以上ぶりのことらしい。男性は16歳の頃から陶芸の道を歩んできた。今はもう自分の窯を持っていない』

 その後、およそ半日をかけて窯の温度を徐々に上げていく。作業者らが誰ひとりカメラを意識して見ないのは、作業中の撮影に関する取り決めを事前にしてあったからだった。撮影チームやコーディネータの二人もまた、その合意に沿って各自の予定をあらかじめ決めてあった。コーディネータのひとり(運転手の男)は途中で現場から引き揚げ、通訳者もまた所定の時間が来るまでは場所を移して他の業務をつづけた。撮影スタッフは、窯小屋の一角に折りたたみ机とパイプ椅子と大型のノートパソコンを広げて、撮影動画の内容の確認と簡単な編集作業に取りかかった。一方の撮影者は、ひそやかな足取りで焚釜の周囲を移動しながら作業風景を静止画に収めていった。焚口の向こうに揺らめく炎に何度目かのシャッターを切ったあとに、彼もまた動画の内容の確認作業に入った。撮影チームの頭上にはカゴの手で取りつけた電灯がケーブルと共に吊り下がっていて、(窯との距離を十分に取ってあったとはいえ)細かな塵が電灯の真下を窓辺へと流れていくのが目に見えた。
 黙々と焼成作業をつづける三人の姿を遠巻きに撮って、それから、そのレンズの視野を身近の窓の外へ差し向ける。「It's chilly here. But, there's nothing for it. It's for our laptop.(ちょっと寒いけど、仕方ない、パソコンのためだ)」
 撮影者の声につづいて、映像が暗転する。
 
 午後十一時。
 夜間の作業を担当する三人が焚火を続けている。カゴと老人と女の姿は無い。
 窯口の近くには、小切ったヒノキが積み上げてある。その薪を窯に投げ込むと、薪から出た多量の水蒸気によって窯の室内の温度が下がり、煙突からは大量の黒煙が立ち上る。薪が燃えつきた頃から、じりじりと窯の温度が上がり始める。
 窯口の前に立つ体格の良い青年が、自身の首にぶら下げてあるタオルを手に取って顔の汗をぬぐう。一枚の鉄板を焚口に立て掛けたあと、手首に巻いてある腕時計の表示板を斜めに見下ろす。炎の燃えさかる音と薪の爆ぜる音が、ほぼ一様の調子で鳴り続けている。青年はそれから休憩を言い出て、窯小屋の一角に置いてある丸テーブルから 煙草の箱 と オイル・ライター をひとまとめに掴み取り、口の端にくわえた一本の先端に火を着ける。唇を一文字に結んで煙を吸い込み、細い煙を斜めに吹き上げる。
 窯口の前には、すでに別の男の姿がある。男は次の薪の投入にそなえて身近に薪を積み上げる。目深にかぶせてあったニット帽を少しだけ引き上げ、小屋の柱に取りつけてある温度・表示機に視線を投げる。「すこし、このままにしときますか」と、斜めを振りかえって言うと、その彼の視線の先にいる小柄な年配の男が小さく相槌を打つ。二人は離れた場所にある丸テーブルに向かい、小屋に用意してあったパイプ椅子に腰を下ろして、何ということもなく小屋の内観を話題に挙げて過去の作業を振りかえる。わずか二、三の言葉をみじかく交わしたあと、彼らの頭上に静寂が落ちる。離れた場所には青年が立っていて、その両腕には二巻の薪が抱えてある。ニット帽の男は持参したリュックサックに手を伸ばし、ひとりで作業を再開した青年に缶コーヒーをすすめる。
「もうちょっとしたら終わりますんで」
 青年は気軽に答える。口にくわえていた煙草の灰が足元に落ちると、その灰を靴先の裏でかるく擦り散らす。

『彼は、進んで夜の作業に就いた。――聞けば、窯の天井から延びている煙突の胴がその内側から炎に熱されて仄かに赤く変色するのだそうだが、その変色が目に見えるのは夜のあいだに限られているらしい。夜になれば、煙突の先端から噴き出る炎と 火の粉 が見えるばかりか、炎の音がよく聞こえるようにもなり、おまけに彼が言うには、炎の音が引き締まって聞こえもするのだそうだ。――残念ながら、特別な聴力に恵まれなかった私には、炎の音の違いを聞き分けることは出来なかったが』

 薪の移動を続けていた青年が作業を中断して休憩所へ歩いてくる。
 そこで「おい」と、放り投げるような一声が上がる――「カメラマン」――そしてその直後、映像の中央にニット帽の男が映し出される。男は、リュック・サックの中から取り出した缶コーヒーをカメラに向けて差し出すと、語頭にアクセントを付けて「“コ”ーヒー・ドリンク」と言う。すると、それに調子を合わせて小柄な男が「ドリンク、ドリンク」と、まともな日本語の発音で繰り返す。小柄な男はそのあと、温度計の表示に視線をとめて椅子から立ち上がり、手に持っていたマグボトルの蓋を閉めてそれを丸テーブルの上に置く。
 温度計には『1050℃』の表示がある。末尾の数字がまれに変動を見せるが、すでに火力は安定していて、温度が大きく上下することもない。窯の天井の四カ所に開けてある小穴からは炎が勢いよく漏れ出している。小柄な男が二メートル以上の長さの 火かき棒 を使って窯の中の熾火をならせば、赤々と発光する炭床が微妙に明度を変えていく。

『彼がカゴの窯で仕事を始めて、およそ十三年になる。昼間の作業を担当したあの高齢男性と同じく、彼もまた自分の窯を持たずに町内の陶芸家たちの 持ち窯 を手伝うことにしている。――といっても彼の場合、年齢が比較的に若いだけあって、薪窯で作品を焼き上げるだけの体力はまだ持ち合わせている。加齢にともなって作品の趣向性が変わってきたらしく、十五年あまり続けていた山間部での暮らしをやめて、利便の良い町中で灯油窯を使って作品づくりを続けるかたわら、それでもまだ彼は、こうして一人の雇用者として薪窯に関わりつづけているのだ。
 いまでも彼が焚火の作業に携わる理由はいくつかある。中でも私が強く印象的に感じた理由というのが、“窯の中に炎があるから”というものだった。それはどこか曖昧な表現のようでもあったが、私にまったく理解できないわけでもなかった。いつか洞穴で生活をしていた祖先の記憶が否応なしに現代人の心に呼び起されるのだとすれば、我々は拒絶しようもなく、ただ黙って炎の揺らぎを眺める他ないだろう』

 喉を鳴らして缶コーヒーを仰ぎ飲むと、青年はその空き缶を丸テーブルに置いて、代わりに煙草の箱とライターをまとめて他方の手で掴み上げる。それからフタを開けた煙草の箱を前方に突き出して撮影者に喫煙をすすめる。映像の下部に色白い腕が延びる。「ありぃがとおございます」と、片言の日本語で撮影者が言う。オイル・ライターの金属製のフタを青年が指先で押し開けると、ライターの構造部品から“透きとおった”高い反響音が鳴る。
「You have a nice lighter」と、撮影者が感心の声を上げる。
「デュポンだよ、それ」ニット帽の男は、薪の移動を続けるかたわら、一服をはじめた撮影者から青年の姿へと視線をうつして茶化すような声色で言い加える。「一丁前に」
「火なんて目の前にいくらでもあるんだけどな」と、ライターのフタを閉じたあと青年は平然とした口調で呟く。
 ニット帽の男が陽気な笑いを飛ばす。撮影者の口から勢いよく吐き出された細い煙が映像の右端に映り込む。かたちを崩しながら立ち上っていく煙の向こうでは、小柄な男がゆったりした手付きで 火掻き棒 を揺り動かして、ざらざらと音を立てて熾火をならしている。

  〇

 午前七時四十二分。窯の温度が1100℃を越える。
 窯の煙突からは黒煙が勢いよく噴き出している。焚小屋の軒先にある空き地には、音楽に合わせて太極拳の真似事をしているカゴの姿がある。朝靄に日差しが射し込む瞬間をカメラに収めようと、撮影スタッフはダウン・ジャケットを着て、窯小屋の軒先に広げたパイプ椅子に座っている。他方の撮影者は、工房の隅に敷いたブルーシートの上で寝袋に包まれて仮眠中。その彼の 仕事用 のパソコンのカバーには塵や灰が薄っすらと付いている。夜間の作業者たちは二、三度の咳払いをする際をのぞいては一声も出さず、窯の温度の変化に合わせて焚火のペースを調整する際にだけ事務的な口調で言葉を交わす。薪の投入に応じて、窯の室内の炎が“うねるような”動きを見せる。焚口の上枠を一定のリズムで舐めるように、炎が吹き出し、まもなく引っ込み、また吹き出して、また引っ込む。
 そしてこのあと時刻は午前八時となり、日中の作業を担当する高齢の男性が予定どおりに姿をあらわす。女は私用のために不参加となるが、代わりのスタッフとして作業に加わることになっていた一人の男性がこのあと間もなく小屋を訪れる。その男性に「おはよござぇます」と、小さく頭を下げて撮影スタッフは、薪小屋の軒先に向けていたビデオカメラの録画をいちど中断して、歩み寄ってくるカゴに「You do Tai Chi well.」と、力無い声で話し掛ける。スタッフはそのあとすぐに自分の言葉を振りかえり、遠慮がちに言葉を漏らしながら手振りを交えて意思の疎通を図るが、頭に浮かべた意味どおりの日本語を何ひとつ話せない。「まともに寝てないんだろう?」と、構わずカゴは日本語で返す。「スリープ、すればどうだ」
「No」と、撮影スタッフは首を振って言う。「This is my work.」
 窯小屋の引き戸を開けたあと、カゴは今しがた聞いた英語を乏しい発音で繰り返しながら、戸口に身を滑り込ませる。パイプ椅子から立ち上がった撮影スタッフがカゴを振り返ろうと踵を返したところ、ちょうど夜間の作業者らが小屋の出入り口に姿を見せる。ニット帽をかぶった男が茶目っ気のある笑みを浮かべて、さようなら、と言う。
 さよなら、と撮影スタッフが小さく頭を下げる。

 そしてその後、10分から15分おきに延々と薪を投げ込み続けること86時間――窯に火を入れてから四日後の朝――映像の右端に「eighth day」の文字が出る。
 小屋の煙突からは炎の先端が勢いよく突き出している。窯の温度は1250℃を越える。ターボライターを点火させたように、窯の天井部に開けた火吹き穴から橙の炎が吹き出している。窯の中では、炎の燃え盛る音が何かの生物の声のように絶えず鳴っていて、一方、小屋の薄明るい窓辺には冬の朝の静けさが張り詰めている。夜間の作業者らに加えてそこにはカゴと女の姿もあるが、男性らの沈々とした表情とは相反して、女ひとりだけが期待と緊張の入り混じった表情を浮かべて窯口の奥に見入っている。
 しばらくして小柄な男が「よーし」と、ゆるく放り投げるような声を上げる。男はそのあと一本の薪をくべて、炎の安定したのを見て取ると、誰に言われるでもなく 火かき棒 を手に取って、そのL字型の先端を焚口に差し入れる。窯の中から一個のカップを取り出して 焼き上がり の状態を確かめるのだが、橙色に発光していたその色味用の陶器が、やがて外気に晒されることによって艶やかな緑色のガラス質を帯びた一個の作品に成り変わる。翡翠のような緑色をした透過性の被膜がそこに作り出されている。
 そしてそのあとまたさらに堅木(松の木)を焚口に放り込み、作品の色味に深みを加えていく。薪が燃え尽きれば、白熱した陶器が陽炎の中に立ち現れる。

『このあと4日間をかけて窯の温度をゆっくりと下げていく。
 我々撮影チームは、国に戻って作品の完成を待つことにした』

 いちど暗転した映像が、そのあと次のシーンに切り替わる。
 とある住宅街の一角が映し出され、大きなショルダーバッグを肩に下げた女が一軒の家の玄関先に出てくる。女は、オールと杖をひとまとめに一方の手に握っている。ベージュ色のトレンチ・コートとブルージーンズを身に付けて、黒のリュックサックを背負い、ショルダーバッグの重みで足取りが怪しくなると、バッグのストラップを手で掴んでそれを肩に掛けなおす。その女の怪しい足取りを見て、コーディネータの通訳者が車を降りる。スライド式のドアを勢いよく閉じて、小走りに女のもとへ向かっていく。
『彼女は美術部には所属していない。カヌー部に所属していたが、体調不良を理由に退部した』
 女から受け取ったショルダーバッグのストラップを、通訳者が自身の肩に掛ける。その中身の重さを散らせようとして、女はバッグの上面に付いた 取っ手 をぐいっと掴み上げる。
 それからまた別のシーンに切り替わる。
 車の走行音につづいて車内の様子が映し出される。フロント・ガラスの端には何の変哲もない閑散とした海辺がある。砂利浜の一範囲がごくわずかに えぐり取られているようにも見える。視界を他に移せば、それと似たような緩い傾斜を浜地の至るところに見て取れる。他の場所へと視界を移せば、ミニチュアのような平坦とした海辺に過ぎないようにも感じられるが、また別の場所を見やると、そこに無数の砂利の微妙な動きを錯覚しそうになる。ビデオ・カメラの画角が運転席の窓から右の方向へ流れていく。後部座席にいる通訳者の 取り繕った笑顔が映り込んで、そして直後、音もなく映像が切り替わる。
 ショルダーバッグのジッパーを開けて、中から塩化ビニルの折り畳みカヌーを取り出してそれを砂利浜に広げる。モーター駆動のポンプの バルブの先端 をカヌーの送風口に差しこんで空気を送り込んでいく。女は、黒のリュックサックから取り出したシリコンの折り畳みカップを撮影者と通訳者に手渡して、水筒に入れてあった温茶をカップに注いでいく。
 一本の杖とオールが並べて砂利の上に寝かせてある。折り畳みカヌーが形状を変えていくと、通訳者が思わず感心の声を何度か口に溢すが、ついで彼自身、カヌーの丸みを帯びた側面に手を伸ばしてその本体の高さに不安を覚える。「カヌーの中に海水が入ってくるんじゃないですか?」
「入ってくることもありますよ」
 女は、湯気立つカップの縁を唇の前に止めて「入った水は、自分で出すんです」と、そっけない口調で言い加えたあと、そのカップを通訳者にあずけて土足のままカヌーに乗り込む。オールを両手でつかんで水を掻く演技をして、「簡単そうでしょ?」
「自転車のペダルを漕ぐのと同じぐらい」と、撮影者が口を挟む。
「そんな感じです」と、女は茶の入ったカップを通訳者から受け取り、息を吹き吹き何度か茶をすすり飲むと、「こんな感じで」と、杓子で水を撒くような手付きでカップの残りの茶を砂利の上に放り捨てる。そしてそれから上体をひねって海を指差し、海面の様子に安全を見出して微かに笑みを浮かべる。「今日はカヌー日和ですよ」
「そうなんだけど」と言って通訳者は、心もとない様子で自身の泳ぎの不得意を話す。
「海の上と、海の中は、まったく別のものなんですよ」と女が言う。
 
 その直後、音声が完全に途切れる。
 撮影当時の時間の経過が一秒ずつ静かに刻まれていく中、映像の下部には英語、そして右側には日本語で、女の話の内容が一文ずつ表示されていく。(撮影チームの意図した演出として、それらの文章には詩的な語感を持たせる編集がしてある)

     泳ぐのは好きで、潜水も苦手ではない。立ち泳ぎをしていなくても
     海中に沈んでいく心配は無い。沈む恐れの無いことを知っている
     のだから、恐れる道理はない。
     浅瀬から沖へ向かって泳いでいくと、だんだんと水深が増していく。
     その海底のずっと向こうに海底線がぼやけて見える。海底線を眺
     めながらずっと泳ぎ続けていれば、そのうち自然と沖へ出ていく。
     深いところまで行こうと思えば、どこまででも行ける。どこまでも泳い
     でみようと本当に考えてるかどうかは自分にも分からないから、生
     死の一線を越える前に警告があればいい。
     もちろん警告なんて無い。少しずつ視界を離れていく海の底を見下ろ
     しながら、沖に向かって水を掻き続ければ、きっとそのまま好きなだけ
     泳いでいける。

 食品ラップに包んだサンドウィッチを半透明のタッパーから取り出して、女はそれを通訳者に手渡す。

     死んだ魚は海面に浮きあがって鳥に食べられる。海流に乗ってどこか
     へ運ばれて海の底に静かに沈み込んで深海生物に食べられたりもする。
     そんな海中の深いところまで泳いで行って、我に返ったらもう正気でい
     られなくなる。
     海は広くて大きくて、海鳥がどこかへ向かって飛んでいく。海の中では
     魚が自由に泳いでいて、こちらに構うそぶりをひとつも見せない。海の上も
     下も静かで穏やかで、海の上にいると開放的な気持ちになれる。海の
     中にいると気持ちが落ち着いてきて、だけど、そんなときに海面に浮
     かび上がって空をどれだけ眺ていても、ぜんぜん楽しくならない。

 アルミ製のマグ・カップから湯気が立ちのぼり、映像の一部が さっと曇る。

     人のいない自然は昼も夜も静かで、マグマがぐつぐつ煮えくり返っていて
     も、雷がばりばり鳴っていても、それは人が布団の上で寝息を立てている
     ときぐらいに静かなことで、もし自分が地球だとしても、つよく雷が鳴っ
     たぐらいでは別にどうということもない。赤ん坊の寝言と同じぐらい、な
     んということもない。
     人がいてもいなくても町は静かで、激しい雨音も煩いセミの音も人の寝息
     と同じぐらいに静かなもので、私たちが生きていても いなくても 家の中は
     静かで、テレビ越しに見る家の中みたいに、それは私たちの内側ではなく
     外側にある。町の静けさも、いつも私たちの外側にある。私たちがそれを
     はっきりと外側に感じているとき、この町の静けさとあなたの町の静けさは
     とてもよく似ている。

 映像に音声が戻る。

「“チェス盤”と何か関係がありそうですか?」と撮影者が訊く。
「どうかな」と女が答える。「まだ分かりません」
 浅瀬に浮かぶカヌーの上で、撮影者はニットセーターの両腕の裾をまくり上げてオールのハンドルを左右の手でしっかりと握りしめている。海面に押し付けたオールの先端部が不意に水面下に沈み込む。水平線に傾いだ太陽を背にして、撮影者の顔や胸に薄っすらと影が張り付き、その本人の影がカヌー本体の前部に延びている。
 女は砂利浜に立って、撮影者から借りたビデオカメラの液晶画面を眼前に見据える。映像には水際の微かな音が収録されていて、女の声だけが間近に聞こえる。

「周り360度が ぜんぶ海とかって、興味ありますか?」と女が訊く。
〈興味はあります〉と撮影者が答える。
「じゃあ、海底を見てみたくないですか。30メートルぐらい下に、岩とか、見えるんですけど」
〈興味はありますよ〉
「たまにサメが海底を泳いでいたりするんです」 〈本当に?〉
「サメが泳いでるところを撮れるかもしれません」
(撮影者の口元に微妙な笑みが落ちる)――〈カメラが壊れます〉
(女が通訳者を見やると、通訳者が眉を上げて何度か頷く)
「火の温度には耐えられるんですか?」
〈大丈夫ですよ、火元には絶対に近づけませんから〉
(映像の中央に撮影者の顔が拡大される) 
「本当は私、あまり写真とか撮られるの好きじゃなくて」
〈そんな気がしました〉
「この中に、撮ったやつが全部入っているんですよね」
〈窯焚きの途中――たぶん3日目ぐらいからです〉
「それで最後にあなたが海に浮かんで、私が撮ってる」
(女が通訳者の顔を見やると、通訳者が歯切れの悪い調子で和訳を始める)
〈君の提案です、断るわけにもいかないでしょう〉
(撮影者がオールを縦の向きに持ち替えて、その先端を海中の砂利に突き立てる)
「このカメラって いくら したんですか?」
(カヌーが斜めの向きで海面に浮いている)
〈とにかく、もう十分です。良い思い出が出来ました〉
「海に潜るほうが、あなたにとっては良い思い出になると思うけど」
〈こうして海に浮かんで君の話を聞いているだけで、本当にもう十分です〉
「海の中なら、もっと良い気分になれるのに」
〈残念だけど〉
(カヌーの向こう側が映し出される。水平線が映像を二分している)
「本当、残念です」と女が呟く。

 映像が切り替わる。
 海沿いの町の風景や、山間部の田畑の撮影画像が立て続けに表示される。

『陶器は風土に基づいて生じる一種の芸術物だが、当然そこには作者たちの思想が多分に含まれてもいる。日本の一地域の風土と陶芸文化の一端を切り取っておくのは、以前から私達の所望するところだった。
 もとはカゴの作陶活動の映像化を目的として彼に連絡を取ったはずだったが、その結果として、より多くの意味合いを含む映像として仕上がったように思う。これは、ひとえにカゴやスタッフたちの協力のおかげだ。
 この記録をつうじて陶器への愛好をより深めていただくと共に、ひとつひとつの陶器の成り立ちに想像を巡らせていただけたら、私達にとってそれに勝る喜びは無い』

 映像が暗転する。

『日本を発ってから一週間あまりが経って、私達の事務所に一個の小包が届いた』

 映し出された机の上には、徳利と猪口と小皿が置いてある。猪口は、黒に錆色を混ぜ込んだ色をしていて、それと同じ色味をした徳利の上部には薄灰色の艶やかなコーティングがしてある。小皿は、艶を帯びた乳白色のガラスに覆われていて、その薄い透明には一切の混じり気が無い。
 そのあと映像の画角が左側にずれる。
 小皿のわきに、一枚の写真と英字で書かれた便箋が置いてある。カゴはジャンパーのポケットに手を突っ込んで無表情に立っている。女は手に持った自身の作品を胸の前に掲げて、他方の手では杖を突いている。This is for youと、細く特徴のない文字が書かれた便箋が映像の中央に映し出されたあと、暗転した映像の左側にクレジットの表示が始まる。そして、右側には静止画の数々――展示室のベランダから見える山の稜線の連なり――工房の敷地を囲う木や植物――郵便ポストから薄い封筒を取り出してそれをカメラに向けて掲げるカゴの姿――モノラックに乗って駐車場に降りる際に撮影した山景色――カゴの工房へと通じる轍の付いた砂利道――水源林の案内看板と、落ち葉に覆われた散策道――クジラの死骸と数名の見物人の後ろ姿――駅前の商店通りと、撮影に応じた店主らの笑い顔――

 最後のクレジットが消えた直後、窯小屋を真正面から撮った映像が流れる。
 大きな引き戸の前で、カゴが無表情に太極拳の身振りをしている。その近くに女は杖を突いて立ち、唇の両端を曲げて笑いながら、胸の前で手をひらひらと振っている。





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裏庭のバジル 33 

「巨大化ですか?」
 女は右の横髪をタオルで挟んで言ったきり、首をやや右に傾げたまま眼前の窓をじっと静かに眺めていた。その一方、ズーム機能が動作して一度は女の背中が映像の中央に大きく映し出されたが、カメラの視野が早々と滑らかに広がっていき、やがてまた窓辺のほぼ全体が画角に収まった。暗みがかる屋外の景色を覆うように、奥行の欠いた一室の内観が窓の全面に薄く映り込んでいる。
「このビデオが不特定多数の人の目にさらされることを、君はどう思いますか」
 撮影者が沈黙を切った。無言のまま女は髪の水分をタオルの生地に吸わせ終えると、そのタオルを頭にかぶせて慣れた手つきでタンクトップの後部の裾を両手でまくりあげた。剥き出しになった女の背中を見て撮影者は、反射的に注意の声を上げてカメラのレンズを女の足元に向ける。
「撮ってもらえますか」と、後ろを振り向いて女は平然と言った。そしてそれから前に向き直り、一方の手を背中にまわして背骨の中程の辺りを皮膚の上から指先でなぞった。「この部分に前世の業を背負ってるような気がするんです」
 女の右側の脇から腰にかける体の線には性の丸みが帯びているが、それに対称するはずの整った丸みが上体の左側には無い。背骨がゆるくS字に湾曲しており、背中の左右の側においてそれぞれ筋肉の付き方が違う。
「君の前世は魚か蛇でしょう」
 通訳者は訳を終えると、苦笑いを漏らして首を小さく横に振った。
 タンクトップの裾を下して女は頭にかぶせてあったタオルを首から下げた。カウンターチェアに座ったまま上体をかるく左右にひねって筋を伸ばしたあと、右の横髪の裾をまとめて手で掴みあげて髪先の匂いを嗅いだ。
 
 四段式の大型のラックが部屋の一方の壁際に天井から吊り下げてある。ラックの最上段には、形成を終えた作品を載せておく四角い板が何枚か重ねて置いてある。次の段にもそれとおなじ四角の板が一枚ずつ横並びしていて、一枚につき作品が数個ずつ載せてある。小型の食器からタライ並みの大きさの器まで、どれもがほぼ一様に薄茶色をしている。そして、その次の段には四角い平皿が数個、最下段には作品の形成器具の類や女の私物などが置いてある。
 部屋の中央には長い事務机が数台。手動のろくろや電気式のろくろが手作りの作業台の上に置いてあり、部屋の片隅の床には電気式と灯油式の窯が据えてある。部屋の一方の壁には陶芸展の告知ポスターなどの紙類が貼り付けてあるが、うちの数枚に掲載されている日程は、すでにその開催期間を過ぎており、日取りの表示には黒いマジックペンで打消の線が引いてある。
 女は四段式のラックの前に足を止めて、ラックの最下段の棚に置いてある陶製のオブジェを両手で持ち上げた。それを胸に押し付けるように一方の腕で抱え込み、もういちどラックの前に腰をかがめて今度は棚の上から電源タップを掴み取った。そして、部屋の中央にある長机の上にオブジェを置いて、本体から延びているコンセントのプラグを電源タップに差し込んだ。
「電源のスイッチをオンにしてもらっても良いですか?」タップの片端を手に持って、女は部屋の出入り口に向かった。
 言われたとおり撮影者が電源コードのスイッチを入れると、「消しますね」という、女の言葉のすぐあとに室内灯の明かりが落ちる。オブジェの表面に数多く開けてある大小様々な穴の内側から、強い暖色の灯りが漏れ出てくる。その放射状に広がった光が机の天板に淡く反射し、オブジェそのものが幻燈のように机の上に浮かんでいる。
 君が作ったんですか、と撮影者が訊いた。
 はい。そう答えたあと女は、「でも」と言ってオブジェを見やり、それが自分の作風ではなくカゴの陶芸教室に参加する初老女性の作風の模倣であることを話した。
 撮影者が相槌を打って興味を示せば、かしこまった口調で女は話をつづける。――中年女性の作品にはすべて『架空』と題してあり、その作品別に制作順を示す英数字が一から順々に振ってある。それにならって、女もまた自分の作品に『架空』という題名を付けることにした――と、そこで言葉を切って女は工房の一方の壁を指す。貼り付けてあるポスターのうち一枚に、中年女性の個展の告知用のものが貼ってある。開催期間はすでに過ぎているが、ポスターの出来が良く、観賞用として見栄えが良い。
「じゃあ、君は作品ごとに漢数字を振るんですか」
 撮影者は一度オブジェに戻した視線を女の顔に移してそう訊いた。
「どうかな」 女は事務机の前に立ち止まってその机の下から丸椅子を引き出し、自立式の杖を身近に置いて座面に腰を落とした。オブジェから放たれる蛍光灯の明かりが女の顔を真向いから淡く照らし出している。「あまりよく考えていないんです。“こういうのを”ずっと作り続けるかどうかも分かりません」
 女は撮影者の顔をちらと見やり、カゴの陶芸教室に通う初老女性の話題に戻って話をつづける。――女性は近年、ずっと同じ種類のオブジェばかりを作り続けており、その作品に彫刻刀で描かれるのは、模様や景色や動植物など多岐にわたる。陶器の形状やサイズは、すべての作品にほぼ共通していて、見れば、丸みを帯びた小型の水瓶とでもいったところだが、ただ、その陶器を形成して窯で焼き上げるのはカゴであって女性自身ではない。カゴは、作陶に必要な材料や道具などを自家用車に積み込んで女性の工房を訪れ、ろくろで形成した粘土状の器を女性にあずける。そして後日、彫刻の済んだ器がカゴの工房に持ち込まれる。カゴはそれを灯油式の窯の中で乾燥させたあとに焼き上げる。初老女性の作品は、いつもそうして出来上がる。作品の内側に蛍光灯を入れて電源スイッチを入れれば、煌々とした灯りが陶器の外に漏れ出てくる。その種類の作品ばかりを、女性はずっと作り続けている。それ以外の種類の物を作品としては残していない。
「その女性はカゴさんの身内の方ですか?」と撮影者が訊く。
「そう思うでしょう」と女が答える。「それが違うんです。カゴさんの奥さんでもないみたいですし」
「きっとカゴさんは、その女性の作品に惚れているんでしょう。そんな気がします」
「私もそう思うけど、どうかな、分かりません」と、女は唇の端に笑いを浮かべて言った。「分からないけど、でも、ちょっと気にはなっているんです、私も」
「気になるというのは、どういう意味ですか」
「ただ単純に、人として」そう言い足して女はオブジェから視線を逸らし、机越しに対座している撮影者をちらっと見やる。「だから要するに、あの人のモノの考え方が気になるってことです」
 撮影者の軽い相槌の声につづいて、女はそのあとオブジェに静かな陶酔の視線を注ぐ。――私が作ったのは、すごく“ちゃっちくて”完成度も低いですけど、でも、あの人が作るのは、もっと彫りが緻密で、線が滑らかなんです。彫刻刀の刃を貫通させるかさせないか、ってぐらい繊細なんです。それで、ほら――部屋を暗くして、作品のライトをつけるでしょ?――もともとそうやってライトの明かりを利用して風景を描くつもりにしてあるから、ちゃんとそのとおりに――空は暗くて、星がたくさん浮かんでて、川とか海には月明かりがたくさん散らばっているんです。――で、部屋っていうか、展示室の明かりをちゃんとうまく調節して……その、だから、暗さを調節してあるっていうことなんですけど……その演出のおかげで、オブジェの輪郭と暗闇の境目がぼやけて見えるんです。
 ふむ。撮影者は机に片肘をついて、手のひらをオブジェにかざし、それから他方の手に掴んであるビデオカメラのレンズをオブジェの側面に差し向ける。彼の手のひらには暖色の灯りが薄ぼんやりと木漏れ日のように散っている。
 女はさらに話をつづける。――オブジェに掘り込まれた実在の景色に紛れ込むようにして、その景色との関連性の低い何かしらのデザインが描かれてある。それがオブジェの架空性の一部分を担っていることには間違いないが、しかし、作者の女性が意図する架空性の実体は『暗闇』の中にこそある。オブジェに描かれた夜空の暗がりと展示室の暗がりとをつなぐ、その架空性を女性は意図している。
 その話を聞いて撮影者は、目の前の紐を手繰るように言葉を垂らしていく。「まず非現実の定義にも依るでしょうけど、光がない場所にはたいてい非現実が生じやすいんじゃないでしょうか」
 女は気のない返事をしたあとに丸椅子から立ち上がり、身近に立ててあった杖の“取っ手”をつかんだ。そしてそれから女は胸を張って上体をわずかに仰け反らせると、姿勢をもどして静かに一呼吸を終えた。「ちょっと考えてみたんですけど、童話とか絵本に描かれている世界って、だいたい現実の世界に根差しているじゃないですか――地面とか空とか、建物とか、車とか――人とか、動物とか、草木とか……それに登場人物が言葉を話したり、誰かと笑いあったり、嬉しいことがあったり残酷なことがあったり――そんな感じで、架空の中には現実の描写がたくさんあるんですよね。
 ――で、それって」
「それって」と、女は視線を落として繰り返す。

 “さばくのクジラ”という題名の絵本がカゴの自宅の本棚に立ててある。カゴの陶芸教室によく参加する初老女性の自宅に保管してあったもので、カゴはそれを自宅に持ちかえってそのまま本棚に置きっぱなしにしてあった。装丁には水彩画が描いてあって、表側には砂漠、裏側には海、その表裏の両面ともに、ぎっちりと四隅にまで画が描き詰めてある。
「えっと」
 そう小さく声を漏らしたあと女は、おぼろな記憶にそって絵本の内容に触れた。――“砂クジラ”と呼ばれる陸生のクジラが砂漠の深さ80メートル程度の地中に生息している。砂の上に出てはネズミやトカゲや蛇などを食い、そして、そのとき同時に飲み込んだ砂を体外に勢いよく吹き上げる。舞い上がった砂の中には、かねてより蓄積された核物質が含まれており、砂は風に舞い上がって大陸の別所へ飛び散る。
 話の中に出てくる核物質には実在する固有名にひっかけたカタカナの仮名を付けてある。女の記憶によれば、砂クジラの胴に付いた胸ビレがクジラの全長のおよそ半分の長さにまで発達しており、尾ビレの発達も相まって砂の中をすばやく力強く掻き進んで行ける。
「ホラー映画に出てくる怪物みたいな恰好をしているんです」と女は言う。「アメリカ人が作るホラー映画かヒーロー・アニメに出てきそうな、すごく分かりやすい見た目をしているんです。クジラの顔が怖くて、うす気味わるくて、ぜんぜん子供向けの絵じゃなくて」
「企業風刺か軍事風刺でしょう」と撮影者。「とくに戦時中には珍しくない話です」
「けっこう古い本ですよ。ページに焼けがあったり、シミの匂いがつーんとしたり」
「謎めいた古書です」と、撮影者が溜め息まじりに言う。
「初版がいつなのかは知りませんけど」と、女は唇の端に親しげな笑いを浮かべていたが、その表情の片隅に追憶の間を差し込んで女はさらに話をつづけた。「でもやっぱり、いま思ってみても、あれって子供向けの絵本じゃなくて大人向けなんです。なんか、すこしだけ寂しい雰囲気があって、そういう絵本が好きな大人って結構いるんだろうなって感じの――」
――絵本の最後の二ページ分だけが袋状に閉じてある。その袋の中には三百グラムあまりの微細な砂が仕込んであり、砂の中には樹木の小さな種が数個混じっている。いつかカゴが初老女性から聞き知ったところによれば、その数粒の種を女性は自身の家の庭に植えてモミジの木を育て上げたという。
「そういうのを“付録”って呼ぶのかどうか私には分かりませんけど」と女が言う。「なんか、大人向けのユーモアって感じがしませんか?」
「すこし気味が悪いです」 と、撮影者が首を横に振る。「絵本の内容からすれば、たしかにそれを大人のユーモアと見なすことも出来るでしょう。ですがそれでも、きっと僕なら袋を開ける気にはなりませんよ。その袋の中に何の有害な物質が混じっていてもおかしくないんですから」
「たぶん読者からそういう批判があったんだと思います」そう言って女は視線を斜めに落として、物思いに声を弱める。「絵本は今でもインターネットで売られてますけど、“砂や種が入ってた”なんてレビューはひとつも書かれていないんです」
「重版が続けられているということですか?」
 女は表情をわずかに曇らせて視線を落とし、小首をかしげて上目で天井を見やった。そして、胸の下に両腕を組んで物思いに浸り、右の人差し指の先端で二の腕の肌をとんとんと軽く打ちながら話を続けた。「でも、考えてみたら、その砂のことを怖いって思うのは大人だけなんですよ、きっと――それが外国の砂だったとしても近所の公園の砂だったとしても、そんなの子供にとってはどっちでも良いっていうか……怖いもの知らずっていうか、無知っていうか」
「絵本に書かれていた話と僕らの見たクジラの一件がなにか関係していると思いますか」と撮影者が訊く。
「なにか関係があるみたいに思えるかもしれません」女は言葉をさがして慎重さを含ませた口ぶりで答える。「でも、それって、どうかな」と、軽い調子で続けておいて、「それって結局、単なる“こじつけ”のような気もします」
 意外と冷静な見方をするじゃないですか。撮影者の声が室内に軽い響きを立てる。
「自己分析です」そう言ったあとに「大事でしょ?」と、誰にともなく言い加えて女は椅子の前に立ち上がり、そのまま部屋の片端に歩を進めて壁付けの照明スイッチに手を伸ばした。
 すると直後、点灯の明滅につづいて天井灯の白い明かりが部屋をはっきりと照らし出し、それと同時にオブジェの内側から漏れ出していた暖色の明かりが周囲の空間にさっと溶け込む。撮影者はオブジェの照明スイッチを切って、その作品への評価を好意的に言い表した。
 さんくす、と、女は表情のない声で言った。変わらず大窓には部屋の内観と三人の姿が映り込んでいて、窓の外には夜更けの暗みが静かに満ちている。

『この四日後、クジラは海に沈んだ。
 聞けば、マッコウクジラは長くて七十歳ぐらいまで生きるらしい。あのクジラの全長から推定して、おそらく寿命の半分以上は生きただろう。生前に潜った海に沈められればあのクジラとしても本望だろうが、どうだろう、海なんて、どこの海でもほとんど同じようなもののような気もする。
 そういえば、クジラは夢を見るらしい。どんな夢を見るのか私には想像も付かない』

 撮影者の声が止んだあと、工房を撮影した映像がさっと暗転した。その暗んだ映像の中央には、座礁したマッコウクジラと海をひと合わせに撮影した一枚の画像が表示された。当時の見物人たちの姿は無い。クジラの死骸の向こう側には白波の名残りが水際に沿って横に広がり、遥か遠くにある水平線が空と海の “それぞれ色合いの異なる灰色” をかろうじて上下に分け隔てている。
 そうして海辺の画像がただ静かに表示され続ける中、ごくわずかなホワイトノイズにのせて、女の澄んだ声で数文の朗読が始まった。それと同時に、映像の下辺の暗みには朗読の英訳が浮かび上がる。

(ざらざらしたよる ほしがたくさん じめんにばらばら きのめがでたよ
ぱぱがわらって ままもわらった めをとじてすぐに ふたりがねむれば
ほしがたくさん ざらざらしたよる ほしをおとして そらがとじるよ
いそいでかえろう ぼくもかえるよ ほしがおちるよ そらがとじるよ)

『絵本の終盤では、地中海沿いにある小さな町の夜のひとときが描かれている。その町の一角にある民家の一室に、ちょうどベッドに入ったばかりの男児の姿がある。男児は、窓の外の物静かな町道のちかくにある一本の屋外灯を思い浮かべる。仄白い明かりを反射した砂が灯の下で輝き、地面の砂床には人の足跡がひとつも付いていない。数匹の蛾が照明のプラスチックカバーに身を打ち付けるたびに鈍い音が小さく鳴って、その直後、わずかながらに鱗粉がまき散らされる。男児は、いつもだいたいそれを日常の光景として無心に眺めていた。見知らぬ通行人が雨傘を差して通り過ぎれば、その本人の靴跡の溝が砂で埋められていく。
 そして物語の最後では、砂クジラの吹き上げた砂が音もなく町に降りかかり、その町に隣接する青い海の中を海生のクジラが悠然と泳いでいく。男児は傘を片手に海辺に立っている』
 そこで撮影者の声が止む。クジラの死骸を撮影した画像が消える。

 撮影者がカゴの工房に通い始めて四日目の朝。映像の右端に――the fourth day 9:46AM――の文字が小さく浮かんで消える。
 撮影者一行が乗り入れた駐車スペースには、カゴの貨物車の他に白色の乗用車が停めてある。その車体に目立った汚れは無く、窓ガラスには曇りひとつない。ガラスの表面には雑木の林立が鮮明に映り込んでいる。
 撮影者らの到着に時機を合わせたようにして、中年を過ぎた年恰好の女が工房の敷地の端にある石階段に姿を見せる。これといって何の特徴もない中背の女だが、一目見れば、それが誰の母親であるかの見分けが付く。
「おはようございます」そう言って女は一振りした手を下ろす。歩行に不慣れな子供のように両手でバランスをとって眼下に延びる細い石階段を下りてくる。その様子を撮影した映像の端には、『加護幸久』と記した郵便ポストが映っている。
「加護さんのビデオを撮ってるんですってね」
 軽い音を立てて運転席のドアロックが開く。女は上着の右のポケットから手を引き抜いて、自家用車のキーを手に収めて歩く。その女の背後から、通訳者の返事の声がする。
「ここ、良い所でしょ?」と、女は自身の傍らを歩く撮影者の顔を見た。
 そして直後、早々と足元の地面を指して女が気まずそうな笑みを口元に浮かべたところ、女の眼尻と鼻の根元にくっきりと深い皺が寄った。女はそれから慣れない発音で“グッド、プレイス”と言い加えた。「交通の便は悪いけどね」と、撮影者から逸らした視線を前に向けて歩いた。
 カメラの焦点が移動する。石垣に関心を寄せる撮影スタッフの姿から、白い乗用車の側面へと、まったく手振れの生じていない滑らかな映像が映し出される。斜めに差す日光が車体の一部を眩しいほどに照らし出していて、周囲には砂利を踏み歩く音が連続して鳴る。それからしばらくして運転席のドアが閉じる。シートベルトを斜めに掛けたあと女は、車の窓を開けて撮影者の手元を指しながら通訳者の顔を見やって訊いた。
「私もビデオに出るの?」
「僕の思い出のために撮っておくだけです。人前には出しません」と撮影者が答える。
 そうしてちょうだい、と、笑みをこぼして女はフロントガラスに顔を向ける。
 車がゆっくり後進をはじめる。砂利を鳴らして敷地の出入り口に向かい、クラクションを小さく鳴らして走り去る。ブレーキランプを何度か灯してなだらか斜面の道を遠ざかり、やがて雑木林の向こうに消える。
 撮影者らは、その当日に予定されている撮影工程について言葉すくなに話をしながら、砂利敷きの駐車スペースに戻ってくる。
 そのときちょうど工房の石階段の中程の場所に、杖突きの若い女の姿がある。女はジーンズとトレーナーを身に付けて、両手に庭仕事用の手袋をはめてある。「おはようございます」と、一方の手をひらひら振って見せたあと、女は、その手を後ろ腰にあてがって撮影者らが来るのを待つ。敷地の周囲に植えてある風知草が風に揺れれば、鼻先に触れた横髪を手ですくってそれを耳に掛ける。 
「君は、お母さんとよく似ていますね」
 それを聞いて女は眼下の踏み段に立ち止まった撮影者から視線を逸らし、駐車スペースに停めてあるワゴン車を見下ろして嫌味のない静かな笑いを口元に浮かべた。「今日は、お母さんの仕事が休みで――いつもそうなんです、ここまで私を車で送ってきてくれるんです――スクーターで山道を走るのは危険だから、って」
 撮影者は親しげな声でみじかく相槌を打つと、ズーム機能を使用してカメラの焦点を女の顔に寄せていった。「私が道を踏み外すんじゃないかって、あの人、すごく心配しているんです」と女が言う。風が山の斜面を吹き上がり、周囲の風知草がそろって衣擦れのような音を立てる。
「それはある意味、君の宿命のようなものだと思います」と撮影者が一息に言い切る。
「ちゃんと舗装されてるので、心配ないはずなんですけど」
 通訳者は、女の言葉どおりの意訳を始めるが、とっさに湧いた疑問に思い当たって口をつぐんだ。「この話はこれで終わりにしましょう」と、横髪を耳の上に押さえつけながら、女はいくらか声を下げてそう言った。ほどなく通訳者が撮影者の背中を気早に何度か手のひらで打ち、場所を変えて話を続けるよう気軽な口調でうながした。

 その日の午前に予定されていた作業風景の撮影に備えて、作業着を身に付けたカゴが薪小屋から長斧や薪割機を運び出してくる。そうして数束の薪を地面に積み重ねて置けば、その一方では、薪小屋の室内を撮り終えた撮影者がカメラの液晶モニターを斜めに見下ろしながら小屋の軒先に出てくる。
 カゴはそのあと無言に作業の準備を整えて、長斧を手に取り撮影者に視線を投げる。女は地面に置いてある電動の薪割機の電源を入れる。薪の材料となる太枝の長さは約四十センチ。二人のそれぞれの手元で枝が縦に小切られていく間じゅう、木の繊維を引き裂く音が周囲にみじかく響きを立てる。




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裏庭のバジル 32 


「人の死体を見てびっくりするときって、たぶん、そこには決まって私たちとおなじぐらいのサイズの人が死んでいるんですよ」
 女は部屋の中央の広い作業台の上にエアコンのリモコンを置くと、窓辺にあるステンレスの流し台へ向かった。手にぶら下げていたコンビニ袋から洗髪用のトラベル・セットを取り出し、そのパッケージの中にあった二本のボトルを流し台の内側に置いてから、温水と冷水のコックを開ける。そして手の甲を湯にさらす。「だから、もしどこかで巨大な人がべったり倒れ死にしていたとしても、私たちはただその大きさにびっくりしたり感心したりするだけなんだろうなって思うんです」
「それは人ですか、大きな人?――ジャイアントではなくて、ただの人?」
 撮影者が手元のビデオカメラの液晶画面に女の背姿を眺めて訊いた。
「巨大な、とても大きな人のことです」
 女はしばらくの無言に続けてそう答えると、カーキ色のブルゾンを脱いでそれを身近の棚へ放り投げた。「身長182センチの私と7メートルの私――みたいな感じで、どっちも人間のかたちをしているんだけど、サイズだけがぜんぜん違うんです」
 それから女は、とくに気兼ねする様子もなくグレーのセーターを脱いで白いタンクトップ姿になり、手近にあったカウンターチェアを手で引き寄せて座面に浅く腰をかけた。そしてそのまま上体をかがめて蛇口の前に顔を下げて、髪の毛を温水で濡らしていく。左右の肩口から肩甲骨のあたりにかけて肌が剥き出しになっていて、タンクトップの生地に女の下着のベルトが透ける。
「You want me to stop while shooting?」と、撮影者はいくらか声の調子を高めて訊いた。コーディネータの通訳者を見やってその彼に通訳を求め、それからまた英語でおなじ言葉を繰り返す。いったん撮影を止めましょうか、と通訳者が女の名を呼んだあとに口早に訊けば、女は髪に湯を含ませながら思案の声をみじかく漏らして気軽な声で“どっちでも”と答える。
 撮影者がオウケイと返す。「あとで考えましょう」
「粘土って、こんなふうに保管するんですか?」と、そこで撮影スタッフの声が上がる。それまで部屋を巡り歩いていた彼だが、ある一角に立ち止まり、眼下の机に置いてあった四角い密封タッパーに目を留めたのだ。「これを使ってカゴさんが仕事をするんでしょうか」
 それを聞いて女は上体を屈めたまま自身の頭の上に手を伸ばし、温水と冷水のコックをそれぞれ少しだけ締めた。そうして湯の勢いを弱めておいてから、撮影スタッフの声の出どころへ首をひねって答える。「えっと、それは“テスト用”のオーブン粘土です」
 言葉を切って女は右のまぶたを閉じ、目頭を伝う水滴を指でぬぐう。「だけど、あの、それはカゴさんじゃなくて、陶芸クラブに参加する子供たちが使うんです」
「interesting」と撮影者が声を上げると、「興味ぶかいです」と訳者がつづく。
「でも、それ、特有の匂いがするんですよ。だから色々と、コーヒーとか緑茶なんかを混ぜて、粘土の匂いを抑えるテストをしているところです」 女は上体をいくらか戻して、目の前のガラス窓の向こうに夕方間近の屋外を眺めてそう言った。
「粘土にコーヒーの匂いを付けるんですか?」と撮影スタッフが訊く。
「そうです」と、女はシャンプーのボトルを斜めにして、ボトルの口から出した白濁の液を手に広げていく。「コーヒー豆とか、緑茶の葉っぱとかをミキサーで細かくして、それを粘土に混ぜ込んであります」
 撮影スタッフが感心の声を漏らした。「におい嗅いでみますか?」という女の問いに対しては、「ノーサンクス」と首を振る。
「electric oven?」撮影者は部屋の中央にある広い机のそばに歩み寄り、そこに置いてある丸椅子にちらと視線を落として座面に腰を下ろす。「家庭用の電気オーブンで陶器が焼けるんですか?」
「イエス、エレクトリック・オーブン」と、答えて間もなく女は洗髪の手を止めて「あっ」と、軽い一声を上げる。「そうだ、ほら、あの、クジラの肉を持って帰った人が、たしか、いたんですよね?――どんな人なのか私は見てないけど、検査か何かをする、とかって」
 通訳者はその女の言葉にみじかい説明を添えて撮影者に訳して伝える。
「クジラの肉が四角く切り取られていました」と撮影者。
「もしかして今ごろ、オーブンの中だったりして」女は左右の手でシャンプーの液を泡立ててそれを髪に含ませていく。撮影スタッフは、オーブンで調理されたクジラの肉を想像して“アグ”と、嫌悪の声を漏らす。「ちょっと変な匂いがする肉のほうが美味しいから――とか言って、はじめから食べるつもりだったんじゃないですか」と、女がいたずらっぽく言う。「臭い肉が美味しいだって?」と、撮影スタッフは語尾を釣り上げて言ったあとに不快の面持ちで撮影者に意見を求める。撮影者は黙ったまま机の一角に置いたビニール袋の中から“味海苔”のプラスチックボトルを取り出し、そのボトルのフタの縁に巻いてある透明のテープを手で器用に剥がしていく。
「あの――ちょっと軽く何か食べるぐらいは大丈夫だと思いますけど、お酒をのんで大声で騒いだりするのとか、ぜったい駄目ですよ」、両脇を開いて後頭部に十本の指を動かしながら、女は視界の外に話しかけた。撮影者はプラスチックボトルを一方の手に掴み、それを身近にいる通訳者の前に差し出す。英語で礼を言って通訳者は海苔の一枚をつまみ上げ、それを自身の鼻元に寄せて匂いを嗅ぐ。「ここ一応、工房ですから」と女が言う。

 土産屋のビニール袋から取り出した加工品の類がいくつか机の上に並べて置いてある。その日の昼間に駅前の商店通りを巡り歩いて買った商品ばかり、それらすべてに甘辛いタイプの味付けがしてあり、それらすべてが飯のおかずに適当であることを撮影者が一品ぶんの味見をするごとに言うものだから、そのつど工房の室内では微妙な笑いが起きた。「カゴに土鍋で飯を炊いてもらおう」
「カゴに飯を炊いてもらおう」「じゃあ、カゴに飯を炊いてもらおう」 

 そしてその後、話題は座礁したクジラの一件に戻る。
 撮影者一行が商店通りを歩いていたところ、他の通行者らの中にクジラの噂話をして歩く者が何人かいた。とある店の主人が“観光のついでに”と言って、クジラの座礁現場までの行き道を撮影者らに教えようとした他、死んだクジラの体内に増加するメタンガスの影響によってラグビーボールのようにクジラが変形するのだと、自分の知識を物知り顔で話す店主もいた。その誰もが他人事を話していた。地元の漁業活動や観光地としての景観の価値に差しさわりがなければ、その一件は珍事のひとつであって、特に問題視されるべきほどのものではない。寒気の増した秋の終わりに誰の目に付くことなく静かに起きて、地元の噂話の種となり、そして、座礁現場を訪れた者らの過ごす夜のひとときに人知れない静けさを落とす。ただそれだけのことでしかなかった。
「私自身があの場にいて、こういうことを言うのもなんですけど、できれば、あの場に誰もいなければ良かったんじゃないかな、って思うんです」と女が言う。
「誰も」と撮影スタッフ。「僕らも?」
「はい」と女。「ふむ」と撮影者。
 それから女はカウンターチェアから腰を浮かせると、椅子の脚部の金属ポールに靴の踵をのせて、そのまま椅子を背後に押して寄せていく。両手の指をつかって頭の左右を洗いながら胸を張るように背筋を伸ばし、溜息まじりに小さく声を漏らす。そして女は一息を置いて、はっきりとした口調で「クジラのお腹の中に入っているゴミをぜんぶ浜に並べて置いたら、なぜかそれが環境メッセージか何かみたいに思えてくるんですよ。それで、ちょっと感動したり、物思いに浸ったりするんです――だけど、なんていうか、クジラが死んでいるから海がいつもと少しちがう風景に見えたりするんだとしたら、なんか、人って残念だなって」
 そう言ったあと女は自身の靴先を背後のカウンターチェアの脚に引っ掛けてそれを手前に引き寄せようとする。その様子を見ていた撮影スタッフが、カウンターチェアの背もたれのポールを手で掴んで、座り直すよう女に伝える。
「あれは明らかに、多くの人々の日常には存在しないものです」と撮影者が言う。「きっと多くの人々は死んだクジラを見る機会を生涯のうちに一度も持ちません。だから、あのクジラを見て感動したり神妙な気持ちになる人が大勢いたとして、それはごく当たり前のことなんだと思います」
 撮影者の話の終わりを待ちかねたように、撮影スタッフがみじかく一声を上げて口早に訊く。「あのクジラが浜に打ち上がったのは、腹の中にゴミが入っていたからなんですか?」
「クジラの赤ちゃんじゃないとすれば、ゴミかなって」女は平然とそう答える。
 撮影者は思案の声を漏らしながら言葉を探し、やむなく相槌を打つ。

【女】じつは、お腹の中に何も入っていなかったりして
【撮影者】あのクジラが“餓死した”ということですか
【女】いいえ、なんていうか――ただの置物みたいなものなんです。はじめからクジラは死んでもいないし、生きてもいない
 それを聞いて撮影者はまた歯切れの悪い相槌を打つ。プラスチック・ボトルの中に手を差し込み、味海苔を一枚つまみ上げる。
【女】こういう話はしないほうが良いですか?
【撮影者】どういう意味ですか?
「答えが出にくい話は、しないほうが良いですか?」と、洗髪の手を止めて女が訊く。
【撮影者】いいえ、どうぞ
【撮影スタッフ】イクスキューズミー
 女の髪を伝い落ちる湯がシンクの底に乱雑な音を立てる。撮影スタッフの声には疲労の色が混じる。
【撮影スタッフ】トイレに行っても良いかな
【撮影者】もちろん

「なんていうか」 部屋のドアが閉じたあと女はそう言って、シャンプーの泡を洗い流す手をぴたりと止める。「――クジラと私が、おたがいにチェスの駒みたいな関係にあるんです。誰かが“あそこ”にクジラのかたちをした駒を置いて、そのあと、私のかたちをした駒を“こっち”に置いた、みたいな感じ」
 撮影者が相槌を打つ。「詳しく聞かせてください」
「えっと、ふたつの駒がそれぞれお互いに違うマス目を移動しますよね。クジラと私がおなじマスに並んで立つことは、ゲームのルール上、絶対にない」
「たぶん」と、撮影者がうなずく。
「それで、ゲームの最後になってチェス盤から全部の駒が無くなっても、そのままマス目だけは次のゲームが始まるまで“ずっと消えずにある”」 温水と冷水のコックを閉じて女は言う「そうでしょ?」
「僕の知るかぎりでは」と撮影者。「たぶん」
 女は息吹くように笑う。「そんなマス目の上を、駒は“縦とか横とかに”移動するんです。上下に移動することは絶対にない。チェス盤には上空も地下も無い」
「つまり君は、僕ら人間がいつもチェス盤のマス目を移動していると、そう考えているんですか?」と撮影者が訊く。
 女は二度目の洗髪を始めようとシャンプーの液を手のひらに出して答える。「――ううん、そっちの話はあまり大事じゃなくて――どっちかといえば、私の目の前から駒が消えてしまうことのほうが大事かな。なんていうか、私がマス目に立ったときにはもう、その場所にクジラはいないんです」
 撮影者はまたみじかく相槌の声を漏らし、海苔のプラスチックボトルの蓋をしっかりと閉じてそれを机に戻す。「えっと、これは僕がずっと前から思っていたことなんだけど」と、そのあと彼は立ち上がって丸椅子を机の下に静かに押し入れる。左右の腕を彼自身の頭の両わきに大きく伸ばして疲労を押し出すように息を吐く。「もちろん、これが君の言った話の内容の説明や補足になるかどうか僕には分かりません。ですが、これがまったく意味を成さない話かといえば、きっとそうでもないはずです。だから少しだけ僕に話す時間をください」
 屋外には夜の薄い皮膜が掛かっている。女は時おり上体を起こして、腰をゆっくり左右に捩じる。工房の大窓には部屋の内観と撮影チームの二人の姿が映り込んでいて、その二人とも窓辺に視線を当てている。女の頭からは小気味よい音が連続して鳴っており、女の十本の指が弱った昆虫の脚のように動く。
「たとえば、僕は職業柄――」と、撮影者は両手の指を自身の目の前に合わせてそれを四角いフレームに見立てる。
「――ファインダーを通して目の前の風景を見ますが、そのとき、風景を構成している数々の情報にまとめて一枚のフィルターを掛けているような感覚をおぼえます。そして、その風景を四角いフレームで切り取ってそれを“過去の物”にした瞬間、僕の手元ではその風景が平面化していく。つまり、風景を“画像に変換して”平面状に置き換える、そのわずか一瞬の過程を経て、過去に属するそれはひとつの記録となるわけです」
 撮影者は淀みのない口調でそこまで言い終えると、もういちど味海苔のプラスチックボトルの蓋を開けて、中から一枚をつまみ上げる。「いま僕の目の前にあるもの――それこそが僕の日常の外観を決定していて、そのほとんどが立体のかたちを持っています。言い換えれば、僕の視界にある日常の外観は、あらゆる立体の複合体の外観だということです。――しかし時としては、知らず知らずのうちにその世界を平面的に感じ取っている。もちろん僕自身がそういう妄想しているのではありません。つい今しがた言ったように、いつも世界は立体を成しています。では、なぜ僕はそのとき世界を平面状に感じ取っていたのでしょうか。
 君は目先にある風景を眺めながら、沈黙して記憶の引き出しを開けている。そうしてその引き出しの中に収めてある数多くのフレームに意識を滑らせていくあいだ、一方では、目の前の現実世界を構成する視覚的な情報をまとめて一時的に維持している。それは例えて言うとすれば、食品用の透明なラップで、ぴったりと、こう、現実世界を包んで保存しておくような感じです」 窓にうつる撮影者が、ちょうど食器にラップを掛けるような手付きで左右の手を動かす。
 女は洗髪の手を止めて、語尾の翻りそうな声を上げる。「ラップで、包むの?」
「情報がそこらじゅうに動いてしまうと困るからです」と撮影者が答える。
「その、フレームっていうのは記憶のフレームみたいな感じのものでしょう?――じゃあ、情報って何のこと?」
 それを聞いて通訳者はとっさに英語で撮影者に意見を求めて、「データです」と、そのあと女の背中に視線を戻して答える。
「そう、インフォーメーションではなくデータです」と撮影者。「では、データとはいったい何を指しているでしょうか」
 ――仮に、この世界に存在する視覚情報が大きく二種類に分けられているものとしましょう。ひとつは僕らの日常生活に溢れている、そのありとあらゆる可視的な、目に見える物質データ。もうひとつは個人の記憶や想像や思考そのもの、また、それらの像を平面で描写したイメージ・データとでもいうべきもの――もちろん、そのイメージデータには、先ほど僕が言った『記録』が含まれています――現実世界を映し込めたそのすべての画像による記録物や、そこに含まれる文献の類までもが。
「ちょっと待って」と、女が早々と口を挟む。
 ――私が過去を振り返っているときにも、現実のデータがそっくりそのまま、ばらばらにならずに私の目の前にちゃんとあるってことですよね。それで、データをラップで包んであるから乾燥が防げて、埃も付かない。
「その二種類の視覚データのうち、後者のイメージ・データこそが君の記憶に何かしらの特殊な影響を及ぼす性格をしていて」と、撮影者はそこまで言ったあと、間の抜けたような声を小さく上げる。――そう、乾燥を防いでくれる。それに料理の匂いを食器の中に閉じ込めてしまう。

【女】要するに、だから、私が何か思い違いをしてるってこと?
【撮影者】たとえば、お互いにそれぞれ見てきた その過去の視覚情報の一部分をとおして、君の記憶と僕の記憶とのあいだに“薄っすらとした”接点があるものとします。そしてそれは言うなれば、その記憶が同時に多くの人々の記憶の一部分でもあり得る、ということです。――たとえば、こんな感じ。僕は、これまでに一度もワイキキの海を見たことはないけど、別の土地の海を見たことはある。僕はワイキキビーチの波の音を聞いたことはないけど、別の土地の海の音を知っている。僕は白い波を知っているし、その波に足首をさらす心地よさも知っている。それに、見ず知らずの他人がその波打ち際に立っている姿を想像することもできる」
【女】うん、出来ると思います、たぶん私も
「だけど、その僕が海の匂いというものをまったく知らずにいる場合だって大いにあり得るでしょう。プロジェクタースクリーンを通して、視聴覚的に海の広さを知ることも感じることも出来るんですから」と撮影者。「つまり何が言いたいかというと、錯綜した記憶情報の真偽を見定めるには、それ相応のプロセスが必要になるということです」
「うん、いまのは、なんか分かりやすかった」女は蛇口から湯を出してシャンプーの泡を洗い流しにかかる。「あの、ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「何ですか」
「死んだクジラを見て感動する人がいて、しない人がいるのは、なぜだと思いますか? もしかしてそれも人それぞれの記憶の違いが何か関係していたりしますか?」 
 撮影者はビデオカメラを机の上に静かに置いて女の背中を見やり、具体的な話を続けるよう女に求める。女が着ている白い薄手のタンクトップには下着のベルトが透けていて、その丸めた背中の左右に背筋の盛り上がりがある。女はまれに首を左右にゆっくりと傾げて、蛇口の湯を側頭に流し当ていく。
「えっとですね」と、なにかを喉に詰まらせたような声で女は話をはじめる。
 ――たとえば、ほら、太陽が沈んでいけば夕方になるでしょう?――コカコーラは甘くてピリピリしてて、洗濯機の中では服がぐるぐる回っていて、それに、誰かに背中をさすってもらうと気持ち良いし、息を止めたら苦しくなってくる。そういうのって、すごく当たり前のことように現実に起きていますよね。ここに私が“いる”ということと、“いない”ということの違いがどう見ても明らかで、それと同じぐらい、すごく当たり前のことみたいに今日のクジラはあの浜にいたんじゃないかな、って気がするんです。べつに特別なことでも何でもなくて、土が空じゃなくて土以外の何物でもないのと同じぐらい。
 冷水と温水のコックをそれぞれ閉めておいてから、女は髪の水分を手で軽くしぼり抜く。「だから、逆に言えば、綺麗とか寒いとか嬉しいとか――それって何か特別なことなの?って」
 撮影者が相槌を打つ。「おもしろいことを言いますね」
「これ、べつに冗談を言っているわけじゃないんですけど」と女が言う。「明日になったら、クジラがパッと消えてたりしないですよね」
 リンスのボトルキャップに親指の腹を添えてキャップを押し開けて、女はまた上体を屈める。両手に分けたリンス液を頭髪に練り込むように付けていく。
「君の話の内容から察するに、自分の目の前にリアリティが感じられるかどうかという、ただそれだけのことのように思えてきます」と撮影者が言う。――現実にある視覚的な物質情報がリアリティを欠くとき、その情報の在りどころが現実から想像世界に流れ込んでいるものと仮定しましょう。そのとき君は、リアリティの弱まりと共に、目の前にある景色が非現実に置き換わっていくような……景色がぼやけて見えるような、とにかく、なにか漠然とした違和感のようなものを感じ取っている。
「どうかな」と、女が思いを巡らして言葉みじかに言う。「私がボッーとしているときに、いつもリアリティが弱くなっているかどうかなんて私自身にも分からないから――だけど――その、なぜ私たちが目を離しているあいだに、あのクジラが消えてしまわないのか、とか、そういうことがすごく不思議に思うときがあって――これって、どうなんでしょうか、リアリティと何か関係ありますか」
「もしクジラが消えるとすれば、どうやって消えるんですか」と撮影者が訊く。
 上体を屈めたまま水道の蛇口から湯を出して、女は髪に付いたリンスの泡を洗い流していく。「えっと、たとえば、そう――誰かがクジラを一瞬で他の場所に移動させたり――私とクジラのどちらかの時間の流れが急に速くなったり――私がそれをクジラとして見なさなくなったり」
 なるほど、と、女の思案を打ち切るように撮影者は言う。
 ――その不思議がいつか美術の方面で何かのかたちに実を結ぶことは大いに期待できます。でも、その不思議について、いまはこれ以上あまり深く考えつづけるべきではないかもしれません。まず誰もクジラを一瞬で別の場所には移動させられませんし、君とクジラの時間経過の速さが大きくずれることも現実には起こり得ない。そして最後の、君がクジラをクジラとして見なさなくなるというのは、つまり君自身の認知能力に問題が生じたということなんだと思いますが――
「イクスキューズミー」と、そこで通訳者が一方の手をすっと上げて撮影者の言葉をさえぎる。「コンクリートのおもりを付けてクジラを沖合の海に沈めるのが経済的で良いらしいです」
 そう言った通訳者の他方の手には封の開いたペットボトルが握ってある。
 撮影者が卓上のビデオカメラを手に取り、無言のままカメラのレンズを通訳者にそっと向ける。
「本当ですか」と、女は上体を屈めたままシンクに向かってそう訊いたあと、感嘆の息をすっと吐き出して言う。――ちょっとなんか、それ、見てみたいな。
「役場に電話をすれば、クジラを撤去する作業の日取りを確認できますよ、きっと」
 そう答えて通訳者は口元に寄せてあったペットボトルの飲み口を咥えるが、その様子にかまわず撮影者が話を始めようと二言三言をみじかく漏らす。通訳者は水を口に含んだまま軽く唸るような声を上げて眉をしかめる。そして水を飲み込み、「ちょっと待って」と日本語で言う。彼はそのあとまた水を口に含んで無言のまま人差し指をちょいちょいと女の背中のほうに差し向ける。
 カメラの向きを変えながら、撮影者は小さく咳払いをする。――たとえば、死んだクジラが海に沈められるとします。それは君の見ていないところで間違いなく実際に起きます。船やヘリコプターを使うのかもしれません、そのことについて僕はよく知りませんが。――だけど、まちがいなく人の手によってクジラはどこかの海に沈められます。君がその現場を目の前で見るかどうかは別として、クジラが海底に沈まなかった現実はどこにもありません。
 女は水道の湯を止めて、濡れた髪を両手でかるく握って水分を抜いたあと、身近な台の上に置いてあったフェイスタオルを手で掴み上げて、その生地の表面に髪の水分を吸わせていく。――じゃあ、ちょっと訊きたいことがあるんですけど、あの浜の景色をラップで包んでボケッと突っ立っている私って、いったい何でしょうか。さっきあなたが言ったみたいに、私はあの場所で自分の記憶を辿っていたんですか?――目の前の窓ガラスに視線を押し当てて、女は問い詰めるような口調で言う。「だけど、そんな記憶なんて私には無いんですよ。あんな大きなクジラなんて、これまでに一度も見たことがありません」
「ふむ」と、みじかく溢したあと撮影者はしばらく黙り込み、それからまた同じように小さく一声を落とす。「さっき君は、あの海辺に誰もいなければ良かったと、たしか、そんなふうに言いました」
 ――たとえばクジラの腹の中からゴミが出てくる様子を実際に見たとして、そのあとで環境汚染問題への対策のひとつに人類の消滅を思うのは、ごく自然なことです。そして、きっと将来に起きる数々の人災もまたそれと同じ方法をとって未然に完璧に防がれるはずなんです。要するに、誰もいなければ良いんです。
「わたし、クジラの体の中なんて見ていませんよ」
 と、女は手を止めて言う。
「僕らは過去に数多くのものを見ていたはずです」と撮影者が切り返す。――ただ単純にこう思うのですが、人の存在が招く不条理を横目にしなければいけないときもあります。すべての人災を防ぐために人類の消滅を願うことの稚拙さと、その心の純粋さと弱さに一つずつ目を向けなければいけないときもあります。
 そう言って撮影者はそのあと疲労の入り混じった低い声を溜息にのせてみじかく吐き出すと、手持ちのビデオカメラをまたもういちど通訳者の顔に向ける。「僕らは自分自身が覚えているよりもずっと多くのものを見てきました」
 日本語に訳し終えると通訳者は、女の背姿から逸らした視線をカメラに移して、取って付けたような笑みを浮かべる。女の背中をちょいちょいと指して、さらには顎先でその方向を指し示す。

 午後六時を過ぎて、屋外は薄暗い。三人の姿が工房の内観と同化でもしたように窓ガラスに映り込んでいる。窓の一か所には焚き釜の小屋の屋根と煙突が見える。遠くにある山の稜線が空と森林を隔てていて、空の下辺には水に滲んだような斜陽の黄金がうっすらと沈んでいる。「疲れていませんか」と、女が斜めに視線を落として言う。「その隅っこにある冷蔵庫に飲み物があります」
 女の後ろ姿をビデオカメラの画角に収めて撮影者が礼を言う。「ところで、途中で終わったさっきの話のつづきをずっと聞きそびれていたんですが、君の身長が7メートルにまで伸びたことが、これまでに一度でもあったんですか?」
「いいえ」 首を振って女が答える。
「できれば、こういう安っぽい話にはしたくないんですが」と、撮影者は女の足元から頭にかけてレンズをゆっくりと動かしていく。「さっき君が、まったくの思い付きで人の死体のサイズの話を始めたんじゃないとすれば、もしかすると今回のクジラの一件が君の過去の視覚データの一部分を引き寄せようとしているのかもしれませんよ」
 女は穏やかな声を流し台のステンレスに落とす。「なんか、ドラマみたい」
「言ったでしょう、安っぽいって」そう不平じみた小声で言ったあとに、撮影者自身の腹の音がみじかくカメラの視野の外に鳴った。「君じゃないとすれば、いったい何が巨大化するんでしょうか。もしかして、何かが巨大化していく そのイメージ・データを、君はいつか見ていたんじゃないですか?」




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裏庭のバジル 31 


 カゴの運転する軽トラックにつづいて、撮影者らを載せたワゴン車が杉林を通り抜ける。車速をゆるめて山沿いの道を下っていくと、やがて遠目には平野が広がり、指折りに数えられるほどの民家はどれも広い敷地に大きく建っている。農家らの所有する倉庫にはそれぞれ種類があり、一戸の民家と見間違える木造があれば、トタン板を張り付けた簡素なものもある。空は薄青く、そこに小さな薄雲が漂う。犬を連れた地元民の男性がスポーティな冬服に身を包んで小走りに遠ざかる。一台の対向車が通り過ぎた直後には、フロントガラス越しの田舎町の景色がどことなく静止しているように見える。
 運転手がバックミラーを斜めに見上げると、遠ざかった車両の背部が小さく町の風景に張り付いていた。後部座席にいる通訳者の視線に気づいて前方に視線を戻し――うしろ、暖房効きすぎてないかな――と訊いた。
 瓦屋根の駅がある。駅舎は木造でこじんまりとしていて、黒茶の柱と漆喰の壁が古めかしい雰囲気を醸し出す。舎内のベンチに杖突の老婆が座っているが、駅員の姿はどこにも無い。二か所の改札口の上に一個の丸い壁時計が掛けてあり、その上の壁面には白地の時刻表が掲げてある。天井ぎわの掲示スペースには例年行事の告知ポスターなど数枚が横並びに貼り付けられ、木製の窓枠に囲われたガラスの向こうにはプラットホーム、そして線路上には一台の赤い車両が停まっている。
 駅の前を通り過ぎたあと、二台の車はシャッターを閉じた消防屯所の前をまっすぐに走り抜けた。駅舎の火災事故に備えた屯所として建てられたことを運転手が説明すると、後部座席の片側に座る日本人がそれを英訳して車内にいる二人の外国人に伝える。撮影者の男は感心の声を漏らし、もうひとりはその話の内容をクールだと評価する。駅が開業して以来、何度か繰り返された改修工事によって駅舎はほぼ大体その原形を百年以上も留めており、おまけにそれは国の文化財に登録されてもいる。運転手は話し終えると、何事もない口ぶりで電車の利用者数に触れた。
 駅の周辺から遠ざかるにつれて民家の数は減り、町の景観が稲刈りの済んだ広大な土地の風景へと移り変わる。薄青色の空の下、乾いた土の上には稲株が整然と無数に並び広がり、その100枚ぶんを超えるだだっ広い田んぼの一辺に沿って車道を十五分ばかり辿れば、前方の左手に雑木林の一角が見えてくる。林は山麓の小川に沿って広がっている。その川の向こうには山々がひたすら連なる。
『このあと我々はまた山の中を三十分ちかく走り、目的の水源林へ向かう』
 紅葉の終わりを見る。色褪せた雑木林から青々とした竹林へと様相が変わる。運転手はそのどちらの林にも人の管理が行き届いていることを同乗者らに話す。もうすぐ山が冬を迎えれば、竹の緑が雪の白によく映える。かねてよりその冬景色が町の風物詩として住人らに親しまれているが、それは町の有志らが林の間伐や下草の除去作業に関わっているからだ。すでに一本一本の竹が人の両手では囲いきれない程にまで太く成長しており、長さにすれば二十メートルにまで達するものが数多くある。また、林の中に敷かれた一本の細い遊歩道は五十メートルを超えていて、地元民の多くは、その道を一方通行に歩く。前方から来た歩行者と接触するのを避けるため、そうしていつからか道の入口と出口を分けるようになった。彼らはよく顔を上げて竹林を歩く。風に吹かれて竹がカラカラ鳴るのを聞きながら歩く。
『陶器が水を湛えるとき、その器に付いた風景に土と火の彩色が施される』
 山々を連なる長い尾根からその中腹のあたりにまでかけて水源林が広がっている。市の水道局が管理しており、水源の保全を目的として百年以上も前にその取組が始まった。山の生体系を長期にわたって維持し、沢や下流の川に水を安定的に供給する役割を果たしている。カゴは車を停めて外に出ると、およそ二メートル四方の木製の看板を見やる。ほどなく後続のワゴン車もまた速度をゆるめてカゴの貨物車の横に停まる。――【水源かん養林/安全でおいしい水道水をつくるため、この森林をきれいにしています】――看板に太く書かれたその文言の下には、辺り一帯を示す簡易地図が描いてある。林道、山道、尾根道、あずま家、地蔵数体、進入禁止。巡視道と散策道を示す色別の線が長々と歪んだ二本の輪を描いているが、『およそ六時間』と書かれた所要時間はあくまで参考時間であり、場所によって木の枝にくくりつけられているその赤いテープに気付かず順路から大きく逸れてしまえば、その日の夜を避難小屋で明かさなければいけなくもなる。携帯電話の電波が森の全域に行き届いているおかげで119番に救助を要請することもできるし、それにもしアウトドアに興じて小屋に寝泊まりする者が誰かいれば少なくとも心細い思いをせずには済む。「いびきのデカい外国人には参ったけどな」と、カゴは言い加えて笑う。
 一方、撮影スタッフは林の奥に向かって延びている散策道に目を這わせて、遠目に見るその路面が黄や橙の葉に埋め尽くされていることに気付いた。まともに管理されているのか、と、彼はその散策道のあたりを指差して通訳の日本人の注意を引いた。
「どのみち歩いている途中で道は無くなるんだよ」とカゴが答える。「両手に竹ぼうきでも持って山に登るか?」
「それなら、火で落ち葉を燃やしてしまう方が早いですよ」と女が口をはさむ。
 それを聞いて撮影者は軽く笑いを漏らしながらカメラの視界を他に移した。遠くの山々が広く画角に収まり、ほどなく撮影者の笑いが失せた。

『日本の林業が衰退していく中、外国企業による森林買収が問題視されるようになった。林業従事者がターゲットとなる他、経営不振の酒造会社やボトラーが売り手となった。外国企業は地下水の取水口の場所を下調べしており、買収目的がそれであることを売り手はもちろん承知している。いちど失った土地を買い戻すには出費がかさむが、その費用を支払うのはこの国だ』
 ゆっくりと山景色が流れていく。貨物車の助手席に座る女が後部窓をふりかえり、後続のワゴン車に向けて手を振る。
『水源林をつくるために造林されたまま伐期を過ぎた林は陰鬱としている。下草が覆い茂り、伸び放題になった枝が日差しをさえぎって森を暗くする。そして、たとえばいつか豪雨が降ったときに、地崩れが起きて、三十メートル級の杉の木が山の斜面を滑ってくる。もちろんそれはひとつの可能性としてだが。しかしその点、我々の訪れた水源林には十分な明るさがあった。山肌のあちこちに陽光が射していて、空気が冷たく澄んでいた。自然公園みたいだった。ひとつの秩序がそこにあったように思う』

 カゴの工房へ向かう道中、脇道を逸れてしばらく行けば、そこにカゴの所有する広畑がある。もとの所有者が高齢のために手放した水田をカゴが買い取ったのだが、広さにして二千平方メートル近くはある。土地の三分の一の範囲には若い雑木と果樹を混植してあり、それ以外の土地は真っ新の状態で雑草すら疎らにしか生えていない。土がまだしっかりとは乾いておらず、水がほど良く抜けるまであと一年はかかる。
『日本国内の畑はブラジルやアフリカに比べて面積が小さく、アグロフォレストリーのような大規模農園を造るには無理がある。だが、日本の里山農業に近いかたちで樹木と家畜と作物を育てていくことは出来る。持続可能でリスクの少ない農法を取り、一年をとおして確実に作物を収穫することを目標とする。土地に備わっている高い生産力を継続させ、そしてその結果として個人が自身の森を持ち、森の中に多様な生物を定住させることの価値を実感するとき、そこに作り出されている自然と生物の原生的な共生の循環を深く体感してもいられるだろう』
 ここ数年で若者が田舎へ移住し、いちど休耕地となった土地で農業を行っている。中には画家や音楽家などもいて、民家を借りてそこに住む者もいれば、共同住居に他人同士で集まって生活をしている者たちもいる。たとえ将来の計画性に乏しくても、それは彼らにとってやはり身近な問題ではない。いま土に触ることの意味を彼らは多かれ少なかれ実感している――カゴは農道を敷設する予定の場所を歩きながら話す。その彼の背後から、撮影者が相槌の一声を放り投げる。
『生活の精神的側面の性質を見直しそれを豊かにする。土地の再利用は地方の農耕ムードを高めると共に人口増加をうながし、地元の活性化を引き起こす。もちろん人口が実際に増えるかどうかは二の次として、いちど放棄された耕作地に人の手が入ることの重要性をまず第一に見るべきではある。住人がその場所に長居するとは限らないが、土地が不法投棄に利用されずに済んだだけまだ幸いだったとでも考えておけば良い慰めになるだろう』

 カゴは主に陶芸用の原土や粘土を専門販売業者から買っている。畑から作陶用の原土を採取したことも過去にはあったが、その土をつかって形成した作品は、耐火性の低さが原因となって焚釜の中で割れた。陶器に独特の質感や風合いを付け加える一材としての使用に限るのが無難なようだった。
 カゴは話し終えると、手に握ってあった少量の土を足元に落として、左右の手のひらをぱんぱんと軽く払った。
 カゴの後ろ姿からその前方へカメラの視野を移し、撮影者は自分の祖父の畑で凧上げをした過去を思い起こしていた。カゴの広畑には及ばないが、それでも、子供が存分に走り回れるぐらいの広さはあった。彼の祖父が、風の吹き流れる状況を見ながら少年にアドバイスを送る。少年の手元から凧糸がどんどんと出ていき、凧は風に流されて畑の上空をとおく離れて飛んでいく。そして、凧糸が切れる。凧の重みが手元から一気に損なわれたとき、少年は子供ながらに絶望にも似た思いに駆られた。
『凧のデザインにはこだわりがあった。だけど、凧糸の強度については一度も考えたことがなかった。――あとになって僕は祖父を恨んだ。そんな、糸の状態なんてものを子供が気にするものか、それは大人があらかじめ事態を想定して注意しておくべきことだったんだ、というふうに』
 追憶が語られる中、映像内ではカゴの後ろ姿と遠景が対比的に重なったまま大した動きを見せない。遠くには木々の林立があり、撮影者らの周囲には整地のされていない土地が広がっている。土を踏み歩く音がまれに鳴る。それが誰の足音であるかは特定できない。そのまましばらく誰の一声も立たず、変わり映えのしない景色だけが続いた。そして唐突に場面が切り替わり、広畑の一角が間近に撮影された。成木と若木がほぼ一定の間隔をおいて数多く植えてある。見上げるほどの高さにまで成長した木は一本もなく、雑木林としてはまだほとんど形になっていない。木々の隙間の向こうを見やれば、畑の外縁の一辺を成している未整備の農道が長々と横に延びていて、その道のすぐ向こうには畑の域外の森がある。
 カゴは自分がつくった林の前に立って話を続けた。水はけの悪さが影響して立ち枯れた木もあったが、植樹した木のほとんどは特に問題なく成長を続けている。「今のところは」と言い足して彼は、熱帯国にあるアグロフォレストリーを例に挙げて、バナナやコーヒー豆など、園内に植えられる一般的な木の植栽例を説明し、ヤムイモやトウモロコシなどの作物で得られる年間の安定的な収穫性について話した。その話の合間にカゴが指差した方向へと撮影者がレンズを向けると、一本の木の枝の根本に、羽づくろいをする小型の冬鳥の姿があった。
 空には指でちぎったような細かい雲が流れる。畑の地面には落ち葉がうすく積もり、木々の影が辺りに乱雑に落ちている。
 女の姿は無い。脚が疲れるという理由で貨物車の助手席に座っていた。

 午後四時を過ぎ、一行はカゴの自宅で食事を取った。カゴが台所のガスコンロに置いた土鍋で飯を炊いた。手慣れたものだった。窯の利用客を相手に、七輪をつかって土鍋で飯を炊いたことが何度かあった。それを格別うまいとは思わなかったが、客受けは悪くなく、彼にしてみても満更ではなかった。
 木製テーブルの端に置いてあるビデオカメラが六人の首下から手元のあたりを映し出す。日本の簡素な家庭料理(卵焼き、里芋の煮物、豚汁、ほっけ、ほうれん草のひたし)がそれぞれ食器に盛ってあるが、撮影者ともう一人のスタッフの手元にはスプーンやフォークが置いてある。彼らはカゴにすすめられるままに食事を始めた。地元で作られた生卵と鰹節を飯にのせて、その上に醤油を垂らしたあとに二人そろって手を止めた。そしてそれから互いの茶碗に視線を落として、そこに得体の知れない有様を眺めた。「代わりに食べようか?」と、カゴが撮影者の手元にある茶碗を指して言う。「無理しないでくださいね」と、女もまた気を回す。
 通訳者がグラスに入った茶をひと口飲んで、飯を喉に流し込み、さっと気早にカゴと女の言葉を英語に訳す。カゴはすでに注意を他に移していて――「やっぱり、まだ味が染みてないな」――と、里芋の煮っ転がしを片頬の内側に寄せてから誰に言うともなく――「明日まで置いとくか」
 カゴの漏らしたその言葉を訳す必要があるのかどうか、通訳者が判断をわずかに遅らせたところ、一方の撮影スタッフが食卓に並んでいる器のいくつかを手で適当に指し示しながら片言の日本語で「カゴサン」と言った。そのあとスタッフの男はさらに日本語の単語をいくつか口に出して言葉を詰まらせるのだが、ふと彼は食卓の向かい側の椅子に座っている女の顔にうっすらと親しげな笑みが浮かんだことに気付いて咄嗟に心持をあらためると、女の顔から逸らした視線を横に滑らせて、「カゴサン」と、もういちど片言で言った。
「ここにあるのはカゴさんが作ったお皿ですか?」と、通訳者が日本語に訳してカゴに伝える。「ノー」とカゴが首を振る「違うよ、ノーだ」――自分の焼いた器では気楽に食事が出来ない。その彼の返事を聞いて、二人の外国人は口元をすこし緩めて口々にかるく相槌の声を垂らした。女が卓上のやかんの取っ手を掴み上げて言う、「私が自宅に持ち帰って使うことはよくありますよ。お母さんも喜んでます、食卓の印象が変わると食事をするのが楽しくなる、って」
『この冬、彼女は県外の美術大学の入試を受ける。高校が長期の休みに入れば、またカゴの仕事を手伝いに来るらしい』
 食卓の中央には、味海苔のプラスチックボトルが置いてある。撮影者は指でつまんだ一枚の海苔を品定めの目つきで眼前に眺めていたが、それをひとくち食べて感心の声を漏らし、国に持ち帰りたいと言った。

 その翌日の昼下がり、女の同乗したワゴン車が海岸沿いの道を走っていた。もとは撮影チームの二人が観光に割くはずだったその時間を利用して土産店をめぐり歩く予定だったのだが、日本人コーディネーターの二人と撮影者ら二人、それに自ら進んで観光案内の一役を担った女、その彼ら五人で商店通りを歩くため駅前のコインパーキングへ向かっている途中、海岸に人の寄り集まりを見かけて観光の予定を多少変更することになった。
 目先の路肩には十台あまりの車が停めてある。道路際から水平線まで薄いコバルト色が広がっていて、浅瀬の一か所に一頭の鯨の死骸がある。十メートル以上はあるな、と、運転手のどことなく浮き立ったような声が車窓に跳ねる。
 路肩に車が停まるやいなや助手席のドアが開き、ついで他のドアも不揃いに音を立てて開く。通訳の日本人が車内に吹き込んだ外気に身震いをし、うなるような声を短く上げる。その彼にならって、他の数人も各自の上着を手に取りそれを羽織る。撮影スタッフは小型の撮影用機材を入れた鞄を車外に持ち出し、女は杖を片手に車を降りる。彼らは防波堤の階段を下りて、乾いた暗色の砂利浜に足を踏み入れ、そのまま波打ち際へ向かって微妙に不安定な足取りで歩いていく。「たぶんマッコウクジラですよ」と、運転手が遠くを眺めながら好奇を押し殺した声で言う。
『角度によってそれは黒い砂山のようにも見えた』
 ビデオカメラには、一足先に現場へ向かう運転手の後ろ姿が小さく映っている。おなじく通訳者も自身の業務を顧みることなく、鯨に気を取られて一心に歩を進める。その一方、撮影スタッフは女の足取りに何度か気を配っていたが、すこし目を離しているあいだに、もう彼の斜めの位置に女が杖を突いて立っていた。撮影者は、女の背姿をレンズの画角に収めたまま歩調を弱めると、女の脇を通り抜けてうしろを振り向き、それから二本の指で自分の鼻を摘まんで見せた。
 その仕草を見て女は無言に目をしばたいた。長い横髪が風に流れて女の顔を覆った。
「ここで待ってます」と、それから女は弱々しい声で言った。横髪を手ですくい上げながら後ろをふり返り、上体をかがめて嗚咽を漏らした。撮影者がカメラの視野をとっさに眼前から逸らすと、まもなくレンズの画角の外で嘔吐の声がした。
 その一方、運転手の日本人は鯨の座礁した現場にたどり着くなり、地元の住民らと立ち話を始めた。また一方では撮影スタッフが女の容体を気にかけて引き返して来る。撮影者はうっかりビデオカメラの視野から意識を逸らして一瞬あらぬ方角にレンズを向けてしまうが、そのあと手元の撮影状況に気付いて、もういちど鯨の方角を映し出す。
 カメラの画角の外では女の力無い声がする。「ゴー アイムオーケー」
「youre not ok」と、撮影者は視線を斜めに下げて応える。女は、喉の奥に込み上げてくる吐き気に合わせて息を荒げたあと、子供をたしなめるような親しげな声で撮影者の名を呼んで今度は“アイムオウケイ”と言う。
 数羽の海鳥が上空を飛びまわる。白波の砕ける様子とは対比的に、クジラの死骸が細かい砂利の浜辺に静かに横たわっている。無数の白い傷跡が頭部の皮膚を広く巡り、体の中程と後部には胸びれと尾びれの片方ずつが斜めの向きに立っている。クジラの体表に大きな損傷は無いが、頭の先端部に付いた数本の亀裂からは血が流れ出し、周辺の砂利を色濃く湿らせている。大きく開いた細い下あごの内側に歯が数十本、そして、うすく開いた瞼の奥には何の変哲もない黒色の眼があった。撮影者はその様子を撮り終えると、コーディネータたちの会話の声につられてカメラの視野を移した。クジラの体表の一か所が黒い皮膚ごと四角に切り取られていて、奥行にすれば二十センチあまり。その四角の底辺には、ナイフで切られた赤身の断面がゆるく凸凹している。運転手は左手をひろげて親指と中指でサイズを示して見せたあと、現地住民から聞き知った話の内容を撮影者らに伝えた。しばらく前に現場を訪れた作業服姿の男性二名が、生態調査の一環として各種解析用の組織をクジラから採取したとのことだった。
 空一面が薄灰色をしていて、波は変わらず白い。ビデオカメラの視野の外では一人の男子の甲高い声がしており、「海よ、凪よ」と、彼は何度もそれを繰り返す。見物人らの多くは二人以上でクジラを眺めている。写真機を持った数人が思い思いの構図を狙って立ち位置を移していく中、他の見物人らの影がすべておなじ角度で暗色の砂利浜に薄っすらと張り付いている。
 撮影者はうしろを振り向くと、ズーム機能をつかって女の姿を大きく映し出した。女は上体をすこし屈めてペットボトルの水を足元の砂利に回し掛けていた。彼女の傍らには黒色の長いトレンチコートを着た初老の男が立っているが、撮影者はその顔にまったく見覚えが無い。初老の男は灰色のハンチング帽の下に温和な表情を浮かべながら、女の背中に手のひらを添えている。男の小奇麗な装いからして、女に危害が及ぶ恐れはないものと判断できたが、あとになって撮影者らが女の元に引き返そうとしたときにはもう初老の姿はなく、空のペットボトルと杖を両手に物憂げな表情で立っている女に訊いてみれば、「顔を見てない」と女は答える。
 彼女の話によれば、初老の男はミネラルウォーターの入ったペットボトルを未開封のまま女の足元に置いて、地面と“口の中”を洗うよう女に勧めたのだった。男はそれから自身が観光者であることを前置きにして町の景観の良さを静かな口調で称えると、浜辺に座礁した鯨にちなむマッコウクジラの睡眠について話をはじめた。水面下に浮かんで眠っているあいだマッコウクジラは片方の目だけを開けていることがよくあるが、それは睡眠中にも一方の脳が活動している証である。水の中で肺呼吸をつづけるために意識を絶やさないよう一方の脳を活動させたまま眠り、そうして睡眠中の身に及ぶ危険をすばやく察知することも可能としている。片方の目を開いて眠る。その後、他方の眼に開き変えて睡眠をつづける。個体によっては、目を開き変える合間の生理現象として、頭を海面に突き出し下あごを大きく開く場合があり、その仕草はちょうどクジラが欠伸をしているようにも見える。
「たしかそんな話でした」と女が言う。女の顔はいくらか色味がかっていて、記憶を辿って話しながら時折、目線の位置を変えて穏やかに微笑する。
 その話は本当ですか、と撮影者が訊く。
 あの人がそう言ったのは本当です。女は答えたあと、二本の指で鼻をつまみ、その仕草の意味を撮影者が理解したのを見取ってから指を離して、「お腹が空きました」と、自分の腹をさすった。

 彼らが道路わきに停めてあったワゴン車に戻ろうとする頃には、鯨のうわさを聞き付けた地元民や観光客が海岸に多く集まっていた。鯨の腹が海のほうを向いており、その体表に垂れていた黒い性器に気を紛らわされることなく、見物人らは鯨の死骸と曇天の海を眺めた。




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裏庭のバジル 30 


『yukihisa kago pottery』

 一台の車が山裾の駅を出て太平洋に面する海岸道路を走る。 ガードレールの切れ目から踏切を越えてゆるやかな斜面をのぼり、立ち並ぶ民家のあいだを通り抜けて一車線の町道を山間に向かう。 小川の下流に掛かる短い石橋を越えて、道ばたの左右に大量に積もった枯葉を踏みつけて走る。 ガードレールには積年の汚れがこびりつき、山手のコンクリート壁の広い範囲が苔生している。 山の冷気に満ちる中、ブナやシラキなどの原生林が柿色から薄黄色の葉を茂らせ、タイヤの散らした落ち葉の上に静かにひらひらとまた葉を落とす。 その場所から車で十五分も走れば、車道の左手の傾いだ山肌にはヒノキが林立している。 一本道が山のなだらかな傾斜を長々と曲がりくねって伸びていて、右手のガードレールの向こうには沢へとつづく山の急斜面がある。 対向車は一台も無いが道幅は狭く、車避けの空き地を何度か横目に通り過ぎる。 その細道の突き当りを一般道に抜けて、車窓に流れる初冬の山景色に視線を走らせながら車速を上げていく。 しばらくして車は速度を下げて脇道へ入る。 右手には風に流れる白い煙が見える。 炭焼き小屋の手前に、頭に白いタオルを巻いた背低の男が立っている。 男は後ろを振りかえって遠ざかる車に視線を投げる。 車は薄汚れた灰色の道を雑木林に沿って走っていく。 運転席の横窓の向こうには道路っぷちの溜池が広々と静かに水を湛え、その水面には人手の入らない森の緑が色濃く映り込む。
 勾配のついた脇道に入ると、ゆるやかに曲がる上り坂を低速でさらに進んでいく。 造林地を縫うようにして舗装路を走り、そしてそのうち左手に見えてくる砂利道へと進路を変える。 轍の付いた路面の両脇には丈の短い雑草が道に沿って生え延びていて、その草の向こう側には陽光の差し込む雑木林が広がる。 一本の砂利道が左右に一度ずつなだらかなカーブを描いて長々と延びている。 その道の先には五、六台の車を停められる砂利敷きの土地がある。 運転席からフロントガラス越しに斜めを見上げれば、木々に囲われた敷地には窯小屋 と 薪小屋、そしてその上段の敷地には工房や展示室などを兼ねた一戸と平屋の家が横並びしている。 山の尾根筋の一部を敷地としているため、二階建ての工房の屋根が空へと大きく突き出している。

 窯小屋を支える苔付いた石垣の前でエンジンを停めたあと、運転手の男が後部座席を振り向いて、同乗者の日本人に上着を取ってもらえるよう気軽な調子で願い出る。 すると後部座席の片側に座る日本人が、山の気温を話題に挙げてみじかい言葉を返しながら上着を手に取り、それから車内にいる二人の外国人に防寒するよう英語で話しかける。 日本人と外国人の二人ずつ、その彼ら四人とも上着やニット帽などで身を包んでそれぞれ車を降りる。 敷地の砂利を踏み歩く音が、涼しげに散り散りと辺りに響く。 ひとりの外国人は手に持った家庭用のビデオ・カメラの画角に周囲の山の風景を収めた。 どこかで野鳥の高らかな鳴き声がしていた。 運転手の日本人は小さく身震いをして寒さに首をすくめた。 もうひとりの外国人は石垣の前に立ち止まって両腕を広げて、その石垣の一部を成している巨大な石の横幅をおおまかに手で測った。 運転手の男は石垣の端に歩み寄って、そこに立ててある郵便ポストにちらっと一視を投げたあと、上着のポケットから取り出した携帯電話を操作して呼び出しの音に耳を澄ませた。 彼はその郵便ポストに少なからず愛着を持っていた。 樹皮を削ぎ落した太い枯れ枝が地面に差し込んであり、その枝の上部にはサビの浮いた四角い郵便ポストが針金で括り付けてある。 ポストの前面には『加護』と記した白紙を入れたラミネートカードが貼り付けてあって『加』には『ka』、『護』には『go』の仮名が振ってある。
 運転手の男は郵便ポストから視線を逸らして顔を上げた。 ポストのすぐ脇から、窯小屋や工房展示室へ向かう石階段が五十段以上は続いている。 その階段に沿ってモノラックのレールが長々と敷いてあり、モノラックの本体は展示室の建っている敷地の上り口の手前に停めてある。 運転手が敷地の一帯を眺め渡してその周囲を覆っている黄色の草々に見入っていると、そのうち彼の耳元で電話の呼び出し音が途切れた。 外国人の撮影者は運転手のとなりに立ってビデオ・カメラのレンズ越しに石階段を見上げて、カゴを載せたモノラックが駐車場までゆっくりと下りてくる様子を思い浮かべた。 その一方、車の後部座席にいた通訳の日本人は、足元の砂利に置いた紙袋の中を確認し終えて、その紙袋とビジネスバッグをそれぞれ両手に持った。 彼は「ぅっし」と、気概を込めた一声をかるく吐き出してから砂利の上を歩き出し、石垣に関心を寄せる外国人の男に英語で呼びかけて同行を求めた。 ほどなく運転手の男は通話を終えて、他の三人に先駆けて階段を上り始めた。 外国人の撮影者はモノラックのレールに心残りの一視を投げて、自分の期待していた画が撮れなかったことを惜しんだ。
 窯小屋の前に差し掛かった運転手が上体をわずかにひねり、撮影者のうしろを歩いてくる通訳者の注意を小屋の敷地の向こう端に引き付ける。 彼らの視界の先には薪小屋があり、高さ2メートルを超す二枚の引き戸にはバイク用のワイヤー錠が掛けてある。 おなじく撮影者の男も小屋を見やってその方角にビデオカメラを差し向けた。 彼は小屋の前の空き地で薪をつくっているカゴの姿を思い浮かべながら、窯小屋の屋根から突き出しているレンガ造りの煙突にカメラの焦点を移した。 あらかじめ受け取っていた資料用ビデオの内容によれば、窯焚きをしているあいだその煙突の口から炎の先端が吹き出るはずだった。
 運転手の日本人が石段を上りきって工房の敷地に立ち入ると、玄関先で彼らの到着を待っていた若い女が“こんにちは”と柔らかな口調で言った。 運転手はその女を見知っていた。 事前の打ち合わせをするためにカゴの工房を訪れた際、カゴ自身の同僚として紹介を受けていたのだ。 そのときと同じように、女は後頭部のあたりにヘアゴムで黒髪をまとめていた。 藍色のセーターと黒地のエスニックスカートを身に付け、そのどちらもが女の長身を鮮やかに引き立てていた。 外国人の撮影者は運転手につづいて工房の敷地に立ち入り、長身の女を見やって気兼ねなく英語で挨拶をした。 すると女もおなじく「ハロー」と言った。 彼女は両手を下腹のあたりに重ね合わせて前屈みに一礼すると、うしろを振りかえって玄関の引き戸の前まで数歩を踏んだ。 そしてそれから格子型のガラス戸をゆっくり大きく開け放ち、間延びした声を真向いに放り投げるようにしてカゴの名前を呼んだ。 運転手の日本人は視線を斜めに落として、女の背後に取り残された自立式の杖に見入った。 撮影の打ち合わせの段から、彼はそれと同じ様子を何度となく見ていた。 女は自身の左足の外側に突いた一本の杖を左脚の支えにして歩くのを習慣としていたが、時おりその杖を手放して自力で歩いて移動するのだった。
 通訳の日本人と撮影チームのひとりが遅れて工房の敷地に足を踏み入れる一方、工房の屋内からは一人の男が片手を挨拶がわりにひょいと上げて玄関先へ出てきた。 撮影者はそのカゴの姿にカメラを向けると、資料映像に記録されていたよりもカゴの体格が小柄であるように思った。 カゴはベージュのカーゴパンツとカーキ色のフライトジャンパーを身に付けて、老眼鏡を取り付けた眼鏡ホルダーを首から胸元にぶら下げていた。 白髪まじりの短い髪はヘアワックスで整えてあり、口元の髭にもまた慣れない手入れをしていた。 女は玄関の戸枠のわきに立ち位置を移して、そんなカゴの容姿を眺めながら ほくそ笑んだ。

 建物の二階にある展示室の窓の外には山を見渡す眺望がある。 ベランダから遠目に眺めるその広い範囲を水源林が占めていて、葉を落としはじめた木々が緑樹と混ざり合うように山々に立ち広がっている。 その景観の撮影映像に合わせて、本編の趣旨説明が始まった。 男の声で英語のナレーションが収録してあり、そのわずかに掠れを含んだ低い調子の声に合わせて映像の下部には日本語の字幕が表示される。


『カゴの作品を初めて見たのは今から5年ほど前のことだ。 フランスのヴァロリスで開催された小規模な日本陶芸展に出品されていて、すぐ手の届く展示台の上にそれは置いてあったのだが、どこか個別の台に作品を置き変えてそれ相応のライティングをすれば、きっと見栄えが断然に良くなるはずだった。 おそらくまだ当時ヴァロリスでは、陶芸業界の一部の関係者らをのぞいてカゴの名前を知る者はほとんどいなかっただろう。 だからこそ、作品展示の効果的な演出が望ましかった。 世界的な陶芸制作の地において彼の作品が展示されたのは喜ばしいことではあったが、正直私の見たかぎりでは、パソコン画面をとおして過去に撮影された良質の作品画像を見るほうが、まだその作品の本質的な美しさを間近に感じられることだろう。
 このベランダの風がひどく寒かった。 山の稜線を伝って風が吹いてくるのだと思うと、よりいっそう寒気が増したように感じた。 カゴは冬の山景色を好んでいるらしいが、私はどちらかといえば夏のほうが良い。 夏の風が心地良さそうだ、と私が言ったら、夏になったらまた来い、と彼は言った』

 ベランダのドアを開けて、女が室内から外に出てくる。 それにつづいて通訳の日本人が両手にそれぞれ一個ずつマグカップを持ってベランダに出る。 彼は差し向けられたカメラレンズ越しに陶製のカップをひとつ撮影者に手渡す。 女はその二人の様子を眺めて微かに笑ったあと、手に持っていた飲みかけのカップを“挨拶がわり”とでもいったふうに自分の胸の前にちょいと掲げて見せる。 その所作を一視して通訳の男はそれが女の淹れた茶であることを撮影者に英語で伝える。

『彼女は、カゴの仕事仲間で、カゴの形成した数点の作品の色付けや彫刻などを担当した。 気の穏やかな愛嬌のある女の子だ。 カゴよりも背が高く、それでいて特に遠慮するでもなくカゴのそばに立つ。 そんな彼女の立ち位置からカゴが半歩ほど遠ざかる様子は、我々撮影側の目から見れば決して悪いものではなく、彼らの日常の一場面をカメラにとらえているという実感が確かにあった。
 カゴから撮影許可を得るにあたって我々の飲んだ条件というのが、その彼女を撮影に参加させることだった。 私は当初、おそらく私の立場にいれば大体の者らがそうするだろうが、陶芸家の孤独と山の静けさに焦点を置いてカメラを回すつもりだった。 ところが、日本に来て、カゴから彼女を紹介されたときに私の考えが少しだけ変わった。 カゴよりも彼女のほうが孤独な佇まいをしているように見えた。 ひょっとすれば、青年期に当たる彼女の姿に私自身のかび臭い孤独が映り込んでいるように見えただけのことだったのかもしれないが、とにかく私の目には彼女の姿が印象的に映った。その時点において、主役はカゴではなく彼女のほうだった。 私は撮影の企画内容に少しだけ変更を加えることにした』

 撮影スタッフと通訳の男がそれぞれカップを片手に室内の壁際に立ち、作りつけの棚に並べてあるカゴの作品を間近に眺めている。部屋の中央には一台の木製のテーブルがあり、卓上には茶の入った陶製のカップと平皿に盛り付けた茶菓子が置いてある。 カゴの気軽な了承を得て、撮影スタッフが壁棚に置いてある作品を手に取る。 その制作には女の手が加わっていて、なつかしい――と女が頬をほころばせて言えば、カゴが快活な笑い声をみじかく立てる。

『粘土を器状に形づくったあと、その器の全面をナイフで網目状にくり抜いたらしい』

「ろうそくやライトを中に入れて、内側から外に明かりを漏らしてみたらどうだろう」と、撮影スタッフが値踏みをするような目つきでしげしげと器を眺めて言えば、通訳の日本人がそれを英訳してカゴに伝える。「君のセンスは女の子の受けが良さそうだな」とカゴが感心を装って茶化すように言うと、「素敵なアイデアだと思いますよ」と女が声にはずみを付けて言い添える。

『すでに素焼きを終えた作品が窯の中に入れてあった。 翌日にでも“本窯”の工程に移れる状況にはあったが、撮影工程の説明や町の観光などにも日数を割く予定を立てていたこともあり、このあとしばらく工房の敷地内をカゴに案内してもらってから、元来た道をホテルまで戻ることにした。 我々撮影チームは、カゴの工房に到着してからの2日間を海辺や山間の町で気楽に過ごした。 海と山の新鮮な食材が手軽に美味しく食べられるのだから、観光客の根強い支持があって当然のように思えた。 私もあの町で幸せな時間を過ごした。 同行したスタッフも食事に夢中になっていた。 山では沢の清流の音を聴いた。 海には嫌味な匂いがせず、日差しがまぶしかった』

 カゴと女に連れられて撮影者らは窯小屋を訪れる。小屋の骨組みの支柱には電柱の太さの丸太が使ってあり、天井部の格子状に組んだ木材の上には色のくすんだトタンが敷いてある。 屋内の左右の側壁に沿わせて薪が数列にならべてうずたかく積み重ねてあり、さらに窯口に近くには人の胸元の高さにまで五百本あまりの割木が揃えてぎっしりと積んである。 カゴは、窯口の上部に手を当ててその高さに注意をうながし背後を振り向き、「せまい場所は平気か?」と、撮影者の男に日本語で訊いた。「君は背が高いからな」と、そう言い加えてカゴはつぎに自身の頭のてっぺんを帽子の上からとんとんと軽く叩いた。 すると撮影者は、カメラの液晶ディスプレイから視線を上げてカゴの顔を見やり、唇の両端を曲げて無言に何度か頷いたあと、室内に持ち込んだハンドライトを天井にかざした。 照明の灯りが内壁を伝い広がり、艶のない作品の数々を仄かに照らし出した。 乳白色や薄茶色をした器の類が半数ちかくを占めていて、絵が描いてあるものや瓶状のもの、またその他、オブジェに類するものなど、室内に組み上げた棚板の上に大小異なる数多くの作品が並べてあった。 それらのほぼすべてが、あらかじめインターネットや地方紙の広告欄などをつうじて窯焼きを希望するアマチュア陶芸家から募ってあった。 無料で窯を使用できるとあって、限定数の応募者が意外と早いうちに集まった。 ほとんどの作者らがおなじ県内に住んでいた。 中には陶芸教室の生徒らによる複数人での応募もあった。 彼らは窯で焼いた作品の特別な風合いをよく分かっており、たとえ制作作業の重要な工程を他人の手にゆだねようとそれが特に不都合であるはずもなく、それどころか、むしろその筋の熟練者である職業陶芸家に窯の温度管理を任せられることは応募の理由のひとつにさえなるのだった。

『多人数の作品の完成を担うことに重圧を感じないのか、とカゴに訊いたが、彼はそのような心境には無かった。 ヒビの入る可能性が多少なりとも見られる作品に関しては、そのことを前もって作者たちに伝えておいたらしい。 つまり陶器にヒビが入る原因は、窯焼きを始める前からすでに何かしらあるということだ』

 窯小屋をあとにして撮影者らは引きつづき工房の周囲を撮影して歩く。 資料用のビデオにも録画されていたように、たたみ二畳ぶん程度の分厚いセメント壁が四枚、正面奥と左右と底部に組み立ててあり、そのセメント床の奥のほうには乾いた薄茶色をした器の残骸が積み上げてある。

『カゴは同僚である彼女にも作品を投げて壊させる。 まず彼は、用途に応じて素焼きの状態のものを二種類に作り分けしている。展示販売用の他に、破壊用の器を一定数かならず用意しておくのだ。 器が砕ける様子やその際の音を見聞きするのが目的なのだが、ただ単に窯焼きの作業に対する心構えを付けておくためだけではなく、一種の厄除けのような意味合いをも込めて作品が無事に完成するよう祈願をする。 そして、もちろんそれは同じくあの彼女にとっても作品づくりの工程の一環であるには違いないのだが、彼女の場合、器を投げ壊すことに漠然とした欲動を感じているらしく、それが彼女の担当する色付けや彫刻の作業の出来栄えに多少なり影響を与えるとも言えるのではないだろうか。
 なお、完成した作品のインターネット販売を担当しているのが彼女自身とのことで、ネット上に開設してあるショップを私は本人から教わった。 販売ページは英語・表示に対応していて、海外発送も受け付けているから是非とも買ってくれと、彼女はそんなふうに言った。 商売上手だ、と私が褒めるつもりで言うと、あなたは客だからと彼女は言った。
 たしかに、あの撮影期間をとおして私は、ある意味ではカゴの工房を見学に来た客のひとりに過ぎなかったのかもしれない。 カゴは薪窯の利用希望者には有料で窯を貸しているらしく、ちょうど我々撮影チームがそうしたように、遠方から工房を訪れる客たちは、最寄駅の周辺に点在するいずれかのホテルに宿を取ってカゴの工房にまでやって来る。 窯の利用は一回につき二十六万円。 客受けは悪くないらしく、それが彼女の功績のひとつであることをカゴは率直な言葉で話した。
 ちなみに言えば、作品づくりの作業効率化と時間短縮を図るために、窯の利用者はあらかじめ 素焼き をしておいた作品だけを工房に持ち込まなければいけない。 私が焚釜の中に見たあの数多くの作品は、炎の熱に耐えられるよう前もって乾燥させて、粘土の中に含まれる水分を適度に抜いてあるのだ』

 つぎに撮影者らは工房の敷地内にある庭を訪れる。 そこには樹木の苗や若木、それに草花なども植えてあり、その樹種によっては庭の土中でしばらく育てたあとにカゴの所有している広畑に移し植える。 枝にはアルミの小さなプレートが一枚吊るしてあり、そのプレートにはそれぞれ一本の樹種ごとにマジックペンで木の種名が書いてあるのだが、もちろん撮影班の二名にはその日本語の表記の意味が理解できない。 運転手の日本人が庭内に植わっている桜の木を見付けてそのことを撮影者に伝える。 庭内の木々に吊り下げてあるアルミプレートの中には『桜』のような一般的な樹名も見られるが、そればかりではなく、世間で広く認知されていない名前もまたいくつか記されてある。「貴重な木なのか?」と撮影者が訊けば、「どこにでも生えてるよ」とカゴが答える。

『そういえば、工房の敷地の周囲に植えてあるあの植物は “フウチソウ”と呼ばれる日本特産の多年草で、“風を・知る・草”と書くらしい。 日本には〈線香花火〉と呼ばれる伝統的な種類の花火があるが、風知草の外見からはその花火の燃焼する様子が思い出される。 この時季になると風知草の葉の表面から緑色が抜け落ちる。 すでに見たとおり葉の色は黄色に変わっていて、群生する風知草が風に揺れ動く様子は、どことなく稲の豊穣を想わせる』

 カゴが滑り止めの付いた手袋を両手にはめて庭の一角に向かい、土から掘り出した里芋の表面の土を手で払ってそれをカメラに向けて掲げる。「煮っ転がしにして食べよう」とカゴが日本語で話しかけると、通訳の男がそれを英語に訳す。 女や撮影スタッフも加わり、食べ頃の作物を収穫してそれらを準備してあったプラスチック製のカゴに入れていく。

『カゴは〈アグロフォレストリー〉と呼ばれる一種の農法に着目していた。 彼の所有する広畑には十数種類の樹木が植えてある。 将来的には、その畑で農作物を栽培し家畜を飼育する予定だが、しかしアグロフォレストリーの実現に向けた課題や問題が多く残されているため、当面あくまで趣味的な試みとしてその農法の実践を視野に入れておくとのことだ。 我々がカゴの畑に連れて行ってもらったのは、この数日後のことだった』

 季節の野菜が緑の葉を畑に茂らせている。 一本の白ネギを土から引き抜いてカゴはそれをカメラに向けてひょいと掲げる。 女はといえば、別所の土の表面に生えている数本の茎をハサミで切り落として、土の下に埋まっているジャガイモをスコップで掘り出していく。

『夏になれば、かぼちゃの木にキュウリの枝を接ぐらしい。 というのも、窯に火を入れて作業をしていると、体から汗が噴き出してくる。 そこで、その作業の合間、手作りのきゅうりに ミソ と呼ばれるペースト状の食材をつけて食べる。 接木したキュウリの苗は、育てやすく、それでいて収量性も良いのだそうだ』

 通訳の日本人が庭内の端へと歩を進めて、そこに植わっている一本の樹木の前に立ち止まる。 とある種類の木を台木として他の数種の木の枝を接いでいるため、ひとつの決まった樹名を持っておらず、その木の枝にはアルミの名札が取り付けられていない。 また、その他にも接ぎ木をした樹木や植物が種類別に十本あまりは植えてあるが、それらはすべてうまく成長を続けてきた木ばかりで、遺伝的な問題が生じた木や植物はすべて他種間の共生を果たせずに終わった。 カゴは収穫の手をとめて通訳の男を眺めやり、その一本の接ぎ木に関する簡略的な説明を乾いた口調で続ける。 枝の一本を指でかるく弾いて「これはアンズの枝だ」、そしてそのあと他の枝々を一本ずつ指してそれぞれ別種の樹名を口に出して言う。 そのカゴの説明を聞いている間じゅう、撮影者は好奇とも嫌悪とも区別のつかない微妙な表情を顔に出してビデオカメラの液晶画面に見入っている。 いちど株元に落とした視線をまた引き上げてカゴが樹の全体を無言に眺め渡す。
 それから撮影スタッフが庭内のまた別の一角に向かって歩き出し、うしろを振り向いてカゴに呼びかけ注意を引く。 女が腰を落としてジャガイモの収穫を続ける一方、撮影者はカゴの後ろ姿を追ってカメラの液晶画面を見ながら歩き始める。 一本の若木の傍らに立ってカゴは、垂れ流すように小さく声を出しながら言葉を探し始める。 撮影スタッフは微妙に強張らせた表情を顔に出し、落ち着きのない視線をカゴの顔と若木とに何度か行き来させる。

『陶芸家の使用する薪の材木がその本人の家の庭に植わっているのが道理というものだろうが、しかし実際にはそれは松でも楢でもクヌギでもなかった。 まず一般的に、樹幹の繊維というのは多少にかかわらず ねじれながら 成長していく。 だが、そのねじれが若木のうちから木の全体に強く生じるケースというのは、やはり珍しいのではないか。 見れば、木の成長の早期のうちから一枝一枝の先端が横這いに伸び始めたようで、枝はそれから途中で方向を極端に変えることなく、わずかな上向きの角度を保ったまま成長を続けている。 樹皮の外見的な特徴からすると、枝の繊維に備わる〈ねじれ〉の特性によってその強度が高く維持されていることが推測できる。重力の影響を受けてそのうち枝先が地面に下りて行きでもしないと、どこか壁にでも突き当らないかぎり枝は横方向に伸び続けるだろう』

 撮影者の問い掛けに対してカゴが相槌を打つ。「まあ、これは、たぶん、珍しいだろうな」
 アルミプレートには〈イエス〉と書かれてある。 通訳の日本人がその表記を読み上げる。
「yes?」と、思わず撮影者は声を上げる。「Affirmation or Christ」――『肯定かキリスト』 という日本語字幕と同時に注釈が出る。"Yes" means the same as Jesus, which is pronunciation in common use in japan――『“イエス”はジーザスと同じ意味で、それは日本で一般的に使われる発音です』
「大層にも程があるよ」と、カゴはフライトジャンパーのポケットに両手を差し込むと、ほどなく肩で小さく笑い、その自身の笑いを打ち消すようにかぶりを振って日本人の通訳者を見やる、「どっちの意味も含んでるってことにしよう」
「ok」と、撮影者は眉を開いて答える。

『日本にある木の種類はおよそ1,500種だといわれているそうだが、では、人の手によって形質を変えた個体はその数に含まれているだろうか?』




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裏庭のバジル 29 

 Man equals man――そのユーザー名を『人間と人間は対等である』もしくは『男と男は対等である』のどちらに訳するにせよ、そこに人類の普遍性か男同士の群像が暗に示されているものと考えるのが妥当なようだった。 それにくわえてユーザーの再生リストに並ぶ動画のうち『心理学』という一語をタイトルの一部に組み入れた動画が大半を占めており、その動画をとおして店主の自宅に対する他人の心理学的な視点を想像するのも何ら難しいことではない。 店主はしばらく物思いに黙り込んで、食卓の天板の上に視線を投げっ放しにしていた。 たとえそれが『人間』と『男』のどちらを意味していようが普段であれば取り立てて気にするようなことでもないはずなのだが、店主の置かれた状況にあって、ユーザー名に示されているその個人的な思想のほうが嫌に際立って感じられ、『Man equals man』などと、いったいどのような人物がわざわざサワムラのアカウント宛てにメッセージを送信したのかと気にもなってくるのだった。 冷やかしの意図は感じない。 ただそこには他人の心に関心を持つ者の何かしらの意図がまず間違いなく含まれている。 テレビのニュース番組に表示される赤の他人の実名と同じ程度の価値がなんとなく見出されるようでもあり――Man equals man――そしてその言葉の意味合いとしては被害者の実名ではなく加害者の実名のほうに近い。
 店主はそれとなく視野の中央にサワムラの顔を滑らせたあと、いちど食卓に落とした視線をもういちどサワムラに戻した。 店主の元妻とその再婚相手の男とのあいだに出来た子供が、ちょうどいま彼の目の前に座っている少女その本人であるはずはない。 サワムラの年頃を推定すればそれは明らかだった。 少女の顔付きを見ればそこに店主の元妻の面影など微塵も感じられず、そこにいっさい疑う余地の無いことを店主はあらためて自身の目の前に確認しながら、血縁の関わりを持たない相手に対してその一日ぶんの疑いようのない縁をだけは確かに感じてもいた。 彼は不意に自分の肩の力が程よく抜けていくことに気付いて、鼻から息をゆるく抜いた。
「なに?」と、そんな店主に微笑をやってサワムラは努めて明るい声で訊いた。
 なんだろうな、と店主は思った。
「このアカウントをしばらく私に譲ってくれないかな」と、そのあと彼は答えた。「メッセージをくれたこのユーザーと連絡と取りたい」
 それを聞いてサワムラはぐっと上体を屈めると、店主の手元からノートパソコンをひったくり、さっき自分で作成したテキスト形式のファイルにまた文字を打ち込んでいった。 四十八サイズの横書きの文字が左から右へと三段に分けて縦に並んだ。 そしてサワムラは対座する店主の顔に上目の一視を送り、パソコンの向きを変えてその画面を店主に見せた。
 “そのかわり こんや ここにとまってもいいですか?”
「君は、お母さんにどこか似てるな」と、店主は画面に打ち込まれた平仮名の羅列に目を走らせて言った。
「顔?」 と、少女は無表情に小首を傾げたが、対する店主は黙って首を振った。
 元妻の顔が店主の記憶に無い。「それより、明日の学校はどうするつもりだ?」
「仮病で休むことにしたの」
「――お母さんが “そうしなさい” って言ったんだな」
 その店主の言葉を聞いてサワムラは唇を軽く曲げたあと、明けひろげな話しぶりで口早に言った。「 “これまでのときは” 平気だったんだけど、今日はもう疲れたから動きたくない」
 サワムラの家は電車に乗って二時間ほど掛かる他県にあったが、店主はそのことを誰からも知らされていない。 それよりまず彼にはサワムラの一泊に反対を押し通す気力がいちじるしく欠けており、余計な面倒事を回避する一策としてサワムラを翌朝まで自宅に留めておくことにも何ら不都合を感じていない。 いちど天井に当てた視線をサワムラに戻して何度か頷いたあと、「良いよ」 と店主は言った。「あとで布団を持ってくる」
「お風呂も入って良い?」と、サワムラは間髪を入れずに訊いた。
「もちろん。 布団で寝るつもりなら風呂に入ってもらわないと」
 店主の言葉尻に合わせて、彼の息子がサワムラの座している椅子の後ろにショルダーバッグを見やった。「この鞄って、やっぱり、そういうことかな」
「下着もパジャマも歯ブラシもシャンプーも、とにかく全部よ」と、サワムラは店主の息子に穏やかな笑みを見せた。 そして彼女は左右の腕を自分の肩の上に大きく伸ばし、鼻にかかる声の混じった息をゆっくり吐き出し終えると、自分の着ていたダウンコートのフードの頂点を一方の手で掴んでそれをさっと後ろに脱いだ。
「ふたりとも親切な人で良かった」
 サワムラは食卓の端にそろえて置いた両手を見ながら呟くようにそう言ったあと、うつむき加減のまま媚びたような見上げる視線を真向いの店主に送った。「だけど、ほら、さっきの “お母さんが” っていうの――」そこで言葉を切って彼女は、すぐ身近にいる息子のほうをちらっと見た。「ちょっと傷付きそうね」
 店主の息子はおもむろに席を立って、少女の座る椅子の下に手を伸ばしてショルダーバッグのストラップを掴み取った。 そのバッグの底をフローリング床に引きずってリビングを出て、彼はそのまま室外の廊下を浴室へと向かった。
 緩やかな沈黙がリビングに流れた。 サワムラは椅子を後ろに引いて席を立ち、今日はありがとうございました、と言った。 浴室の引戸につづいて浴槽のふたが音を立てて開いた。
「あとで少し訊きたいことがあるんだけど、良いかな」店主は食卓の椅子に座ったままサワムラを見上げて言った。
「ログイン用のパスワード?」
「それも含めて、今日のまとめだよ」
 店主は食卓に置いてある やかん の取っ手を掴んでそれを持ち上げ、自分の湯呑に茶を注いだ。 浴槽のふたの小気味よい音が鳴ったあと、店主の息子の声が室外の廊下を響き渡った。 サワムラはリビングを出て廊下を浴室へと向かった。 店主の息子がサワムラを浴室に呼び入れて給湯パネルの操作について説明を始めた。 店主は自宅の撮影されていた動画の公開ページをブックマークに追加して、パソコンの画面を閉じたあと、やかんを片手に台所に向かった。 そしてそれをガス・コンロの火に掛けてからリビングへ足を運び、座椅子の上に置いてあったリモコンを手に取ってテレビのスイッチを入れた。 テレビの間近に置いてあった段ボール箱を手前に引き寄せて、その箱の中身に視線を落としたとき、リビング・ダイニングの出入り口に息子の声がした。
「先に寝るよ」、いつもであれば彼は段ボール箱を自室に持って戻るのだが、その夜にかぎってはサワムラの一件に意識を削がれて段ボール箱を持ち出す時機を逃していたのだった。
 店主は後ろを振り向いて「おやすみ」と言った。 息子の姿はもうそこには無かった。 店主はそれから前に向きなおって段ボール箱の中からメディアケースを数個まとめて取り出し、そしてそれらのジャケットに表記されたタイトルすべてに目を通した。 うちの一枚に『diver’s under lip』という映画作品が含まれていた。 そのタイトルを知ってはいたが、作品の内容には覚えがない。
 ジャケットの裏面の説明書きにはこう記されてある。
――水滴の入ったダイバーズ・ウォッチを父親から譲り受けた少年リック。 その腕時計の表示板には細かい水滴が多数集まって付着している。 父親のアドバイスを受けてリックはそれを時計屋に持ち込むが、店の主人からは部品の交換ではなくオーバーホールを勧められる。 その料金の高さに返事を渋るリックを見て、店主は安価な腕時計への買い替えを提案するついでに他愛のない愚痴をこぼす――「しかし今更、時計が要るかね」――時刻が空に浮かび、時計がまたひとつモノになり、そしてモノはよりひとつになる。 リックは海上に浮かぶ指針を見上げてダイバーズ・ウォッチを海に投げ入れ、その後日からは “時間を探して” 海に潜った。 秒針が音もなく空を切る。 時の象徴が海面に浮かび、針の刻みが海中にくぐもった音を小さく鳴らせた――
 店主はもういちどパッケージの表側に作品のタイトルを見返した。 そしてそのあと何ということなく別の作品のメディアケースを他方の手に取るのだが、ふと先のケースに心残りを覚えてそのジャケットの裏面に記されてあるカタカナ書きの俳優らの名前に目を凝らした。 彼は妻のセガワの旧姓を知らない。しかし、少なくともセガワの下の名前がそこに記されていないことだけは見て取った――『1964年 仏伊合作』――店主はその年号の表記を見ると、自嘲の息をみじかく吐いた。 妻のセガワどころか、店主自身もまだ当時、この世に生まれ出ていない。――何をやっているのか、と彼は馬鹿らしく思った。『館内放映用』と記された数々のケースのどれかに、妻のセガワの創作活動を追った映像が記録されてあるはずだった。 それを探し出そうとしていたところが、どういうわけか、市販の映画作品のクレジットの中にセガワの名前を探し出そうとしていたのだ。
 風呂場にはシャワーの音が鳴っていた。 店主は映画作品のメディアケースを段ボール箱の中に入れたあと、小さな掛け声に合わせて腰を上げた。 寝室の押入れの中に重ね置いてある布団を取りに行かなくてはならない。 と、そこで店主の腹がもういちど鳴った。 食卓の上には中身の入った皿がラップで閉じたまま置いてあった。 店主は台所のガスコンロに置いてある鍋の中から冷めかけの味噌汁を椀にすくい入れてそれを食卓に運び、リビングのテレビに再生させた『館内放映用』の映像を観ながら飯を食べた。
 それは確かに何かの映像だった。 広大なキャベツ畑を撮影した画像を背景にして、テレビ画面の中に一人の女が立っていた。 豊満な体つきをした長身の女だった。 胸元の開いたブラウスと丸い下腹部を覆うタイトスカートを身に付けて、何やら熱っぽく日本語で話をしている。 その女の話に合わせて、映像の下のほうに英語の字幕が出る。

『――さて。 では、あなたは芸術でしょうか。 私は芸術でしょうか。 芸術とは何かという問いを投げ掛ければ、それは人間の創造行為とその成果である、という答えが返ってくるかもしれませんが、では、あなたや私は芸術でしょうか?
 芸術の根源は人間です。 人間の作り出す芸術作品には本来であれば当人の生命活動に基づいた作品性がありとあらゆる形を取って描き出されているはずであり、そして、私たちはそれらの作品性から作者本人の目線やその世界描写、またときには作者の盲目的な生存への望みの発露などを感じ取ってそれを芸術であると定義しなおします。
 しかし私がここで申し上げたい『根源的な芸術』とは、一作品に実を結んだその描写のことではもちろんありません。
 生きる者の意識下には無形の芸術が生じています。 言い換えれば、意識下の芸術を私たち自身が作り出しているということです。 ただし、作り出すとはいっても、たったいま「意識下」と申し上げたように、本人がそれを進んで意図して作り出しているのではありません。 私たちは普段、生きることについて考える機会をそうそう持とうと思って持つわけではなく、生きていることの意義を観念に置き換えることをせずにこうしてこの場所に存在し、生命を活動させています。 つまり人は、生きることによって生を行為として体現し、その生を無意識のうちに紡いで生きているのです。
 そのように人が生を行為すること自体が、人為でありながら自然に生じた芸術であると私は考えます。
 先ほども触れましたが、作者の世界描写や、その本人の生存への望みの発露の結晶などに感動を覚えてそれを芸術と呼んでいるはずなのですから、それと同様に、芸術の根源が人間の存在そのものに端を発するという大前提のもと、生を行為するあなたもまた一個の芸術であって然るべきなのです。
 いかがお考えでしょうか? あなたは生を行為していらっしゃる。 ただ静かに眠っていながらでさえ、誰もが生を作り出している』

 女は半ば上気した表情でにこりと笑って、一方の手で自分の首元をひらひらと扇いだ。 タイトスカートの片端を手で引き上げて肉感的な腿を剥き出しにしたあと、その脚を少しだけ横に開いてから腰元に手を置いた。 そしてそれらの身振りの最後に、女は他方の手の人差し指を前に突き出して芝居じみたウィンクをした。
「おじさんも、やっぱりそういう女の人が好き?」
 店主はリモコンの一時停止ボタンを押して、サワムラの声の出どころに振り向いた。
 サラムラが寝間着の恰好で立っていた。 二本のゴムバンドを口に咥えて、長い髪をゆるく三つ編みに束ねている。「そういう体つきをしてる人とか、自信を持ってしゃべる人とか、好き?」
「嫌いじゃないね」そう答えたあと、店主はテレビに視線を戻した。「そういえば、この人、君のお母さんに似ていると思わないか?」
「そうかな」と、気の無い口調でサワムラは言った。 テレビ画面に視線を注ぎながらダイニングへ向かった。
「心と体が健康そうに見える」そう言い加えて店主は、テレビ画面の中でポーズを取ったまま静止している女に目を凝らした。
「顔のことじゃなくて?」とサワムラは訊いた。「顔のことじゃなくて」と店主は答えた。
 サワムラは食卓の椅子に掛けてあったダウンコートを羽織り、自身の上体に視線を落としてコートのジッパーを閉じると、そのあとまた店主を見やって言った。「健康な人なんだから、 ずっと一緒に暮らせば良かったのに」
 ゆっくりと一息の間を置いて店主は言った。「君がそんなことを言うと、やけに哀しくなってるな」
 それを聞いてサワムラはやや鼻白んだ思いに駆られた。 リビングのカーペットの上に重ねてある寝具を顎で指して、気兼ねのない調子を込めて彼女は言った。「その布団、私が使って良いの?」
「いいよ」
 店主はカーペットの上に置いてあった段ボール箱をテレビ台のわきに手で押し寄せて、リモコンをテレビ台の上に置いてから座椅子の背もたれを掴んでそれを持ち上げた。 ほどなくサワムラがリビングのカーペットの上に布団を敷きに掛かった。 分厚くて柔らかい敷布団だった。 乳白色で統一された布団セットをひとそろえ用意してある家庭のことが珍しく思えた。 それが誰のセンスであるかは、彼女自身の家庭をかえりみれば明らかだった。
「そのままでいいから、すこし話を聞かせてもらえないかな」と言って、店主はカーペットの端に置いた座椅子に胡坐をかいて座った。 そしてサワムラの気軽な返事を聞いたあと、いくらか語気を弱めて訊いた。「あの男の死ぬところを見たのか?」
「すこしだけね。 ほとんど耳を押さえて下を向いてたから」とサワムラは答えた。「やっぱり、人の “そういうのは” 、できればジッと見ていたくないし」
「男が庭に入ってくる前から、君はずっとあの庭の中にいたのか?」
「そうよ、って言っても、私がいたのは、この家――あなたの家の庭だけど」
 店主が押し黙ったままサワムラに視線を留めていると、サワムラのほうが視線を逸らせて言った。「だって、そうしないと、私とあの人が鉢合わせしちゃうじゃない」
 それを聞いて腑に落ちる思いがすると同時に店主は別のことで違和感を覚えた。 サワムラは男がセガワ家の裏庭でいつか自殺するのを予期して店主の自宅の裏庭に身をひそめていたのだ。 場合によって男は不本意ながら命を拾ったかもしれない。
「たしかにそうだな」 そう言って早々と話を切り上げて店主は、自殺現場を担当した警察官から聞いた話の要点をサワムラに伝えた。 セガワ家の裏庭で首を吊った男の靴先が庭の地面に着いていたため、その靴裏の草が踏みつけられて地面に倒れ込んでいたのだが、それとはまた別の場所にも同じように草を地面に押し付けたような跡が残っていたのだった。 あるいはその草の表面から服の繊維や人の指紋などが見付かるかもしれなかった。 以前から店主の息子は隣家の裏庭に立ち入ることを日頃の習慣としており、その経緯を考え合わせると、もし仮に庭内から何かの種類の繊維が見付かったとして、それが息子の着ていた服のものであったとしても不思議ではない。
 ふんふん、と、掛布団をカバーに入れながらサワムラは気軽な相づちを打った。
「もしかしたら、それはあいつじゃなくて、他の誰かが着ていた服の繊維かもしれない」と店主は言い加えた。
「私、地面になんて寝てないよ」と、サワムラは唐突にやや語気を強めて言った。
 彼女の足元にある乳白色の布団カバーを見ながら、店主は「なら安心だ」と言った。 そしてそれから彼はすでに準備してあった次の話題を切り出した。「そうだ――さっき君は “家がひとつに見える” と言ったんだ」
 サワムラは枕カバーのジッパーを閉じてから店主を振り向いた。 「たしか、そうだろ?」と店主は訊いた。
「それを私に教えたのが、あの子だったのよ」と、そう言い終えるやいなや彼女は前に向き直り、自分の手元に視線を戻して何事もないような口ぶりで続けた。「だけど、ひとつじゃなくて、ふたつあった」
 当たり前よね、と、サワムラは自嘲するように微かに笑ったが、 店主にしてみれば笑い話では済まされない。 たったいま聞いたばかりの “あの子” というのが彼自身の息子のことを指していて、自宅に関する根も葉もない話の出どころがその息子本人だった。
「あのさ」布団を敷き終えたサワムラが店主を振り返り、乾いた表情で訊いた。「私って健康に見える?」
 店主は一息を置いてから彼女の顔に目を注いだ。
「見えるよ」と言った彼自身、それとまったく同じ問いをサワムラに投げ返したい気分だった。
 よかった、とサワムラは言った。

 その翌朝、サワムラは店主の息子の登校に付き添って町内の中学校の校門まで歩いた。 校舎に向かう途中で後ろを振りかえる息子に手を振っていると、なにか自分がひとりの姉か母親にでもなったような気分になった。 良い感じだ、とサワムラは思った。 はっきりとそう思ったわけではないが、その場所からまた別の場所へ向かう時機を明らかに得たことの感覚をそのときサワムラは自覚していた。 そのまま自宅には戻らずにまた別の町へ行けそうに感じた。 ふと思い立って財布の中を確かめたところ、乗車時間にして往復一時間ぶんほどの電車賃に当てられる金額が残っていた。 その彼女の目の前を校門のゲートが閉じていった。 老いた警備員の視線には構わず、サワムラは目深にかぶったダウンコートのフードを少しだけ手で引き上げて、それから校舎の上空を上目に見やった――財布の中にある持ち金を一時的な旅気分の解消に当てるのか、それとも、この町の駅の界隈に美味そうな料理店を見付けてその食事代に当てるのか――どちらを選ぶべきかと考えて、さほどの迷いもなく飯を食べることにした。 その町中で摂る昼食を目的に、彼女はしばらく町を歩くことにした。

 後日、店主の自宅に警察からの電話があった。 セガワ家の裏庭の一部から採取した庭草の表面に、人の衣服の繊維や指紋ではなく、高濃度の糖分が検出されたとのことだった。 しかしながらその糖分に男の自殺との何らかの関係性があるとの判断には至らず、警察はそれ以上の捜査に踏み入ることをしなかった。 その検出された糖分が草の内部から噴き出たものであったことを電話口で聞き知り、のちに店主はセガワ家の裏庭の地面からむしり取った一片の草を口に入れてみるのだが、それは確かにひどく甘く、場合によって吐き出すに惜しいとも思えそうな程の味だった。 




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裏庭のバジル 28 

 サイレンも赤色灯も使用せず、ただ道路灯の明かりに車体を過らせながら一台の救急車が店主の視界の先にあらわれ、そして近隣住民の誰に気付かれることなくセガワ家の前に停まった。 救急隊員の一人がハンドライトを、別の隊員が観察用器材の収納ケースを手に持ってそれぞれ車を下りた。 セガワ家の玄関先で彼らの到着を待っていた店主が隊員らを先導してセガワ家の裏庭へ移動をはじめた。 またもうひとり別の隊員が発電機と携帯バッテリーと照明器具をたずさえて店主らのあとを追った。 隊員らは現場に到着してまもなくブランコに吊り下がる男の観察を始めた。 項目化された観察作業をすべて済ませて男の死亡確認を取って、その場にいる全員で静かに手を合わせた。 救急隊員の一人が警察に連絡をして自殺現場の引き継ぎを求めた。 遺体の頭部に白いタオルを巻き直したあと、隊員らは救急車に乗り込んでセガワ家を去った。
 のちに数台のパトカーが先の救急車とおなじく静かに現地に到着した。すでに遺体の手足には死斑が生じていた。 首に引っ掻き傷は無い。 手の爪の内側には誰の肉片も付着していない。 現場検証の結果、自殺の線で男の遺体の回収作業が始まった。 半透明の納体袋が遺体搬送車の後部車室内に積み込まれ、パトカーは来た道を戻らずに、そのままヘッドライトの照らし出した進路に向けてセガワ家の前を去っていった。 現場に残った警察官が店主に対して、氏名、住所、生年月日、電話番号、そして最後にセガワ家の住民の所在について訊いたが、その最後の一点にだけは店主からの有用な返事が得られなかった。 場合によっては再度の事情聴取を行うため後日に地元の警察署への出頭を求められる、との説明を最後に、警察官らはそれぞれ残りのパトカーに乗り込んでセガワ家の敷地の前から走り去った。
 家を出てからおよそ一時間半後に店主は帰宅した。 少女は玄関の物音を聞き取り、リビングから廊下を歩いて内玄関に向かった。 店主は靴箱の前に立って少女の対処について思いを巡らしていたが、たったいま現れた少女を斜めに見上げてその身なりに視線を這わせた。 少女はまだダウンコートを脱いでおらず、おまけに頭にはフードを被せてあった。 それにまた彼女の腰のわきに下ろしてある右手には一個の陶器が握ってあり、店主の視線が自然とその位置に留まった。
「その器、気に入った?」 と店主は訊いた。 靴を脱いで上がり框に立ち、上体をかたむけて左右の靴を手で揃えた。
「わりとね」 そう答えたあと少女は陶器を胸の前に持ち上げた。 口を尖らせて器の内側に息を吹き掛け、その表面に薄く付いていた埃を飛ばした。 「これ、セガワさんが作ったの?」
「息子から訊いたらしいね」 と、さっき出際に自分の手で揃えておいた室内スリッパに足を通しながら店主は言った。
「まぁ、それに、セガワさんの映像も観たしね」
 少女の話の流れからして、その本人の言ったセガワさんというのが妻のセガワを指しているものと考えるのが道理だった。 そしてそれは同時に彼にとって初耳でもあった。 自分の息子がリビングのテレビ台の近くに一個の段ボール箱を運び込んでくるのを知ってはいたし、その箱の中身もすでに見知ってはいたが、そのうちの一枚に妻のセガワに関する映像が収録されてあるとは思いもしなかった。 店主は玄関の壁に手を伸ばして玄関灯と内玄関の照明のスイッチを切り、それから屋内に通じる廊下の照明を点けた。 「今日は大変だったな」 と、廊下を歩き出して言った。
 その彼のうしろを少女が付いて歩いた。 「申し訳ないなって思ってるよ」
「あのまま男を庭に放置せずに済んだのは君のおかげだ」 店主はそう言って自身の息子の居所をふと思った。 「めしを食いながらでも例の動画を観よう。 なんなら君も何か食べれば良いよ」

 あのあと風呂から出てきた息子の勧めで、少女はすでに夕食を終えていた。 食卓には数個の深皿が置きっぱなしにしてあり、それら一枚ずつに別種のおかずが入れてあった。 インスタントコーヒーとクリーミングパウダーの保存瓶が一本ずつ、そして砂糖の棒袋を多数まとめて入れた小瓶、またその他には数切れのリンゴを置いた平皿や、温州ミカンを入れた丸カゴなどが置いてある。 調味料の一群を載せた小型のラックの近くでは、ノートパソコンがスリープの状態のまま電源ライトをゆっくり点滅させている。
 台所の流しに立って、店主の息子は二人ぶんの食器をスポンジで洗っていたが、たったいまリビング・ダイニングに顔を見せた父親と少女に 「おかえり」 と一声をかけてから父親に夕食を勧めた。 店主は息子が身に付けている寝間着に気づいて、“眠たければ無理をせずに寝て良いぞ” と言ったあと、いそいそと食卓椅子のひとつに腰をかけてノートパソコンを手元に持ち寄せた。 「うがいと手洗いぐらいしてよ」 と息子が非難をにじませて言った。 対する店主は生返事をしながらノートパソコンの画面を開いた。 リターンキーを押してスリープ状態を解除し、ブラウザに表示させてあった動画プレイヤーの再生ボタンを押した。 タイムコードが秒数を数え、プログレスバーが再生位置を進めていった。 二秒間のフェードインにつづいて、町の昼間の景観が鮮やかな画質で映し出された。 その映像には手ブレが生じておらず、風の吹かれも撮影者の声も収録されていない。 はじめに町の路面が映し出され、数秒後には家並みの一部が画角に収まった。
 店主は動画の再生プレイヤーに目を凝らした。 タイトルと再生回数に視線を滑らせて、それから動画プレイヤーの画面を大きく占めたその一戸の家の門構えに見入った。 玄関の壁に取り付けてある表札には、まぎれもなく彼の名字が印してあった。
「まいったな」 と店主は言った。
 少女は棒袋の端を開けてグラニュー糖をカップに入れた。 「もうそれ以上、あまり再生数は伸びないと思うけど」
「もうすでに106人が観ているじゃないか」 と、店主はその数字に強調を加えて言った。
「今夜だけでも五回は再生したのよ」 そう言って少女は台所を振り向いた。
 店主の息子は少女に視線を合わせて何度か頷いたあと、やかんに沸かしてあった茶が沸騰の泡音を立てるのを聞きつつ、もう一方のコンロに載せてある味噌汁の鍋の加熱をはじめた。 「どうして、それ以上は数が伸びないって言えるの?」
「私がはじめてこの動画を観てから、ほとんど再生数が増えていないの」 少女はきっぱりとした口調で答えた。 「それこそ行き当たりばったりでこのページを見付けでもしないかぎり、こんな訳の分からない動画を観に来る人なんてそう何人もいるはずがないわ」
「なんだろう」 やかんを片手に持って息子は食卓に向かった。 「動画の投稿の仕方を勉強したかっただけかな」
「そんなとこかな」 と少女は言った。
 二人の会話に耳を傾けるかたわら、店主は動画のタイトルと投稿者の名前と視聴者のコメントに目を通した。 書き込まれたコメントは二件、そして動画の高評価を示すマークの横には14が表示されている――『二軒の家』―― 『arisawamura』―― 『おもしろい動画ですね 気付いた人は少ないと思いますが』 『Is it a kind of conceptual art?』――店主はそのあと動画の投稿者の名前にマウスのポインタを合わせてそこをクリックし、投稿者のユーザーページの “読み込み” が終わるのを待たずにバックキーを押して、元のページをパソコン画面に表示させた。 そして彼は画面に顔をぐっと寄せると、たどたどしい口調で投稿者のユーザー名を読み上げた。
 アリサワムラ
「どこかの村の名前みたい」 と、少女が店主の言葉のアクセントを笑った。
 店主の息子はガスコンロにミルクパンを置いて火を点けたあと、自分の父親が声に出して言ったそのユーザー名から――『アリサワ』 『アワムラ』 『サワムラ』――それら三種類の言葉を思い浮かべた。 そのうちの一つが息子自身の実母の再婚相手の名字と一致することの奇遇に “はっ” と一驚の息を飲み、そしてその自分の一瞬の心境の揺れから不意に妻のセガワを思い起こした。 映画やテレビドラマをつうじてセガワが (現実に即して描かれた) 架空の幸福や不幸を彼女自身の心理回復の過程に組み入れていたことを振り返り、 なんかセガワさんっぽいと息子は思った。 目の前にいる一人の少女が一枚噛んでいるものと考えるのが妥当だった。 何も起きなければ良いな、と思った。 ミルクパンの底に小泡が立ち始めた。
 店主は何度かその同じ動画を視聴してから、台所に自分の湯呑を取りに向かった。 自宅がビデオ撮影されたからといって過去に何か実質的な被害をこうむったわけではないのだが、ひとりの男の自殺と見知らぬ少女の存在がその撮影動画に端を発しているものとしか思えず、このあとさらにまた自分の日常の死角から想定外の事態が生じかねないのではないか、との心境にも陥るのだった。
 店主の息子はミルクパンと鍋敷きをそれぞれ両手に持って食卓に向かった。 それらを少女の手近に置いてから、また台所に引き返し、調理場に置いてあるカウンターチェアを両手で担いで食卓に戻った。 そして息子は少女の座っている近くにカウンターチェアを置いてそこに腰を下ろした。 少女はカップから引き抜いたマドラーを手近にある小皿の上に置いて、いちど食卓に這わした視線をそろりと息子に当てた。
「名前を訊いても良いかな」 そう言って息子は自分の氏名を名乗りながら食卓の上に片手を突いた。 そのまま彼は卓上に半身を乗り上げて、他方の手を食卓の片端に伸ばし、少女と夕食を取った際に使った湯呑を掴んでそれを手前に引き寄せた。 少女はわずかに距離が近まった息子からボディーソープの匂いを嗅ぎ取った。 息子はそのあと食卓の中央のあたりに置いてあったやかんの取っ手を掴んで上体を戻した。 そして彼の手元にある湯呑に茶を注いだあと、やかんを元の場所に戻した。 湯呑から立ち上る湯気が彼の挙動に合わせてもわりと動きを変えていった。
「初めて会った人に余計なことを訊くのは失礼なことなんだろうけど」 と、息子は少女から視線を逸らして言った。 「なんで君はここにいるのか、とか――どこから来たのか、とか――今夜はどうするのか、とか――それに他にも、終電の時間を気にしなくても良いのか、とか」 リビングの掛け時計の表示板に彼自身の就眠時刻の遅れを見て取ると、最後に息子は言い加える。
「君の顔をどこかで見たような気がするな、とか」
 店主は食器棚から持ち出してきた湯呑を食卓に置いて、息子の話の内容が意外な方向に進んでいくことに関心を寄せた。 少女は上体をかがめて対座する店主の手元からノートパソコンをなかばひったくるようにして自分の手元に移し置いた。 それから彼女は息子の顔に当てたばかりの視線をパソコン画面に戻してキーボードを軽やかに指先で弾いた。 まずは画面上にテキスト形式の新規ファイルを作成し、文字のサイズをいちど小さくしてから指先でキーをすばやく弾く。そしてつぎに文字サイズを44に変更すれば、つい今しがた打ち込んだ文言が一瞬にして大きく画面に表示される。
 さわむらです
「やっぱり」 そう言って息子はノートパソコンの画面から視線を外して父親に目配せをした。 ところが、店主の座っている場所からでは、少女の手元にあるパソコンの画面が目に見えない。 そこで店主は片手を礼儀的にかざして上体をかたむけると、両腕をぐっと前に伸ばし、そして彼の身近にノートパソコンを持ち寄せてその画面に見入った。 「この人、サワムラさんだよ」 と、息子は少女の顔をまたもういちど見やって、いつか自分の携帯電話に送られてきた撮影画像を頭の隅に浮かべた。 「なんか、前とは髪の色が違うような気がするけど」
 店主は動画の投稿者の表示名 『arisawamura』 にマウスのポインタを合わせてそこをクリックした。 投稿動画は一本だけだった。 男の自殺の一件よりもサワムラの存在のほうがいろいろと慎重に取り扱うべき問題のように思えてきた。
「なぜこんなことをするんだ」 と店主はなかば呆然として言った。
 店主の息子はいつか実母の携帯電話から送信されてきた画像を思い返していた。 そのときと比べると、サワムラの容姿がいくらかは大人びて見える。
「お義母さんが仕込んだようなものなんだけど」 とサワムラは言った。 動画の投稿者名にサワムラの氏名を含ませておくことを思い立ったのも彼女の母親だった。 「だけど私も、少しは気になったから――どうしてセガワさんの家があんな風になってるんだろうって」
 少女の顔を眺めながら、店主の息子はサワムラアリサの氏名を胸中に唱える。
「それに君の心の状態も、お義母さんほどじゃないけど、いちおうは気になるから」
 と、店主の息子の顔に視線を投げてサワムラは言い加える。
「私も気になるね、主にあのビデオのことが」 と、すかさず店主が返す。
「あの動画は、ちゃんと削除するよ、これからすぐに、します」
 そう言ってサワムラは、半身を食卓に乗り上げて店主の手元からノートパソコンをひったくり、ユーザーページにログインをして当の動画の 編集画面 に移動した。 「正直に言うと、いちど削除した動画を元通りのまま観られるサイトがあるにはあるんだけど」
「いますぐに削除できるのか?」 と店主は訊いた。
「アカウントごと削除しようかな」 とサワムラはパソコン画面を見ながら言った。 「もう必要ないしね」
「その前に、すこし確認しておきたいことがある」
 店主はサワムラの手元にあるノートパソコン本体の両側を手で掴んでそれを持ち上げ、その彼女の顔に視線を注いだ。 サワムラが何度か頷いて見せると、店主はパソコンを眼下の卓上に移し置いて、当の動画 『二件の家』 の再生ページに付けられたコメントの投稿者の “ユーザー名” にポインタを合わせてそこをクリックし、移動先のページに一覧表示してある内容を確認した。 そしてそのページの内容に犯罪的な意識の有無を見て捉えようとはするのだが、しかし、どうにもそのしようが無いように感じられる。 動画にコメントを残してあったのは二人のユーザーだけで、うちのひとりは日本語、そしてもうひとりは英語を使っていたのだが、一見すれば、そのどちらのユーザーとも動画共有サイトの健全な利用者であるように思えたからだった。 一方のユーザーの再生リストには膨大な再生数の付いた流行りの音楽や映画のトレイラーなどが並べてあり、それらの動画の中で扱われている話し言葉と字幕はすべて日本語だった。 また他方のユーザーにしてみても、再生リストに並べてある動画のタイトルやその内容にほとんど英語が用いられていることを除けば、その本人の特徴とおぼしいものはこれといって何も見当たらない。 たとえば何か、ユーザーの変態性を思わすような趣味が垣間見えるといったようなこともなく、ただ一見すればそれがいたって健全な気質を備えたユーザーであるふうな印象をしか受けないのだった。
 店主はそれから次にサワムラのアカウントページに移動した。 やはり彼女の投稿動画は一件だけ。 その動画の過去の視聴回数が日付に分けてグラフ化されていて、十一日前の投稿時から次第にその視聴回数の減っていく様子が明らかに見て取れる。 ついで店主はまたさらに各種の編集機能を操作するページの各項目を手当たり次第クリックして、その各ページの内容にすばやく目を走らせていった。 自宅を撮影した動画の再生ページにオカルト系の動画ばかり関連付られていることが気に入らなかった。
 店主の息子はさっきサワムラが言った “心の状態” という言葉の意味を考えていた。 それが妻のセガワではなく彼自身の心の問題を指していたことの理由を考えようとするのだが、つよい眠気が邪魔をしてどうにも具体的なことを考えられない。
 ようやく目的の項目を見付け、店主はマウスのポインタをそこに合わせた。 その 受信メッセージ を送信したのは Man equals man というユーザー名の人物だった―― 『どこでこの動画を撮ったんですか? ご迷惑はかけません。 見に行ってみたいです。』
 サワムラを一視したあと店主は、つぎに 送信済み のメッセージをパソコンの画面に表示させた――『すみません。 お答えできません』
「すみません、お答えできません」
 店主はメッセージを読み上げてから、またもういちど視線をまっすぐに上げた。サワムラの顔には年齢相応のあどけなさが見て取れたが、その薄曇った表情から彼女の心境をまで推し量ることはできなかった。




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