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2018.2.18 『裏庭のバジル』 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 new








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裏庭のバジル 40 



 特に何の変哲もなく、それでいて店主にとっては心障りのない四週間だった。彼の期待していたとおり、ドロテが家見に訪れた日から、息子の所在を示す赤印がセガワ家の敷地に表示されなくなった。店主自身の携帯電話に搭載された電子地図に、息子の位置情報を確認する必要が無くなった。
 何の変哲もない四週間だった。行きつけのコンビニの閉店セールでサングラスを買った。職場の上司が退職した。仕事の帰りに立ち飲みに寄る機会が多くなった。古本屋にいた男の客が手持ちの鞄に商品を差し込んでその場を立ち去った。電車に乗っていた数人の女子学生のうち一人が、雨の匂いを植物の脂の匂いであると話していた。配送業者の手から段ボール箱を受け取る際、重いですよ、と言った男の息が店主の顔にかかった。銀行のATMのフックに掛けた傘を取りに店内に戻り、利用待ちの列に並ぶのをやめて店を出た。トイレットペーパーなどの日用品をインターネットで定期購入することにした。息子が料理に興味を持つようになった。
 いつから息子の足取りを電子地図に追うようになったのかと、その時期を振り返ってみるが、それが息子との二人暮らしを始めた時期と本当に重なるのか店主自身にも分からなかった。元妻の希望で息子に携帯電話を与えた日から地図の確認を続けてきたような覚えがある。息子が生まれた日からずっと毎日つづけてきたような気もする。
 いずれにしても、そうして万が一の事態にそなえて息子の居場所に注意を払い続けてきた。その日中の行動範囲を把握してそれを一応の管理義務と考える一方、それを建前として息子への精神的な依存欲求を満たしてきた。職場にいる数人の男親から家庭の愚痴を聞かされて他家の内情を知った。家庭維持と家庭管理の違いを考えるようになった。区の主催するレクリエーションに息子と参加した。その体験が父子関係の杭になったとは思えなかった。携帯電話の画面に赤印を眺めることによって、息子に対する行き過ぎた保護を避けられる。息子が平生の行動範囲を移動しつづけるかぎり、その身の安全を思い込むにあたって必要となる最低限の客観性をいつも手元に得られる。店主は、そう考えることで毎日の生活を維持してきた。

 ドロテの入居から五週目を過ぎた火曜の夜、セガワ家の窓に灯りがつかなかった。
 翌朝、新聞を取りに玄関先へ行ったついで、店主は屋外スリッパの擦り音を足元に短く立ててセガワ家の前まで数メートルを歩いた。そして、年若い女の住まいを朝っぱらから見上げている自分をいたたまれなく思い、とっさにその場で新聞を開いて紙面に目を落とした。当然のこと、肌寒い朝の屋外に立って読むべき記事は何もなかった。新聞を閉じて自宅に戻った。
 それから二日間、ドロテが家に戻った様子は無かった。
 金曜の朝になって、店主は気迷いに構わず思い切ってセガワ家の敷地に足を踏み入れた。玄関前のタイル床にはカトレアの植木鉢が置いてあった。草丈は三十センチ程度で、三本の株ともに大きな薄紫の花が咲いていた。それから店主は裏庭の水道場へ行って、柄杓を突っ込んだバケツに水道水を汲んだ。縁側のシャッターは閉めてあった。四週間の短さを店主は感じた。玄関前に戻ってバケツに汲んだ水をカトレアの株元に流し入れ、そのバケツと柄杓を元あった場所に戻しにまた裏庭へ行った。カトレアの育て方をインターネットで調べてみると、寒さに弱く、冬場には”鉢の土を乾燥ぎみにしておくこと”と書いてあった。
 そして翌日の土曜の午後、店主がカトレアの植木鉢を両手に抱えて半身を起こしたところ、ちょうど銀色のワンボックス・カーがセガワ家の前に停まり、青い上下の作業服を身に付けた三名の男が車を降りた。助手席からも一人の女。車を降りると女は、門柱の向こうにセガワ家の外観を眺めて、感じ入るとも呆れるともいったような声をみじかく飛ばした。白のニットセーターと黒いチノパンツを身に付けて、白いマスクで顔の半分を覆っていた。ラクダ色のムートンコートが本人の高い背丈をさらに際立たせていた。店主は植木鉢を腹の前に持ったまま玄関先のアプローチを歩いた。
「どなた?」
 女は店主と向い合せに立ち止まって訊いた。
「隣の家の者です」休日の張りの無い笑みを浮かべて店主はそのあと、両手に抱えてあった植木鉢をななめに見下ろした。「これは、この家の住人が持ち込んだ花です」
「なかなか出来ることじゃないわ」女は目尻に深い皺を寄せて微笑した。「引っこ抜いてゴミに出すのも、ある意味じゃ良心だけど」と、言い加えるや女は石敷きのアプローチを玄関へと真っ直ぐに歩いた。手持ちのスクラッチバッグから取り出した鍵で扉を開けた。
 加護の作陶映像に映っていた女だった。容貌や体型には大した変わりは無いが、重ねた年数ぶんの老いが紛れもなく顔に出ていた。黒いベリーショートの髪には張りがなく、額の生え際には短く細い髪がまとまりなく垂れていた。落ちた頬には小さな染みが点々と付いていて、鼻の両脇から顎にかける二本の皺のあいだには赤みの失せた唇があった。後年のセガワチサトの顔付きを思い浮かべるには、その老いた女の顔に個人的な苦労の跡が色濃く付き過ぎているように見て取れた。
 店主は、女のあとを歩いてきた作業服の男らに便宜的な挨拶をしながら、開いた玄関のわきに立ち位置を変えた。年配の清掃者が軽く一礼をして戸口をくぐり、手に持っていたクリップボードを指差して、その紙面に記載された作業工程を手短に説明した。チサトの母親は「はい」やら「うん」やら「お願いします」などの相槌を素っ気なく打った。
 その母親の背後から、今度は年若い男の声がした。一人は肉付きの良い大柄の男、もう一人は頭にタオルを巻いた赤ら顔の男だった。二人はそれぞれ掃除機を手に提げて家に上がった。家の一階と二階に作業担当の場を分けると、二人とも家中の窓を開けて回った。

 年配の清掃者は説明を終えて、クリップボードを靴箱の上に置いた。それから彼は配電盤の位置を女に訊いたが、答えたのは女ではなく店主だった。清掃者は玄関先にいた店主を振りかえり、好奇と疑念を滲ませた表情を顔に出して礼を言った。そして男はそのあと、作業服の腰ベルトに取り付けたホルダーから小型のトランシーバーを取り出し、配電盤の取付けてある場所を社員に伝えた。
「あなた、良く知ってるのね」と、女は店主の顔を見て冗談まじりに言った。年配の清掃者は玄関先に止めてあった台車からモップや道具箱や洗剤のボトルを詰めたコンテナなどを屋内に運び込んだ。女は「どうする?」と、店主の顔を見て訊いた。「知里が普段どんな生活をしていたのか、よかったら教えてくれないかしら」
 店主は戸口のわきに立って内玄関から程近い場所にある階段を物思わしげに眺めていた。二階に上った社員の鼻歌が聞こえてくると、店主は女の顔に視線を移して、おざなりの返事につづけて訊いた。「すこし二階にお邪魔しても良いですか?」
 こざっぱりとした顔で、良いわよ、と女は答えた。あなたも一緒に掃除をするの?
 店主は愛想を込めて遠慮がちに笑い、お邪魔します、と、屋外用のスリッパを脱ぎ置いて早足に階段を上がった。二階を担当する大柄の男は、掃除機の電源コードのプラグをコンセントに差し込み、階下から近づいてくる足音に聞き耳を立てた。知里の母親は、階段の上り口に立ってその突き当りの壁を見上げ、用事が終わったら下へ来てねと、語尾を短く伸ばして言った。
「寝室に入りました?」
 店主は寝室の前へと廊下を歩きながら、後ろを振り向いて清掃者の男に訊いた。
「窓を開けなきゃいけなかったので」と男は答えた。
 それを聞いて店主は返事がわりに気軽な調子で一方の手を掲げた。廊下の突き当たりを右に折れて、寝室の前に歩を止めた。部屋の中から漏れ出した木材の匂いが廊下に薄っすらと満ちていた。店主は手で扉を三回ノックし、他方の手に握ってあったレバーハンドルを下げて扉を開けた。
 先日に見たとおり、部屋には一台のベッドだけが置いてあった。クローゼットの扉も閉めてあった。窓から風が吹き込み、開いたレース・カーテンの端が揺れていた。いまひとつ室内の明かりが足りず、店主は壁付けの照明スイッチを押して寝室の灯りを点けた。すべてが先日と変わりなく、そして特に何の疑わしい点も無いように見えた。そうありながらも、しかしベッドフレームの収納の引き出しの部分にだけは何かしらの異変が見受けられるようでもあった。フレームの全体には花や孔雀などを密にあしらった東洋的な模様が彫り込んであった。蛇行する細長い葉状の模様の内側には、それこそ葉の断面図のような緻密な描写がしてあった。羽を開いた蝶や、足を広げた甲虫など、フレームの表面の空間を埋めるようにして小さな模様が点々と数多く描いてあった。それらの模様はすべて位置関係やサイズの大小の点において規則性が無かった。同種の虫のおなじデザインが二つ揃えてある場合もあれば、スペースに合わせて虫の拡縮を変えてあるものもあった。ちょうど、ネズミよりも蟻のほうが大きく描いてある、といった具合に。
 しかしそれは、ただそれだけのことでしかなかった。店主の目には何の異変も見えていなかった。結局のところ、ベッドフレームに掘り込んである模様が彼の目に留まったに過ぎなかった。フレーム全体の濃い色合いが長い年月の経過を想わせるが、収納の引き出しがレールの上を滑らかに動く様子からすれば、そのベッド本体には何の有義な時代性も無いように思えてきた。
 店主はそしてベッドの引き出しを大きく開けて、予想のひとつに沿った状況を眼下に眺め下ろした。知里の作品が跡形もなく消えていた。少量の黒い粒が引き出しの底板に散らばっていた。息絶えたドロテがそこに横たわっていないだけまだ良かった。と、その不謹慎な発想そのものに知里の“ドラマ好き”の趣味の影響を思わずにはいられず、店主は自嘲じみた笑いを落とした。
 引き出しを足の先端でゆっくりと閉じて、そのまま部屋を出ようと戸口に向かった。それから、壁付けの照明スイッチに手を伸ばそうとした矢先、彼の視界の端にクローゼットの折戸が映った。それは店主の自宅にある物とまったく同じ、オーク材の突板を張り付けた軽量の扉だった。だが、それを開いて中を確認するつもりは無かった。折戸の内側から人の声が漏れ出てでもいないかぎり、隣家の寝室のクローゼットを無断で開けて良いはずが無い。
 なぜ私をここに来させたんだ、と、店主は疑問に思った。クローゼットの扉を開けた直後、内部の天井照明が点いた。
 左右に渡してある備え付けのハンガーパイプには、男用と女用の衣服が左右にわけて掛けてあった。多くは冬物のコートやブルゾンだった。パイプの右端には予備のハンガーが数本、そのすべてがおなじ色と形をしていて、それとおなじハンガーが何本か店主の目の前にも掛けてある。備え付けの棚には収納用の小箱が整然と積み重ねてあった。折戸の内面に取り付けたパイプには真新しいネクタイが何本か吊ってあった。店主はもういちど目の前にある空のハンガーを見て、そこにセガワ夫妻の冬の身なりを思い返そうとしてみたが、どうも上手くいかない。それはハンガー以外の何物でもない。
 ところが、三着目の上着を持ち出した人物像にドロテを当てはめてみると、思いのほか具体的な想像を浮かべることができた。知里の作品に上着を被せて、それを一方の脇に抱えて家を出る。人目を避けて夜道の端を縫うように歩く。たかだか十五分程度で陶製の作品の重みを身をもって知る。といって――そこは夜の住宅街だ――歩く以外には移動のしようがない。道端のアスファルトに作品を下ろすとき、力の加減に気が回らず、作品の足先を地面によわく打ちつけてしまう。その様子をドロテは無言に眺め下ろしている。額には薄っすらと汗の湿りがある。汗粒が背筋のくぼみを流れ落ち、肌着の繊維に自分の汗が染み込んでいく。すでに呼吸は落ち着いているが、そうして考えがまとまっていく中、自省の思いが静かに掻き立てられる。欠損した陶のなだらかな断面を見ているうちに息が落ちつく。――知里の作品を腕に抱えて、なにも自暴自棄に屋外を歩き続けたわけではない。どこか人目につきにくい場所に作品を置いてこようと思った。それが、歩きはじめて家々の窓明かりを何度も通り過ぎていくうち、町の住人の多さをひどく漠然と思い、とたんに気が逸れてしまった。気づけば、ただ歩き続けていた、ぼんやりと人の暮らしを思い浮かべながら。
 ここで店主の想像が打ち切られる。「すみません」と、年の若い清掃者が寝室の戸口に首を突っ込んで言った。「掃除したいので、入っても良いですか?」
 その場の微妙な雰囲気を見取って、どうぞ、と、店主は少しばかり声を張った。クローゼットの扉を閉じたあと、寝室を出る間際になって部屋を振りかえり、コンセントの挿し口の位置を言い知らせようとして、そうするのをやめた。
 階下におりて奥へと廊下を歩いていくと、家の奥のほうから掃除機の音が聞こえて来た。その音の出所を家の奥のどこかに聞き定めようと耳を澄ませながら、店主は何の気なくリビング・ダイニングの出入り口の前に立ち止まった。台所に立っていた知里の母親がカウンター越しに店主を呼んだ。母親はその口元を白いマスクで覆っていた。一枚の未使用のマスクを店主に差し向けて、小旗を振るように指の先でマスクを揺らした。
「他に行く場所がなくてね」母親はさめざめとした演技を交えながらも嫌味なく言った。そしてそのあと、店主の顔に目を留めて今度はあっさりとした調子で口早に訊いた。「二階で何事かありました?」
「何事もありませんでした」店主は首を振って答えた。
「何事か、あるはずだったんでしょう?」
「はい。ですが、本当に何もありませんでした」
「そう」母親は年増の見せる意味ありげな笑みを浮かべた。「何があって何が無いのかしら」と言い足し、それからまたさらに続けて「それが言えないのよね?」

 立ち話を始めてしばらくのあいだ、知里の母親は思いの丈を吐き出そうとでもするように立てつづけに話した。
「電話が掛かってきたかと思ったら、いまフランスにいるって言うんですよ」「しかも一人で」「フランスで陶芸の先生をしてるって」「言葉が通じないのに、どうやって外国の人にモノを教えられるんでしょうね」「べつに、知里が何をやったからって、たいていのことじゃ私は驚きませんけど」「結婚するとか、家を建てたとか、旦那さんがいなくなったとか、庭で人が死んだとか、警察がそっちに行くと思うとか」「知里から来る連絡はぜんぶそんな感じですよ」「亡くなった方のご両親がわざわざ家にお見えになって」「謝ってお帰りになったわ」
 切れ目なく、それでいて辻褄を合わさずに母親が話を進めたもので、店主には何とも返事のしようが無かった。ただ、知里が自分の身辺に起きた事実の報告を母親にし続けていたことに対しては、ただ単純に妙な安心を覚えた。
「今回のことで気を悪くなさったでしょうけど」そう言ったあと母親は頭をすっと下げて、「許してください」と、子供の作文の締めくくりを読むような平べったい声で言った。母親の話し方には、それまで何度となく謝り続けてきた者の諦めが込められているようでもあった。その乾いた謝罪の声が店主の胸にこびりついたが、しかしそれは彼女の声色に子供の作文の終わりの一節を連想したからだった。ただそれだけのことだった。
 開け放されたリビングの大窓からは冷ややかな空気が入ってきた。窓辺から離れた位置にある座面に向い合せで座ってみたが、母親と店主の足はソファのどこに挿し入れようもなく、ただ冷気に晒されるばかりだった。
「立会人も楽じゃないわね」知里の母親が悪気なく言った。
「窓を閉めましょうか」店主はその気も無く言ったあと、ソファから立ちあがって窓際ではなく台所へ向かった。「お茶を淹れますよ」
 母親は店主の後ろ姿に視線を沿わせて「これじゃまるで、あなたの家みたいじゃない」と無邪気に笑った。店主にはそれが当たり障りのない嫌味であるようにしか聞こえなかった。知里の母親はそのあと、ひと笑いを溢して目をしばたき、目尻に笑みを残したまま言った。
「まちがえて隣の家に入っちゃいそうになるわね」
「玄関に入れば気づきますよ」店主は台所のカウンターから知里の母親に視線をやった。「匂いが違いますから」と、そう言って調理台の脇のタイル壁に吊り下げてあったミルクパンに水を入れてそれをガス台の上に置いた。指でガス台のスイッチを押し込むと、何の問題もなく火が着いた。ガス台にはタイマー機能が付いていた。グリルの引き出しの窓に多少の油汚れがあった。店主は、配電盤のスイッチを切って家を出たドロテを想った。知里の母親は愛嬌を目じりに滲ませ、つい今しがた呟いた言葉をそれとまったくおなじ静かな口調で「そうよね」と繰り返した。「においが違うわ」

 知里が幼稚園児の頃のことだった。左側が自分の家だったが、彼女は右の家に入った。隣り合わせのどちらも小さな平屋だった。
 その家の玄関を入ってすぐ右手には台所があった。歳の頃にして八十過ぎの一人住まいの老婆が夕食の煮物を作っていた。老婆は玄関に立つ知里を見て、あっちがお嬢ちゃんの家でしょ、と、台所の一方の壁を指して言った。それにも関わらず、知里は日を分けて何度も自宅を間違えた。知里の母親はそれを異常とは見なさなかった。それどころか、自分の思い付いたその悪戯の成果を頭に浮かべて頬をゆるめる始末だった。
 通園バスを降りて知里が家に入ると、実の母親が台所に立って料理を作っていた。染みた衣服の匂いが台所に漂い、食器棚には水垢の付いた茶碗や湯呑が置いてあった。知里の背丈にちょうど合うぐらいの小型の冷蔵庫が置いてあった。一人暮らしに見合った冷蔵庫だった。ところが、知里はそれらを気に掛ける様子もなく台所に上がり、そのまま平然と奥の居間に入った。
 それを何度か繰り返して知里と老婆の親しい付き合いが始まった。
「お婆ちゃんは喜んでくれたし、だから別に良いのよ、危険な遊びをしているわけでもないから」「玄関に花を飾っているほうがウチだよ、とか、竿に知里の下着を干している家がウチだよって」「だけど何を言っても駄目なの」「私が家の玄関に立って知里の帰りを待っていてやらないと駄目なの」「毎日そうしていてやらないと、別の家に入っちゃうのよ」「でも、なんで間違えるの?――って訊いても、答えなかったわ、何度訊いても、ただ黙り込むだけ」「いまのあなたみたいにね、何て言って良いのか分からないってふうに、ただ黙ってるの」「でもだからって別に、それが原因で私が病んじゃったってわけじゃなくて」「みんな、あの子に良くしてくれたから」「私たちがあの家を出るまでずっと」「ただ、やっぱり、いまでも訳が分からないのよ」「だから私一人で勝手に思い込むことにしているの」「知里には全部の家が自分の家みたいに見えていたのかな、って」 「全部、同じ家だったから」
 店主は物思いに視線を落としてそれを部屋の床にゆっくりと這わせ、それからまた視線を目の前のテーブルに戻した。手持ちぶさたに湯呑みを掴んで、生温かい茶を喉に流し入れる。
「翌年の秋に、お婆ちゃんは亡くなるんだけど、知里がそれを見取ったのよ、お婆ちゃんの家財やら貯金をぜんぶ受け継いで」母親は交えた左右の足先を擦り合わせて言った。そして手持ちのスクラッチバッグを開き、中から取り出した二冊の本をテーブルの上に静かに置くと、「知里が “これをあなたに” って」そう言ってまた視線を浮かせた。
 店主は台所に見つけた木製の薄いトレイに湯呑みを二個置いた。さらに、戸棚に入れてあったクラッカーの小袋をためらいなくトレイにのせて、ちょうど機械人形がそうするようにトレイを腹の前に持ってリビングへ慎重な足取りで向かった。知里の母親は、戻ってきた店主の顔を斜めに見上げて「窓、閉めちゃおうかしら」と、思い付いた悪戯を打ち明けるように言った。
 一冊には『まちのクジラ』、そしてもう一冊には『うみのクジラ』と題してあった。古じみた絵本だった。店主は本の表紙にある著者の名を目でなぞり、その一冊を右の手で取り上げた。絵本のことだけあって厚みは無かった。裏表紙には各種コードと価格が表示してあった。大判の絵本の定価を五百円とするその時代性を考えてみれば、出版年の古さをだけはうかがい知れた。絵本の裏表紙を開けてみる。

1962年2月16日 初版
1970年1月5日 10版
著者 かがりまち
発行所 (株) 白岩社
代表者 田波淳

 その他、発行所の所在地や電話番号が裏表紙の見返しに記載してあった。紙肌の微かなザラツキが店主の指先に伝わってきた。紙面には経年の匂いや薄っすらとした変色があった。そしてその見返しの直前のページには未開封の袋とじが紙面いっぱいに貼り付けてあった。店主は平常心をよそおって袋とじから注意を引き剥がし、さらに前にさかのぼってページを一枚めくった。見開きの両ページの隅々にまで、何処かの街並みが描いてあった。その片方のページには大きく皮のめくれ上がった一頭の痩せた鯨が描かれていた。赤黒い肉の所々にまだ白い皮下脂肪が残っていて、それはまるでどこかの列島をでも描いてあるようだった。鯨の生死を説明づける描写は何も無かった。大通りや建物の壁に塗りたくった血の跡が、その街の一帯に歪んだ線となって長々と延びていた。震える老人の手で描いた円のようでもあった。
 見開きの両方のページの端に、誰のものとも知れない科白があった。

これは わたしいがいの なにものかのちですが
わたしは それをしりません

 店主は裏表紙を閉じて、その絵本をもう一冊の絵本の上に重ねて置いた。鼻から息をしずかに押し出して、それから知里の母親の顔をガラステーブル越しに見た。
「あなた疲れてるんじゃない?」知里の母親は店主をまっすぐに見て訊いた。
「今日は仕事が休みですから」店主は首を振って答えた。
「そんなこと訊いたんじゃないの」
 知里の母親はソファに背をもたせて脚を組んだが、そのあとすぐに解いた脚をひたりと閉じて、ソファから引き剥がすように背を起こした。そしてそれから軽い口調で「エアコン付けよう」と、立ち上がって目星をつけた場所へと歩を進めた。店主はもういちど絵本を手にとって裏表紙を開き、カバーのそでに印刷してある『全三部』の文字を指してそこに知里の母親の注意を引いた。
「この絵本はシリーズ物になっていて、全部で三冊あるんです」そう口に出して言った店主だが、彼にとってその冊数は大した問題ではなかった。何かの話題を出して母親との会話に結ぼうと考えただけのことだった。
「知里が持っているんでしょ」
 エアコンの本体を見上げて母親は言った。低い作動音と共に、エアコンのルーパーが開いていく。リモコンを片手にリビングのソファに戻ってくると母親は、店主の掲げていた絵本の”カバーのそで”に目を注いだ。そして一方の腕を背もたれに掛けて、温みの残る座面にゆっくりと腰を落とした。絵本のカバーには『ベストセラー』の売り文句が太い文字で印刷してあった。朗読のカセットテープも同じ出版社から販売されていて、“どちらも好評発売中!”とある。
「知里に電話で訊いておきましょうか?」母親は手に持っていたリモコンの画面を見て、設定温度の調節ボタンを軽く何度か指で押した。「いいえ」と、店主は首を振った。
 リビングダイニングの外の廊下では、「他の部屋からにしよう」と、年配の清掃者の声がした。それを聞いて知里の母親は、お言葉に甘えてもう少し話しましょう、と、今度はリモコンの風向き調節ボタンを何度か押した。彼女はそれから店主の顔に色のない視線をやった。すっかり席を立つ時機を逃してしまった店主だったが、仕方なく彼はそのあと知里の夫の行方に話題を変えようとして、「セガワ」と、そう言いかけて途中でやめた。「知里さんの旦那さんは、まだ見つかっていないんですか?」
 母親は部屋の遠くにエアコンの本体をながめて温風の吹きだす音に耳をそばだてていた。思い出したようにリモコンをガラス・テーブルに置いて、「柔和そうな人だったでしょ」と言うと、左右の肘をすっと上げて、両方の手で横髪をすくい、そのまま手先を後ろ髪の裾へと流した。「清潔そうな人だった」さらに視線をテーブルに落として矢継ぎ早に、「何の後ろめたいこともないって顔をしてて、そう、なんていうか、純粋で傷つきやすくて」その言葉の途中から母親の視線がテーブルをまっすぐに這い進んだ。そして、店主の上体から首元へと渡った視線が、直後、店主の目の位置にさっと引き上げられた。
「塗料をつくる仕事なんて、それを作り終えちゃったらもう立派な達成じゃない。なのに、分をわきまえずにそれ以上の何かを欲しがるから、だから自分のことがよく分からなくなっていくの」「結局、スタートラインと自分の足首に縄をくくり付けておかなきゃ駄目なのよ」「大学生のとき、美術品の修復のアルバイトをしていたんだけど、そのことであの子、ずいぶんと悩んだみたいで」――「これは知里の話ね」――「他の作家さんの仕事に手を入れるのは、考えていたよりもずっと難しいことだって」「それが出来る人もいるけど、私には上手く出来ないって」「――でもね。あの子の腕はけっこう評判が良かったから、仏像の服の皺とか、手の部品とか、仏像の後ろにある、あの、ほら、サーフィンの板みたいなやつね」「あと、その他にも、ブロンズ像を作る職人さんの中に混じって、すごく大きなやつよ、お寺の門番みたいなやつ――ほら、分かるでしょう?――そう、そういう仕事もしてたみたいだけど、でも、自分には上手くやれないって」「だからって、もちろんそんなこと、周りの職人の方は気にしてくれないわ。だって、知里は実績を出し続けるんですから。仕事を続けようと思えば、きっといつまででも続けられたのよ」
「羨ましいです」と店主は言った。そう言葉を選んでおくのが無難だと思った。「誰かに求められるような、特別な腕が私にもあれば良かったな」
「誰にでもひとつぐらい取り柄があるわ」呆気から豊かな微笑へと、母親の顔になだらかな表情の変化があった。「羨ましいだなんて思っちゃ駄目よ。目が曇るわ」
 店主は力なく笑った。目の前にいるのが知里の母親であって他の誰でもないように思えた。
「話が横に逸れちゃったけど、とにかく悪い人じゃなかった。身なりは清潔だったし、お酒を飲むと人懐っこく笑った」「――でも、そうね、ズボンの丈が少し短かったわね。もっと長ければ、今でも二人で仲良くやっていたかもしれないって思うわ。ほら、だって、すこし長いぐらいのズボンを履いている人とのほうが夫婦生活がうまくいきそうだもの」「美術じゃなくて裁縫のセンスが知里にあれば、もしかしたら、って思うわよね」
 店主は母親の顔をまんじりと眺めていたが、思い出したように小さく頷いた。
「あのね」「当たり前だけど、おたがい離れた場所に住んでいると、普段の付き合いなんて全くないの。だから、娘婿の性格がどんなかなんて私には分かりっこないのよ」「ただ、ひとつだけ言えることがあるとしたら、嘘を付き慣れていない大根役者は出来の悪いギャグ漫画の脇役にしかなれない、ってこと」
 室外の廊下に鳴っていた掃除機の音が止んだ。
「セガワ君のことを仰っているんですか?」店主は部屋の出入り口から視線を戻して言った。
「そうじゃなきゃ、今みたいな言い方しないわ」と母親は答えた。「あなたに言っても仕方がないって、分かっているの。でも、つい愚痴を言いたくなるの」
 まくし立てるように言いながら彼女は、ガラステーブルの脚に立て掛けてあったスクラッチバッグを手で掴み取った。その中から携帯電話を取り出し、親指と二本の指で画面を操作して、それから少しの間を置いて今度は人差し指でその画面を縦の方向にスライドした。
「食事会の日取り、どうする?」と母親は画面を見ながら語尾を上げて言った。「お父さんって、体を洗ってから風呂の湯に浸かってた?」「夫婦に一番大事なのは寛容だって思うんだけど、お母さんは寛容だった?」「うちの家紋って、どんなんだった?」
「知里さんからのメールですか?」
「四件よ」
 と母親は短く吐き捨てるように言った。「検索に引っかからないメールもあるから、正確な件数は分からないけど」「――あれだけ何でもかんでも書いて寄こしてたのに、自分の夫に関わるのが“たったの四件”」
 たったの四件。その数の多少は店主にとって大した意味はなかった。そのとき彼の頭の中には、加護幸久の話を聞き出すかどうかの考えしか無かった。知里の母親の携帯電話に保存されている送受信のメールの中に加護幸久を話題とした内容のメールが複数あるはずだった。例の作陶映像を思い起こしてその判断を付けかねていたところだが、知里の母親と無言に視線を合わせつづけているうちに、その考え自体がまとまらなくなった。「知里さんは、小さい頃からカヌーをされていたとか」
「カヌーね」
 と、承認でもするように短く言ったあと、母親はソファに背をもたせて指で携帯電話の画面の操作をはじめた。「カヌーは、ざっと百八十通以上はあるわ」――釣り具の大型店で見付けたライフジャケットの値段が四着分――部活の合宿先から送られてきた練習内容の箇条書き――カヌー部の先輩と体の関係を持った話――整形外科の院内から送られてきた診断結果――朝の練習のときに見たウミガメの話――
「全部読む?」
 そう訊いたあと母親は、店主の返事を待つ様子もなく携帯電話の画面を指でスライドさせた。その指の動きに合わせて、受信メールのタイトルの一覧表示が縦の方向にすばやく流れていった。「いろいろあったのよ」――カヌー競技の県大会のレギュラーに選ばれた――チームメイトが病院に担ぎ込まれた――その入院先でチームメイトと一緒に写真を撮った――合宿の夕食に川魚や旬の山菜の料理が出た――知里の母親は本の目次を読み上げるように立て続けに話した。そして、その自覚もなく口調を弱めていくと、タイトルの一覧に過去の思い出を振りかえって一人笑いをこぼし始めた。
 店主は何ということなく室内の壁にエアコンを見上げた。上着を脱いでそれをソファの背もたれに引っかけてソファから立ち上がり、糸を吐き出すように口から息を抜いた。リビングテーブルに置いてあるリモコンの画面には『30℃』の表示があった。エアコンからは温風の吹きだす音が大きく鳴っていた。部屋の外では業務用の洗剤をつかった床の拭き掃除がつづいていた。
 この最後のやつが、なんだかよく分からないの。
 そう言って母親は沈黙を切ると、うしろを振りかえって店主の様子をうかがうように台所を見た。店主は知里やドロテが取っていた手順をまた思い返しながら、壁棚の所定の置き場所から茶葉の缶を手で掴み取った。「最後ですか?」と、店主が知里の母親をリビングに眺めやると、母親はまた新聞の見出しを読むようにメールの文面を声に出して読んだ。

この前、クジラが浜に打ち上げられたでしょ。あのとき知らない人に話しかけられて、君は海で死ぬから気を付けなさいって言われたの。だけど、ちょうど私すごく気持ち悪くて吐いちゃってたから、その人の顔を見上げる気分じゃなくて。なんか、おじいさんみたいな声で、きっと私を見て可哀想って思ったんだと思う、ずっと私の背中をさすっていてくれたの。いま思うと少し気味が悪いけど、でも、そのときは本当にそんなんじゃなくて。死刑になる人に情けをかけるみたいに、疲れた声で優しく言ったの。
私思うんだけど、やっとこれでカヌーは終わりなんだよ。医者でもコーチでもなくて無関係な人の話を最後に聞いて、それで終わり。あの人が本当に私の知らない人だったら良いのにって思うよ。

 店主は知里の母親の背姿をしばらく眺めていたが、戸口に立つ年配の清掃者の姿に気づいてその男に頭を浅く下げた。「お話し中、失礼します」と清掃者の男が言うと、母親は部屋の出入り口を振りかえって表情を和らげた。
「お二階ですが、いまはエアコンの掃除をしている最中です」男は慣れた口調で言った。「カーペットの染みを抜いて、お二階の掃除は終わりになります」男はそのあとダイニングとリビングをぐるりと見回し、「一階の掃除は、こちら以外の場所はだいたい終わりました」
「さすがプロの方です」そう言って母親が同意を求めるように店主の顔を見ると、店主は調子を合わせて二度つづけて頷いた。
「それで、お布団の丸洗いをご依頼されていましたので、のちほどお預かりして工場に持ち帰って、後日、配送業者のほうに宅配を頼んでおきます――(手持ちのクリップボードに挟み込んであった印刷紙をぺらぺらと形ばかりにめくり上げながら)配送先は、こちらの住所になっていますね」そこで言葉を切ると男はそのあと、めくってあった紙をひとまとめに下ろした。
「私がお待ちしております」と母親が軽い調子で言った。
「宅配の日程については、また後日、お母様のお電話にご連絡差し上げますので」
 知里の母親が快く相槌を打つ。
「ではまた、こちらのお掃除の際にお邪魔しますので、ひとつご協力をお願いします」
「ごめんなさいね。ちょっと話が弾んじゃって」
 母親は愛想のいい表情を顔に出してそう言うと、ついでリビングの大窓を指して気兼ねのない明るい口調で訊いた。「窓は開けておいたほうが良いんですよね?」
 それを聞いて清掃者の男は口調を和らげて気さくに答えた。「こちらの掃除に取り掛かる際にまた開けますから、結構ですよ、いちど閉めてくださって――ですので、えっと、代わりに玄関を開けておきましょうか。いちおう、“清掃中”の看板を立てておきますから」
 言い置いて男は部屋をあとにした。知里の母親はいそいそとソファから立ち上がり、身をこごめて窓辺に向かった。大きく開けてあった窓を閉めると、飛び込むようにまたソファに腰を落とした。
「看板を立てておけば、知らない人が家の中に入って来ないのよね?」と、母親は台所に立つ店主を見やった。
「すくなくとも、人は入って来ませんよ」と店主は笑った。
「野良猫が入ってくれば良いわね」目尻に笑みを残したまま、母親は独り言のように言った。
 好意的に相槌を打ってはおいた。しかしその店主自身、自宅の敷地内では昆虫の一匹すら見かけたことがない。セガワ夫妻から聞いていたとおり、害虫の忌避効果についてはその成果が目に見えて明らかだったが、その他、猫や鼠はおろか、家グモや秋虫の類でさえ敷地内には一匹も入って来ない。思い立って調理台の引き出しをいくつか開けてみる。ゴキブリの卵や糞は一粒すら無い。

 屋内では拭き掃除がひどく静かに続けられていた。店主には作業の進捗を確かめようがなかった。部隊か何かに周囲を固められていくような時間が過ぎていく中、いつまでも母親と悠長に話を続けられるはずがなく、そして、いつかまた成り行きで一室に居合わせでもしないかぎり、知里の母親と話をする機会はおそらくもう二度とない。そもそも初めから特に何も話すことはなかったのだが、遠縁の知人との面会時間の終わりが差し迫ってでもいるように思えて気が落ち着かない。なんとも妙な気分だったが、ただひとつだけ確かなのは、知里に対する店主の個人的な関心が現実に晒されて薄れていくということだった。生母の口から娘の過去が語られるにつれて、その知里本人の実在が紛れもない事実となって感じられた。
 気付けば、湯呑みから湯気が立っていた。
 リビングテーブルには口をつけた湯呑みが二個置いてあるが、ちょうどそれとおなじ乳白色の湯呑みが台所の食器棚に何個も並べてある。水瓶のような卵型をしていて、表面のガラスにはくすみひとつない。そして、その他のカップから各サイズの皿や器まで、棚に並んだすべての陶器が同じ色味の物で揃えてある。店主は、洗う食器の数には気も留めず、加護の作陶映像に記録されていた場面を思い起こした。それは“素焼き” を終えた状態の物を知里が投げ壊す映像だったのだが、そのときの薄茶色の器と、セガワ家の食器棚に置いてある器は、強度と色の違いをのぞいてどちらも器としての体を成していて、同時に無個性でもあった。どちらも知里本人の作家性とは関係のない無個性の器だった。
 では、彼女の作品であることの根拠とはいったい何だろうか。知里が美術品の修復ではなく陶芸活動に就いた理由は、生来の作家であるという実証の出来ない理由の他にも何かあったのだろうか。「知里さんは、いつから陶芸をされていたんですか?」と店主は訊いた。
 母親は店主が台所から持ってきた湯呑みを受け取ると、手元にあった空の湯呑みを無言にテーブルの隅に寄せた。そして、注ぎたての湯呑みをテーブルのガラスに置いて「そうね」と過去を振りかえり、またもういちど傍に伏せてあった携帯電話を手に取った。
「中学のときにクラスのみんなでお皿を作ったのよ、たしか。
 ちゃんと陶芸を始めたのはそのあとでしょ、いつだったか覚えていないけど。
 少なくても百通以上はあるわね。この頃にはまだ、毎日、何通も送られてきた。
 でも、高校生になってからは段々と、たぶん、それが親離れだったのね」
 母親の物言いには、もう特に何の棘立つ調子も無かった。過去の母子関係をいとおしむのでもなければ、その関係を手放そうと思い込んでいるのでもなく、ただ過ぎた日を遠くに眺めているだけのことだった。気の済むまで泣き散らした子供の寝言のように母親は話した。知里はその後、美術大学への入学を機に、中高時代を過ごした町を離れて一人暮らしを始めた。
「陶芸家の方に作り方を教えてもらっていたんじゃないかしら」と母親は言った。
 かご・ゆきひさ――店主は胸の内にそう呟いた。
「“カゴさん” っていう方よ」
「セガワ君も、知里さんと同じ大学に通っていたんですか?」
 店主は母親の言葉に上塗りするようにして口早に訊いた。
 どうかしらね、と、母親は携帯電話の画面に指先を置いた。

『カヌー部の先輩と寝たけど、これって別に嬉しくも悲しくもないね』
なんていうか、人が裸になってべたべた好んで触り合うっていうのは、
酔ってなきゃ出来ないことなんじゃないの、って思ったの。それで、顔
を洗うみたいにセックスが出来るようになったら、それはトイレをす
るのと同じようなものじゃないの、って。
それで美術部の友達に訊いたの、セックスはファンタジーなんじゃな
いかなって。そしたら、何事もない顔で彼女が言ったのよ、

 知里の母親はそこで言葉を切って店主に真顔を差し向けた。
「色気じみたことを、私の口からは言わないほうが良い?」
 店主は無言に首を小さく振った。

もしそうだとしたら、ワタシは画を描いてセックスをしているのね、って。
だけど私にはその考えがあまりよく分からなくて、なんとなく分かってる
ような顔をして黙ってたら、彼女が言ったの、男は女の裸にファンタジー
を感じているでしょ、たぶん男ほどじゃないけど、女も同じように男の裸
を見ている、そうやって現実にある身近なファンタジーを大事にしてる、
だから要するに、男女が肌を触り合うみたいに、ワタシはキャンバスを
筆で撫でるのよ、って。
経験したことあるような言い方するのね、って私が言ったら、美術部に
も男はいるわ、だって。でも、それは音楽室のベートーベンと同じ意味で
の男じゃないの? って私、もちろん言わなかったけどね。だって、実際
美術部には男子が半分ぐらいいるから。

 母親は目を力なく開いて、親指の背で笑い涙をぬぐった。そして、ふっと息を吐き出すと、わずかに表情をゆがめて鼻をひとすすりした。その彼女の様子を見て店主は何ということなく視線をテーブルに下げた。母親の仕草に女の一時の悲哀を思い込むことも、しようと思えば出来たはずだったが、それがただ酷く空しいことのように思えた。
 押し黙った店主の様子を目の隅に置いたまま、母親は自分の読み上げた文面を振りかえった。そこに書かれていた “カヌー部の先輩” をセガワ本人に結びつけて、ゆるやかな物言いで憶測まじりに話をつづけた。だが、その話の架空には疑いようが無かった。セガワの細身の体格からは体育系のどの部活を思い浮かべることも出来ない。少なくとも店主にはそう思えた。セガワに対するそれは母親の当り障りない愚痴でしかなく、彼女自身がその自分の立てた憶測をどこかで否定しないかぎり、いつまでも話が当てなく続いていくようだった。そしてそれは実際にそのとおりだった。
「日本でだって暮らせるじゃない」
 しばらくして母親は知里の海外志向がセガワの職業に影響されたものだったと話した。目の前にいる仮想の相手を優しく問い詰めてでもいるような話し方だった。心もとなげに声が少しだけ震えていた。
「旅行じゃ駄目なのかしら」
 それを聞いて店主は寝息のような曖昧な返事を言葉みじかく漏らした。海外赴任で日本を出る者がいて、望んで海外生活を始める者もいる。赴任に頭を悩ませる者がいれば、日本に居心地の悪さを感じる者もいて、日本の国内であれば居場所は何処であっても良いと思えるはずだろうし、たとえ何処であったとしてもその本人の感じる息苦しさには変わりが無い。店主にはそれ以外の良心的な説明の仕方が思い付かなかった。
「日本を思い出すとき、きっと知里さんはお母さんを思い出しますよ」
 口を衝いたにしては良く出来た言葉だった。店主の口元にひどく自然な笑みが落ちた。
 そしてその後、鍵穴の交換をしに業者が家を訪れるまでのあいだ、二人は清掃者らに居場所を明け渡して、台所で立ち話をつづけた。

 玄関先で店主を見送る際、楽しかったわ、と、母親は視線を浮かせて言った。それから店主の顔をもういちどまっすぐに見て、ありがとう、と言い加えた。無表情でありながら、顔の皺々が彼女にわずかな表情を付けているようでもあった。
 たしかに店主の目には母親が笑ったように見えた。

 その日の夜、ベッド脇の照明をつけて、木製の簡素なスツール椅子に二冊の絵本を重ねて置いた。その取り合わせが懐古主義者の慰めにでもなりそうだった。明かりに照らされた絵本の表紙には、取るに足らない細い線傷が何本も入っていた。ただ見ているだけで本紙の匂いが鼻元にまで漂ってきそうだった。それはたしかに店主の想像したとおりの芳しい匂いだった。過去に何度か嗅いだことのある匂いだった。中程のページに挟んであった栞にも、巻末に付けてある未開封の袋とじにも、それらすべてに古書の匂いが染み付いていた。土曜の夜の安らかな眠りを誘うには十分だったが、一方で、巻末の袋とじの中身を思うと寝つきが悪くなりそうでもあった。どちらの袋も未開封のままだった。
 一冊の絵本の袋とじには水の封入が記載してあった。すでに水は揮発していて、袋の外からでは液状を思わせる触感はない。中にはただ小さな固形物だけがいくつか入っている。その硬く丸みを帯びた粒が店主の指先を押し返す。絵本の題名は「うみのクジラ」――そして、もう一冊の絵本の袋とじには細かく砕いた瓦礫の封入が記載してあった。その大きさの不揃いが袋ごしに指先に感じ取れた。ちょうど手にひと掴みできる程度の量で、絵本そのものを斜めに傾けると、袋の中を何かが“ざっ”とすべり落ちた。題名は「まちのクジラ」。その二冊のどちらの袋とじにも――みんなで種を育てよう――とあった。
 店主は首元まで布団をかぶってスツールに置いた絵本の表紙を眺めていた。枕元の照明を消しもせず、彼はそしてそのまま耐えようもなく眠りに落ちた。土曜の夜の安らかな寝入りだった。
 
                    ●

『まちのクジラ』 かがりまち 著

 場所は明記されていない。街中の壁という壁に、黒く細い線が数多く縦に引いてある。
 一頭の鯨が路上にべったり横たわっている。皮膚は乾いて艶がない。路上の砂塵が無数の傷跡の溝を埋めている。
 擦り傷や切り傷をまた負えば、めくれ上がった端のほうから皮膚が段々と剥がれていく。鯨は痛みをそれと感じ取ると、そのつど身をしならせてビルの谷間を跳ね進む。発達した胸びれと尾羽がしなやかに路面を払う。路面に散らばるガラス片がいっせいに一度だけ小さく跳ねる。
 大小の瓦礫で鯨の残りの皮下脂肪が削り取られ、その奥から血が滲み出る。興奮を鎮めて痛みを抑え付けようとして、鯨は街中の壁に身を打ち付けて這い進む。ずずずと這って、ずずと這って、だん、と壁を打つ。こそげ落ちた尾肉が、ひび入った壁に薄くこびり付いている。
 またひとつ壁を打つ。巨体を斜めに押し上げた瞬間、ついに疲労に耐え切れずに胸びれの骨が折れる。
 日ごとに鯨の血が街中の壁に塗り重ねられていく。胴の赤黒い肉は削られ、頭の白骨はほぼすべて剥き出しになっている。下顎の骨が途中で折れてあらぬ方を向いている。目はもう潰れているが、臓器はまだ動いている。

 
                    ●

『うみのクジラ』 かがりまち 著

 十頭の群れ。その中に一頭の細身のメス鯨がいる。あるとき、海流に沿って虹が大きく渦巻いているのを見掛ける。虹を眺めていてメス鯨は眠ってしまう。
 細身のメス鯨は深く潜れない。ある水深を越えてはそれより下へ泳ぎ進めることが出来ない。他のメスはもっと深くにまで軽々と潜っていく。
 水中ライトを持った人間が足ビレを付けて群れの前にあらわれる。細身のメス鯨の目は、人間と向かい合って薄赤色に光る。他のクジラの目は青く光る。
 十頭のメスの群れに一頭のオスが加わる。オスは複数のメスと交尾をする。
 その数々のメスと同様、やがて細身のメス鯨にも子が生まれる。子鯨は体をよじって臍の緒をちぎり、泳ぐとも沈むともなく海中を下りていく。メス鯨は尾を大きく振って一泳ぎに子を追う。以前の深さにまで潜り進めることが出来ない。呼吸が持たず、胸が苦しい。
 水を掻いて身をひるがえし、すばやく明るみに向かう。海から顔を突き出すと、メス鯨の頭に人の顔がある。水に濡れた長い髪をしっとり垂らしている。その容貌の変化に自分では気付いていない。
 いつものように息を吸うなり、また水に頭を浸ける。昼間の海の中にある、そのありとあらゆる色を、瞬きのひとつもせずに呆然と見下ろしている。


                    ●

 インターネットに公開されていた趣味の個人サイトに、管理者の書評を取りまとめた投稿ページがあった。紹介されていたのは新刊ばかりではなかった。主には近代小説を取り上げていたが、その他にも江戸時代の通俗小説や国内外の政治小説、そして漫画や絵本の論評や感想など、冊数にして二百近くはあった。略説が斜体で書かれ、作中描写への解釈や時代背景の解説をしてあった。短くまとめた感想を書いて、最後に『以上です』と締めていた。 
 管理者は “かがりまち” の描いた絵本を二冊紹介していた。その二作ぶんの書評記事がつづけて投稿してあった。記事の日付からも連日の投稿が見て取れた。
『うみのクジラ』と題した記事の略説の下に改行をいくつか入れて――絵本であって児童書ではありません――という見出しの一文が太い文字で書いてあった。そしてその記事の最後に、前日に書かれた記事の内容を兼ねた管理者のコメントが沿えてあった。

 元の出版社が倒産し、版権を引き継いだ出版社からの復刊となったシリーズですが、本の内容が時代に沿わず、売り上げが伸びずにその後、出版停止となりました。社の判断で巻末の袋とじが付属されなかった事も、売上げの不調の原因のひとつだったと言われています。
 私の読んだ二冊は古書店に置いてあったものではなく、図書館の設置端末に保存されたデジタル図書です。新しく登録された本の一覧通知が送られてきての閲覧となり今回の書評となりました。
 二冊の閲覧をとおして興味深い話をインターネットサイトで見つけました。この「クジラ」シリーズの残りの一冊となる「さばくのクジラ」は、それ以前の二冊の好評にもかかわらず初刊の発売から数ヶ月で販売停止となったそうです。ただ、それだけではありません。クジラ・シリーズの復刊の計画が立った当初から、同著だけが再刊の枠から外されてもいたのだそうです。
 どうやら、前述した袋とじの中身に問題があったという見方が強いようです。残念ながら、その問題の事実を詳しく書いたサイトを見つけられませんでしたが、私のように普段から何事に対する憶見も怠らない諸先輩方の見方では、その袋とじの中身に社会倫理的な問題と人体の健康被害を招く原因が含まれていた可能性が高いのだそうです。おまけに、袋の中に混ぜてあった種子から被爆樹の芽が出るのだという意見までありました。
 もしかしたら、ただ単に作者との権利調整が上手くいかなかっただけなのかもしれません。絵本の評価には無関係だと出版社が判断したのかもしれませんし、定価を下げる目的があったとも考えられます。

 先の諸先輩方と同様、私も都市伝説的な誇大妄想を好みます。シリーズの復刊にあたって三部すべての巻末から袋とじが除外されることになった背景には、袋とじにまつわる出版制作側の事情が本当に何かあったのでしょうか?

まちのクジラ  広島や長崎の被爆遺構
うみのクジラ  ビキニ環礁の海底に沈む戦艦内部の水
すなのクジラ  中国の核実験場の砂

 Fドットコムの名○さん、なんとかなりませんかね?(笑)

                    ○

 翌日、店主は会員制の共用サイトに『Chisato Segawa』と表示されたページを見つけた。
 友人登録の申請をしたところ、数時間後に承認が下りた。




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裏庭のバジル 39 

 土曜の夜、環状線に乗って職場からの帰路につく。いつもと変わらず音の無い町並みが車窓の下辺を流れていく。無数の家灯りの先には郊外の山並みがあり、その上空にはかろうじて見える程度の星々が無数に散らばっている。空と稜線の境目を付けているのは星明りではない。白く大きな広告板がその四隅に取り付けたライトの灯りに照らし出され、その板の反射光が周囲の空間を仄かに浮かび上がらせている。いつからそうして町の山際に白く浮かび上がっていたのか、店主には心当たりが無かった。パチンコ店の客寄せや新築マンションの住民募集など、そこには何の広告も張り出してはいないが、むしろその白板にこそ人目を引くだけの確かな理由が感じられる。なぜ無広告を広告し続けておく必要があるのか、と、毎日のように眺めながら店主は思っていた。風景の一部分が修正液で四角く塗り潰されているようでいて、あるいは見ようによっては、白板をのぞく現実風景そのものが緻密に描かれた絵画のようにも見える。
 いつまで経っても広告は出ないだろう、と店主は思う。

 ドロテが入居した週の日曜、時刻にして午前十時の冷える朝だった。ドロテはバケツに汲んだ水を柄杓ですくってそれをカトレアの植木鉢に流し入れていた。母国に住む祖母に言われたとおり、些細な習慣を新生活の一部に組み込むことにした。
 そんなドロテを眺める一人の男がセガワ家の玄関先に立っていた。初老の男だった。紺色のカットシャツにグレー色のブレザーを着込んでいた。頭にはベースボールハットを被せて、合成皮革の黒いウォーキングシューズを履いていた。男は表札を見やって、またもういちどセガワ家の玄関先にいるドロテを振り向いた。そしてセガワ家の外観をひととおり眺め渡し、そのあと今度は隣家のほうに視線を留めた。デザインの似通った家が二軒並んでいる。男は思い立って隣家の敷地の前へと歩き出した。両家とも門柱の形や色までもが同じだった。表札に刻んである姓はそれぞれに違った。玄関先に植え込んである庭草の丈も違った。家々の周囲に巡らされた生垣の様子も多少は違って見えた。
 男はセガワ家の門柱の前にまで戻ってくると、家の敷地に首を突っ込むようにしてドロテをしげしげと眺めた。そしてそれからまた表札を見た。
「ごめんください」男は一方の手で帽子を脱いで言ったあと、顔を上げたドロテに向かって頭を深々と下げた。「長男がご迷惑をお掛けしました」
「どちらさまですか?」
 杓子の縁から垂れ落ちた水滴が玄関前のタイル床に点々と落ちた。
 男はそのまましばらく上体を傾げたまま何も言わなかった。ドロテが杓子をバケツに入れて前庭の石板を歩き始めたところ――「セガワさんを訪ねて参りました」男は姿勢を戻して言った。若い兵士が上官に対するような口ぶりだった。ドロテはチサトの不在を男に伝えて、それから、彼女自身がセガワ家の借主であることを伝えた。男は緊張を削がれた思いのままドロテの顔をただじっと眺めた。
「チサトのお知り合いの方ですか?」ドロテは男の前に立ち止まって訊いた。
「以前、こちらのお宅の庭で、長男が迷惑をやらかしまして」
 それを聞いてドロテは憐れみに目を細めた。セガワ家が事故物件であったことを数日前に店主から聞いたばかりだった。「ご愁傷様です」語気を弱めてそう伝えたあと、家に上がるよう男を誘った。男はその誘いを丁重に断り、裏庭を見せてもらえるよう願い出た。
 セガワ家の縁側のシャッターは開いていた。ドロテ自身が電動スイッチを押して開けてあった。初老の男はその縁側の床に座って裏庭を静かに眺めていた。男の自宅の庭の様相と比べれば、セガワ家には住人の趣味を匂わせる物が何もなかった。そこに置いてある一台のブランコから連想されるのは個人の趣味ではなく公園の公共性でしかなかった。男はドロテの手から湯呑を受け取って頭を浅く下げ、鼻元に湧き立つ湯気と茶の匂いに頬をゆるめて安らかに息を吐いた。そしてそれから男は身近に腰を落としたドロテのまっすぐな背中を見て、すでに前に沈みかかっていた彼自身の半身をゆっくりと起こした。「ひょっとして何か、ご用事があったんじゃないんですか?」と男は訊いた。「外出されるときは仰ってください、私もおいとましますので」
「もおいとまし」と、ドロテは小首を傾げた。男の顔の輪郭や各部位に視線を移しながら、その言葉の意味に思い巡らせた。日差しの加減で男の顔色や頬の肉付きが見て取れた。
「“おいとま”というのは、ここを立ち去るという意味です」
 途中に区切りを入れて男が言うと、ドロテは納得して小さく頷いた。
 男はそれから踏板の外されたブランコを遠目に見た。芝庭を指し示して――草、伸びていますね――と言った。丈にして十五センチにも満たない。庭の全体の草がその先端を四方八方に垂らしていて、ただ庭の手入れの悪さだけが目に付いた。男はそうしてしばらく静かに庭を眺めていたが、思い立ったように自分の腹の前で一方の腕を水平に動かして見せた。「草を刈る――鎌は無いかな」
「セガワさんに訊いてみないと分かりません」ドロテは首を振って答えた。
 男は小さく相槌を打ち、いつからセガワ家に住んでいるのかと訊いた。ドロテはふと斜めを見上げて眉間に皺を寄せると、指折り日数を思い起こして「四日前です」と答えた。
 なら仕方ないですね。そう言って男は背筋を少しだけ伸ばし、どうしようかな、と、わずかな間を埋めるように視線を遠くへ投げた。男の口調につられてドロテもまた些細な悩みを共有するように軽い声を漏らしたが、それからほどなく彼女は両手を膝元の床に着いて正座から立ち上がり、「となりの家の人に訊いてみましょうか」と、癖のない日本語で言った。縁側のサッシに手をかけて軒下に身を乗り出し、生垣の向こうに隣家を見やった。

「いま、家にいないよ」答えて店主の息子は寝間着の胸元のボタンを留めようとして、ゆっくり顎を引いてボタンに指を掛けた。その様子を見てドロテは口元をほころばせ、心の惹かれるままに腰をかがめて息子の目ヤニを指で差した。
 店主の息子には草刈用の鎌に見覚えが無かった。父親が草を刈る際にはいつも電気モーターの音が鳴っていた。「鎌じゃなくても良い?」と息子は訊いた。
 初老の男は頭を横にもたげてドロテの後ろから息子に話しかけた。店主の帰宅を待って、あらためて草刈り機の使用の許しを得に来るつもりだった。息子は首を小さく横に振った。父親に承諾を得なければならない理由は特に無いのだと、目先の空を横切っていく一羽の鳥を目で追いながら言った。そしてそれから息子は屋外用のスリッパを履いたままドロテの脇をすりぬけて、「ついてきて」と、さっと男を振り返った。
 店主の家の外壁に沿って歩いていると、隣り合う二軒の家の対称性がはっきりと目に見えた。ドロテは通路に敷いてある石板に足を引っ掛けないよう気に掛ける一方、窓の位置やその形状にはじまり、通気口や雨樋の取り付け位置などをつぶさに観察した。手先を壁に這わせて歩くと、指の腹に摩擦の温みが感じられた。そうしているだけでセガワチサトを身近に想えた。カーテンの開いた窓の向こうに、セミダブルのベッドが一台だけ置いてあった。掛け布団の片端が大きく裏返っていた。
 初老の男もまたひとり思いに浸った。店主の息子の後ろ姿を眺めながら、そこに自身の長男の少年期の頃を重ね見ていた。長男の遺体の火葬が終わって以来、誰にかかわらず他家の子供の後ろ姿を見るたびに長男の姿を目に浮かべてきた。すべての子供らは男に対して後ろ姿だけを向けていて、男の記憶は次第にただ淡く縁取られていった。長男の死に顔を見ることが出来ず、それが今にまで至る唯一の心残りではあったが――それで良かったのだ――と男は思う。安置室の開いたドアの向こうで、彼の妻が台車の縁に手を掛けて床に崩れ落ちる。しかしそれでも男は部屋に足を踏み入れなかった。
 それで良かったのだと、そしてまたもういちど男は思った。
「鍵をかけているの?」とドロテは訊いた。
 初老の男は歩みを緩めた。斜めをふり返ってドロテの顔をまじまじと眺めた。
「そうだよ」答えて息子は縁側の踏石の上にスリッパを脱ぎ捨て、足早に床を歩きながら言った。「僕じゃなくてお父さんだよ。いちいち鍵を掛けるんだ、泥棒が入っちゃいけないからって」そして息子は縁側の内壁のフックに引っ掛けてある一本の鍵を手に取ると、また足早に裏庭へ戻ってきた。物置の鍵を開けて、一枚の大きな引き戸を開く。庫内の壁際に立て掛けてある草刈り機を両手で掴み上げてそれを外に持ち出す。
「充電式だね」初老の男は受け取った草刈機の本体を見て言った。
「使えるかな」と、息子は男を見上げた。
「どうかな」男は穏やかな笑みを口元に浮かべた。庫内の作り付けの棚を眺めて、充電器の置き場を訊いた。

 しばらくして店主が家に戻った。
 どこで草刈機のエンジンの音が鳴っているのか分からなかった。聞き慣れた音のようであって、音の性質がいつもとは違うようにも思えた。店主はレジ袋を両手に持ったまま、一方の手の人差し指を玄関の取手に掛けてドアを開いた。家の中に入ってリビングダイニングの出入り口をくぐり、台所の冷蔵室を開けてレジ袋の中身を室内の棚に入れていく。そうしていると、部屋の出入り口から息子の声がした。息子はトレーナーの襟首から頭を突き出し、前髪を一方の手で撫でつけながら台所に向けて歩いた「何か食べるもの無い?」
 店主は冷蔵室の棚に置いたばかりの蒸しパンを手に取ってそれを息子の前に差し出した。その袋の封を開けて息子は甘い匂いを嗅いだあとにパンを大きく頬張り、そのあと左の腕で店主の体をわきに押しやって冷蔵室の扉のポケットから牛乳の箱を掴み上げた。
「ドロテさんに草刈機を使わせたのか?」と店主は訊いた。
 頬を膨らませたまま、息子は不平じみた声を口先に溢した。手に持ったグラスを引き寄せて半量の牛乳を口に流し入れたあと、違うよ、と言った。「ドロテさんじゃなくて、お客さんが使うんだよ、庭の草を刈りたいからって」
「お客さん?」
「男の人」空のグラスに水道の水を流し当てながら、語気を上げて息子は答えた。
 くぐもった草刈り機の音が鳴っていた。店主は玄関を出て隣家を訪れ、セガワ家の呼び鈴を鳴らした。しばらく待っても、ドロテは玄関先に現れなかった。店主は表通路を歩いて裏庭に向かった。草刈機のモーターの音が次第に大きく聴こえてきた。裏庭では男が作業を続けていた。店主の知らない男だった。縁側の床にはドロテが座っていた。ドロテは胸の下で腕を組み、背を丸めた姿勢で男の庭仕事を眺めていた。
 店主の姿に気付くと、ドロテは寒さに首をすくめたまま大きな声を上げて店主を迎え入れた。その声を聞いて初老の男は作業の手を止めた。モーターの音が途端に小さくなり、同時に刃の回転が遅くなる。
「お借りしています」と、男は愛想の良い表情を浮かべて小さく頭を下げた。そして、それから表情をふっつりと消して、物思わしげに辺りを眺め渡した。その判然としない表情を顔に張り付かせたまま、男は店主に向けてもういちど頭を下げた。
 その後、作業の再開から十分足らずで、セガワ家の庭草がすべて短く刈り揃えられた。
「手間をお掛けしました」と店主は言った。初老の男は縁側のコンセントから充電器の電源プラグを引き抜き、結束バンドでケーブルをまとめてそれを縁側の床に置いた。
「出来た息子さんをお持ちで羨ましい」
 と男は唐突に言った。それを聞いて店主は恐縮の声を漏らした。
 そのあとすぐ二人のあいだに沈黙が差した。それを見取ってドロテは二人をリビングに誘ったが、対する初老は当たり障りない態度でまたその誘いを断った。ドロテは好意的な笑みを残したまま店主に手招きをした。茶の用意を手伝うようにと、気兼ねのない口調で伝えた。
「あの人の子供がチサトに迷惑を掛けたって」
 ドロテはガス台の火をつけて、初老の男から聞いたとおりの話を店主に伝えた。店主はすぐに見当を付けた。セガワ家の裏庭で起きた一件を引き合いに出して彼自身の推測を話したところ、ドロテは店主の顔をまっすぐに見て無言に小さく頷いた。
 相変わらずセガワチサトの置き残した家具や食器や家電製品ばかりがダイニング・リビングを占めていた。ドロテを個人付ける物といえば、その本人以外には何もなかった。
「私が、彼と話してみるよ」店主はドロテのあとに続いて部屋を出た。縁側に向かうにつれて屋内の気温差が肌身に感じられた。
 間もなく二人が縁側に戻ってくると、初老の男は一方の手を縁側の床に着いて店主の顔を斜めに見上げた。「家庭用にしては、ずいぶんと立派ですね」そう和やかな口調で言って、男はまたもういちどセガワ家の裏庭にブランコ台を眺めた。「ブランコが置いてある家なんてそうそう無いでしょう」
 店主は調子を合わせて笑みを溢した。「セガワさんがブランコに乗っているところを一度も見たことがありませんよ」それから店主は近くにいたドロテに目くばせをして「オブジェか何かだと考えていたんじゃないでしょうか」
 言い加えながら店主は二週間前の日の夜を思い返していた。サワムラアリサから聞いた話では、自分の家にもブランコがあれば良かったと、独り言を吐いたあとに当の青年が首を吊ったとのことだった。店主はサワムラアリサに対する配慮から、その遺言めいた青年の言葉を男には話さずにおいた。
「セガワさんは陶芸家でいらっしゃるとか」男は店主を振り向いて言った。「どのような“いきさつ”があって、自分の職業に陶芸を選ぶものなんでしょうね」
 そうした当たり障りのない話題をいくつか出していくうち、彼らの沈黙にも安穏が流れ始めたが、男はしかしそのあと何の前置きもなく自殺事故の経過状況を話し始めた。「遺書はありませんでした」それが彼の第一声だった。
 遺書は無かった。警察の検視の結果、死因は頚部圧迫による自殺とされた。
 その三日後、死体検案書を受け取りに警察を訪れ、それからまたさらに数日が経って、男の自宅に警察からの電話があった。署員の話によれば、チサトの自宅にフランスの警察官と日本人の大使館員を向かわせ、事の状況をチサトに通達すると共に、損害請求の意思確認をしたとのことだった。だが、少なくともチサトにはその意思が無かった。借主の自殺でもなければ屋内での自殺でもない。原状回復費や逸失利益などの賠償が請求されずに済んだのだと、署員は事務的な口調で男に言い知らせた。
「出費がかさまずに済んだだけまだ良かったと考えることにしているんです」それから男は言い切るような口調で言った。「もっと悪い死にざまが世の中にはいくらでもある」
 店主はただ無言に小さく頷いた。
「あなたが長男を発見してくださったとか」それから男は店主の顔を見て言った。「妻が発狂せずに済んだのは、きっとあなたのおかげですよ」
 それを聞いて店主は沸き起こる衝動に駆られ、二度目の首吊りで青年が死を遂げたことを男に伝えた。「もっとご子息と話をしておけば良かったのかもしれません」
 男は店主の横顔に無感情の視線を押し当てていたが、そのうち、ふと表情をゆるめて庭先に目を向けた。「長男はあなたに何か話しませんでしたか?」
 セガワさんに好意を持っていたそうです、と店主は答えた。
「そのようですね」男はそう言うと、ブレザーの内ポケットから携帯電話を取り出した。ディスプレイを指で操作して、保存してあった撮影画像を店主に見せた。73個の画像が『知里さん』と題したフォルダに保存してあった。うちの数枚にはチサトの顔が正面から撮影されていたが、その表情には好意も嫌悪も、そしてそれ以外の何がしかの些細な感情も見受けられなかった。男は店主の手元を斜めに見下ろして静かな口調で言った。「自分の目の前にいない相手を想って命を捨てるなんて、正気の沙汰ではありません」それから男はたったいま聞いたばかりのドロテのくしゃみの声につづけて言った。「ドロテさん、寒かったら家の中にお入りください、どうぞ無理をなさらず」
 鼻をひとすすりしてドロテは手のひらで口を覆ったまま二度目のくしゃみを堪えた。
「当たり前に考えてみれば、相手を想いながら一人で死ぬなんて、そう簡単に出来るはずがないんです」初老はドロテの顔から逸らした視線をまた店主の手元に落とした。「結局、長男は自愛におぼれて命を捨てたようなものです」
 店主は携帯電話の画面を見下ろしたまま操作の手を止めた。その画面にはどこかの町中を歩くチサトの後ろ姿が映し出されていた。妊婦用にも見えるその白い布地の服がチサトの足元までをすっぽりと覆っていた。店主はその白服に覆われたチサトの背中に見入って、湾曲した背骨をそこに想像した。
「なんとなく分かります」ドロテは小さくも決然とした声で言った。あなたの子供はチサトを心の支えにしていたんです。
「だとしたらね、ドロテさん」初老は一方の手を縁側の床に着いてドロテを振り向いた。「自分の心の空しさを埋めるために、なにか彼に出来ることは無かったのかな――そのためだけに、本当に何も出来なかった?」
 ドロテは黙った。男の言い回しがいまいちよく理解できなかった。
「結局、長男は考えることを放棄したんです」そう言って男は視線を店主の顔に伝わせてそのまま庭先に戻した。「恋やら愛やらを心の拠り所にして、あと半年を生き延びることも出来たはずだった」そして男は音を立てて鼻から息を抜いた。「世間にある気休めの愛で、ひとりの愚か者が救われる場合もある」
 男の物言いに含みを感じて、思わず店主は目尻に皺を寄せて無言に笑った。
「可笑しいですか?」初老がにんまりとして訊いたところ、対する店主はさっと視線を浮かせて取り繕うように首を振った。
「そういうの、かなしいです」ドロテは手元に視線を落とした。左右の手のひらで二の腕をさするその彼女の様子を見て、男は上体を斜めに倒してドロテの顔を下から覗き込んだ。
「ドロテさん。すこしだけ家の中にお邪魔しても良いですか?」と男は訊いた。
 その後、ダイニング・リビングへ通じる廊下を歩いていると、男の手首に巻いてあった腕時計がデジタルの音で正午の時刻を知らせた。男は自費で三人分の出前を取らせて欲しいと言ったあと、思い立って店主の息子の同席を提案した。店主は後ろめたさを覚えながらも事の状況を率直に伝えた。店主は、まだ息子に自殺事故の一件を話していなかった。男はその話を聞いて恐縮したように声を落として “何かと、ご迷惑をお掛けします” と、店主の心境を推し量った。
 リビングのソファに腰を落として、辺りをぐるりと見回し――立派なお宅ですね――そう言って初老はダイニングを振り返った。「そうだ、ドロテさん」
 冷蔵室の開いた扉に手を掛けたまま、ドロテは後ろをさっと振り向いた。店主はリビングテーブルの中央に置いてある一輪挿しのガラス瓶から逸らした視線を手元に戻した。
「どうして、あのブランコを使えなくしてあるんですか?」と男は訊いた。
 店主はドロテから借りたタブレット・パソコンの画面に弁当屋のウェブサイトを見下ろしていたが、その初老の言葉を聞いて顔を上げた。「うちの息子が以前、遊んでいるときに事故を起こしたんです」そこで言葉を切って店主はまたタブレットの画面に弁当の商品一覧を眺め下ろし、画面に指を滑らせながら半分うわの空で言い加えた。「ブランコの板は、私が持っています」
 初老は店主の視線を伝わせてタブレットの背面を見て、それから店主の目の動きを観察するように見た。
 出前の予約を取って通話を終えると、店主はタブレットの個人的な使用をドロテに求めた。ドロテの許可を得てタブレットの画面にインターネット・ブラウザを立ち上げて、検索欄に文字を打ち込んでいく――『食品分析総合技術センター』――そして店主はそのタブレットの本体をテーブルの向かい側の端に置いた。初老は店主の顔をちらと見やり、ソファの背もたれから体を起こして居住まいを正した。ブレザーの胸ポケットから薄い革ケースを取り出し、中から引き抜いた老眼鏡を着けてタブレットを両手に取る。画面に表示されたウェブページの内容をざっと閲覧したあと、老眼鏡の上縁を指で少しだけ下にずらして、テーブルの真向いに店主の顔をじっと眺める。
「先ほど裏庭で、なにか匂いませんでしたか」店主は男と視線を合わせて言った。
 微動だにせず店主の顔に見入ったあと男は、同意の声を小さく落としてタブレットの画面を指で差した。「あの匂いと“これ”が、何か関係あるんですか?」
 はじめに店主はウェブサイトをつうじてDNA検査を依頼したことを男に伝えた。検体はセガワ家の寝室で見つけた黒い粒状物だった。依頼書と検体を封筒に入れてそれを隣県にある事業所に宛てて発送した。検査を依頼すべきかどうか一度は迷ったが、その検査結果によって法的な責任を負う恐れは無かった。誰の行為に違法性があるかといえば、店主ではなくセガワ夫妻だった。
 また当然ながら店主には、彼の大義とも言えるものがあった。精神被害を防ぐ義務の意識にもとづいて検査に踏み切る正当性を彼は初めから得ていた。セガワ・チサトの夫の話では、店主とセガワの両家を囲っている生垣の木から “黒く小さな種” が落ちるとのことだった。日本への不法な輸入が示唆されていて、おまけにその種子の特性というのが人の精神に対する毒害だった。
 タブレットを受け取ると店主は、食品分析総合技術センターのウェブページの項目を何度か指でタップして『DNA塩基配列解析』と題した一項の内容を画面に出した。男はそのページに掲載された内容にざっと目を通して、それから、老眼鏡を外してリビングの大窓の向こうに生垣を眺めた。ツルを折り畳んだ老眼鏡をそのままブレザーの胸ポケットに挿し入れ、手に持っていたタブレット・パソコンを店主に返す。「その木が本当にあるものとお考えですか?」初老は訊いたあと、机の上に置いてあった革の眼鏡ケースに気付いてそれを手に取った。
「どこにでも植わっているという話です」そう答えて店主はタブレットの電源ボタンを押して画面の表示を消した。男は相槌を打って無言に何度か頷き、「図鑑にも載っているような木でしょうか」と、考えを巡らせて言った。「七万円を支払うほどの木ですか?」
 どこにでもある――先日の通話中、加護がそう言った。ところが、インターネット上にいくら調べてみても、イェフスと同じ外見をした木を見つけられなかった。世界中に現存する樹種の数は六万以上もあり、自力で調べるには限界があるように思えた。世界の樹木種のデータ・ベースに照らしてみれば、イェフスの樹種を特定できるかもしれなかった。
 イェフスの木の撮影画像が店主の手元には無く――(いつかセガワの夫から見せられた一枚の画像には、枝々を横這いに伸ばした一本の成木が撮影されていた)――そのため、木の外見を男に見せる術がない。店主は、加護の作陶映像に収録されていた一本の木について話すべきかどうか思い迷った。加護はその木を指して『イエス』と呼んでいた。果樹など数種の木の枝を接いであるのだが、その台木となった木の外見がイェフスの木のそれに似ていた。
「万がいち法に触れた場合、どうなさるつもりですか?」と初老は訊いた。
「警察の判断に従います」と店主は答えた。
 セガワ家の寝室にあった粒状物とセガワ家の庭草の断面からは、どちらも同じような甘い匂いがした。その粒がイェフスの木の種子である確証は無いが、しかし、そうでない確証もまた無い。セガワ夫妻の言葉を信用して生垣の剪定を定期的に行ったにもかかわらず、木の枝々に付いた種子を実際に目にする前から、もうすでにイェフスの種の幻視作用と思しい影響をきたしている。
 男は店主の無言の間を埋めるようにして話を続けた。「私共が知らない猛毒の木も、もちろん探せば何処かにあるでしょう――ですが、たとえそうであるとしても、なぜ、その木をわざわざ何本も家の周りに植えておくんですか?」
 店主は初老の顔に視線を戻し、それから、リビング・ダイニングの室内にドロテを探した。彼女の姿が見当たらない。部屋の外からは洗濯機の音が小さく聞こえてくる。
「大麻というものがありますでしょう」
 そう言って男は腕を組んで顔を下げると、テーブルの天板の一か所を見るでもなく見た。「あの、いわゆる薬物の大麻のことですが」と、言葉をついで彼はまたさらに「あれは麻の花や葉で作るんだそうです、種ではなくて」
 はじめに大麻の一言を聞いたときから、店主の表情が硬く顔に張り付いている。
「たしか、麻の種は栄養価値が高いんですよ」と、初老は店主の心情を察して言った。
「花は咲いていませんでしたか?」
 つづけて初老がそう訊き終える前に、店主はにわかにソファから背中を引き剥がし、テーブルに目を這わせながら腰を浮かせた。イェフスの木と大麻の類似性を考えると、ただ唯一、違法性の側面ばかりが頭に浮かんだ。店主は過去にイェフスの花を一度も見たことがなかった。セガワ夫妻から聞いた話の一部がごっそりと自分の記憶から抜け落ちてでもいたような気がして、とたんに生々しい緊張が背筋を走った。
 初老は店主の表情に注意を向けて「お坐りください」そして語気をわずかに上げて言葉をつづけた。「私が言いたかったのは“特に害がない”ということです。麻の種は栄養価が高い、いわば健康食品ですよ」
 店主は言われるままソファに腰を落とした。思い付くままに白い花を思い浮かべて、その花を裏庭の生垣の枝に見出そうと想像を巡らせた。上手くいかない。
 男は店主の表情をずっと注意ぶかく眺めている。「あなたを惑わせるつもりはありませんが、大麻を英語でウィードと呼ぶんだそうです。俗語ですが、ウィードの意味は“雑草”です」
「どこにでもある?」と店主は訊いた。
「なぜ種の匂いと草の匂いが同じなんでしょうか?」と、頷いたあとに初老の男は訊いた。
 店主は男の目をじっと見て「土」と、独り言のように答えた。さらにつづけて要因を推しはかり、眼前のテーブルに視線を下げて「根っこ」
 それを聞くと初老は両手を左右の膝に着いて腰を浮かせ、疲れを押し出すように息を吐きながらソファに座り直した。「あの程度の匂いであれば、敷地の外に漏れ出したところで不審に思う人はいないでしょう。木であれ植物であれ、たいてい何かしらの匂いを放ちますから」そして初老はそのあと草の切断面に作られる癒傷組織について話した。「ですから、何日かすれば匂いが収まるはずです」
 そうですね、と店主は心置きを抱えたまま言った。「しばらく様子を見てみます」
「検査結果が出たら、ぜひ私にもお教えください」初老はソファの背もたれに寄り掛かって後ろ首に両手を組み、そして店主の顔を見るでもなく見た。
 その後、店主がドロテの居所に話題を変えれば、男もまた当たり障りのない返事で話をつむいだ。正座に慣れたドロテの所作に対する感心を男は話した。日本語を流暢に話す理由が“日本のテレビ番組”にあったことを店主が話した。ドロテの両親はフランスのペルージュという町で観光ホテルを営んでいて、その立場からドロテの渡航費用をこころよく出した。丘の上にあるペルージュの町には古い石造りの家並みが広がっている。その町の景観の枯れた美しさに惹かれて町を訪れる人々が多くいる。いずれドロテは町に戻ってホテルの仕事を学ぶのだという。
 洗濯機の音はすでに止んでいた。リビングの壁に取り付けたエアコンからは生温い風が吹き出していて、室内にはそれをアロマオイルと特定できない程度の薄っすらとした澄んだ匂いが漂っていた。住人がドロテであるからこその無害がそこに感じられた。隣人を選ぶことが出来たなら、表現行為にいそしむ陶芸家ではなく、ホテルマンを志す学生であるほうが好ましいように思えた。
 そうしてドロテに関する話を男と続けたところで、しかし今ひとつ店主の気が晴れない。初老の男が自身の長男の死を追憶して他者と時間を過ごすように、店主もまたイェフスの木にまつわる他の話をして手早く心の均衡を得たかった。そして彼は、ついにそれを話すべきかどうか決められなかった。会話の場の雰囲気に流されて他言するには一抹の不安があった。その話の内容に含まれる疑いようのない現実味をあらためて認識すれば、心の均衡を得るどころか、むしろよりいっそう翌朝の目覚めが悪くなるような気がした。店主自身、なぜ加護幸久に関する一切の話に触れるべきでないと考えるのか、確かなことは分かっていなかった。
「ところで、ご存じですか?」
 と初老の男が訊いた。ちょうど店主が上着の袖口を一方の手で擦り上げて腕時計の表示を見たところだった。
「大昔のエジプトでは、大麻の煙を吸って神と対話したとされています」そう言って初老は一度下げた視線をまた店主の顔に戻した。店主は上着の袖に手を当てたまま男の顔を見た。
「ですがもちろん、それは神でも何でもありません」男は自身の左脇を振り向いてそこに視線を当てて見せた。といって、そこに何の特別な物が見えているのでもない。リビングの大窓から差し込む陽光がソファの座面の隅の埃を照らしているだけだった。
「あなたがいま見ているのも、ですから言ってしまえば、ただの幻なんです」
 そう言ってそのあと男が店主の背後を指差したところ、ちょうどリビング・ダイニングの壁に取り付けたスピーカーから玄関のチャイムが鳴った。男は下ろした手をブレザーのポケットに入れて、中から二つ折りの革財布を取り出した。
「私にも見えています」そして男はまたもういちど店主の背後を見た。
 店主は斜めを見下ろし「何が見えているんですか?」と、たったいま立ち上がったばかりの男の顔を見上げて訊いた。男は千円札の枚数を目で数える最中、指を札入れに差し込んだまま店主の背後を見て「あなたが見ているのと、おそらく同じものです」
 ドロテがリビング・ダイニングの前の廊下を玄関へと歩いていく。その姿が部屋の出入り口の向こうを横切ると、それを見て初老の男はリビングの床に歩を進めた。店主もまた、いそいそとソファから立ち上がった。男は後ろを振り向き、弁当代の支払いを気にしないようにと、一方の手のひらで店主の歩みをかるく制した。そして「妙なことです」と、前に向き直って言うやいなや、男はまた後ろを振り返った。「私が気づく前からずっとそこに立っていたようにも思えます」そう言って、首をわずかに横へ傾けた。

     〇

 一輪挿しの小さなガラス瓶をテーブルの下段の棚に置いて、四つ折りの濡れ布巾で天板を拭いた。一方の腕をテーブルに突いて身を前に乗り出せば、そのドロテの身ごなしに合わせて彼女の背中に引き寄せられるかのように、黒い靄がその形を滑らかに変えていった。テーブルを拭き終えたあとドロテが店主の隣に腰を下ろし、ようやく昼食の時間となった。
 正午を四十分ばかり過ぎていた。日本の弁当が好きだと、ドロテは言った。弁当の容器の底に手を添えては、その温みに安堵の声を漏らし、湯を注いであったカップ入りの味噌汁のふたを開けては、カップの上に顔を伏せてうっとりと息を吐いた。店主はその気取りない様子にドロテの平常心を見て取った。初老の男と店主の目に見えた物を、それと同じ外見のままドロテがもし見ているのであれば、彼女の心境がその表情に現れないはずがなかった。初老の男もまた同じく、ドロテの平然とした表情を気にかけていた。その思いを喉の奥に押しとどめて食事を始めたが、あるときガス台のやかんを取りにドロテが席を離れた際、男は店主の顔をテーブル越しに見て、それから語気をわずかに下げて言った。
「長男の近くにも、私共と同じように何かがあったはずです」
 それを聞いて店主はふと箸を止めて、“気付いていたのではないか”と思った。サワムラ・アリサの告白によれば、首を吊る前に青年はブランコ台の下に立って独り言をつぶやいたのだった。それはしかし実際には青年の独り言ではなく、その本人の身近にあった何がしかの存在に対する会話の発端だったのかもしれない。あるいは、聴き手の気配を意識した青年の短い遺言だったかもしれない。
「たしかに、そうかもしません」と店主は答えた。首を吊った青年の傍らで、ひっそりと夜に紛れていたのかもしれない。
 やかんを片手に「お待たせしました」と、ドロテがリビングに戻ってきた。店主と男はそれぞれ示し合わせたようにドロテを見た。







裏庭のバジル 38 

 セガワ家で男が首を吊ってから二週目の半ばに差し掛かろうとしていた。

 本人がそれを話題に出さない以上、その息子本人が自殺事故の一件を知ったかどうか店主には知りようがなかった。地元紙に小さく掲載されたのでもなければ、近隣の住人がぎこちなく同情を示すのでもなく、その一件を誰が知って誰が知らずにいるのか、考えてみても確かなことは何も分からなかった。と、店主はまたバツの悪さを覚えた。息子とセガワチサトの間にあった不可侵な関係性を思うがあまり、店主自身その二人の領域の周囲をぐるぐるとガードマンさながら歩き回っているようなものでしかなかった。そして、その結果として彼の心が満たされ、同時に蝕まれてもいくのだった。いつからとなく店主にも分かってはいた。死者に心を蝕まれる謂れは無い。息子に事実を知らせまいとするのは、セガワ家の裏庭で起きた一件と、その故人の身勝手を店主自身が忌んでいるからだった。一枚の布を頭に巻き付けて遺体が店主の前にぶら下がり続けるかぎり、店主はいつまでも一方的に男の存在を否定し、セガワ家の裏庭にチサトと息子の姿を見続ける。いつからとなく分かりつつあった。自分が苦しむ理由が他には見当たらなかった。

 セガワ家の裏庭にいるのは、しかし首を吊った男ではなく一人の見覚えのない女だ。もちろん見覚えがあるはずは無い。外国の女と接する機会は過去に一度も無かった。
 自宅の裏庭に面する縁側から女の頭を生垣越しに眺めていると、ふと店主の頭に頼りない予感が走った。そして彼は(結果としてそれは実際には起きなかったが)“二度目”に対する心積もりをごく自然に付けることが出来た。一度目をもって何かしらの確かな教訓を学んだわけではないが、その外国の女の横顔を眺めながら万一の事態を想定し、それに対処する方法を考えるぐらいのことは出来た。女はカーキーグリーンのセーターにベージュ色のロングスカートを身に付けていた。そのどちらもが女を小奇麗に見せていた。首元に巻いた長いマフラーと腰のわきに持った深緑のハンドバッグには、店主にとって縁遠いファッションの価値が示されているようでもあった。
 女は店主の視線に気付いていなかった。店主が生垣の上面に両肘をのせて「ハロー」と声をかけると、ようやく女は隣家の庭を振り向いてそこに店主の姿を認めた。女はサングラスを鼻元まで下ろして上目で覗き込むように店主の顔を見た。肩に掛かる長さの髪は薄茶色で、瞳は淡い青緑。サングラスを外して女が顔を上向けると、左右の頬と鼻に薄っすらと そばかす が浮いていた。女もおなじく「ハロー」と言った。
 それから店主はアーと声を漏らして「ユー・スピーク・イングリッシュ――アイ・スピーク・ジャパニーズ」と、あらかじめ考えてあった言葉を平坦な発音で口に出して言った。すると女は自分の胸元に一方の手を添えて「私、日本語、話せます」
「よかった」店主は息をついた。「そこで何をやっているんですか?」
「チサトの家を見ています」
「チサト?」
 女が頷く。
「彼女を知っているんですか?」と店主は訊いた。
 女は裏返るような調子を言葉の頭に付けて“イ”エスと答えた。店主は便宜的に「そうなんですね」と言って、それから女の傍らにある黒ずくめの物体に視線を寄せた。それは見ようによって人の影のようでもあった。

 きっかけは生地のフランスで観た一本の演劇だった。女はその舞台に立つ一人の日本人の姿を見て日本に関心を持ち、それ以降、日本のテレビ番組や音楽をうまく活用して日本語の勉強をつづけた。そしてそれから二年が経つ頃には、日用の日本語をだいたい話せるようにまでなった。日本語専攻科の教員がロールプレイの良い相手になった。
 チサトに舞台の出演を依頼したのは、同国で活動をつづける演劇プロデューサーの男だった。男は自国の芸術文化を紹介するコーナーをテレビ番組に観てチサトを知った。放送時間にすれば十分程度の映像だった。茶瓶の胴に取っ手をつけるその慣れた手付きに感心を覚えて、番組の放送中にかかわらずテレビ局に電話を掛けた。
「背が高いぶん、見栄えは良さそうだ」
 店主はチサトの背丈を思い起こして言いながら、チサトの居住地を思って心のうちに驚いた。加護幸久の作陶活動に密着したドキュメンタリー映像の中で“フランス”の一語がナレーションに組み込まれていたが、陶芸品の展示会場についてのそれが説明に過ぎないものとばかり店主は思っていた。まさかフランスにチサトが住んでいるとは思いもしなかった。
 女はセガワチサトに対する店主の評価を聞いて嬉しそうに相槌を打った。
「私以外にも、チサトのファンは多くいますよ」と女は言った。
 “ファン”の一言が気に掛かり、店主は思い立つままに訊いた。
「ということは、彼女は陶芸をやめたんですか?」
「やめたのは 舞台のほうです」女は小さく首を振って答えた。
「演技が上手くなかった?」
 女は清潔な笑みを浮かべて店主を見た。「たぶん、ほとんど演技なんてしていなかったと思います。チサトはただ舞台の目立たないところで陶芸家を演じていただけ」そしてそのあと「だけど」と、視線をもったりと浮かせて遠くの空を眺めやり、心もとない口調で自分に言い聞かせるように言った。「サツジンテキな魅力がありました」
「さつじんてき」店主の耳に馴染みのない言葉だった。
 女は店主の顔にあどけない表情を向けた。「ひとをころすみたいに」
「妙な日本語を覚えたな」と、店主は何度か曖昧にうなずいて言った。サツジンの意味を女が本当に理解しているのかどうか疑わしく思えた。
「椅子に座って手を動かしているだけなのに、そっちに目がひき寄せられるんです」女は言ったあと、それとなく同意を求めるように店主の顔をじっと見つめた。一方の店主がまた曖昧に頷くと、女はチサトの出演を振りかえって控えめでありながらも熱っぽく話をつづけた。店主の耳には女の話の内容がまったく入ってこなかった。その語り口調にファン心理を越えた執拗な賛意が見え隠れすることを除いて、他に感じるところは何もなかった。演劇の舞台上にあるチサトの姿を思い浮かべてみたところで、しかし店主の頭に浮かぶのはセガワ家の裏庭に立つチサトの姿でしかなく、どの場所にいようとその恰好と佇まいに変わりが無いようにも思えてくるのだった。店主は静かな相槌を打ちながら女の淡い青緑の目に見入った。頬には そばかす が点々と浮いていて、女のすぐ近くには変わらず濃淡の入り交ざる黒い物体があった。どれも女の個性を示す一部のようでもあるが、ただ、最後のひとつは見るからに女の影ではなかった。
「あの」と、それから女は気を良くした様子で、指差した方角に店主の注意を引いた。「あれは壊れていますか?」
 店主が振り向いた先にはセガワ夫妻の持ち込んだ一台のブランコがあった。たしかにそれは一見すれば壊れているようにも見えるが、実際のところはセガワ夫妻が家を空けて以降に一度も遊具として機能していないだけのことで、けっして壊れてはいない。店主は返事をためらった。踏み板が取り外されたその理由に触れるのを避けるために、「いまは使えません」とだけ答えておいた。
 女はしばらく静かにブランコを眺めていた。その間じゅう店主は見るでもなく女の後ろ姿を見ていた。セガワ家の裏庭に置いてある踏み石に座ったまま、そうと気付かず眠気にまかせて後ろに背をもたせ掛けると、その店主の体の重みで縁側の白いシャッターの鉄板が微かに音を立てた。女は後ろを振り返った。
「ひとつ訊いても良いかな」店主は上体を起こして言った。「どうやって君はこの家の場所を知ったんですか?」
「どうやって?」女は小首をかしげて訊いた。店主は女の疑問する理由に思い当たって今度は言葉を変えて訊いた「誰から教わったんですか?」
「チサトです」女は迷う様子もなく答えると、セガワ家の所在を知るに至ったいきさつを話し始めた。
 個人間の意思疎通を目的とするウェブサイトにセガワチサトの登録ページがあった。チサトは熱心なユーザーではなかったが、不定期でありながらも投稿を続けていた。そのほとんどがチサトの日常生活の一部――出先にある自然風景や料理などの撮影写真――だったが、それらの投稿のひとつにセガワ家の借主の募集記事があった。女はその記事のコメント欄にメッセージを打ち込んでチサトの返事を待った。そしてその後、募集要項に書いてあったとおり、個人間の賃貸契約を仲介するインターネットサービスに利用登録をして、それからまたあらためてセガワ家への居住を願い出た。家の敷地面積や間取りからすれば賃貸料が安く設定されていた。大学生である女には手の出しやすい物件だった。
「いまは休学中です」と、女は店主の問いに答えた。
「日本に来るために?」
「病気になれば簡単に休学できるんですよ」女は含みのある穏やかな表情で店主を見た。その言葉の示すところに思いを巡らせていると、店主の頭に思いがけず嫌な想像が浮かんできた。休学願いの受理を目的として、いったいどの程度の病気に掛かれば良いのだろう。
「これ以上、詳しい話は聞かないほうが良さそうです」そう言って店主はそのあと話の筋を変えて女の反応を見ることにした「それで、どうですか、この家――」自宅とセガワ家の見慣れた外観にさっと視線を巡らせる。
 女は微妙に表情を曇らせた。「“家”ですか?」
「セガワさんの家と私の家の並びを、いちどご覧になってください」
 セガワ家の玄関先に出るよう女に伝えたあと、店主自身もまた裏庭用のスリッパを履いたまま自宅の玄関先に向かった。携帯電話の画面には16:33の時刻が表示されていた。日曜日であるとはいえ、店主の息子が日没を過ぎて帰宅することはまずありえない。そのうち帰宅した息子が店主の不在に気付いて電話を寄こすに違いなかった。店主は息子の几帳面な性格を思い返しながら、“気にしているのは私のほうだ”と思った。セガワ家への入居者が決まったところで、店主自身に対する何の不都合もあるはずがなかった。不都合はすべて彼の想定の中にあった。
 まもなく二人は玄関先の道路で落ち合い、両家の敷地を二分する境界線のあたりに立ち位置を取った。女は納得したように表情をゆるめて「このことですか」と言った。店主の気兼ねも空しく、女は気に掛けるようなそぶりをまったく見せなかった。両家の対称的な並びについてはすでにチサト本人から知らされており、むしろそれをユニークな家構えだとすら思っていた――おもしろいですよね、と、女は屈託のない笑みを浮かべて両家の外観を興味ぶかげに眺めた。店主はその様子を見て少しだけ気が楽になった。彼自身がそれまでのあいだ抱え続けた負い目が失せていくようだった。
「この家について、彼女は他に何か言っていましたか?」と店主は訊いた。対する女が素直な顔で店主をじっと見つめたもので、彼は思わず小さく吹き出した。胸の奥に張り付いていた杞憂が失せていくのを感じて、ただ事実だけを女に率直に伝えておくことにした。「あとになって彼女と君のあいだでトラブルが起きないように、ここで前もって君に伝えておくほうが良いように思うんです」
 女の表情には特に変わりが無かった。店主はさらに続けた。
「あとになって、私が彼女から恨まれることになるかもしれませんが」
 言いながら店主は、前置きを二度も続けた自分をひどく頼りなく思った。
「トラブルって何ですか?」女の表情にわずかな陰が落ちた。店主は、うっかり口に出しそうになった“死”の一言を飲み込み、この家で人が亡くなったんです、と伝えた。
 店主の頭によぎった嫌な予感はあっさり外れた。女の不安はチサトとのあいだに起きうるトラブルに対するものであって、セガワ家で起きた自殺事故の一件にはなかった。「気になりません」と、女は安堵の思いに駆られて、かるく握った拳で店主の胸を小突いた。それから手を下ろしてセガワ家を斜めに見上げて言った。
「チサトのこと好きですから」
 女の発言の脈絡については考えないことにした。店主はそして女の心持ちを疎むのではなく、むしろ好意的に後押しをするつもりで訊いた。「本来ならきっと、彼女から君に事実が伝えられるべきだったんです。そんなふうに考えたことはありませんか?」――考えれば考えるだけチサトの無責任な対応が見えてくる。家の所有権がまだセガワ夫妻にあるのだとすれば、日本を離れたといってチサトに何も知らされていないはずが無かった。
「そうですね」女は視線を逸らして言った。「あなたの言うとおりです」
 そのとき二人の近くで声がした。
「お父さんの知り合いの人?」
 店主は声の出どころを振り向いて、かるく挨拶がわりに手を上げて息子の帰りを迎えた。「今日、庭で知り合ったんだ」
「庭で知り合うって、めずらしいね」息子は女をちらと見やった。「僕らの家って、外国と繋がっているんじゃないかな」
 それを聞いて女は満面の笑みを浮かべた。店主の息子の前に歩み寄って膝を折り、片方の手を差し出して“はじめまして”と、ほとんど癖のない発音で言った。息子は女の握手に応じながら、彼の眼前にある 淡い青緑の目 を物思いに見つめていた。
「この人、セガワさんの家に住むらしいんだ」
 店主は息子の横顔を斜めに見下ろして言った。
「なんで、こんな家を選んじゃったの?」と、息子は女の顔に視線を戻して訊いた。
 ただ単純に素朴な疑問を投げただけのことだった。何の含みがあるわけでもないのだが、そこにこそ息子の内心が垣間見えるようにも店主には思えた。
 女はセガワチサトを知った経緯をみじかく分かりやすいように説明して、居住の理由をチサトに対する好意に結びつけた。息子は無言に女の話を聞いていたが、ひととおり話を終えた女に名前を訊いて、その聞き知った名前を呟くように口に出して言った――ドロテ――「家の中、もう見た?」と息子は訊いた。ドロテは首を横に振った。近々、フランスにいるチサトから家の鍵が送られてくる手筈になっていた。店主は配送物の紛失を心配したが、ドロテにはその気持ちがほとんど理解できなかった。お父さんは考え方が古いんだよ、と息子は言った。
 その後、夕暮れの匂いが薄っすらと立ち込める時刻を迎え、ドロテは駅前のビジネスホテルに戻ると言って店主らに別れを告げた。息子は女の後ろ姿を遠くに眺めて、セガワさんよりもお洒落な人だね、と、静かな表情のまま誰に言うともなしに言った。

 後日、仕事から帰った店主の目にセガワ家の窓灯りが映った。チサトが家を出てから三か月あまりが経った日のことだった。店主が部屋着に着替えてリビング・ダイニングの出入り口をくぐろうとした際、家の玄関チャイムが鳴った。
 ドアの向こうにドロテが立っていた。数日前のものと同じ組み合わせの服を着ていた。ドロテは菓子折りを店主の前に差し出してそれが日本的な引越しの挨拶の様式であることを嬉しげに話した。それを聞いて店主も思わず笑ったものだが、ドロテはそのあと視線を下ろして躊躇の声を漏らすと、あきらめたような表情を微かに浮かべて店主の顔をもういちど見た。もともと休学期間に定められた半年間の定住を予定していたところ、先日の家見をつうじて予定を三か月に変更したのだった。
「気持ちが変わった?」と店主は訊いた。
「私ひとりで暮らすには広すぎるかなって」ドロテは答えた。
 店主は何度か小さく相槌を打って、そうかもしれませんね、と言った。店主と息子の二人住まいにあってすら家の余分な広さが感じられるほどだった。
 セガワ家には生活に必要な家具や家電製品がすべて揃っていた。どの部屋の灯りもすべて点いたし、水道もガスもすぐに使えた。掛け時計には正しい時刻が表示してあった。トイレと冷蔵室に入れてあった消臭剤の液体が無くなっていたのを除いて、チサトの生活の確かな跡はほとんど何も残っていなかった。冷蔵庫の中もゴミ箱の中も空っぽだった。料理皿やベッドシーツにも使用感がほとんど無かった。新しく生活を始めるにあたって自分で用意するものといえば、それこそ冷蔵庫に入れておく飲食物ぐらいのものだった。「こんなに楽な引っ越しは初めてです」とドロテは笑った。
 その明るい表情がわずかに曇るのを店主は見て取った。
「チサトからの伝言があります」ドロテは出し抜けに言った。その顔に差し込まれた愛嬌がどことなく不自然だった。
 表情に気を取られるあまり、店主はドロテの言葉を頭の中で反芻したあとに適当な返事を考えなければいけなかった。「なに――伝言?」と、そしてドロテを差した指をそのあと彼自身の顔に差し向けて言った。「私にですか?」
「はい」とドロテは一言で答えた。「ベッドの下を見てください、って」
 店主の眉間に真っすぐな皺が寄った。理解のできない状況を前にして思考回路が粘り付きでもしたようだった。店主は口をひどくゆっくりと開いて、好ましくない秘密を打ち明けるように小さな声で言った。「そういう趣味の悪いのは、きらいなんだけどな」
 ドロテは返事に困って視線をわずかに下げると、間もなく店主の表情をうかがうように上目で彼の顔を一瞥した。店主はその様子を見てとっさに表情を緩めた。
「ところで、誰の家のベッドの下を見ればいいんですか?」と店主は気を取り直して訊いた。

 先立って階段を上りながら店主は、チサトと酒を飲んだ一夜を思い返し、冗談交じりのチサトの言葉を記憶の隅から引き寄せた。その夜、チサトは建築に利用される木材が樹木の死細胞の固まりであることを店主に話して聞かせた上で、一戸の家屋そのものを棺桶に例えたのだった。またそれに加えて――木材で築き上げた家の中で人が生活をしているのだから、つまり人は一生の大半を棺桶の中で暮らし、一生の終わりを棺桶の中で迎えるのだと。
「これまで一度もそんなふうに考えたことないです」ドロテは突っ返すように言った。
 そのチサトの過去の言葉は店主とドロテの想像を掻きたてるには十分だった。チサトの性格の一部を知る店主にはそれがチサトのでたらめな発言であって当然のようにさえ思えてもくるのだが、こうして寝室に向かう最中にあっては、その話の内容に妙な真実味が感じられる。店主の後ろを歩きながら、ドロテもすっかり黙り込んでしまった。
「そこです」ドロテは店主の背後で声を上げて、視界の先にある一枚のドアを指した。
 店主がセガワ家の二階に上がったのは、これが初めてだった。階段の曲がる方角とその角度が店主の自宅のものと左右真逆になっていた。階段を上がりきった先にもまた彼の想像どおりに部屋が並んでいた。店主は三つの部屋のうちの最も広い一室の前で立ち止まった。そしてドアノブに手を掛けたまま後ろを振りむき、かたい表情を張り付かせていたドロテに気軽な調子を込めて訊いた。「ベッドの下に何があると思いますか?」
 ドロテは無言に首を振った。「わからない?」と店主が訊くと、ドロテは一度だけ無言に頷いた。「部屋の中に入るのが嫌だったら、ここで待っていてください」そう言うと店主は前に向きなおってノブを回した。扉の向こうに何があるかと、今しがた階段をのぼる途中で一度は暗澹とした気持ちになったものだが、もうそれどころの心境にはなかった。彼の気掛かりは他にあった。家の二階に立ち入らないままドロテ本人が三か月の契約期間を終えるのではないかと、彼女に対して同情せずにはいられなかった。
 そんな店主の気も知らず一方のドロテは、戸枠の前に立ったまま部屋の中をぐるりと見渡し、店主の耳にまで届くぐらいの音を立てて鼻から息を吸った。
 木材の豊かな匂いが部屋の中に立ち込めていた。その匂いを自宅に嗅いだことは一度もないが、出どころが何処にあるかは一目見て明らかだった。店主は生活感のない部屋を一方の壁際へと向かい、一台のダブルベッドの前で立ち止まった。それは見るかぎりベッド以外の何物でもなかったが、その重厚な造りには目を見張るものがあった。大型の本棚を横たえたような佇まいをしていて、艶びくベッドフレームの全体には東洋的な模様が彫り刻んであった。分厚いマットとグレー色の枕にセガワチサトの寝具の好みを漠然と思い浮かべでもしていないと、そのベッドの持ち主をどこかの高貴な家系に生まれた人物か何かと勘違いしそうになる程だった。店主はベッドフレームに掘り込んである二か所の取っ手を見下ろし、「ほら」と、寝室の出入り口に立っていたドロテに呼びかけた。「引き出しがあります」
 ドロテは関心と不安の入り混じった視線を店主の足元に投げた。
「開けますよ」と、自分に言い聞かせるように言ったあと、店主はフレームの取っ手に両手の指を引っ掛けて、身を屈めたまま後ずさった。ベッドの引き出しが音も立てずにレールの上を滑った。店主の無言を気にかけてドロテはおそるおそる部屋に足を踏み入れた。店主は棒立ちのまま引き出しの中を見下ろしていた。
「なんですか」と、ドロテは店主の足元から部屋の窓辺に注意を逸らして、たどたどしい足取りで数歩を踏んだ。一方、店主はうしろを振りむいて厄を落としたような表情で答えた、「ただの陶芸品ですよ」それから片方の手をドロテの前にかざした。
「ですが、これを見るかどうかは君自身で決めてください」
 ドロテは部屋の一方の壁に顔を背けた。「どういう意味ですか?」
「ただの陶芸品です」と店主は繰り返した。「ですが、これを見て君が気分を害するかどうか私には分からないんです」
 しばらくしてドロテは視野の一部に店主の姿をわずかに捉えたまま部屋の外へ引き返した。「どんな作品ですか?」彼女の履いたスリッパが戸枠の下辺を擦る。
 店主はベッドの引き出しの中を見下ろしながら説明の口調で答えた。
「人の体を模してあります。ですが、頭がありません」
 首の中が空洞になっていることから、全体が空洞になっているものと見て取れた。体表には濃淡の異なる茶系の色が複雑に塗り込めてあるが、その全面が透明なガラス質で覆われているため、塗料の塗り重ねによる凹凸がまったく無い。手足の指先まで細かく作り込んである。性別や個人を特徴づける物は何も無い。全身の線は細くも太くもなく、乳房や性器またはそれを思わせる類の物は何も付いていない。
 店主はその“隙間”に視線を這わせた。人の胴に当たる部位だけが上面と底面のパーツに分けられていて、パーツを重ね合わせた接面には僅かな隙間があった。店主は腰をかがめてその隙間に両手の指先を引っかけ、指を少しずつ押し込みながら胴部の上面を持ち上げた。陶製のことだけあって、ずっしりとした重みが左右の腕に伝わってきた。店主はそれを部屋の床に置いたあと、音を立てて息をながく吐き出し、覚悟をつけて引き出しの中をもういちど見下ろした。
 胴の底部には陶製の平らな板が埋め込んであった。板の全面には黒味がかった細かい粒が敷き詰めてあり、板の中央のあたりには木で作った小屋の模型が置いてあった。その小屋の模型を取り囲むようにして材質の知れない樹木の模型が何本も密に並べてあるが、葉に相当する部品が付いておらず、枯れ木を模してあるようにしか見えない。
 形状を留めたままそれを部屋の外に持ち出すのは難しく思えた。全長にして二メートルほどの丈がある。店主はベッドの引き出しをゆっくりと閉じて、そのあとドロテを振りかえった。ドロテは部屋の外の壁際に座り込んでいた。
 店主は部屋の出入り口に向かい、一方の肩を戸枠に寄せかけて言葉を探した。
「どうしますか?」と店主は訊いた。他に言葉が見つからなかった。
 ドロテは無言のまま店主を見上げた。
「あれをあのままの状態で家の外に持ち出すのは、なかなか骨が折れそうです」と、店主はドロテに視線を落とした。「だから、あのままベッドの下に置いておくか、もしくは金づちで叩き壊して家の外に持ち出すか――」
「チサトと何かあったんですか?」
 店主はしばらくドロテの顔を見下ろしていた。何のことを言っているのか理解できなかった。「何かって、何のことですか?」
「トラブルです」
「ないですよ」
 と、店主は廊下の壁を正面に見やって首を振った。「ただ、もしかしたら私と彼女のどちらかがトラブルの元になってしまっていたかもしれません。――それか、トラブルに引き込まれやすい――いや、だけど、引き込まれやすいように見える人がトラブルの元凶だったりもするから。――なんていうか、今のは、ものすごく有り体な言い方かもしれないけど」と、そこで店主は言葉を切った。ドロテの一言が具体的にどの類のトラブルを示しているのかと気にしながら、そこに隣人関係か男女関係にまつわる問題を当てはめて解釈をしようとしたが、そうしているうちに彼の口から突いて出たのは単なる弁解じみたものでしかなかった。「私と君のあいだに何もトラブルが起きていないのだとしたら、たぶんそれと同じ意味で、セガワさんと私のあいだにもトラブルは無かったんだと思います」
 言い加えて店主は寝室のドアを静かに閉じた。腕時計を手首に見下ろすと、『19:38』の表示があった。
 店主は鼻から息を抜いた。一介の父親としての面目にかかわる状況だった。「もうそろそろ帰ります」そう言ったあと、床に座り込んだドロテの腕をすくい上げるように手でつかんでその彼女の体を引き起こした。そして店主は足元の床をちょいちょいと指して、彼の記憶にあるリビングの様子を思い浮かべて言った。「一応、ソファの下も見ておきましょう」
 二人はそれから階下におりて、リビングに置いてある二台のソファの下を覗き込んだ。ほんの少しだけ埃屑が落ちていた。その他には何も無かった。「ここで眠れば、悪い夢を見ずに済みますよ」と、店主はソファの座面をかるく手のひらで何度か打った。
 ドロテはただ無言に肩をすくめて見せた。
「酒は飲めますか、ビールか何か」店主は思い付くままに訊いた。「もし冷蔵庫の中に買い置きが無いなら、私の家にあるやつを二、三本持ってきますよ」と、眉を上げて目をかるく見開き、それとなく返事をうながした。
「ありがとう、でも私、お酒が飲めないんです」とドロテは答えた。
「だったら、この部屋に何か音楽を流せば良いと思います、ラジオでも良いし――」
 リビングを見回してみたが、それらしい機器はどこにも見当たらない。CDプレイヤーもなければテレビもない。店主は迷うことなくリビングの一角の壁を指して、テレビのアンテナ端子の位置をドロテに言葉みじかく伝えた。「私の家のテレビで良ければ、いまから取りに帰るけど、どうかな」いつか息子に買い与えたテレビゲーム機もある。
 ドロテは落とした視線を自分の足元に泳がせたあと、首を何度か横に振った。その彼女の一挙一動に店主は注意を払おうとしたが、そうしているあいだにも彼の意識の隅のほうから時限が差し迫ってくる。無言の相手に対する気の利いた言葉が見つからず、ついには相手の胸中を察する時間に耐えられなくなる。
 ありがとうございます、でも、もう大丈夫です。と、ようやくドロテが口を開いた。
「気が落ち着かなくてどうしようもないときは、私の家に来てください」店主は胸を撫で下ろす思いで言った。「食べ物はあるし、テレビもある――テレビ・ゲームもあるし、それに他にも色々、電子レンジとか」
「電子レンジ」ドロテは力なく言った。その言葉尻に混じった薄笑いを聞いて、店主はわずかながら口調に勢いを付けて話した。「型落ちのノートパソコンとか、ウォシュレット付きの便座とか」さらに声を張って続ける。「ここ最近、電化製品を買い替えていて思うんです、取扱い説明書を読むのが私は好きなんだろうな、って」――言いながら店主は一方の手をドロテに掲げて見せて、そのままリビングの出入り口に向けて歩き出した。すると彼の背後から、“説明書”と、ドロテの声がする「私も読みますけど」
「そうでしょう」
 店主は語尾をわずかに上げて言ったあと、上着のジッパーを首元まで引き上げた。「それが、うちの息子ときたら、はじめから自分の勘だけを頼りにボタンを押し始めるんです、これはスタートボタンで、これは調節ボタン――見れば大体分かるじゃないか、という具合に」
「そういうときもあります、私も」とドロテは言った。とっさに歩を止めて後ろを振りかえり、廊下の壁にさっと手を伸ばした。玄関の照明スイッチを指で弾くと同時に、店主の視界の先に白い灯りが点いた。店主は斜めを見下ろして礼を言った。

「もしご迷惑でなければ、セガワさんに伝えてもらえませんか、“君の考えていることは私にはよく分からない”って」
 冷たい風が玄関先を流れていく。時刻は二十時を過ぎようとしていた。
「良いですけど、本当に伝えるんですか?」
「私なりにいろいろ考えてみたけど、分からないものは分からない」
「いいのかな」と、苦笑いを微かに浮かべてドロテは小声で言った。
 かまわず店主は頷いた。そして何ということなくドロテの首元に視線を落とし、思い付くままに口早に言った――あの模型のモデルになった場所に財宝が隠されているのかもしれない。でも、だからって、どうしろっていうんだ――仕事をやめて子供と一緒にフランスに来い――って言いたいのか?
 そう言うなり店主は腕時計を手首に見下ろし、表示板のバックライトを付けて――腹が減ったので帰ります――と言った。すると、ついさっき調子を取り戻しつつあるように見えたドロテの表情に、また薄っすらと不安の色が張り付いた。
「なにかあれば、うちに来てください」
 それ以外の言葉が店主の頭に浮かんでこない。
「チサトからの伝言がまだあります」
 店主は呼吸をしずかに何度かくり返した。冷え切った足首に他方の足首をこすり付けてみるが、スウェットパンツの表面を擦り合わせ続けたところで気分は少しも良くならない。「腹が減ったよ」と、店主は玄関の上がり框を指して、中に入れてもらえるようドロテに訊ねた。上着の左右のポケットに手を差し入れて、自宅から携帯電話を持ち出さずに来たことの不注意をまたもういちど思い返した。框に腰を下ろして足元のタイル床を眺めていると、そのうちポケットの中で指先が温みを持った。
 それから五分もせずにドロテは玄関に戻ってきた。右手にマグカップを持って、タブレットパソコンを左腕に抱えていた。「これ、どうぞ」と言ってカップを床に置いたあと、タブレットを抱えなおして指で画面の操作を始めた。店主はみじかく礼を言った。カップの中にはコーンポタージュが入っていた。

 私の身のまわりにいた方々と進んで関わり合いにならないでください。
 良い人もいますが、中には悪い人もいます。どちらの人も良い一面と悪い一面を持ち合わせていますが、そこにはもちろん程度があります。大きな善意より小さな善意の方に大きな力がある時もありますし、大きな悪意よりも小さな悪意のほうが厄介な時もあります。良い人は本当にそれが必要な時にだけ小さな悪意を持ちます。悪い人はそれと同じ小さな悪意をすぐに大きな悪意に持ち替えることができます。
 まさかフランスに来ることになるとは思いませんでした。昨日まで日本にいたのに、その次の日にはフランス行きを決めていたんです。やっぱり私は運が良かったです。私を認めてくれる人がいたので今も陶芸を続けています。だから、どこへ行っても陶芸を続けていけます。
 どこに行っても多かれ少なかれ人はいますが、ここは人の数が少なくて、人の流れも少ないです。私が住んでいる町にはお金持ちの人ばかりが住んでいます。ただでさえ住人が少ないのに、みんながのんびりと暮らしているので、時間の流れがゆっくりしています。襟首が伸びたシャツを着ている人もいますし、お客さんが来ないカフェを一人でやっている人もいます。森の小人の家みたいな家に住んで、すごく質素な暮らしをしている人もいます。
 しばらくここにいようと思います。次にどこへ行くことになったとしても、私を気にかけてくれる人はパソコンの向こう側にいるので、治安が良い町へならどこへでも行けます。パソコンがあるから、こうしてメッセージをすぐに送れます。
 私が作った陶器をインターネットで販売しています。日本への輸送料金は少し高く付きますが、もし気に入るのがあったら買ってください。表示価格よりも少しだけ安くします。http://untitleddd.nobody.jp/
 では、さようなら。

 聞き終えて店主は、ドロテの無言を気にかけて本人の顔をそれとなく横目に見た。
「直接、チサトとメッセージを交換しますか?」とドロテは訊いた。「もし私が文章の内容を読んでご迷惑でしたら」
「いや」と、店主は反射的に答えた。「それより、ひとつ気になることがあるんですが、いつも彼女はそんな手紙みたいな文章を送ってくるんですか?」
「私とは契約についてのメッセージを交換するだけです」ドロテは首を横に振って答えた。その淡い表情から本人とチサトとの関係性の程度が読み取れた。
「そうですか」店主は何度か小さくうなずいて見せた。うっすらとした眠気に流されてそのまま何度でも繰り返してしまいそうだった。「じゃあ、私からのメッセージを別のものに変えます」
 ドロテはそれを聞いて少しだけ怪訝な表情を浮かべたが、間もなく店主の言葉を正しく理解して「“さっきの”ですね、分かりました」と、タブレットを操作してメモ機能を立ち上げた。「どうぞ」と、器用な手つきで店主の伝言をタブレットの画面に打ち込んでいく。
「君は善意や悪意よりも“もっとややこしいモノ”を持っているよ」
 さらに店主は抑揚のない声で言った。「たぶん私は、君の一番ややこしい作品をベッドの下に見たんだと思う。だから申し訳ないけど、君が教えてくれた販売サイトでは何も買わないだろうな」
 そこで言葉を切って店主はカップをぐいと傾けて、その内側に垂れ流れるのを舌先に落とした。そしてそのあと、正座しているドロテの膝のわきに空のカップを置いた。
 
 帰宅して店主は上着のポケットに手を入れて、中から粒状の一つまみを取り出した。それはセガワ家の寝室から持ち出してきたものだった。ある思いに駆られて店主はその粒の匂いを嗅いでみた。チサトのベッドの引き出しを開けたとき、すでにその匂いが彼の鼻先を撫でてはいたが、それとまったくおなじ 微かな甘い匂い が彼の指先にある。店主には心当たりがあった。いつかセガワ家の庭からむしり取った草の断面にその匂いを嗅いだことがあった。
 どこだろうな、と店主は思った。セガワ家のベッドの下にあった模型の小屋が“もしどこかに実在するのであれば”、あの禍々しい色をした人型の作品がなぜ作られたのか、その理由が何か分かるかもしれない。そうしてしばらく考えていると、そのうち店主の頭にはっきりとした記憶が沸き起こった。加護の作陶活動を追った映像の中に本人の所有する広畑が映し出されており、そこに収録された英語のナレーションによれば、その畑に森をつくって畜舎を建てる、と、将来の理想を加護が語っていたのだった。




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裏庭のバジル 37 


 それからまたさらに三日が経った。店主の自宅にあるパソコンの電子メール宛に一件の受信があった。その加護のメールによれば、映像メディアに収録された動画をパソコンに取り込む手段を探して知人を頼り、ようやく三日後のメール送信に至ったとのことだった。“ビデオの管理を見直す良い機会になった”と、加護は書き添えてあった。そしてそれに対して店主は先日の通話中に話したとおりの内容をメールの文面でもういちど加護に伝えた。息子の目に付かないところに動画を保管しておきたかった。息子のチサトに対する思い入れを今さら余計に強めさせたくなかった。
 ――知里が子供に懐かれる性格だったとは意外です。加護のメールにはそう書いてあった。
 ――語弊があるかもしれませんが、セガワさんは私の息子に良い顔を見せようとはしていませんでした。息子はそんなセガワさんに親しみを感じていたのかもしれません。相性が良かったのかもしれない、と、キーボードを打ちながら店主は思った。

 通話中に加護が話していたとおり、動画には店主の知らない映像が収めてあった。
 焼成中の作業風景だった。黙って作業をつづける三人の姿が机上に置いたビデオカメラの向こうを横切る。すると、窯小屋の天井の灯りを受けた細かな塵が、微細な光を放ちながら映像の一角を薄っすらと流れていく。確かにそれは、陶芸展に効果的な演出だった。その演出の意図が店主にも伝わってきた。炎の音と、薪の爆ぜる音と、作業者らの足音、さらにまたその彼らの色味のない会話の声によって、展の館内の一角に作業現場の臨場感が漂っていたに違いない。店主は感心の小さな唸り声を吐き出して、前に屈めていた上体を起こしてダイニング・チェアの背もたれに寄り掛かった。
 加護の話にあったように、素焼きをした陶器をチサトが投げ壊す映像も収めてあった。チサトの上気した表情と口先の白い息が印象的だった。四面から成るセメント壁に一個の陶器を投げ付けると、薄布で包んだような鈍い音を立てて陶器が割れ散った。「よし」と、チサトが手ごたえを感じていると、「お前のは、ただ物を壊しているだけなんだ」と、加護が不平じみた口調で言った。するとチサトは背後に立つ加護を振りかえり、目尻に笑みを浮かべて今度は撮影カメラを見やった、「いつも加護さんはそう言うけど、でも、加護さんって、あの……私の頭の中で弾ける、光みたいなものが見えていないの」――それを聞いた撮影者が相槌をみじかく打つ。「光ですか?」と、撮影者の問いが通訳者を介してチサトに伝えられると、チサトは無言に膝を曲げて、足元に置いてある粘土色の器をまた手に取り、しばらく思いを巡らせてから答える。人の声みたいな光です。
「詩人の卵じゃないか」と、加護は親しみと悪戯を交えた調子で言った、「殻の中で自分の声を聴いていたんだ」――わずかな間をおいて、撮影者が思案の声をみじかく漏らして加護に調子を合わせる――「それじゃあ、加護さんは ゆで卵 ですよ」

 なぜ加護が通話中に話を加えなかったのか店主には理由がいまいちよく分からなかった。映像のクレジットから暗転を挟んで、唐突にまた場面が映し出されたのだ。古民家を改装したその一軒の佇まいに、店主は目を見張った。

 チサトが玄関の前に立って黒木の引き戸を開けると、ガラス戸が小気味いい音を立ててレールを滑った。玄関の向こうにある広い土間にはセメントが張ってあり、隣接する居間では柿渋を塗った暗褐色の床が黒光りしている。漆喰の壁が真新しい。居間の奥に横並びする建具の表面は蛇腹に仕立ててあり、部屋の天井の太い梁が何本もがっちりと組み合わさっている。
 居間には初老の女性 ユカワ の姿があった。細身で背が高く、白髪交じりの長い髪が後ろ首のあたりで一本に結ってある。一重の切れ目で、眉は描き整えてあり、薄い唇には血の気が無い。ユカワは居間の中央に置いた炬燵の中に脚を入れて、座椅子に背を寄せて煙草をふかしていた。チサトは居間の敷居に座って土間に脚を放り出し、撮影者と通訳者は玄関の戸を背にして二人の女に視線を当てている。
「始めても良い?」ユカワはビデオカメラを見て言った。
「オーケイ」撮影者が低い声を垂らした。チサトは黙ったまま靴先を交差させて、左右のかかとで土間のセメントをコツコツと軽く打った。
 
 ユカワの話は、チサトの十三歳だった頃にまで遡った。
 夏の終わりの涼しい夜明け前だった。チサトはユカワの母親が生前に住んでいた木造の空家に火を放って全焼させた。時刻にして午前5時前。辺りはまだ暗い。ユカワは炎の燃え立つ現場を遠くから唖然と眺めていたが、自宅から引き剥がした視線をチサトの姿に戻すが早いか、歩み寄って非難の声を喉から絞り出した。するとチサトはユカワを振り向いて、とくに悪ぶれる様子もなく「おばさんの家ですか」と言った。チサトの横顔が炎の橙色を映していた。付近に家は無く、ユカワをのぞいて火災に気付いた者は誰ひとりいなかった。
「本来なら、少年院で懲役二年だわね」と、ユカワはカメラに鋭い視線を当てて当時を振り返った。「この子が ムショ暮らし をせずに済んだのは、私が警察に通報しなかったからだよ」――炎は家屋の半分ちかくまでに燃え広がっており、夜明け過ぎにはもう火の気が収まりつつあった。
「そりゃ、よく燃えて当たり前よ。築六十年以上のしみったれた家だったし、燃え残りそうな家具は何ひとつ置いていなかったもの」――ユカワが現地に来てから十分も経つと、家屋を燃やし尽くした炎が途端に弱まりを見せる。ユカワは自分の家にチサトを連れ帰り、しばらくして今度は車の助手席にチサトを乗せて本人の自宅に向かった。朝の食卓に着いたチサトの父親を玄関に呼び出して、事の経緯とユカワ自身の考えをチサトの両親に伝え、そしてその彼らの同意のもとユカワの家でチサトをしばらく住まわせることにした。
「前科持ちになるよりは遥かに良いでしょって、私が親を説得したの」
 ユカワは通訳者を一瞥して言った。
 説得――と言ってチサトは笑った。
 ためらうように撮影者は声を漏らした。「“チサトを軟禁した”という意味ですか?」
「罪を償わせる方法を選ぶのは私だ、と思っただけ」ユカワは答えた。「警察なんて、公務でチサトを縛り付けておくだけで、この子に対しては憎しみなんて持っちゃいないんだもの」
 チサトの靴のかかとが土間のセメントを擦り、小さくジャリっと音が鳴った。
「この子の性根を無理やりにでも矯正してやろうって思ってたけど、でも、あっさり気が逸れたわ」と、ユカワは部屋に落ちた沈黙をゆるやかに切り、そして誰にともなく相槌を打つように“そう”と、溜め息まじりに言ってチサトの後ろ姿を見るでもなく見た。「それからは、この子に家事をやらせて、私の陶芸の手伝いもさせた。もちろん学校にもちゃんと通わせたわ」
「学校なんて、それ自体が罰みたいなものだったけど」 チサトの語尾がほとんど消え入りそうになる。
「ほら、そういうことだよ」
 と、ユカワは弾かれたように声を上げた。「当たり前に育ったガキが放火なんてするものか。たいていの奴らは、どこかに適当なアソビをつくって生きていくんだ」
 きっぱりとした口調で言ったあとユカワは眉間にうっすらと皺を寄せた。「お前には、まだ本当の意味では罪を償わせていないんだよ」そう言って痰の絡んだ咳を苛立たしげに吐いた。それから、コタツの天板に置いてある灰皿に煙草の先端を何度か押し付けて、立ちのぼる微かな煙を性急な手つきで払いのけた。
「辛くなかったですか?」と、撮影者は腰を落としてチサトに訊いた。
「最初は怖かったけど」チサトは伏し目がちに答えた。「でも、自分の家にいたときよりも静かに暮らせて良かったかな」
 それを聞いてユカワは声を張って一笑した。
「私のお父さんもお母さんも、あんまり頭が良くないの」とチサトは言った。「私のプライバシーとか全然気にしないし、いつも余計なお世話ばっかりするし」
「たいてい、そんなもんさ」そのユカワの掠れた声を制するように一方のチサトが言った「家の中にいると気が静まらないから」
 たいてい、そんなもんだ。とユカワは吐き捨てるように言った。この私を見てみろ――だから、こうして一人身でいるんだろ?
「そう、だから私――」チサトは背後をななめに振り向き、ユカワを見やって微かに感情の帯びた声で言い加えた。「――おばさんと一緒にいると気が楽で、しっかり息をして毎日を生きてるって、そう感じていたのよ」
「そりゃ良かった」とユカワは言った。「お前が体つきのいい若い男なら、もっと良かったよ」
 撮影者はその通訳を聞いてカメラの視野をすばやくユカワに移した。「あなたは職業陶芸家ではないでのすか?」
「スーパーのレジ打ちをしながら、そうね、陶芸は趣味みたいなものだよ」と、いちどカメラに落とした視線を撮影者の顔にまで真っすぐ上向けてユカワは答えた。
「君も、この家で陶芸をするんですか?」 カメラは次にチサトを映し出す。
「私は裸になるだけ」と、自分の足元を見下ろしてチサトは淀みなく答えた。
「たしかに服を脱がせはするけど、べつに疾しいことは何もないよ」とユカワ。「おばさんに見られても、べつに気にならないから」と、誰にともなくチサトが言う。
 彼女の裸を見るんですか? カメラをユカワの顔に差し向けて撮影者が訊いた。
「ガキのときからカヌーをやっていただけのことはあるね」 
 そう答えてユカワは顎でチサトを指し、「はっきり言って、こいつの肩や腰の線がエロいんだ、私好みに」
 撮影者は愛想に程遠い微妙な笑いを浮かべて一度だけ相槌を打った。
「見ながら、陶器のデザインを描くんだよ」と、チサトから視線を逸らして潤いに乏しい微笑を撮影者に注いだあと、ユカワは関心を示すようにして上体をわずかに傾けた。「あなた、自分の裸に自信はある?」
 ノー、と撮影者が反射的に答える。
「あら、そう」 唇を微かに曲げてユカワは言った。「残念だわ」
 人の裸を見ていると、インスピレーションが沸くんですか?
 裸を見て私の中の愛を自覚すると、ペン先が丸くなるわね――ユカワは棒読みの口調ではぐらかすように答えた。チサトは撮影者の口から漏れ出す思案の声を聞いて曖昧に笑った、「分かりにくいよ、おばさんの言うこと」 
 それを聞いてユカワは居間の床に落とした視線をチサトの後ろ姿に這わせて、「お前は分からないほうが良いよ」と、わずかに親しみのある声で言った。ちょうどそのとき、家の玄関先にスーパー・カブが停まった。郵便ポストの投函口に夕刊が放り込まれ、カブはそのあと舌を回すような音を立てて走り去った。
「それで、もう二年の刑期は終わったんですよね?」
 カメラをユカワに差し向けて撮影者は訊いた。
「また、おばさんの家、燃やそうかな」と、映像の外にチサトの声がする。ユカワはケースから取り出したばかりの一本の煙草の先端に火を着けて、一口目の煙を口先に吹き出して言った。「私ごと家を燃やしたら、二年どころじゃ済まないよ」
「ちょっと訊いても良いですか」 撮影者が間を埋めるようにして訊くと、チサトは伏せていた顔を上向けてカメラレンズのすぐ上に撮影者の顔を見た。
 ――なぜ家を燃やしたんですか?
 目を何度かしばたくチサトの後ろの方から、ユカワの声がする。「チサト、いま服、脱げる?」
 チサトは、斜めを振りかえって真っ直ぐな視線をユカワに注いだ。「ノー・センキュー」と撮影者が言った。
「後先を考えずに楽になろうとしたからさ」と、ユカワは顎でチサトを指した。「空家を選ぶだけの頭はあっても、見境を付ける頭が無かった」 

 消防と警察が現場にいないあたり、まだ地域の住民が火災に気付いていないようだった。ユカワは荷造りを始めたチサトを残して家を出ると、チサトの両親に再訪の意図を伝えて火災の現場に戻った。車のエンジンを停めて、バックドアを開けて中からバールを掴み取り、熱気に注意しながら焼跡に足を踏み入れた。家の屋根は抜け落ちていた。骨組みの柱がどこも黒く炭化していた。ユカワは、いつか六畳の居間だった場所に立ち入り、整理ダンスに入れてあった木箱の中身を探した。地面に乱雑に散らばった屋根瓦や多数の太長い炭をバールの先端でめくっていくと、そのうち、結婚指輪やアクセサリーや入歯の金属部品などを足元の一か所に見つけた。ユカワの履いたスニーカーの靴底から焼け跡の熱が伝わってきた。嗅ぎ慣れた室内の匂いは木材の焼け焦げた匂いに変わっていた。

「さて」 ユカワは両手のひらを一度だけ打ち鳴らし、撮影者の顔に視線をかるく投げた。「ところで、加護さんの工房はどうだった?」
 撮影者はカメラの液晶画面に落としていた視線を通訳者の顔に移した。「いろいろ面白いものが撮れた?」と続けてユカワは撮影者と通訳者を交互に見た。
 はい、と撮影者は小さく咳払いをして答えた。「だけど、加護さんをあまり撮っていません。もしかしたら、あとになってそのことを後悔するかもしれません」
 ユカワはそれを聞いて物思いに声を漏らしたあと、コタツの天板に頬杖をついて気軽な調子で撮影者に訊いた。「ドキュメンタリーを作るとき、人と環境のどちらに比重を置く?」
「環境です」と撮影者は一言で答えた。「環境の向こう側に視聴者がいます」
「じゃあ、加護さんを撮影していなくて後悔する、っていうのはどういうこと?」
「私達はドキュメンタリーを作っています。映像の架空性が強くなるにしたがって、そこに事実性を補てんしていく必要があります」
 そう答えて撮影者はチサトの顔に視線を移した。「今回の撮影の場合、その補てんの役割を担うのが“加護さん”でした」
「なるほど」と、ユカワは結んでいた唇をかるく曲げて言った。「悪くないじゃないか」それから更に言葉をついで「あなたの意見によれば、つまり私は架空の人物でいられるってわけだね」
「私も?」と、会話の流れをとらえたチサトが髪を揺らして後ろを振り向く。
「たぶん、そうだね」 答えてユカワは鼻で小さく笑い、そのあと、改めた口調で“チサト”と呼びかけた。「コーヒーを入れてちょうだい、三人分――お前も飲みたけりゃ四人分だね」
 チサトはごそごそと靴を脱いで、あやふやな相槌をいちど打って居間の床に立ち上がった。それから部屋の一角に歩を運び、吊り下がる暖簾を一方の手先でひらりと押し上げると、ひたひたと涼しげな音を立てて奥の廊下を歩き去った。
 ほどなく台所の木戸が音を立てて開いた。
「事実と架空の“どちらで”見て取るかは、端から問題じゃないように思うがね」 ユカワは首を小さく振ったあと、軽い声を息にのせて早口に言った。「もしまた私達の前でいい加減なことを言ったら、それを暴力と見なして貴方たちをこの家から閉め出すよ」
 静まり返った居間の向こうで、インスタント・コーヒーの蓋が硬い音を立てて閉まった。ユカワは腰を浮かせて座椅子を後ろへ引くと、炬燵の天板に着いた片肘を支えにしてゆったりとした身ごなしで立ち上がった。「なんで私は新聞なんてものを、いつもいつも飽きずに読んでいるんだ」と、両手を後ろ腰にあてて独り言のように言った。「見識を深めるためでしょうか」と通訳者が間を埋めるようにして言った。
 それを聞いてユカワは通訳者を振り向き、いちど斜めに落とした視線をそのあと撮影者に当てた。「新聞を読むときって、はじめに見出しを読むでしょう?」
 撮影者が相槌を打って答える「それが一般的な読み方だと思います」
「よっぽど暇な奴でもないかぎりはね」とユカワ。「だから、そういうふうに必要なものだけを選んでいく習慣を付けてしまえば、いま、この私の手元に不要なものなんてあるはずがないのよ」ユカワはそのあと顔をそらして居間の奥へと向かった。蛇腹の建具を二枚おおきく左右の手で開け放ち、部屋の中央に吊り下がる天井灯のプル・スイッチを引いた。十畳ほどの部屋に暗褐色の床が張ってあり、真向いの壁一面には作り付けの棚が数段ぶん並べてある。
 照明の白い灯りを浴びて、ユカワの白髪に艶の輪が帯びる。
「この家の中には、私にとって必要なものしかない――必要な道具しか置いてないし、必要な時間しか無いし、必要な食い物しか無い――それに、そうだね、たぶん、必要な奴らしか集まらない」
 棚にずらりと並べた陶器の数々を除いて、家具や陶芸道具の類は何ひとつ置いていない。その生活感のない部屋にユカワの声がみじかく響いた。「この家の中にいるかぎり、不要に思えるような物とか時間が、私にはまったく無いんだよ」
 撮影者はそれを聞いて親しげに相槌を打つ。「私の父もおなじです。たぶん私自身も、あと二十年もすれば、きっと彼と同じ道をたどるでしょう」
「落とし穴にハマり込んだような気がするのよね」
 そう言ってユカワは手を組んで二本の腕を頭の上に真っ直ぐに伸ばした。背中をすこしだけ逸らせたあとに腕を下ろし、首をゆっくりと回して息を吐いた。「なにか一つ、もらってくれないかしら」そしてユカワは後ろに向きなおり、「そちらの方も」と、居間にもどって通訳者の顔にかるい視線を投げた。「気に入るのがあれば良いけど」

  〇

 後日、店主は加護に電話をかけて、挨拶も早々にユカワとチサトの撮影映像を話題に挙げた。加護はその店主の話を聞いて、気を良くでもしたように相槌を打った。
「僕もあのビデオを観て、放火の件をはじめて知りましたよ」と加護は言った。「それで、コーディネーターをあいだに挟んでカメラマンと連絡を取り合いまして――どうも、あの“最後の映像”は、チサトの許可をもらって僕宛のビデオにだけ収めてあったんだそうです」
「よかった」と、店主は息を吐いた。
「本当にやったのかチサトに訊いてみましたら、本当にやったんだと答えました」――チサトは何の悪ぶれる様子もなく、無責任な愛嬌を込めてこう言った――加護さんの仕事場に出入りしているうちは大丈夫だから、心配しないで――「工房が燃やされでもしたら、窯から取り出した作品がまた火の中ですよ」と、加護はチサトとの会話を振りかえって笑った。店主は返事に困ってぎこちない笑いをみじかく溢し、それから耳元の沈黙を拭うようにしてチサトに関する話をつづけた。彼自身の一人息子の前でチサトが服を脱いだ可能性について話すと、それを聞いて加護は自分の関心を店主に突き付けるように大きく呆れ声を上げた。
「不謹慎な話ですが、おたくの家が燃えずに済んで良かったですな」
 店主の息子の心傷をそれとなく気に掛けたあと、加護は気さくな口振りでそう言った。店主がその言葉の意味を訊くと、加護は返事をはぐらかして気まり悪そうに笑った。


 店主はその日の夜、なんとも不可解な夢を見た。夢の中には若いチサトの姿があった。加護の住む町にある水源林の散策道を歩いていたかと思うと、チサトは足元の路面に積もった枯葉にライターで火を着けた。炎がパチパチと音を立てて滑るようにその範囲を延ばし、そのまま路面をはずれて林立する木々の脇を燃え広がっていった。むき出しの山肌を境にして延焼は止むのだが、もうすでに山は手の施しようのない惨状を呈している。と、そこで店主は何の根拠もなしに、枯葉の下に埋められた大量の遺体の存在を憶測する。そして、それらの遺体を伝って炎が山を燃え広がる様子を頭に浮かべる。数々の遺体の中にはセガワ・チサトの夫が混じっていて、突き付けられた銃口を空虚に見つめるその彼の表情までもが店主の目に浮かんでくる。
 大きな記念碑がいくつかあった。ひとつは多数の黒い管が複雑に絡み合って地面から生え伸びている。またひとつは、ガラスの光沢を帯びたプレハブ大の黒い石がただ地面に置いてあるだけ。それら以外の物も含め、どの碑も抽象的な形をしている。林をはっきりと映し出せるほどに、個々の碑の表面が艶やかで黒い。
 店主は、林の中で繰り返される銃殺の様子を眺めていた。その現場を目の前で見ているようでいて、上空から見下ろしているようでもあった。積み重なったどの遺体にも傷ひとつなく、全身が石膏のように白かった。警察服を着た数人の男らがそろって銃の引き金を引いた瞬間にだけ、あたり一帯が明暗のくっきりとしたモノクロに色を変えた。
 そのあとまた十人あまりの男女がひと並びに立った。彼らの背後には深々とした堀が開けてあり、その堀の底には血の気のある数名が横たわっている。遺体の移動から戻ってきた三人の警官が、それぞれまた数人の両足をつかんでそれを堀の片端まで引きずって歩く。すでに三十名以上の遺体がその一箇所に折り重なっている。
 堀の脇に連行されて初めて遺体の山を目の当たりにすると、いちど麻痺した感情に些細な起伏が出る。一人の女は自分のとなりに立つ少女の肩を両腕にかかえて少女の耳元に何やら小声で話しかける。そのかたわら、年老いた小太りの男が背を丸めて無言に立っている。警官の一人が「両手を体に付けろ」と、声を荒げて念を押すと、ひとりの少年は組んでいた両腕に力を込めてそれを自分の胸につよく押し付ける。
 男女らのうち、たったひとりだけ全裸の若い男がいた。男は視界の先に横並びする警官らに剥き出しの感情を滅多やたらに吐き出していたが、やがて自分の立ち位置の向かいにいる警官を指で差すなり、怒気を打ち付けるようにして声高に叫んだ。
 ――お前もそのうち、服を脱いで死ぬんだよ。
 男の言葉尻に合わせるように、当の警官が腕を振り上げて目先に銃を差し向けた。その様子を見た号令係の警官が乾いた声で号令をかけると、すべての銃口が静かに同じ方角を向いた。それから程なく二度目の号令についで発砲の音がほぼいっせいに鳴った。それは着弾の音でもあるようだった。ワインのコルクを引き抜く音にも似ていた。――これは夢だ、と、店主が無感情に思った直後、銃弾を受けそこなった細身の男が二発目の弾を上唇に受けた。男は背後にある堀の中へと仰向けにまっすぐ落ちていった。
「弾を一個、無駄にしたな」と、全裸の男を撃った警官が横を振り向いた。そして彼はそのあと硝煙に顔をしかめる同僚の名を気軽な口振りで呼んで、薄っすらと皮肉を漂わせながら言った。「もし、残りのやつら全員を殺せなかったときは、お前が責任をとって素手でやれよ」







裏庭のバジル 36 

「先日おうかがいしたように、あの木の映像がありましたな」と加護は言った。「今と比べると、だいぶ若い頃の様子でしたが」

 店主が初めて加護に連絡を取ってから数日後、今度は加護から店主のもとに電話が掛かってきた。通話中、加護は自身の所有していたビデオと店主の自宅にあった映像の違いに触れて話を進めた。
 加護の所有していたビデオには、クジラの座礁現場や、チサトの吐瀉する場面が収録されていなかった。『さばくのクジラ』と題された絵本の内容や、イエスと名付けられた木の外見、そして、チサトの背中が露出する場面と、チサトの母親の姿もまた収録されていなかった。クジラの座礁現場にあった生々しい血肉やチサトの吐瀉する様子が陶芸展の館内映像の内容に不適切であったのはもちろん、絵本にまつわる会話の内容にしても展の主旨には合っておらず、それらの撮影シーンがビデオに収録されていないのは当然のことだった。またイエスの木にしてみても、植物倫理的な批判の起きる恐れから映像の公表は望ましくなく、チサトの母親を撮影した映像については、陶芸展の主旨に関わらず、初めから母親本人が映像の使用を許可していなかった。
 対して加護の所有していた映像には、焼成の長時間にわたる作業風景と、素焼きをした陶器をチサトが投げ壊す映像が収録されていた。陶芸展の会場で放映する用途に合わせて内容が編成されていたわけだが、薪の爆ぜる音や、作業者らの足音や、作陶風景の映像をただ淡々と時間をかけて放映したのは、それが陶芸展の会場の主題性に見合っていたからだった。焼成作業の臨場感が生々しく伝えられており、ドキュメンタリーとしての価値が高かったのだ。それと同様、素焼きを終えた作品を投げ壊す工程にしても、加護の作陶における特徴的な様式として紹介しておく価値のあるものだった。そして、またもうひとつ特徴といえば、チサトの上気した表情がカメラにはっきりと捉えられていたが、加護自身、その映像を個人的な趣味の範疇において陶芸展の会場に放映することを良しと考えていた節があった。
 そうしてしばらくのあいだ彼らは、それぞれの手元にあった映像の内容の違いに触れて意見をみじかく言い合った。加護の話には撮影当時の工房の様子が織り交ぜられていて、チサトの奔放な人柄が垣間見える逸話で話のオチが付くことが何度かあった。加護の笑いにつられて店主も笑った。
 だが、途中で話がどう転んだところで、ひとたびイェフスの木の話題に戻れば、二人の会話の調子に微妙な変化が起きた。受話口を通して、夜の静まりが店主の耳元に細く吹き出してくる。店主は、自宅から羽織ってきたダウンジャケットのフードを頭にかぶせて首元までジッパーを手早く引き上げ、「いまも成長を続けているんですか?」と、率直な疑問を投げた。そしてそれから彼は聞きかじりの知識を交えて、それとなく加護に話を促した。「枝と枝の相性のようなものが関係してくる、という話ですが」
「ええ、じつは、あのあとも何種類かの果物の枝を接ぎましてな」と、答えて加護は自身の過去を振り返り、明瞭な声で言った。「それでも、何の拒絶も起こさずに成長を続けたんですよ」
 加護の言った“拒絶”の指す意味は理解できたが、それがどれほど特殊な状態であるか店主には見当が付かなかった。一本の木に数種類の果物の枝を接いであるにもかかわらず、とくに何の遺伝的な問題も起きることなく種の共存が続いている。それを無類の神秘と見て取るか、非人間の薄気味わるい特異現象と捉えるか、店主にはその両者に明らかな違いが感じられない。
「あの木が他の色々な樹種を受け入れるのは、あの木の特有の性質のように思えてきます」そう言って加護は更に言葉をつづけた。「どんな樹種ですら受け入れるように思えてくるんです、もちろん、実際には例外もありましたが」
 店主は考えを巡らせながら言った。「もしかすると、これは加護さんに対して、失礼にあたるかもしれませんが」と、そこで言葉を切って静かに息を吸う。
「どうぞ、おっしゃってください」と加護が応じる。
「そうお思いになられることを、加護さんご本人が望んでいらっしゃるということでしょうか」
「どうでしょうな」と、加護は微かに笑い、そのあと間髪を入れず「幸い、僕は幻覚を必要としておりませんので」
 そのとき店主は加護が意図的に話題を“幻覚”にすり替えたものと直感した。ささやかな愛想を込めて店主が適当な相槌を打つと、一方の加護が声を落として言った。
「チサトの夫があなたに話したとおり、あの木には幻覚作用があります」
 その加護の静かな言葉には独白にも似た響きがあった。「正しく言えば、木ではなく、種子と根に何かしらの幻覚成分が含まれているようです」
 店主は、以前の通話中に挙げた話題とその内容の中から実になりそうな話を振り返った。「セガワ君が言うには、輸入検査を通るのが難しい木だという話でしたが」
「そうでしょうね」と、加護はあっさりした口調で答えた。「その特殊な性質に対する認識を人が持たないうちは、当然、誰にも気づかれずに検査を通るでしょう。まして、それが“小さな種や何か”であったとすれば尚更です」
 すると途端に、話がきな臭くなってくる。そのとき店主の頭に浮かんだのは、一冊の絵本に描かれていた印象的な一場面と、その絵本の巻末に付属していた“袋とじ”の中身だった。
「どこであの木を手に入れられたんですか?」と、店主は好奇にまかせて訊いた。
「あのビデオの中で私が言っていたとおり、どこにでもあるんですよ」と加護は答えた。
「山の中に、ですか?」
「普段よく見掛けますよ」
 店主は加護の口ぶりの些細な変化を聞き取り、さっと好奇を押し殺して相槌を打った。
「僕には必要ありませんが、その幻覚を必要とする者は必ずいるはずです」と加護は言った。「それを必要とする者は、誰にも教わらず木の性質に気付いて、自宅に持ち帰るでしょう――」
 店主は加護の言った「誰にも教わらず」というその一点につよく不可解を感じたが、ただ静かに相槌を打って加護の話の段落を待つことにした。
「――といっても、その木を人目に晒すのを誰も良しとは考えない。そこで、日照環境の整わない場所を選んでそこに木を植えるわけですが、それがかえって良くない、日差しが足らず木の成長に影響が出る」
「影響が出る」と、店主は注意を引く気で言った。「それもセガワ君の話していたとおりです」
「ユニークな木だと思いますよ」と加護は言った。「あの木が植わっている山の中には特有の植生があるようで、どうやら、樹勢のつよい木が一本も植わっていないようなんですな」
 どういうことですか、と店主は訊いた。
「あの木にとって不都合となる木がちかくに一本も生えていないんです」
「一般的にそういうものでしょうか」と店主は言葉を探しながら言った。「たとえば雑木林には、いくつかの種類の木が“ごったに”生えているでしょう」
「人の目にそう見えているというだけのことで、やはり雑木林の植生にも何か秩序のようなものがあるんだと思いますよ」
「それは、秩序が自然に作り出されるということですか?」
「そのとおりです。大体をいえば、自然林の美しさには人の手が加わっていないですからな」
 店主は、ひどく曖昧に自然林の様相を思い浮かべた。
「僕の他にも、木を自宅に持ち帰った者がいるでしょうな」 加護は声を落としてもういちど言った。
「私の自宅のまわりにそんな木が何本も植わっているかと思うと、正直、気が落ち着きませんよ」店主は吐き出す思いで言った。
「管理なさることですよ」と加護は返した。「どの樹種の木で生垣を組んだにせよ、どのみち木の管理をし続けることにはなります。ですから、その手間を省くには、業者に管理を依頼するか、生垣ではなく……そう、木柵か金属フェンスをご自宅のまわりに立てておくしかありません」
 それを聞いて店主は迷わず言った。「それが、なぜか私自身、あの木を切ろうとは考えていないんです。切るのが面倒というわけではありませんし、生垣を植える費用のことでセガワさんに義理を感じているわけでもないんです。――ただ、どういうわけか、あの生垣の手入れを続ける気でいるようでして」そう言って店主はどこか照れくさそうな笑いを漏らし、「“いるようでして”というのも妙な話ですが」
「結構なことです」と、加護は笑い声を上げた。「木というのは簡単に伐採できますよ。ですから、そうしない理由を何かお持ちでらっしゃるなら、そのまま木を生やし続けておくのが一番です」、それから加護は声を少しだけ落して「それに僕に言わせていただくなら、木は、おたくに正しい時間を与えてくれるはずです」
「と言いますと?」
「おたくを正しい時間の経過の中に留めておくための指標のひとつになるんです、その、生垣そのものが」
 店主は関心の声を小さく上げた。
「僕らは、実時間とは違った体感時間というものを知覚します。ですが、自然の中で成長をつづける木はそうではありません」と加護は淀みない口調で言った。「健全な環境下にある木といえば、その大体が昼と夜の規則的な成長を一箇所の土の上で長いあいだ続けますからな」
 店主はそのとき、いつか加護の言った“標”という言葉を思い返していた。
「余談ですが、あのビデオに水源林が映っていたでしょう」と、加護は更に続けて言った。「あのあと、ハイキング・コースをつくるため、と言って、林を伐採したんですよ、観光振興課がですね。そうしたら、近くにあったブナの大木が次々と枯れてしまいました」
 店主は呆けたような声を漏らし、二本目以降の木がドミノの碑のように倒れていく様子を思い浮かべた。「木を切ったのが原因ですか?」
「詳しいことは分かりませんが、木を切る以前とくらべて地中の水分量が変わったのかもしれません」と加護は答えた。「もしくは何らかの病原菌か、虫か何かでしょうな」
「ブナの大木とおっしゃいましたか?」
 店主は、木が倒れていく様子を実際に見たことが過去に一度も無かった。
「ええ」と加護は短く答えた。
「大木が、そう簡単に枯れるものですか?」
「簡単には枯れないでしょうが、やはり枯れはしますよ」と加護は答えた。「以前、古いクヌギ――聞いたところでは、樹齢が百年は悠に超えていたという話でしたが、その木が枯れ死した原因は、カミキリムシの幼虫でした」
 加護は店主の感心めいた相槌を聞いたあと、「あっけない最期でしたが、しかし、あれはあれでなかなか見ものでしたよ」
 大木の倒れる様子が店主にはうまく想像できず、「見ものだったでしょうね」と、ただ調子を合わせて口先にそう溢した。
「木が枯れる前の、一、二年のあいだ、大量のカブトムシや蝶々なんかが集まって来たんですが、それは要するに、クヌギの樹液が外に漏れ出していたからなんです。発見者が気付いたときにはもう、木は“虫食いの穴だらけ”になっていたわけですな」
 昆虫の群がるクヌギの木の噂を聞き付けて現場を訪れた地元の子達の中には、カミキリムシの幼虫を気味悪がって二度と昆虫採集に来なかった子たちが多くいた。
 カミキリムシの幼虫には店主も幼い頃の見覚えがあった。色味はカブトムシの幼虫と似ているが、形状ひとつを見れば比べるまでもなく違う。
 クヌギの木はその後、木材としての利用価値が無いものと判断され、チェーンソーで小切りにされたのちに焼却処分となった。その話を聞いて店主は、水源林に生えていたというブナの木の枯れ死と、何らかの幼虫との関連性を思い、イェフスの木の特性と、虫の這いまわった木の、いったいどちらが不気味なのかと考えた。
 ほどなく話は一端の終わりに差し掛かった。加護は自身の所有するビデオの視聴を店主に勧めた。もともと店主は通話の最後にその願い出をするつもりだった。加護の手元にあった映像の内容を知ったところでセガワチサトの行方に見当を付けられるのでは無いが、そうしてチサトを話題に選んでおけば加護の機嫌を損ねることなく加護やチサトの過去の話が聞ける。店主にはその目的があった。店主自身の対人関係を見ても、そこに加護やチサトをのぞく職業陶芸家は一人もおらず、ちょうど無名俳優の出演する映画やテレビのドキュメンタリー番組にも似た性格の話を期待できるように思ったのだ。
 午後四時の滲みかけた空が店主の自宅のリビングの窓の遠く向こうにある。加護は夕食の材料を取りに菜園に向かうと言って電話を切った。一方の店主は携帯電話をリビングのソファに置いて、それから寝室に入ってクローゼットの前で身支度を始めた。友達の家に遊びに行った息子の帰りを待って、町の駅前にある中華料理屋で息子と食事を取ることにした。
 夕食のメニューを考えながら、ふと店主は自家用車の購入を思い立った。バスや電車で移動する日々に飽きたのではないし、これといって特に不便を感じているのでもない。だからこそ彼にはそれまで車を持つ必要がなかった。ところが何のきっかけもなく、自宅の敷地に駐車スペースを設けてそこに車を停めておくことの家庭像に淡い憧れを持ったのだった。

 のちに店主はその自家用車を手放し、自宅から駐車スペースにかけて家を増築してそこで駄菓子屋を開くのだが、町道に接するセメントの敷地に当たり障りのない小さな昆虫を見かけたとき、彼は感情の変化を自覚することなく弾けるような笑いをみじかく上げた。自宅の周囲に巡らしてあった生垣の一部を切り払ったのは店主ではなく、彼の息子だった。




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裏庭のバジル 35 


 電源の切れたテレビ画面にリビング・ダイニングの一角が映り込んでいる。そのテレビの前に敷いてあるホットカーペットの上では一人の男児が仰向けで眠っていて、天井灯の付いたダイニングには上下のスウェットを身に付けた一介の父親――(のちに自宅の一角を店舗に改築して駄菓子屋を始める男)――その店主の姿がある。このとき店主は食卓の椅子に座り、携帯電話を一方の手に持って卓上のノートパソコンを斜めに見下ろしていた。彼の手元のメモ用紙にはボールペンで“加護幸久”の走り書きがある。“ユキヒサ”の小ぶりな文字だけが二重線で記してあって、おまけに氏名そのものを幾重かの乱雑な楕円で囲ってある。
「ちょっと待って」と、店主の耳元にサワムラの声がした。「おかあさんに代わらなくて良い?」
 予想外の話に店主は思わず息を止めた。そして彼は語気のわずかな変化を自覚せず不平じみた声で訊いた。「なぜ君のお母さんに代わる必要があるんだ?」
「余計なお世話をしたくなる歳だから」と、きっぱりとした口調でサワムラは答えた。そのサワムラの声に冗談めいた調子を聞き取れず、店主はただ曖昧な相槌を打つにとどめた。
「“子はカスガイ”って言うのよ」とサワムラは唐突に言った。
「知ってるよ、もちろん」
「どうかな」とサワムラは素っ気なく言った。
「知ってるよ」と店主はもういちど言った。リビングのカーペットに横たわる息子の寝姿からノートパソコンの画面に視線を戻し、食卓に置いてあった湯呑を一方の手のひらで包んだ。「お互い、どこかで大事なタイミングを見逃していたんだと思う」
「なにそれ?」
「君のお母さんが言ったんだ」口元に寄せていた湯呑をかたむけて、微かに湯気の立つ茶を喉の奥に流し込んだ。いつか元妻と交わした会話の一部が彼の脳裏に張り付いている。
 数秒の沈黙があった。サワムラは声を弱めて「分かるよ」と言った。「きっと本当に、そんなふうに言ったんだろうなって、想像できる」
 店主は音を立てないように湯呑をテーブルの上に置いた。サワムラは喉の奥から息を捻り出したあと、「なんでかな」と言った。「おかあさんとおじさんが仲良くなっても、私、本当は嬉しくもなんともないんだけど」
「お母さんとおじさんが仲良くなっても、きっと誰も嬉しくならないよ」
「やっぱり、そうかな」
 店主は手元のメモ用紙に書いたばかりの“サワムラアリサ”の文字を楕円で囲んで、先に書き付けてあった“加護幸久”の文字とのあいだに線を引いた。「理不尽に傷付くのは、まず君自身だろうからな」そう言って店主はそのまま何の意味も成さない線状の落書きをつづけた。受話口からサワムラの子供っぽい思案の声が漏れ出してくる。
「あの子と電話で話をしていると、私があの子のおかあさんを取っちゃったような気がしてくるの」とサワムラは言った。「それって、すごく嫌な気分なんだけど、そういうのって分かる?」
「君が心の優しい子だってことは分かるよ」
 店主の手元のメモ用紙には無作為で意味のない線画が描いてある。
「ありがとうございます」とサワムラは僅かに険のあるの声で言った。「いつか加護さんに会えたら良いですね」
 店主は一言で相槌を打つなり、落書きの手をとめて視線を上げた。それから椅子の背もたれに寄り掛かり、自身の強気を冗談にくるみ込んで言った。「会わなくて済む相手には会わなくても良いというのが、おじさんの持論なんだけど。どうかな?」
 受話口から沈黙が漏れ出してくる。店主はキッチンの置時計を振り向き、そのあと前に向き直ろうとして、もういちど置時計を見やった。指針が十五時二十三分を指していた。とっさに店主はリビングの掛け時計を振り向いた。そこには現在の時刻が正しく表示されていた。
「よし、もう切るよ」
 店主は口早に言った。サワムラは「おやすみ」と呟くように言った。
 通話を終えて店主は携帯電話をスウェット・パンツのポケットに入れた。スリープ状態を解除したノートパソコンの画面にブラウザを表示させて、検索ウィンドウにキーワードを打ち込み、その検索結果の一覧に目を見張った。
 “加護”の姓につづく複数の“ユキヒサ”を想定していた。しかしそれらの男性名はひとつも表示されなかった。店主は世の中にいるカゴユキヒサが途端に身を潜めてしまったように感じて、“加護幸久”の氏名を持つその唯一の人物に親近感をおぼえたが、同時にその親しみの感情がほとんど意味を成していないようにも思えた。店主はそれから検索結果の最上部に表示されたタイトルにポインタを合わせて、パソコンの薄いモニター画面にページを表示させた。そして思わず両手を机に突いて、上体を前にかたむけた。
 パソコンの画面の明かりを薄っすらと顔に浴びて、すっと微かに目を細める。
 ページのタイトルは『yukihisa kago pottery store(ユキヒサ・カゴ陶器店)』――そのページの上辺には、鮮明な画質で撮影された一枚のヘッダー画像が配置してあった。撮影された窯小屋の外観には目立った経年の跡が見て取れない。店主は妙に違和感を覚えたが、例の記録映像の視聴を終えたばかりとあって、多少の経年に対する視覚的な違和感を覚えて仕方がないようにも思った。サイトに投稿されたヘッダー画像をのぞく全ての画像には、時間の流れに沿った加護の経年が見て取れた。その素朴な恰好や表情があってこそ、例の記録映像に撮影されていた加護の表情に“静かな険しさ”を振り返ることも出来るように思えた。
 サイトには加護の工房の住所や電話番号の他に、交通アクセスや窯焚きの体験コースの説明や料金などが記載されてあった。またそれとは別に、外部ページにある陶器の販売サイトが紹介してもあった。その販売サイトのメインページには、個別の商品ごとに鮮明な数枚の画像と、制作年の記載を含めた短い説明書きがあった。白を基調とした無機的なページにシンプルなデザインで構成されたウェブサイトだった。ページの最下部にはyukihisa kago potteryの文言を含むコピーライトの表記があったものの、ページそのものに対する印象から思い起こすのは、加護ではなく、妻のセガワの人間像だった。
 リビングの掛け時計を見やると、ちょうど午後8時に差し掛かろうとする頃だった。開きっぱなしにしてあったリビングのカーテンの向こうには、石敷きのアプローチを挟んで生垣が横並びしている。店主は食卓の椅子から立ち上がってリビングへ歩を運び、両開きのカーテンを手早く閉じた。そして手に持っていた携帯電話の画面に視線を落として、ついさっき打ち込んだばかりの電話番号の数字を左から右へ、これといって特に何を意識するでもなく目でなぞった。
 通話ボタンを押してから八度目の呼出し音が鳴り始めた直後のことだった。
「はい、もしもし」と、店主の耳元で女の声がした。
 店主はその声に聞き覚えを感じて一呼吸のあいだ黙り込んだが、その心持を率直に相手に伝えるわけにもいかず、はじめに自分の姓名を伝えておいてから、加護の記録映像と陶器販売のウェブページを話題にあげて、電話を掛けたいきさつを説明した。
「少々お待ちください」
 受話口の向こうに女の声が止んだあと、水のせせらぎを模したデジタルの保留音が流れた。店主は携帯電話を耳に押し付けたまま、リビングを横切って廊下に出た。玄関の鍵をあけて冷気に満ちた戸外へ踏み出し、彼自身の息子の所在を思い浮かべて玄関を振り返ろうとして、そうするのをやめた。電話の保留音が止んだのは、ちょうど店主が自宅の門柱を通り抜けようとするときのことだった。
「変わりました、加護です」店主の耳元に男の声がする。
「夜分に恐れ入ります」
 店主は頭を小さく下げて言うと、先と同じように自分の姓名を伝えておいて今度は電話をかけた“いきさつ”をいくらか簡略して話した。するとそれに対して加護は、やや掠れの帯びた太い声で応じた。記録映像に収録されていた本人の声と比べれば、冷たく乾いた響きが含まれていたが、同時にその豊かな低音の声には危うい陽気もうかがえた。店主は陶器の通販サイトにまつわる会話に一段落が付くのを読み取って、さりげない関心の含みを持たせた声で言った、「すこし、おうかがいしたいことがあるんですが」
 なんでしょうか、と加護は応じた。
「先ほどお電話に出られた女性は、加護さんの奥様かお嬢様ですか?」
「妻ですが」と加護は答えた。
 それを聞いて店主はわずかながら愛嬌をにじませて相槌を打った。「私の知っている方の声に似ているような気がしたもので」
 二秒ばかりの沈黙だった。店主が言葉を継ごうと声を漏らすと、それまで押し黙っていた加護が変わらず陽気な声で言った。「どなたの声に似ていましたか」
 店主はいちど記録映像の件に話を戻して、そこに収録されていた一人の女について話を始めた。隣人の関係にあったセガワ夫妻に関するところから、妻のセガワと“店主の息子”とのあいだに築かれていた“微笑ましい”と言って語弊のない微妙な関係性へと話は及び、そして最後に、店主の自宅にあった段ボール箱の中身へと話題が移った。【館内 放映用】と題された数本の映像メディアについて話を聞かされて加護は「うんうんうん」と、唸るように言った。「たしかに、あのとき、(館内の)いろんな場所に薄いテレビが置いてありましたよ、大きいのから、小さいのまで」
 まず店主はその陶芸展の話題に感心を示しておいて、そのあと陶芸家としての加護の名前に対する無知を恐縮の口調で伝えると、例の記録映像に対する好意的な感想を素直に話した。「ですので、あのビデオを私の家でお預かりしておいて良いものかどうか、いちど加護さんにおうかがいしておこうと思いまして」
「どうぞどうぞ」と、カゴは抑揚を付けた親しみのある声で言った。「僕もビデオのコピーを自宅に保管してありますから、そちらにとってご迷惑でなければ、どうぞご自宅に保管なさっておいてください。きっと、お宅の息子さんもそれを希望されるでしょう」
 そう言ったあとに加護は嬉しげに息を吐くと、それまで何度か繰り返したように「今夜は良い夜です」と言い加えた。それを聞いて店主は、ついつい陶器の販売サイトの件を振りかえって加護の機嫌をさらに取りたい気にもなるのだが、いやと思い直して、風邪に気を付けるよう加護に伝えた。古い友人にでも話しかけているような気がした。
 おなじく店主の体調に気を掛けて加護は、途切れた会話に言葉を投げた。
「うちの妻の声と 知里 の声が似ているのは、二人の声が生身の人間の声ではないからでしょうな」
 言い終えるやいなや、加護は耐えかねた様子で弱弱しい声を垂れ流した。そして、その彼の声が店主の耳元を遠ざかり、まもなく盛大な くしゃみ の音が鳴った。加護は鼻をひとすすりして短く息を吐き出すと、「すっかり冬ですな」と言った。店主は調子を合わせるつもりで、今しがたの加護の話に触れて疑問を投げた。
「聞くところでは、この僕らの声も、肉声ではなく機械の声なんだそうですよ」
 そう答えて加護は、さらに店主の無言にかまわず話を続けた。「この世の中に“同じ声”を持つ方々が何人かいるとすれば、きっと彼らは皆、自分の耳を受話機に押し付けて誰かと話をしているんでしょうな」
「なるほど」と、店主は表情のない声で言った。
「なるほど」加護は笑い、そして思い出したように言った。「そうだ。今夜のご用件をまだおうかがいしておりませんでした」
 店主もまた思い出したように相槌を打った。「取り留めのない、とでも言いますか、その、自分の見知った相手の若い頃の顔を見ていて……なんというか、感慨があったとでも言いますか」
「知里のことでしょうな」と、加護は淀みなく言った。
「はい」と店主は答えた。
「たしか、あの子が高校を卒業して以降だったかとは思いますが、これまでに一度もチサトとは会っておりません。ですので、ここ最近のチサトの様子は、私よりもあなたのほうがよくご存じのはずです」
「一度もお会いしてらっしゃらないんですか?」と店主は訊いた。
 一度も、と加護は答えた。「もしこのあと都合がよろしければ、なにかお話をお聞かせいただけないでしょうか、あの子のことを、どのようなことでも結構ですので」
「一度も、ですか?」
 たったの一度も、と加護は答えた。

 店主がセガワと初めて会ったのは、セガワ家の建築中のことだった。家の敷地の前に立っていたセガワ・チサトに通りがかりの挨拶をして以来、店主は隣家の玄関先で度々セガワと顔を合わせて事務的に挨拶を交わした。組み上がったその木枠の形状からすれば、店主自身の自宅のサイズとほぼ大体おなじで、いつかセガワ・チサトの夫から聞き知っていたとおり、両家のデザインは同じ種類のものだった。そして、やがて隣家の外観の造りに完成の目途が付く頃にもなれば、その家の固有の特徴が目に見えて明らかになった。店主の自宅の前面部の造りと対称するように、隣家の外観の左右の造りが逆になっていたのだ。住宅地の一角に両家ともが同じ方角を向いているだけのことあって、事の経緯を知らない近隣の住人がその立ち並ぶ二軒の家に奇異の目を向けるのも当然だった。
 チサトの夫は国内で自然塗料の開発に携わっていた。海外に出張して塗料の素材となる樹皮を日本に持ち帰ることをひとつの職務とするかたわら、日本語の臨時教員として短期間の海外生活を送っていた。それに対してチサトは若手の陶芸家であり、会派に所属して国内外の陶芸展に作品を出展する一方、自身の陶芸スタジオで定期的に作陶教室を開いて生計を立てていた。その二人の職種を思えば、夫妻それぞれの人柄と彼らの生活の根底に流れる静けさに魅力が感じられるようでもあった。店主は何かの折に自身の結婚生活を振り返ることがあった。多様な家庭の在り様について、感心に似た思いを持たずにはいられなかった。
 隣人関係が格別良いわけではない。といって、悪くもなかった。両家が付き合いを始めた当初から、店主の息子はチサトに懐いた。子供のいない夫妻のあいだに遠慮がちに入り込んで自分の居所を得ようとする様子がどことなく愛らしくも見えたが、その結果として夫妻の家庭環境に悪影響が出ることを店主は気に掛けてもいた。両家の外観は異様だった。それはセガワ夫妻の人柄とはまったく関わりのない無機的な異様だった。それにも関わらず、しかし同時に店主は砂を飲み込むような生理的な嫌悪感を覚えてもいた。彼自身、その感情の矛先をはっきりとは自覚していなかった。
 そして、その不可解の原因とも思える事実を店主はのちに知った。
 それはいつかチサトの夫に招かれてセガワ家を初めて訪れたときのことだった。店主は屋内の間取りに家主の執念じみた意図を見て取った。家の外観だけでなく、間取りもまた店主の自宅と左右対称を成すように造ってあった。あらかじめ描き換えておいた図面に合わせて排水管などの埋設工事までもしてあり、台所のシンクやトイレや風呂場など、夫のセガワに案内されたその屋内の行く先々に、店主の想像するとおりの家の構造があった。チサトの夫は、それがすべてチサトのアイデアであったことを店主に話した。
 さらに加えてもうひとつ、セガワ夫妻の提案によって両家の敷地のまわりに生垣が植え巡らされるのだが、生垣に利用される木々というのが、害虫の忌避効力に長けた樹種のものであった上に、一般的に見ればそれは生垣に利用される種類の木ではなく、さらにその特性として“人に幻視を見せる“というものだった。チサトの夫は一枚の画像をプリントしたコピー用紙を店主に見せて、そこに撮影されていた一本の木を『イェフス』と呼んだ。チサトの話によれば、それはいつか彼女の夫が臨時赴任したラトビアの現地で、住人らが愛称として呼んでいた造語だった――the tree of yephs(イェフスの木)
 そして、それからしばらく月日が経ち、何の前触れもなく夫のセガワが行方をくらました。やがてチサトまでもが持病の療養を目的として家を出た。彼女が三年あまりを暮らした家は、その後、住人不在のまま空家同然の静かな様相を見せていた。
 そんなあるとき、同家の裏庭で一人の男の自殺事故が起きた。男はチサトの所属していた会派のメンバーのひとりだった。脱会したチサトの行方を追うようにして男は彼女の自宅に向かい、失意のうちに首を吊って死んだ。既婚のチサトをひとりの異性として慕っていた。
 店主が加護幸久の名を知ったのは、その自殺事故から数日後のことだった。自宅のリビングに置いてあった段ボール箱の中に十数点の映像メディアが個々のパッケージに入れて収めてあり、そのうちの一本に加護の姿が撮影されていた。
 その動画には、加護の自宅のわきにある菜園の様子も収めてあった。園内の一角に一本の成木が植わっていて、枝の一本に取り付けた小さなアルミプレートには、マジックペンで『イエス』と書いてあった。その木には数種の果樹の枝が何本か接いであった。時季が来ればその枝々にそれぞれ別種の果実が付くのだと、加護が涼しい顔で説明していた。

 ひととおり話を終えて店主は、ゆるく息を吐きながら上体を前にかたむけて、そのまま重心を前に移動させて“踏み石から”腰を上げた。そしてその場に立ち上がり、左を向いて目先にある自宅の外観を見やった。横並びの生垣越しに自宅の縁側の軒が見えた。ごく微かな月明かりの中にあって、自宅そのものが夜の向こう側に浮かんでいるようだった。店主の視界の一角には、踏板を外したブランコが静かに佇んでいた。いつか彼自身の刈り払った芝草は短く生え揃っていて、そこに植物の成長を見て取ることは出来なかった。風は止んでいた。眼前の世界の時間が止まっているように見えた。それは何者にも犯されることのない夜の平穏だった。店主は、はっきりと自覚しながら安堵の息を吐いた。目先にある自宅を、彼はそのときセガワ家の裏庭から眺めていた。
「僕の家に保管してあるビデオと、そちらのご自宅に保管されているビデオとでは、すこし内容が違っているようですな」
 と加護は言った。その声には若干の陰りがあった。
 加護の意見を聞いて、店主もまた自身の感じ取っていた違和感について話した。店主の観た記録映像には、イエスの木を撮影した場面だけでなく、チサトの母親の姿までもが収録してあった。チサトの背中の露出に関しては、チサト本人の承諾があったのだから、それを映像化するにあたって特に何も問題は無かったはずだが、しかし、チサトの母親の姿が映像に収められたことには合点がいかない。クジラの座礁現場で撮影された生々しい血肉と、その現場の一角で吐瀉するチサトの様子をそのまま映像に組み込んだ理由も店主には分からない。
 話を聞いて加護は言った。「僕にしてみても、あの木を人目に晒すつもりはありませんでした。ビデオの撮影こそ禁止してはいませんでしたが、館内での放映は許可していなかったんです」
 それは店主の推測するところでもあった。木の存在の倫理性を見れば、映像の使用を差し控えておくのが妥当なところではある。
「あなたのお手元にあるビデオは、チサト一人に宛てられたビデオなんではないでしょうか」と、加護はそう言ったあと自嘲ぎみに笑った。「そんなビデオがあるとは誰からも聞かされておりませんが、そんなビデオが本当にあったのだとして別におかしくも何ともありません」
 店主もそう思った。セガワ・チサトの撮影参加を提案したのは加護だったが、(映像中にも語られていたとおり)あとになって映像の企画内容に変更を加えたのは撮影者その本人だった。収録された映像の多くの割合をチサトが占めているのは、それがチサト個人に宛てた映像だったからだ。
「ご迷惑でなければ、そちらにあるビデオを僕にも観せていただけないでしょうか」そう言って加護は鼻をひとすすりした。「この歳になりますと、過去をひとりで懐かしむのもまた一興です」
 それを聞いて店主は愛想を込めて短く笑い、映像の受け渡しを約束した。
「まだまだおうかがいしたいことがあるにはありますが、今夜はもう時間も時間です。また日をあらためてお話をお聞かせいただけませんでしょうか」と、声に親しみを込めて加護は言った。
 そしてその言葉の流れで通話の終わりに差し掛かかろうとしたとき、「ひとつ、よろしいですか」と加護が唐突に言い加えた。「“イェフス”という名前が付いた理由からしても、あの木と関わった者の心境がどれも似通っているのだろうという気がします」
「その名付けの所以を、加護さんは信用されますか」と、店主は短い沈黙を切った。
「ラトビアでしたか?」と加護が訊くと、「はい」と店主が答える。
「遠い国の話です。国の歴史をまともに知らない僕には確かなことは何も言えません」
 そこで言葉を切って加護は「ですが……そうですな」と、ゆるく一息を吐いた。「信用できるだけの根拠が無いんです、結局をいえば」
 それを聞いて店主は静かに相槌を打った。「仰るとおりです」
「ただ、いつの時代にあっても、その話が普遍の意味を持つには違いありませんよ」と、加護は何ひとつ声色を変えずに淡々とした口調で言った。「“イェフスとは何か”といえば、それは名付け親の後ろ盾であって、ときに、その本人を生かすための“身代わり”や生贄の象徴とありうるでしょう」
 淀みのない口ぶりだった。店主は左右の目尻に皺をよせて無言に笑った。イェフスの木の形状を人間に見立てて加護が話をしていることは明らかだった。
「加護さんも、ご自分の身代わりを立てられたわけですか?」
「いえいえ」と、おどけた調子で声に抑揚を付けて加護は答えた。「僕のあれは、墓標にするつもりです」
 店主はその聞き慣れない“ボヒョウ”の発音を頭の中で反芻し、ボヒョウですか、とだけ口先に漏らした。
「妻の死を考えると、どうも私には墓標が要るように思えます」
 その発音と語意を死に結びつけて店主は何がしかの返事をしようとしたが、とっさに何を言えば良いのか見当が付かず、「なるほど、墓標ですか」と、暗に語意の理解をだけ示しておいた。
「もちろん将来の話です。今のところ妻は健康でいますから」
「奥様がお元気でいらっしゃって何よりです」と店主は言葉を探しながら言った。そして他の余計な言葉を避けるために店主自身の思い当たる節に話題を移した。「その、私の立場に置き換えてみますと、私にとっては息子が墓標だという話になりますか?」
「不謹慎ですが、奥様は?」
 その問いに対して「はい?」と、店主の口から上擦った声が出た。
「奥様はご健在でいらっしゃいますか?」
「ええ」と、店主は率直に答えた。そして、ふっと息を吐くと、そのまま呼気にのせて遠慮がちに短く笑った。「いや、どうも、勘違いをしていました――妻とは数年前に別れまして、いまは私と息子の二人で暮らしています。それに、彼女は彼女で再婚して、どこかで新しい生活を送っているようです」
「そうですか」と、加護は親しみのある声で言った。「でしたら、あなたの息子さんは墓標ではなく、生き標でしょうな」
 店主は妙な感銘をおぼえて黙り込んだ。考えてみれば、社会生活において加護幸久のような人柄を持った人物に巡り会う機会は乏しい。日常生活の中で精神的な対人関係を実感できる相手はほとんどおらず、思い当たる他者といえば、シックな店柄のバーカウンターに立つ口数の少ない年配のバーテンダーぐらいのものだが、しかし実際のところを見れば、そのバーテンダーと店主自身の関係性は甚だ薄い。
 わずかでさえ精神的な関係性を実感出来てなどいないのかもしれない。カウンター越しの対人関係が妙に心地よく感じられるが、グラスを片手に酒気を吐き出しながらでは、お互いの精神性も何もあったものではない。
 自宅の風呂場の方から、湯を打つ音が聞こえてくる。店主はセガワ家の裏庭を自宅へと歩き出した。“生き標でしょうな”と言ったその電話越しの相手こそ、店主にとって面識のない他者そのものだった。




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裏庭のバジル 34 

 窯の天井の一カ所に、ひと盛りの塩と神酒が供えてある。作業者の三名が揃って目をつむり、耐熱の手袋をはめた両手を合わせて“窯焚き”の安全を祈願する。その彼らの面子の中には、臨時に雇われた一人の老人男性の姿がある。白い長袖のシャツと、濃い緑のワークパンツを身に付けて、緩く撓んだ竹のような佇まいで立っている。短く刈り上げた髪の全体が白く変色し、広い額の下部には数本の濃い皺が長々と刻み付けられ、窪んだ眼には薄っすらとした影、そして、黒目の縁には 老人環 が白く浮きでている。男性はその眼でカメラを無言に眺めて、わずかに背筋を伸ばす。
 午前9時前。
 全長8メートルの穴窯の全体が灰色がかった色をしている。その塗り直したばかりの窯土の表面にはまだ一本のヒビも入っていない。あらかじめ石材を置いてアーチ状の窯口を上下の二か所に区切ってあり、数本の小切りの廃材を窯口の前に置いて焚火を起こせば、その炎の熱が窯口の下部の通気口に吸い込まれていく。
 そうして釜の室温をゆっくりと上げていくあいだ、数十個の煉瓦を積みかさねて窯口の上部の穴を狭めていく。煉瓦同士のわずかな隙間に少量の窯土を塗り込めていけば、そのうち四角い焚口が出来上がる。窯の外に設置してある温度計の表示を見ながら、小切りの廃材を数本まとめて焚口にくべて窯の温度を少しずつ上げていく。時間を分けてカゴと老人が交代に作業を進める間じゅう、女は小屋の壁際にうず高く積み重ねてある廃材を両腕に抱えてそれを焚口の近くへ運び移していく。

『カゴの作品の焼成は、一年に二度しか行わない。その合間に多数の作品の“形成”と“素焼き“を済ませておく。数か月をかけて2tトラック約1台分の薪を用意し、数人のスタッフを雇って焼成の作業に入る。客用に“窯焼き”をする際にも顔馴染みのスタッフを雇う。――今回の日中の作業に駆り出されたのがこの高齢の男性で、彼がカゴと顔を合わせるのは一年以上ぶりのことらしい。男性は16歳の頃から陶芸の道を歩んできた。今はもう自分の窯を持っていない』

 その後、およそ半日をかけて窯の温度を徐々に上げていく。作業者らが誰ひとりカメラを意識して見ないのは、作業中の撮影に関する取り決めを事前にしてあったからだった。撮影チームやコーディネータの二人もまた、その合意に沿って各自の予定をあらかじめ決めてあった。コーディネータのひとり(運転手の男)は途中で現場から引き揚げ、通訳者もまた所定の時間が来るまでは場所を移して他の業務をつづけた。撮影スタッフは、窯小屋の一角に折りたたみ机とパイプ椅子と大型のノートパソコンを広げて、撮影動画の内容の確認と簡単な編集作業に取りかかった。一方の撮影者は、ひそやかな足取りで焚釜の周囲を移動しながら作業風景を静止画に収めていった。焚口の向こうに揺らめく炎に何度目かのシャッターを切ったあとに、彼もまた動画の内容の確認作業に入った。撮影チームの頭上にはカゴの手で取りつけた電灯がケーブルと共に吊り下がっていて、(窯との距離を十分に取ってあったとはいえ)細かな塵が電灯の真下を窓辺へと流れていくのが目に見えた。
 黙々と焼成作業をつづける三人の姿を遠巻きに撮って、それから、そのレンズの視野を身近の窓の外へ差し向ける。「It's chilly here. But, there's nothing for it. It's for our laptop.(ちょっと寒いけど、仕方ない、パソコンのためだ)」
 撮影者の声につづいて、映像が暗転する。
 
 午後十一時。
 夜間の作業を担当する三人が焚火を続けている。カゴと老人と女の姿は無い。
 窯口の近くには、小切ったヒノキが積み上げてある。その薪を窯に投げ込むと、薪から出た多量の水蒸気によって窯の室内の温度が下がり、煙突からは大量の黒煙が立ち上る。薪が燃えつきた頃から、じりじりと窯の温度が上がり始める。
 窯口の前に立つ体格の良い青年が、自身の首にぶら下げてあるタオルを手に取って顔の汗をぬぐう。一枚の鉄板を焚口に立て掛けたあと、手首に巻いてある腕時計の表示板を斜めに見下ろす。炎の燃えさかる音と薪の爆ぜる音が、ほぼ一様の調子で鳴り続けている。青年はそれから休憩を言い出て、窯小屋の一角に置いてある丸テーブルから 煙草の箱 と オイル・ライター をひとまとめに掴み取り、口の端にくわえた一本の先端に火を着ける。唇を一文字に結んで煙を吸い込み、細い煙を斜めに吹き上げる。
 窯口の前には、すでに別の男の姿がある。男は次の薪の投入にそなえて身近に薪を積み上げる。目深にかぶせてあったニット帽を少しだけ引き上げ、小屋の柱に取りつけてある温度・表示機に視線を投げる。「すこし、このままにしときますか」と、斜めを振りかえって言うと、その彼の視線の先にいる小柄な年配の男が小さく相槌を打つ。二人は離れた場所にある丸テーブルに向かい、小屋に用意してあったパイプ椅子に腰を下ろして、何ということもなく小屋の内観を話題に挙げて過去の作業を振りかえる。わずか二、三の言葉をみじかく交わしたあと、彼らの頭上に静寂が落ちる。離れた場所には青年が立っていて、その両腕には二巻の薪が抱えてある。ニット帽の男は持参したリュックサックに手を伸ばし、ひとりで作業を再開した青年に缶コーヒーをすすめる。
「もうちょっとしたら終わりますんで」
 青年は気軽に答える。口にくわえていた煙草の灰が足元に落ちると、その灰を靴先の裏でかるく擦り散らす。

『彼は、進んで夜の作業に就いた。――聞けば、窯の天井から延びている煙突の胴がその内側から炎に熱されて仄かに赤く変色するのだそうだが、その変色が目に見えるのは夜のあいだに限られているらしい。夜になれば、煙突の先端から噴き出る炎と 火の粉 が見えるばかりか、炎の音がよく聞こえるようにもなり、おまけに彼が言うには、炎の音が引き締まって聞こえもするのだそうだ。――残念ながら、特別な聴力に恵まれなかった私には、炎の音の違いを聞き分けることは出来なかったが』

 薪の移動を続けていた青年が作業を中断して休憩所へ歩いてくる。
 そこで「おい」と、放り投げるような一声が上がる――「カメラマン」――そしてその直後、映像の中央にニット帽の男が映し出される。男は、リュック・サックの中から取り出した缶コーヒーをカメラに向けて差し出すと、語頭にアクセントを付けて「“コ”ーヒー・ドリンク」と言う。すると、それに調子を合わせて小柄な男が「ドリンク、ドリンク」と、まともな日本語の発音で繰り返す。小柄な男はそのあと、温度計の表示に視線をとめて椅子から立ち上がり、手に持っていたマグボトルの蓋を閉めてそれを丸テーブルの上に置く。
 温度計には『1050℃』の表示がある。末尾の数字がまれに変動を見せるが、すでに火力は安定していて、温度が大きく上下することもない。窯の天井の四カ所に開けてある小穴からは炎が勢いよく漏れ出している。小柄な男が二メートル以上の長さの 火かき棒 を使って窯の中の熾火をならせば、赤々と発光する炭床が微妙に明度を変えていく。

『彼がカゴの窯で仕事を始めて、およそ十三年になる。昼間の作業を担当したあの高齢男性と同じく、彼もまた自分の窯を持たずに町内の陶芸家たちの 持ち窯 を手伝うことにしている。――といっても彼の場合、年齢が比較的に若いだけあって、薪窯で作品を焼き上げるだけの体力はまだ持ち合わせている。加齢にともなって作品の趣向性が変わってきたらしく、十五年あまり続けていた山間部での暮らしをやめて、利便の良い町中で灯油窯を使って作品づくりを続けるかたわら、それでもまだ彼は、こうして一人の雇用者として薪窯に関わりつづけているのだ。
 いまでも彼が焚火の作業に携わる理由はいくつかある。中でも私が強く印象的に感じた理由というのが、“窯の中に炎があるから”というものだった。それはどこか曖昧な表現のようでもあったが、私にまったく理解できないわけでもなかった。いつか洞穴で生活をしていた祖先の記憶が否応なしに現代人の心に呼び起されるのだとすれば、我々は拒絶しようもなく、ただ黙って炎の揺らぎを眺める他ないだろう』

 喉を鳴らして缶コーヒーを仰ぎ飲むと、青年はその空き缶を丸テーブルに置いて、代わりに煙草の箱とライターをまとめて他方の手で掴み上げる。それからフタを開けた煙草の箱を前方に突き出して撮影者に喫煙をすすめる。映像の下部に色白い腕が延びる。「ありぃがとおございます」と、片言の日本語で撮影者が言う。オイル・ライターの金属製のフタを青年が指先で押し開けると、ライターの構造部品から“透きとおった”高い反響音が鳴る。
「You have a nice lighter」と、撮影者が感心の声を上げる。
「デュポンだよ、それ」ニット帽の男は、薪の移動を続けるかたわら、一服をはじめた撮影者から青年の姿へと視線をうつして茶化すような声色で言い加える。「一丁前に」
「火なんて目の前にいくらでもあるんだけどな」と、ライターのフタを閉じたあと青年は平然とした口調で呟く。
 ニット帽の男が陽気な笑いを飛ばす。撮影者の口から勢いよく吐き出された細い煙が映像の右端に映り込む。かたちを崩しながら立ち上っていく煙の向こうでは、小柄な男がゆったりした手付きで 火掻き棒 を揺り動かして、ざらざらと音を立てて熾火をならしている。

  〇

 午前七時四十二分。窯の温度が1100℃を越える。
 窯の煙突からは黒煙が勢いよく噴き出している。焚小屋の軒先にある空き地には、音楽に合わせて太極拳の真似事をしているカゴの姿がある。朝靄に日差しが射し込む瞬間をカメラに収めようと、撮影スタッフはダウン・ジャケットを着て、窯小屋の軒先に広げたパイプ椅子に座っている。他方の撮影者は、工房の隅に敷いたブルーシートの上で寝袋に包まれて仮眠中。その彼の 仕事用 のパソコンのカバーには塵や灰が薄っすらと付いている。夜間の作業者たちは二、三度の咳払いをする際をのぞいては一声も出さず、窯の温度の変化に合わせて焚火のペースを調整する際にだけ事務的な口調で言葉を交わす。薪の投入に応じて、窯の室内の炎が“うねるような”動きを見せる。焚口の上枠を一定のリズムで舐めるように、炎が吹き出し、まもなく引っ込み、また吹き出して、また引っ込む。
 そしてこのあと時刻は午前八時となり、日中の作業を担当する高齢の男性が予定どおりに姿をあらわす。女は私用のために不参加となるが、代わりのスタッフとして作業に加わることになっていた一人の男性がこのあと間もなく小屋を訪れる。その男性に「おはよござぇます」と、小さく頭を下げて撮影スタッフは、薪小屋の軒先に向けていたビデオカメラの録画をいちど中断して、歩み寄ってくるカゴに「You do Tai Chi well.」と、力無い声で話し掛ける。スタッフはそのあとすぐに自分の言葉を振りかえり、遠慮がちに言葉を漏らしながら手振りを交えて意思の疎通を図るが、頭に浮かべた意味どおりの日本語を何ひとつ話せない。「まともに寝てないんだろう?」と、構わずカゴは日本語で返す。「スリープ、すればどうだ」
「No」と、撮影スタッフは首を振って言う。「This is my work.」
 窯小屋の引き戸を開けたあと、カゴは今しがた聞いた英語を乏しい発音で繰り返しながら、戸口に身を滑り込ませる。パイプ椅子から立ち上がった撮影スタッフがカゴを振り返ろうと踵を返したところ、ちょうど夜間の作業者らが小屋の出入り口に姿を見せる。ニット帽をかぶった男が茶目っ気のある笑みを浮かべて、さようなら、と言う。
 さよなら、と撮影スタッフが小さく頭を下げる。

 そしてその後、10分から15分おきに延々と薪を投げ込み続けること86時間――窯に火を入れてから四日後の朝――映像の右端に「eighth day」の文字が出る。
 小屋の煙突からは炎の先端が勢いよく突き出している。窯の温度は1250℃を越える。ターボライターを点火させたように、窯の天井部に開けた火吹き穴から橙の炎が吹き出している。窯の中では、炎の燃え盛る音が何かの生物の声のように絶えず鳴っていて、一方、小屋の薄明るい窓辺には冬の朝の静けさが張り詰めている。夜間の作業者らに加えてそこにはカゴと女の姿もあるが、男性らの沈々とした表情とは相反して、女ひとりだけが期待と緊張の入り混じった表情を浮かべて窯口の奥に見入っている。
 しばらくして小柄な男が「よーし」と、ゆるく放り投げるような声を上げる。男はそのあと一本の薪をくべて、炎の安定したのを見て取ると、誰に言われるでもなく 火かき棒 を手に取って、そのL字型の先端を焚口に差し入れる。窯の中から一個のカップを取り出して 焼き上がり の状態を確かめるのだが、橙色に発光していたその色味用の陶器が、やがて外気に晒されることによって艶やかな緑色のガラス質を帯びた一個の作品に成り変わる。翡翠のような緑色をした透過性の被膜がそこに作り出されている。
 そしてそのあとまたさらに堅木(松の木)を焚口に放り込み、作品の色味に深みを加えていく。薪が燃え尽きれば、白熱した陶器が陽炎の中に立ち現れる。

『このあと4日間をかけて窯の温度をゆっくりと下げていく。
 我々撮影チームは、国に戻って作品の完成を待つことにした』

 いちど暗転した映像が、そのあと次のシーンに切り替わる。
 とある住宅街の一角が映し出され、大きなショルダーバッグを肩に下げた女が一軒の家の玄関先に出てくる。女は、オールと杖をひとまとめに一方の手に握っている。ベージュ色のトレンチ・コートとブルージーンズを身に付けて、黒のリュックサックを背負い、ショルダーバッグの重みで足取りが怪しくなると、バッグのストラップを手で掴んでそれを肩に掛けなおす。その女の怪しい足取りを見て、コーディネータの通訳者が車を降りる。スライド式のドアを勢いよく閉じて、小走りに女のもとへ向かっていく。
『彼女は美術部には所属していない。カヌー部に所属していたが、体調不良を理由に退部した』
 女から受け取ったショルダーバッグのストラップを、通訳者が自身の肩に掛ける。その中身の重さを散らせようとして、女はバッグの上面に付いた 取っ手 をぐいっと掴み上げる。
 それからまた別のシーンに切り替わる。
 車の走行音につづいて車内の様子が映し出される。フロント・ガラスの端には何の変哲もない閑散とした海辺がある。砂利浜の一範囲がごくわずかに えぐり取られているようにも見える。視界を他に移せば、それと似たような緩い傾斜を浜地の至るところに見て取れる。他の場所へと視界を移せば、ミニチュアのような平坦とした海辺に過ぎないようにも感じられるが、また別の場所を見やると、そこに無数の砂利の微妙な動きを錯覚しそうになる。ビデオ・カメラの画角が運転席の窓から右の方向へ流れていく。後部座席にいる通訳者の 取り繕った笑顔が映り込んで、そして直後、音もなく映像が切り替わる。
 ショルダーバッグのジッパーを開けて、中から塩化ビニルの折り畳みカヌーを取り出してそれを砂利浜に広げる。モーター駆動のポンプの バルブの先端 をカヌーの送風口に差しこんで空気を送り込んでいく。女は、黒のリュックサックから取り出したシリコンの折り畳みカップを撮影者と通訳者に手渡して、水筒に入れてあった温茶をカップに注いでいく。
 一本の杖とオールが並べて砂利の上に寝かせてある。折り畳みカヌーが形状を変えていくと、通訳者が思わず感心の声を何度か口に溢すが、ついで彼自身、カヌーの丸みを帯びた側面に手を伸ばしてその本体の高さに不安を覚える。「カヌーの中に海水が入ってくるんじゃないですか?」
「入ってくることもありますよ」
 女は、湯気立つカップの縁を唇の前に止めて「入った水は、自分で出すんです」と、そっけない口調で言い加えたあと、そのカップを通訳者にあずけて土足のままカヌーに乗り込む。オールを両手でつかんで水を掻く演技をして、「簡単そうでしょ?」
「自転車のペダルを漕ぐのと同じぐらい」と、撮影者が口を挟む。
「そんな感じです」と、女は茶の入ったカップを通訳者から受け取り、息を吹き吹き何度か茶をすすり飲むと、「こんな感じで」と、杓子で水を撒くような手付きでカップの残りの茶を砂利の上に放り捨てる。そしてそれから上体をひねって海を指差し、海面の様子に安全を見出して微かに笑みを浮かべる。「今日はカヌー日和ですよ」
「そうなんだけど」と言って通訳者は、心もとない様子で自身の泳ぎの不得意を話す。
「海の上と、海の中は、まったく別のものなんですよ」と女が言う。
 
 その直後、音声が完全に途切れる。
 撮影当時の時間の経過が一秒ずつ静かに刻まれていく中、映像の下部には英語、そして右側には日本語で、女の話の内容が一文ずつ表示されていく。(撮影チームの意図した演出として、それらの文章には詩的な語感を持たせる編集がしてある)

     泳ぐのは好きで、潜水も苦手ではない。立ち泳ぎをしていなくても
     海中に沈んでいく心配は無い。沈む恐れの無いことを知っている
     のだから、恐れる道理はない。
     浅瀬から沖へ向かって泳いでいくと、だんだんと水深が増していく。
     その海底のずっと向こうに海底線がぼやけて見える。海底線を眺
     めながらずっと泳ぎ続けていれば、そのうち自然と沖へ出ていく。
     深いところまで行こうと思えば、どこまででも行ける。どこまでも泳い
     でみようと本当に考えてるかどうかは自分にも分からないから、生
     死の一線を越える前に警告があればいい。
     もちろん警告なんて無い。少しずつ視界を離れていく海の底を見下ろ
     しながら、沖に向かって水を掻き続ければ、きっとそのまま好きなだけ
     泳いでいける。

 食品ラップに包んだサンドウィッチを半透明のタッパーから取り出して、女はそれを通訳者に手渡す。

     死んだ魚は海面に浮きあがって鳥に食べられる。海流に乗ってどこか
     へ運ばれて海の底に静かに沈み込んで深海生物に食べられたりもする。
     そんな海中の深いところまで泳いで行って、我に返ったらもう正気でい
     られなくなる。
     海は広くて大きくて、海鳥がどこかへ向かって飛んでいく。海の中では
     魚が自由に泳いでいて、こちらに構うそぶりをひとつも見せない。海の上も
     下も静かで穏やかで、海の上にいると開放的な気持ちになれる。海の
     中にいると気持ちが落ち着いてきて、だけど、そんなときに海面に浮
     かび上がって空をどれだけ眺ていても、ぜんぜん楽しくならない。

 アルミ製のマグ・カップから湯気が立ちのぼり、映像の一部が さっと曇る。

     人のいない自然は昼も夜も静かで、マグマがぐつぐつ煮えくり返っていて
     も、雷がばりばり鳴っていても、それは人が布団の上で寝息を立てている
     ときぐらいに静かなことで、もし自分が地球だとしても、つよく雷が鳴っ
     たぐらいでは別にどうということもない。赤ん坊の寝言と同じぐらい、な
     んということもない。
     人がいてもいなくても町は静かで、激しい雨音も煩いセミの音も人の寝息
     と同じぐらいに静かなもので、私たちが生きていても いなくても 家の中は
     静かで、テレビ越しに見る家の中みたいに、それは私たちの内側ではなく
     外側にある。町の静けさも、いつも私たちの外側にある。私たちがそれを
     はっきりと外側に感じているとき、この町の静けさとあなたの町の静けさは
     とてもよく似ている。

 映像に音声が戻る。

「“チェス盤”と何か関係がありそうですか?」と撮影者が訊く。
「どうかな」と女が答える。「まだ分かりません」
 浅瀬に浮かぶカヌーの上で、撮影者はニットセーターの両腕の裾をまくり上げてオールのハンドルを左右の手でしっかりと握りしめている。海面に押し付けたオールの先端部が不意に水面下に沈み込む。水平線に傾いだ太陽を背にして、撮影者の顔や胸に薄っすらと影が張り付き、その本人の影がカヌー本体の前部に延びている。
 女は砂利浜に立って、撮影者から借りたビデオカメラの液晶画面を眼前に見据える。映像には水際の微かな音が収録されていて、女の声だけが間近に聞こえる。

「周り360度が ぜんぶ海とかって、興味ありますか?」と女が訊く。
〈興味はあります〉と撮影者が答える。
「じゃあ、海底を見てみたくないですか。30メートルぐらい下に、岩とか、見えるんですけど」
〈興味はありますよ〉
「たまにサメが海底を泳いでいたりするんです」 〈本当に?〉
「サメが泳いでるところを撮れるかもしれません」
(撮影者の口元に微妙な笑みが落ちる)――〈カメラが壊れます〉
(女が通訳者を見やると、通訳者が眉を上げて何度か頷く)
「火の温度には耐えられるんですか?」
〈大丈夫ですよ、火元には絶対に近づけませんから〉
(映像の中央に撮影者の顔が拡大される) 
「本当は私、あまり写真とか撮られるの好きじゃなくて」
〈そんな気がしました〉
「この中に、撮ったやつが全部入っているんですよね」
〈窯焚きの途中――たぶん3日目ぐらいからです〉
「それで最後にあなたが海に浮かんで、私が撮ってる」
(女が通訳者の顔を見やると、通訳者が歯切れの悪い調子で和訳を始める)
〈君の提案です、断るわけにもいかないでしょう〉
(撮影者がオールを縦の向きに持ち替えて、その先端を海中の砂利に突き立てる)
「このカメラって いくら したんですか?」
(カヌーが斜めの向きで海面に浮いている)
〈とにかく、もう十分です。良い思い出が出来ました〉
「海に潜るほうが、あなたにとっては良い思い出になると思うけど」
〈こうして海に浮かんで君の話を聞いているだけで、本当にもう十分です〉
「海の中なら、もっと良い気分になれるのに」
〈残念だけど〉
(カヌーの向こう側が映し出される。水平線が映像を二分している)
「本当、残念です」と女が呟く。

 映像が切り替わる。
 海沿いの町の風景や、山間部の田畑の撮影画像が立て続けに表示される。

『陶器は風土に基づいて生じる一種の芸術物だが、当然そこには作者たちの思想が多分に含まれてもいる。日本の一地域の風土と陶芸文化の一端を切り取っておくのは、以前から私達の所望するところだった。
 もとはカゴの作陶活動の映像化を目的として彼に連絡を取ったはずだったが、その結果として、より多くの意味合いを含む映像として仕上がったように思う。これは、ひとえにカゴやスタッフたちの協力のおかげだ。
 この記録をつうじて陶器への愛好をより深めていただくと共に、ひとつひとつの陶器の成り立ちに想像を巡らせていただけたら、私達にとってそれに勝る喜びは無い』

 映像が暗転する。

『日本を発ってから一週間あまりが経って、私達の事務所に一個の小包が届いた』

 映し出された机の上には、徳利と猪口と小皿が置いてある。猪口は、黒に錆色を混ぜ込んだ色をしていて、それと同じ色味をした徳利の上部には薄灰色の艶やかなコーティングがしてある。小皿は、艶を帯びた乳白色のガラスに覆われていて、その薄い透明には一切の混じり気が無い。
 そのあと映像の画角が左側にずれる。
 小皿のわきに、一枚の写真と英字で書かれた便箋が置いてある。カゴはジャンパーのポケットに手を突っ込んで無表情に立っている。女は手に持った自身の作品を胸の前に掲げて、他方の手では杖を突いている。This is for youと、細く特徴のない文字が書かれた便箋が映像の中央に映し出されたあと、暗転した映像の左側にクレジットの表示が始まる。そして、右側には静止画の数々――展示室のベランダから見える山の稜線の連なり――工房の敷地を囲う木や植物――郵便ポストから薄い封筒を取り出してそれをカメラに向けて掲げるカゴの姿――モノラックに乗って駐車場に降りる際に撮影した山景色――カゴの工房へと通じる轍の付いた砂利道――水源林の案内看板と、落ち葉に覆われた散策道――クジラの死骸と数名の見物人の後ろ姿――駅前の商店通りと、撮影に応じた店主らの笑い顔――

 最後のクレジットが消えた直後、窯小屋を真正面から撮った映像が流れる。
 大きな引き戸の前で、カゴが無表情に太極拳の身振りをしている。その近くに女は杖を突いて立ち、唇の両端を曲げて笑いながら、胸の前で手をひらひらと振っている。





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裏庭のバジル 33 

「巨大化ですか?」
 女は右の横髪をタオルで挟んで言ったきり、首をやや右に傾げたまま眼前の窓をじっと静かに眺めていた。その一方、ズーム機能が動作して一度は女の背中が映像の中央に大きく映し出されたが、カメラの視野が早々と滑らかに広がっていき、やがてまた窓辺のほぼ全体が画角に収まった。暗みがかる屋外の景色を覆うように、奥行の欠いた一室の内観が窓の全面に薄く映り込んでいる。
「このビデオが不特定多数の人の目にさらされることを、君はどう思いますか」
 撮影者が沈黙を切った。無言のまま女は髪の水分をタオルの生地に吸わせ終えると、そのタオルを頭にかぶせて慣れた手つきでタンクトップの後部の裾を両手でまくりあげた。剥き出しになった女の背中を見て撮影者は、反射的に注意の声を上げてカメラのレンズを女の足元に向ける。
「撮ってもらえますか」と、後ろを振り向いて女は平然と言った。そしてそれから前に向き直り、一方の手を背中にまわして背骨の中程の辺りを皮膚の上から指先でなぞった。「この部分に前世の業を背負ってるような気がするんです」
 女の右側の脇から腰にかける体の線には性の丸みが帯びているが、それに対称するはずの整った丸みが上体の左側には無い。背骨がゆるくS字に湾曲しており、背中の左右の側においてそれぞれ筋肉の付き方が違う。
「君の前世は魚か蛇でしょう」
 通訳者は訳を終えると、苦笑いを漏らして首を小さく横に振った。
 タンクトップの裾を下して女は頭にかぶせてあったタオルを首から下げた。カウンターチェアに座ったまま上体をかるく左右にひねって筋を伸ばしたあと、右の横髪の裾をまとめて手で掴みあげて髪先の匂いを嗅いだ。
 
 四段式の大型のラックが部屋の一方の壁際に天井から吊り下げてある。ラックの最上段には、形成を終えた作品を載せておく四角い板が何枚か重ねて置いてある。次の段にもそれとおなじ四角の板が一枚ずつ横並びしていて、一枚につき作品が数個ずつ載せてある。小型の食器からタライ並みの大きさの器まで、どれもがほぼ一様に薄茶色をしている。そして、その次の段には四角い平皿が数個、最下段には作品の形成器具の類や女の私物などが置いてある。
 部屋の中央には長い事務机が数台。手動のろくろや電気式のろくろが手作りの作業台の上に置いてあり、部屋の片隅の床には電気式と灯油式の窯が据えてある。部屋の一方の壁には陶芸展の告知ポスターなどの紙類が貼り付けてあるが、うちの数枚に掲載されている日程は、すでにその開催期間を過ぎており、日取りの表示には黒いマジックペンで打消の線が引いてある。
 女は四段式のラックの前に足を止めて、ラックの最下段の棚に置いてある陶製のオブジェを両手で持ち上げた。それを胸に押し付けるように一方の腕で抱え込み、もういちどラックの前に腰をかがめて今度は棚の上から電源タップを掴み取った。そして、部屋の中央にある長机の上にオブジェを置いて、本体から延びているコンセントのプラグを電源タップに差し込んだ。
「電源のスイッチをオンにしてもらっても良いですか?」タップの片端を手に持って、女は部屋の出入り口に向かった。
 言われたとおり撮影者が電源コードのスイッチを入れると、「消しますね」という、女の言葉のすぐあとに室内灯の明かりが落ちる。オブジェの表面に数多く開けてある大小様々な穴の内側から、強い暖色の灯りが漏れ出てくる。その放射状に広がった光が机の天板に淡く反射し、オブジェそのものが幻燈のように机の上に浮かんでいる。
 君が作ったんですか、と撮影者が訊いた。
 はい。そう答えたあと女は、「でも」と言ってオブジェを見やり、それが自分の作風ではなくカゴの陶芸教室に参加する初老女性の作風の模倣であることを話した。
 撮影者が相槌を打って興味を示せば、かしこまった口調で女は話をつづける。――初老女性の作品にはすべて『架空』と題してあり、その作品別に制作順を示す英数字が一から順々に振ってある。それにならって、女もまた自分の作品に『架空』という題名を付けることにした――と、そこで言葉を切って女は工房の一方の壁を指す。貼り付けてあるポスターのうち一枚に、初老女性の個展の告知用のものが貼ってある。開催期間はすでに過ぎているが、ポスターの出来が良く、観賞用として見栄えが良い。
「じゃあ、君は作品ごとに漢数字を振るんですか」
 撮影者は一度オブジェに戻した視線を女の顔に移してそう訊いた。
「どうかな」 女は事務机の前に立ち止まってその机の下から丸椅子を引き出し、自立式の杖を身近に置いて座面に腰を落とした。オブジェから放たれる蛍光灯の明かりが女の顔を真向いから淡く照らし出している。「あまりよく考えていないんです。“こういうのを”ずっと作り続けるかどうかも分かりません」
 女は撮影者の顔をちらと見やり、カゴの陶芸教室に通う初老女性の話題に戻って話をつづける。――女性は近年、ずっと同じ種類のオブジェばかりを作り続けており、その作品に彫刻刀で描かれるのは、模様や景色や動植物など多岐にわたる。陶器の形状やサイズは、すべての作品にほぼ共通していて、見れば、丸みを帯びた小型の水瓶とでもいったところだが、ただ、その陶器を形成して窯で焼き上げるのはカゴであって女性自身ではない。カゴは、作陶に必要な材料や道具などを自家用車に積み込んで女性の工房を訪れ、ろくろで形成した粘土状の器を女性にあずける。そして後日、彫刻の済んだ器がカゴの工房に持ち込まれる。カゴはそれを灯油式の窯の中で乾燥させたあとに焼き上げる。初老女性の作品は、いつもそうして出来上がる。作品の内側に蛍光灯を入れて電源スイッチを入れれば、煌々とした灯りが陶器の外に漏れ出てくる。その種類の作品ばかりを、女性はずっと作り続けている。それ以外の種類の物を作品としては残していない。
「その女性はカゴさんの身内の方ですか?」と撮影者が訊く。
「そう思うでしょう」と女が答える。「それが違うんです。カゴさんの奥さんでもないみたいですし」
「きっとカゴさんは、その女性の作品に惚れているんでしょう。そんな気がします」
「私もそう思うけど、どうかな、分かりません」と、女は唇の端に笑いを浮かべて言った。「分からないけど、でも、ちょっと気にはなっているんです、私も」
「気になるというのは、どういう意味ですか」
「ただ単純に、人として」そう言い足して女はオブジェから視線を逸らし、机越しに対座している撮影者をちらっと見やる。「だから要するに、あの人のモノの考え方が気になるってことです」
 撮影者の軽い相槌の声につづいて、女はそのあとオブジェに静かな陶酔の視線を注ぐ。――私が作ったのは、すごく“ちゃっちくて”完成度も低いですけど、でも、あの人が作るのは、もっと彫りが緻密で、線が滑らかなんです。彫刻刀の刃を貫通させるかさせないか、ってぐらい繊細なんです。それで、ほら――部屋を暗くして、作品のライトをつけるでしょ?――もともとそうやってライトの明かりを利用して風景を描くつもりにしてあるから、ちゃんとそのとおりに――空は暗くて、星がたくさん浮かんでて、川とか海には月明かりがたくさん散らばっているんです。――で、部屋っていうか、展示室の明かりをちゃんとうまく調節して……その、だから、暗さを調節してあるっていうことなんですけど……その演出のおかげで、オブジェの輪郭と暗闇の境目がぼやけて見えるんです。
 ふむ。撮影者は机に片肘をついて、手のひらをオブジェにかざし、それから他方の手に掴んであるビデオカメラのレンズをオブジェの側面に差し向ける。彼の手のひらには暖色の灯りが薄ぼんやりと木漏れ日のように散っている。
 女はさらに話をつづける。――オブジェに掘り込まれた実在の景色に紛れ込むようにして、その景色との関連性の低い何かしらのデザインが描かれてある。それがオブジェの架空性の一部分を担っていることには間違いないが、しかし、作者の女性が意図する架空性の実体は『暗闇』の中にこそある。オブジェに描かれた夜空の暗がりと展示室の暗がりとをつなぐ、その架空性を女性は意図している。
 その話を聞いて撮影者は、目の前の紐を手繰るように言葉を垂らしていく。「まず非現実の定義にも依るでしょうけど、光がない場所にはたいてい非現実が生じやすいんじゃないでしょうか」
 女は気のない返事をしたあとに丸椅子から立ち上がり、身近に立ててあった杖の“取っ手”をつかんだ。そしてそれから女は胸を張って上体をわずかに仰け反らせると、姿勢をもどして静かに一呼吸を終えた。「ちょっと考えてみたんですけど、童話とか絵本に描かれている世界って、だいたい現実の世界に根差しているじゃないですか――地面とか空とか、建物とか、車とか――人とか、動物とか、草木とか……それに登場人物が言葉を話したり、誰かと笑いあったり、嬉しいことがあったり残酷なことがあったり――そんな感じで、架空の中には現実の描写がたくさんあるんですよね。
 ――で、それって」
「それって」と、女は視線を落として繰り返す。

 “さばくのクジラ”という題名の絵本がカゴの自宅の本棚に立ててある。カゴの陶芸教室によく参加する初老女性の自宅に保管してあったもので、カゴはそれを自宅に持ちかえってそのまま本棚に置きっぱなしにしてあった。装丁には水彩画が描いてあって、表側には砂漠、裏側には海、その表裏の両面ともに、ぎっちりと四隅にまで画が描き詰めてある。
「えっと」
 そう小さく声を漏らしたあと女は、おぼろな記憶にそって絵本の内容に触れた。――“砂クジラ”と呼ばれる陸生のクジラが砂漠の深さ80メートル程度の地中に生息している。砂の上に出てはネズミやトカゲや蛇などを食い、そして、そのとき同時に飲み込んだ砂を体外に勢いよく吹き上げる。舞い上がった砂の中には、かねてより蓄積された核物質が含まれており、砂は風に舞い上がって大陸の別所へ飛び散る。
 話の中に出てくる核物質には実在する固有名にひっかけたカタカナの仮名を付けてある。女の記憶によれば、砂クジラの胴に付いた胸ビレがクジラの全長のおよそ半分の長さにまで発達しており、尾ビレの発達も相まって砂の中をすばやく力強く掻き進んで行ける。
「ホラー映画に出てくる怪物みたいな恰好をしているんです」と女は言う。「アメリカ人が作るホラー映画かヒーロー・アニメに出てきそうな、すごく分かりやすい見た目をしているんです。クジラの顔が怖くて、うす気味わるくて、ぜんぜん子供向けの絵じゃなくて」
「企業風刺か軍事風刺でしょう」と撮影者。「とくに戦時中には珍しくない話です」
「けっこう古い本ですよ。ページに焼けがあったり、シミの匂いがつーんとしたり」
「謎めいた古書です」と、撮影者が溜め息まじりに言う。
「初版がいつなのかは知りませんけど」と、女は唇の端に親しげな笑いを浮かべていたが、その表情の片隅に追憶の間を差し込んで女はさらに話をつづけた。「でもやっぱり、いま思ってみても、あれって子供向けの絵本じゃなくて大人向けなんです。なんか、すこしだけ寂しい雰囲気があって、そういう絵本が好きな大人って結構いるんだろうなって感じの――」
――絵本の最後の二ページ分だけが袋状に閉じてある。その袋の中には三百グラムあまりの微細な砂が仕込んであり、砂の中には樹木の小さな種が数個混じっている。いつかカゴが初老女性から聞き知ったところによれば、その数粒の種を女性は自身の家の庭に植えてモミジの木を育て上げたという。
「そういうのを“付録”って呼ぶのかどうか私には分かりませんけど」と女が言う。「なんか、大人向けのユーモアって感じがしませんか?」
「すこし気味が悪いです」 と、撮影者が首を横に振る。「絵本の内容からすれば、たしかにそれを大人のユーモアと見なすことも出来るでしょう。ですがそれでも、きっと僕なら袋を開ける気にはなりませんよ。その袋の中に何の有害な物質が混じっていてもおかしくないんですから」
「たぶん読者からそういう批判があったんだと思います」そう言って女は視線を斜めに落として、物思いに声を弱める。「絵本は今でもインターネットで売られてますけど、“砂や種が入ってた”なんてレビューはひとつも書かれていないんです」
「重版が続けられているということですか?」
 女は表情をわずかに曇らせて視線を落とし、小首をかしげて上目で天井を見やった。そして、胸の下に両腕を組んで物思いに浸り、右の人差し指の先端で二の腕の肌をとんとんと軽く打ちながら話を続けた。「でも、考えてみたら、その砂のことを怖いって思うのは大人だけなんですよ、きっと――それが外国の砂だったとしても近所の公園の砂だったとしても、そんなの子供にとってはどっちでも良いっていうか……怖いもの知らずっていうか、無知っていうか」
「絵本に書かれていた話と僕らの見たクジラの一件がなにか関係していると思いますか」と撮影者が訊く。
「なにか関係があるみたいに思えるかもしれません」女は言葉をさがして慎重さを含ませた口ぶりで答える。「でも、それって、どうかな」と、軽い調子で続けておいて、「それって結局、単なる“こじつけ”のような気もします」
 意外と冷静な見方をするじゃないですか。撮影者の声が室内に軽い響きを立てる。
「自己分析です」そう言ったあとに「大事でしょ?」と、誰にともなく言い加えて女は椅子の前に立ち上がり、そのまま部屋の片端に歩を進めて壁付けの照明スイッチに手を伸ばした。
 すると直後、点灯の明滅につづいて天井灯の白い明かりが部屋をはっきりと照らし出し、それと同時にオブジェの内側から漏れ出していた暖色の明かりが周囲の空間にさっと溶け込む。撮影者はオブジェの照明スイッチを切って、その作品への評価を好意的に言い表した。
 さんくす、と、女は表情のない声で言った。変わらず大窓には部屋の内観と三人の姿が映り込んでいて、窓の外には夜更けの暗みが静かに満ちている。

『この四日後、クジラは海に沈んだ。
 聞けば、マッコウクジラは長くて七十歳ぐらいまで生きるらしい。あのクジラの全長から推定して、おそらく寿命の半分以上は生きただろう。生前に潜った海に沈められればあのクジラとしても本望だろうが、どうだろう、海なんて、どこの海でもほとんど同じようなもののような気もする。
 そういえば、クジラは夢を見るらしい。どんな夢を見るのか私には想像も付かない』

 撮影者の声が止んだあと、工房を撮影した映像がさっと暗転した。その暗んだ映像の中央には、座礁したマッコウクジラと海をひと合わせに撮影した一枚の画像が表示された。当時の見物人たちの姿は無い。クジラの死骸の向こう側には白波の名残りが水際に沿って横に広がり、遥か遠くにある水平線が空と海の “それぞれ色合いの異なる灰色” をかろうじて上下に分け隔てている。
 そうして海辺の画像がただ静かに表示され続ける中、ごくわずかなホワイトノイズにのせて、女の澄んだ声で数文の朗読が始まった。それと同時に、映像の下辺の暗みには朗読の英訳が浮かび上がる。

(ざらざらしたよる ほしがたくさん じめんにばらばら きのめがでたよ
ぱぱがわらって ままもわらった めをとじてすぐに ふたりがねむれば
ほしがたくさん ざらざらしたよる ほしをおとして そらがとじるよ
いそいでかえろう ぼくもかえるよ ほしがおちるよ そらがとじるよ)

『絵本の終盤では、地中海沿いにある小さな町の夜のひとときが描かれている。その町の一角にある民家の一室に、ちょうどベッドに入ったばかりの男児の姿がある。男児は、窓の外の物静かな町道のちかくにある一本の屋外灯を思い浮かべる。仄白い明かりを反射した砂が灯の下で輝き、地面の砂床には人の足跡がひとつも付いていない。数匹の蛾が照明のプラスチックカバーに身を打ち付けるたびに鈍い音が小さく鳴って、その直後、わずかながらに鱗粉がまき散らされる。男児は、いつもだいたいそれを日常の光景として無心に眺めていた。見知らぬ通行人が雨傘を差して通り過ぎれば、その本人の靴跡の溝が砂で埋められていく。
 そして物語の最後では、砂クジラの吹き上げた砂が音もなく町に降りかかり、その町に隣接する青い海の中を海生のクジラが悠然と泳いでいく。男児は傘を片手に海辺に立っている』
 そこで撮影者の声が止む。クジラの死骸を撮影した画像が消える。

 撮影者がカゴの工房に通い始めて四日目の朝。映像の右端に――the fourth day 9:46AM――の文字が小さく浮かんで消える。
 撮影者一行が乗り入れた駐車スペースには、カゴの貨物車の他に白色の乗用車が停めてある。その車体に目立った汚れは無く、窓ガラスには曇りひとつない。ガラスの表面には雑木の林立が鮮明に映り込んでいる。
 撮影者らの到着に時機を合わせたようにして、中年を過ぎた年恰好の女が工房の敷地の端にある石階段に姿を見せる。これといって何の特徴もない中背の女だが、一目見れば、それが誰の母親であるかの見分けが付く。
「おはようございます」そう言って女は一振りした手を下ろす。歩行に不慣れな子供のように両手でバランスをとって眼下に延びる細い石階段を下りてくる。その様子を撮影した映像の端には、『加護幸久』と記した郵便ポストが映っている。
「加護さんのビデオを撮ってるんですってね」
 軽い音を立てて運転席のドアロックが開く。女は上着の右のポケットから手を引き抜いて、自家用車のキーを手に収めて歩く。その女の背後から、通訳者の返事の声がする。
「ここ、良い所でしょ?」と、女は自身の傍らを歩く撮影者の顔を見た。
 そして直後、早々と足元の地面を指して女が気まずそうな笑みを口元に浮かべたところ、女の眼尻と鼻の根元にくっきりと深い皺が寄った。女はそれから慣れない発音で“グッド、プレイス”と言い加えた。「交通の便は悪いけどね」と、撮影者から逸らした視線を前に向けて歩いた。
 カメラの焦点が移動する。石垣に関心を寄せる撮影スタッフの姿から、白い乗用車の側面へと、まったく手振れの生じていない滑らかな映像が映し出される。斜めに差す日光が車体の一部を眩しいほどに照らし出していて、周囲には砂利を踏み歩く音が連続して鳴る。それからしばらくして運転席のドアが閉じる。シートベルトを斜めに掛けたあと女は、車の窓を開けて撮影者の手元を指しながら通訳者の顔を見やって訊いた。
「私もビデオに出るの?」
「僕の思い出のために撮っておくだけです。人前には出しません」と撮影者が答える。
 そうしてちょうだい、と、笑みをこぼして女はフロントガラスに顔を向ける。
 車がゆっくり後進をはじめる。砂利を鳴らして敷地の出入り口に向かい、クラクションを小さく鳴らして走り去る。ブレーキランプを何度か灯してなだらか斜面の道を遠ざかり、やがて雑木林の向こうに消える。
 撮影者らは、その当日に予定されている撮影工程について言葉すくなに話をしながら、砂利敷きの駐車スペースに戻ってくる。
 そのときちょうど工房の石階段の中程の場所に、杖突きの若い女の姿がある。女はジーンズとトレーナーを身に付けて、両手に庭仕事用の手袋をはめてある。「おはようございます」と、一方の手をひらひら振って見せたあと、女は、その手を後ろ腰にあてがって撮影者らが来るのを待つ。敷地の周囲に植えてある風知草が風に揺れれば、鼻先に触れた横髪を手ですくってそれを耳に掛ける。 
「君は、お母さんとよく似ていますね」
 それを聞いて女は眼下の踏み段に立ち止まった撮影者から視線を逸らし、駐車スペースに停めてあるワゴン車を見下ろして嫌味のない静かな笑いを口元に浮かべた。「今日は、お母さんの仕事が休みで――いつもそうなんです、ここまで私を車で送ってきてくれるんです――スクーターで山道を走るのは危険だから、って」
 撮影者は親しげな声でみじかく相槌を打つと、ズーム機能を使用してカメラの焦点を女の顔に寄せていった。「私が道を踏み外すんじゃないかって、あの人、すごく心配しているんです」と女が言う。風が山の斜面を吹き上がり、周囲の風知草がそろって衣擦れのような音を立てる。
「それはある意味、君の宿命のようなものだと思います」と撮影者が一息に言い切る。
「ちゃんと舗装されてるので、心配ないはずなんですけど」
 通訳者は、女の言葉どおりの意訳を始めるが、とっさに湧いた疑問に思い当たって口をつぐんだ。「この話はこれで終わりにしましょう」と、横髪を耳の上に押さえつけながら、女はいくらか声を下げてそう言った。ほどなく通訳者が撮影者の背中を気早に何度か手のひらで打ち、場所を変えて話を続けるよう気軽な口調でうながした。

 その日の午前に予定されていた作業風景の撮影に備えて、作業着を身に付けたカゴが薪小屋から長斧や薪割機を運び出してくる。そうして数束の薪を地面に積み重ねて置けば、その一方では、薪小屋の室内を撮り終えた撮影者がカメラの液晶モニターを斜めに見下ろしながら小屋の軒先に出てくる。
 カゴはそのあと無言に作業の準備を整えて、長斧を手に取り撮影者に視線を投げる。女は地面に置いてある電動の薪割機の電源を入れる。薪の材料となる太枝の長さは約四十センチ。二人のそれぞれの手元で枝が縦に小切られていく間じゅう、木の繊維を引き裂く音が周囲にみじかく響きを立てる。




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裏庭のバジル 32 


「人の死体を見てびっくりするときって、たぶん、そこには決まって私たちとおなじぐらいのサイズの人が死んでいるんですよ」
 女は部屋の中央の広い作業台の上にエアコンのリモコンを置くと、窓辺にあるステンレスの流し台へ向かった。手にぶら下げていたコンビニ袋から洗髪用のトラベル・セットを取り出し、そのパッケージの中にあった二本のボトルを流し台の内側に置いてから、温水と冷水のコックを開ける。そして手の甲を湯にさらす。「だから、もしどこかで巨大な人がべったり倒れ死にしていたとしても、私たちはただその大きさにびっくりしたり感心したりするだけなんだろうなって思うんです」
「それは人ですか、大きな人?――ジャイアントではなくて、ただの人?」
 撮影者が手元のビデオカメラの液晶画面に女の背姿を眺めて訊いた。
「巨大な、とても大きな人のことです」
 女はしばらくの無言に続けてそう答えると、カーキ色のブルゾンを脱いでそれを身近の棚へ放り投げた。「身長182センチの私と7メートルの私――みたいな感じで、どっちも人間のかたちをしているんだけど、サイズだけがぜんぜん違うんです」
 それから女は、とくに気兼ねする様子もなくグレーのセーターを脱いで白いタンクトップ姿になり、手近にあったカウンターチェアを手で引き寄せて座面に浅く腰をかけた。そしてそのまま上体をかがめて蛇口の前に顔を下げて、髪の毛を温水で濡らしていく。左右の肩口から肩甲骨のあたりにかけて肌が剥き出しになっていて、タンクトップの生地に女の下着のベルトが透ける。
「You want me to stop while shooting?」と、撮影者はいくらか声の調子を高めて訊いた。コーディネータの通訳者を見やってその彼に通訳を求め、それからまた英語でおなじ言葉を繰り返す。いったん撮影を止めましょうか、と通訳者が女の名を呼んだあとに口早に訊けば、女は髪に湯を含ませながら思案の声をみじかく漏らして気軽な声で“どっちでも”と答える。
 撮影者がオウケイと返す。「あとで考えましょう」
「粘土って、こんなふうに保管するんですか?」と、そこで撮影スタッフの声が上がる。それまで部屋を巡り歩いていた彼だが、ある一角に立ち止まり、眼下の机に置いてあった四角い密封タッパーに目を留めたのだ。「これを使ってカゴさんが仕事をするんでしょうか」
 それを聞いて女は上体を屈めたまま自身の頭の上に手を伸ばし、温水と冷水のコックをそれぞれ少しだけ締めた。そうして湯の勢いを弱めておいてから、撮影スタッフの声の出どころへ首をひねって答える。「えっと、それは“テスト用”のオーブン粘土です」
 言葉を切って女は右のまぶたを閉じ、目頭を伝う水滴を指でぬぐう。「だけど、あの、それはカゴさんじゃなくて、陶芸クラブに参加する子供たちが使うんです」
「interesting」と撮影者が声を上げると、「興味ぶかいです」と訳者がつづく。
「でも、それ、特有の匂いがするんですよ。だから色々と、コーヒーとか緑茶なんかを混ぜて、粘土の匂いを抑えるテストをしているところです」 女は上体をいくらか戻して、目の前のガラス窓の向こうに夕方間近の屋外を眺めてそう言った。
「粘土にコーヒーの匂いを付けるんですか?」と撮影スタッフが訊く。
「そうです」と、女はシャンプーのボトルを斜めにして、ボトルの口から出した白濁の液を手に広げていく。「コーヒー豆とか、緑茶の葉っぱとかをミキサーで細かくして、それを粘土に混ぜ込んであります」
 撮影スタッフが感心の声を漏らした。「におい嗅いでみますか?」という女の問いに対しては、「ノーサンクス」と首を振る。
「electric oven?」撮影者は部屋の中央にある広い机のそばに歩み寄り、そこに置いてある丸椅子にちらと視線を落として座面に腰を下ろす。「家庭用の電気オーブンで陶器が焼けるんですか?」
「イエス、エレクトリック・オーブン」と、答えて間もなく女は洗髪の手を止めて「あっ」と、軽い一声を上げる。「そうだ、ほら、あの、クジラの肉を持って帰った人が、たしか、いたんですよね?――どんな人なのか私は見てないけど、検査か何かをする、とかって」
 通訳者はその女の言葉にみじかい説明を添えて撮影者に訳して伝える。
「クジラの肉が四角く切り取られていました」と撮影者。
「もしかして今ごろ、オーブンの中だったりして」女は左右の手でシャンプーの液を泡立ててそれを髪に含ませていく。撮影スタッフは、オーブンで調理されたクジラの肉を想像して“アグ”と、嫌悪の声を漏らす。「ちょっと変な匂いがする肉のほうが美味しいから――とか言って、はじめから食べるつもりだったんじゃないですか」と、女がいたずらっぽく言う。「臭い肉が美味しいだって?」と、撮影スタッフは語尾を釣り上げて言ったあとに不快の面持ちで撮影者に意見を求める。撮影者は黙ったまま机の一角に置いたビニール袋の中から“味海苔”のプラスチックボトルを取り出し、そのボトルのフタの縁に巻いてある透明のテープを手で器用に剥がしていく。
「あの――ちょっと軽く何か食べるぐらいは大丈夫だと思いますけど、お酒をのんで大声で騒いだりするのとか、ぜったい駄目ですよ」、両脇を開いて後頭部に十本の指を動かしながら、女は視界の外に話しかけた。撮影者はプラスチックボトルを一方の手に掴み、それを身近にいる通訳者の前に差し出す。英語で礼を言って通訳者は海苔の一枚をつまみ上げ、それを自身の鼻元に寄せて匂いを嗅ぐ。「ここ一応、工房ですから」と女が言う。

 土産屋のビニール袋から取り出した加工品の類がいくつか机の上に並べて置いてある。その日の昼間に駅前の商店通りを巡り歩いて買った商品ばかり、それらすべてに甘辛いタイプの味付けがしてあり、それらすべてが飯のおかずに適当であることを撮影者が一品ぶんの味見をするごとに言うものだから、そのつど工房の室内では微妙な笑いが起きた。「カゴに土鍋で飯を炊いてもらおう」
「カゴに飯を炊いてもらおう」「じゃあ、カゴに飯を炊いてもらおう」 

 そしてその後、話題は座礁したクジラの一件に戻る。
 撮影者一行が商店通りを歩いていたところ、他の通行者らの中にクジラの噂話をして歩く者が何人かいた。とある店の主人が“観光のついでに”と言って、クジラの座礁現場までの行き道を撮影者らに教えようとした他、死んだクジラの体内に増加するメタンガスの影響によってラグビーボールのようにクジラが変形するのだと、自分の知識を物知り顔で話す店主もいた。その誰もが他人事を話していた。地元の漁業活動や観光地としての景観の価値に差しさわりがなければ、その一件は珍事のひとつであって、特に問題視されるべきほどのものではない。寒気の増した秋の終わりに誰の目に付くことなく静かに起きて、地元の噂話の種となり、そして、座礁現場を訪れた者らの過ごす夜のひとときに人知れない静けさを落とす。ただそれだけのことでしかなかった。
「私自身があの場にいて、こういうことを言うのもなんですけど、できれば、あの場に誰もいなければ良かったんじゃないかな、って思うんです」と女が言う。
「誰も」と撮影スタッフ。「僕らも?」
「はい」と女。「ふむ」と撮影者。
 それから女はカウンターチェアから腰を浮かせると、椅子の脚部の金属ポールに靴の踵をのせて、そのまま椅子を背後に押して寄せていく。両手の指をつかって頭の左右を洗いながら胸を張るように背筋を伸ばし、溜息まじりに小さく声を漏らす。そして女は一息を置いて、はっきりとした口調で「クジラのお腹の中に入っているゴミをぜんぶ浜に並べて置いたら、なぜかそれが環境メッセージか何かみたいに思えてくるんですよ。それで、ちょっと感動したり、物思いに浸ったりするんです――だけど、なんていうか、クジラが死んでいるから海がいつもと少しちがう風景に見えたりするんだとしたら、なんか、人って残念だなって」
 そう言ったあと女は自身の靴先を背後のカウンターチェアの脚に引っ掛けてそれを手前に引き寄せようとする。その様子を見ていた撮影スタッフが、カウンターチェアの背もたれのポールを手で掴んで、座り直すよう女に伝える。
「あれは明らかに、多くの人々の日常には存在しないものです」と撮影者が言う。「きっと多くの人々は死んだクジラを見る機会を生涯のうちに一度も持ちません。だから、あのクジラを見て感動したり神妙な気持ちになる人が大勢いたとして、それはごく当たり前のことなんだと思います」
 撮影者の話の終わりを待ちかねたように、撮影スタッフがみじかく一声を上げて口早に訊く。「あのクジラが浜に打ち上がったのは、腹の中にゴミが入っていたからなんですか?」
「クジラの赤ちゃんじゃないとすれば、ゴミかなって」女は平然とそう答える。
 撮影者は思案の声を漏らしながら言葉を探し、やむなく相槌を打つ。

【女】じつは、お腹の中に何も入っていなかったりして
【撮影者】あのクジラが“餓死した”ということですか
【女】いいえ、なんていうか――ただの置物みたいなものなんです。はじめからクジラは死んでもいないし、生きてもいない
 それを聞いて撮影者はまた歯切れの悪い相槌を打つ。プラスチック・ボトルの中に手を差し込み、味海苔を一枚つまみ上げる。
【女】こういう話はしないほうが良いですか?
【撮影者】どういう意味ですか?
「答えが出にくい話は、しないほうが良いですか?」と、洗髪の手を止めて女が訊く。
【撮影者】いいえ、どうぞ
【撮影スタッフ】イクスキューズミー
 女の髪を伝い落ちる湯がシンクの底に乱雑な音を立てる。撮影スタッフの声には疲労の色が混じる。
【撮影スタッフ】トイレに行っても良いかな
【撮影者】もちろん

「なんていうか」 部屋のドアが閉じたあと女はそう言って、シャンプーの泡を洗い流す手をぴたりと止める。「――クジラと私が、おたがいにチェスの駒みたいな関係にあるんです。誰かが“あそこ”にクジラのかたちをした駒を置いて、そのあと、私のかたちをした駒を“こっち”に置いた、みたいな感じ」
 撮影者が相槌を打つ。「詳しく聞かせてください」
「えっと、ふたつの駒がそれぞれお互いに違うマス目を移動しますよね。クジラと私がおなじマスに並んで立つことは、ゲームのルール上、絶対にない」
「たぶん」と、撮影者がうなずく。
「それで、ゲームの最後になってチェス盤から全部の駒が無くなっても、そのままマス目だけは次のゲームが始まるまで“ずっと消えずにある”」 温水と冷水のコックを閉じて女は言う「そうでしょ?」
「僕の知るかぎりでは」と撮影者。「たぶん」
 女は息吹くように笑う。「そんなマス目の上を、駒は“縦とか横とかに”移動するんです。上下に移動することは絶対にない。チェス盤には上空も地下も無い」
「つまり君は、僕ら人間がいつもチェス盤のマス目を移動していると、そう考えているんですか?」と撮影者が訊く。
 女は二度目の洗髪を始めようとシャンプーの液を手のひらに出して答える。「――ううん、そっちの話はあまり大事じゃなくて――どっちかといえば、私の目の前から駒が消えてしまうことのほうが大事かな。なんていうか、私がマス目に立ったときにはもう、その場所にクジラはいないんです」
 撮影者はまたみじかく相槌の声を漏らし、海苔のプラスチックボトルの蓋をしっかりと閉じてそれを机に戻す。「えっと、これは僕がずっと前から思っていたことなんだけど」と、そのあと彼は立ち上がって丸椅子を机の下に静かに押し入れる。左右の腕を彼自身の頭の両わきに大きく伸ばして疲労を押し出すように息を吐く。「もちろん、これが君の言った話の内容の説明や補足になるかどうか僕には分かりません。ですが、これがまったく意味を成さない話かといえば、きっとそうでもないはずです。だから少しだけ僕に話す時間をください」
 屋外には夜の薄い皮膜が掛かっている。女は時おり上体を起こして、腰をゆっくり左右に捩じる。工房の大窓には部屋の内観と撮影チームの二人の姿が映り込んでいて、その二人とも窓辺に視線を当てている。女の頭からは小気味よい音が連続して鳴っており、女の十本の指が弱った昆虫の脚のように動く。
「たとえば、僕は職業柄――」と、撮影者は両手の指を自身の目の前に合わせてそれを四角いフレームに見立てる。
「――ファインダーを通して目の前の風景を見ますが、そのとき、風景を構成している数々の情報にまとめて一枚のフィルターを掛けているような感覚をおぼえます。そして、その風景を四角いフレームで切り取ってそれを“過去の物”にした瞬間、僕の手元ではその風景が平面化していく。つまり、風景を“画像に変換して”平面状に置き換える、そのわずか一瞬の過程を経て、過去に属するそれはひとつの記録となるわけです」
 撮影者は淀みのない口調でそこまで言い終えると、もういちど味海苔のプラスチックボトルの蓋を開けて、中から一枚をつまみ上げる。「いま僕の目の前にあるもの――それこそが僕の日常の外観を決定していて、そのほとんどが立体のかたちを持っています。言い換えれば、僕の視界にある日常の外観は、あらゆる立体の複合体の外観だということです。――しかし時としては、知らず知らずのうちにその世界を平面的に感じ取っている。もちろん僕自身がそういう妄想しているのではありません。つい今しがた言ったように、いつも世界は立体を成しています。では、なぜ僕はそのとき世界を平面状に感じ取っていたのでしょうか。
 君は目先にある風景を眺めながら、沈黙して記憶の引き出しを開けている。そうしてその引き出しの中に収めてある数多くのフレームに意識を滑らせていくあいだ、一方では、目の前の現実世界を構成する視覚的な情報をまとめて一時的に維持している。それは例えて言うとすれば、食品用の透明なラップで、ぴったりと、こう、現実世界を包んで保存しておくような感じです」 窓にうつる撮影者が、ちょうど食器にラップを掛けるような手付きで左右の手を動かす。
 女は洗髪の手を止めて、語尾の翻りそうな声を上げる。「ラップで、包むの?」
「情報がそこらじゅうに動いてしまうと困るからです」と撮影者が答える。
「その、フレームっていうのは記憶のフレームみたいな感じのものでしょう?――じゃあ、情報って何のこと?」
 それを聞いて通訳者はとっさに英語で撮影者に意見を求めて、「データです」と、そのあと女の背中に視線を戻して答える。
「そう、インフォーメーションではなくデータです」と撮影者。「では、データとはいったい何を指しているでしょうか」
 ――仮に、この世界に存在する視覚情報が大きく二種類に分けられているものとしましょう。ひとつは僕らの日常生活に溢れている、そのありとあらゆる可視的な、目に見える物質データ。もうひとつは個人の記憶や想像や思考そのもの、また、それらの像を平面で描写したイメージ・データとでもいうべきもの――もちろん、そのイメージデータには、先ほど僕が言った『記録』が含まれています――現実世界を映し込めたそのすべての画像による記録物や、そこに含まれる文献の類までもが。
「ちょっと待って」と、女が早々と口を挟む。
 ――私が過去を振り返っているときにも、現実のデータがそっくりそのまま、ばらばらにならずに私の目の前にちゃんとあるってことですよね。それで、データをラップで包んであるから乾燥が防げて、埃も付かない。
「その二種類の視覚データのうち、後者のイメージ・データこそが君の記憶に何かしらの特殊な影響を及ぼす性格をしていて」と、撮影者はそこまで言ったあと、間の抜けたような声を小さく上げる。――そう、乾燥を防いでくれる。それに料理の匂いを食器の中に閉じ込めてしまう。

【女】要するに、だから、私が何か思い違いをしてるってこと?
【撮影者】たとえば、お互いにそれぞれ見てきた その過去の視覚情報の一部分をとおして、君の記憶と僕の記憶とのあいだに“薄っすらとした”接点があるものとします。そしてそれは言うなれば、その記憶が同時に多くの人々の記憶の一部分でもあり得る、ということです。――たとえば、こんな感じ。僕は、これまでに一度もワイキキの海を見たことはないけど、別の土地の海を見たことはある。僕はワイキキビーチの波の音を聞いたことはないけど、別の土地の海の音を知っている。僕は白い波を知っているし、その波に足首をさらす心地よさも知っている。それに、見ず知らずの他人がその波打ち際に立っている姿を想像することもできる」
【女】うん、出来ると思います、たぶん私も
「だけど、その僕が海の匂いというものをまったく知らずにいる場合だって大いにあり得るでしょう。プロジェクタースクリーンを通して、視聴覚的に海の広さを知ることも感じることも出来るんですから」と撮影者。「つまり何が言いたいかというと、錯綜した記憶情報の真偽を見定めるには、それ相応のプロセスが必要になるということです」
「うん、いまのは、なんか分かりやすかった」女は蛇口から湯を出してシャンプーの泡を洗い流しにかかる。「あの、ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「何ですか」
「死んだクジラを見て感動する人がいて、しない人がいるのは、なぜだと思いますか? もしかしてそれも人それぞれの記憶の違いが何か関係していたりしますか?」 
 撮影者はビデオカメラを机の上に静かに置いて女の背中を見やり、具体的な話を続けるよう女に求める。女が着ている白い薄手のタンクトップには下着のベルトが透けていて、その丸めた背中の左右に背筋の盛り上がりがある。女はまれに首を左右にゆっくりと傾げて、蛇口の湯を側頭に流し当ていく。
「えっとですね」と、なにかを喉に詰まらせたような声で女は話をはじめる。
 ――たとえば、ほら、太陽が沈んでいけば夕方になるでしょう?――コカコーラは甘くてピリピリしてて、洗濯機の中では服がぐるぐる回っていて、それに、誰かに背中をさすってもらうと気持ち良いし、息を止めたら苦しくなってくる。そういうのって、すごく当たり前のことように現実に起きていますよね。ここに私が“いる”ということと、“いない”ということの違いがどう見ても明らかで、それと同じぐらい、すごく当たり前のことみたいに今日のクジラはあの浜にいたんじゃないかな、って気がするんです。べつに特別なことでも何でもなくて、土が空じゃなくて土以外の何物でもないのと同じぐらい。
 冷水と温水のコックをそれぞれ閉めておいてから、女は髪の水分を手で軽くしぼり抜く。「だから、逆に言えば、綺麗とか寒いとか嬉しいとか――それって何か特別なことなの?って」
 撮影者が相槌を打つ。「おもしろいことを言いますね」
「これ、べつに冗談を言っているわけじゃないんですけど」と女が言う。「明日になったら、クジラがパッと消えてたりしないですよね」
 リンスのボトルキャップに親指の腹を添えてキャップを押し開けて、女はまた上体を屈める。両手に分けたリンス液を頭髪に練り込むように付けていく。
「君の話の内容から察するに、自分の目の前にリアリティが感じられるかどうかという、ただそれだけのことのように思えてきます」と撮影者が言う。――現実にある視覚的な物質情報がリアリティを欠くとき、その情報の在りどころが現実から想像世界に流れ込んでいるものと仮定しましょう。そのとき君は、リアリティの弱まりと共に、目の前にある景色が非現実に置き換わっていくような……景色がぼやけて見えるような、とにかく、なにか漠然とした違和感のようなものを感じ取っている。
「どうかな」と、女が思いを巡らして言葉みじかに言う。「私がボッーとしているときに、いつもリアリティが弱くなっているかどうかなんて私自身にも分からないから――だけど――その、なぜ私たちが目を離しているあいだに、あのクジラが消えてしまわないのか、とか、そういうことがすごく不思議に思うときがあって――これって、どうなんでしょうか、リアリティと何か関係ありますか」
「もしクジラが消えるとすれば、どうやって消えるんですか」と撮影者が訊く。
 上体を屈めたまま水道の蛇口から湯を出して、女は髪に付いたリンスの泡を洗い流していく。「えっと、たとえば、そう――誰かがクジラを一瞬で他の場所に移動させたり――私とクジラのどちらかの時間の流れが急に速くなったり――私がそれをクジラとして見なさなくなったり」
 なるほど、と、女の思案を打ち切るように撮影者は言う。
 ――その不思議がいつか美術の方面で何かのかたちに実を結ぶことは大いに期待できます。でも、その不思議について、いまはこれ以上あまり深く考えつづけるべきではないかもしれません。まず誰もクジラを一瞬で別の場所には移動させられませんし、君とクジラの時間経過の速さが大きくずれることも現実には起こり得ない。そして最後の、君がクジラをクジラとして見なさなくなるというのは、つまり君自身の認知能力に問題が生じたということなんだと思いますが――
「イクスキューズミー」と、そこで通訳者が一方の手をすっと上げて撮影者の言葉をさえぎる。「コンクリートのおもりを付けてクジラを沖合の海に沈めるのが経済的で良いらしいです」
 そう言った通訳者の他方の手には封の開いたペットボトルが握ってある。
 撮影者が卓上のビデオカメラを手に取り、無言のままカメラのレンズを通訳者にそっと向ける。
「本当ですか」と、女は上体を屈めたままシンクに向かってそう訊いたあと、感嘆の息をすっと吐き出して言う。――ちょっとなんか、それ、見てみたいな。
「役場に電話をすれば、クジラを撤去する作業の日取りを確認できますよ、きっと」
 そう答えて通訳者は口元に寄せてあったペットボトルの飲み口を咥えるが、その様子にかまわず撮影者が話を始めようと二言三言をみじかく漏らす。通訳者は水を口に含んだまま軽く唸るような声を上げて眉をしかめる。そして水を飲み込み、「ちょっと待って」と日本語で言う。彼はそのあとまた水を口に含んで無言のまま人差し指をちょいちょいと女の背中のほうに差し向ける。
 カメラの向きを変えながら、撮影者は小さく咳払いをする。――たとえば、死んだクジラが海に沈められるとします。それは君の見ていないところで間違いなく実際に起きます。船やヘリコプターを使うのかもしれません、そのことについて僕はよく知りませんが。――だけど、まちがいなく人の手によってクジラはどこかの海に沈められます。君がその現場を目の前で見るかどうかは別として、クジラが海底に沈まなかった現実はどこにもありません。
 女は水道の湯を止めて、濡れた髪を両手でかるく握って水分を抜いたあと、身近な台の上に置いてあったフェイスタオルを手で掴み上げて、その生地の表面に髪の水分を吸わせていく。――じゃあ、ちょっと訊きたいことがあるんですけど、あの浜の景色をラップで包んでボケッと突っ立っている私って、いったい何でしょうか。さっきあなたが言ったみたいに、私はあの場所で自分の記憶を辿っていたんですか?――目の前の窓ガラスに視線を押し当てて、女は問い詰めるような口調で言う。「だけど、そんな記憶なんて私には無いんですよ。あんな大きなクジラなんて、これまでに一度も見たことがありません」
「ふむ」と、みじかく溢したあと撮影者はしばらく黙り込み、それからまた同じように小さく一声を落とす。「さっき君は、あの海辺に誰もいなければ良かったと、たしか、そんなふうに言いました」
 ――たとえばクジラの腹の中からゴミが出てくる様子を実際に見たとして、そのあとで環境汚染問題への対策のひとつに人類の消滅を思うのは、ごく自然なことです。そして、きっと将来に起きる数々の人災もまたそれと同じ方法をとって未然に完璧に防がれるはずなんです。要するに、誰もいなければ良いんです。
「わたし、クジラの体の中なんて見ていませんよ」
 と、女は手を止めて言う。
「僕らは過去に数多くのものを見ていたはずです」と撮影者が切り返す。――ただ単純にこう思うのですが、人の存在が招く不条理を横目にしなければいけないときもあります。すべての人災を防ぐために人類の消滅を願うことの稚拙さと、その心の純粋さと弱さに一つずつ目を向けなければいけないときもあります。
 そう言って撮影者はそのあと疲労の入り混じった低い声を溜息にのせてみじかく吐き出すと、手持ちのビデオカメラをまたもういちど通訳者の顔に向ける。「僕らは自分自身が覚えているよりもずっと多くのものを見てきました」
 日本語に訳し終えると通訳者は、女の背姿から逸らした視線をカメラに移して、取って付けたような笑みを浮かべる。女の背中をちょいちょいと指して、さらには顎先でその方向を指し示す。

 午後六時を過ぎて、屋外は薄暗い。三人の姿が工房の内観と同化でもしたように窓ガラスに映り込んでいる。窓の一か所には焚き釜の小屋の屋根と煙突が見える。遠くにある山の稜線が空と森林を隔てていて、空の下辺には水に滲んだような斜陽の黄金がうっすらと沈んでいる。「疲れていませんか」と、女が斜めに視線を落として言う。「その隅っこにある冷蔵庫に飲み物があります」
 女の後ろ姿をビデオカメラの画角に収めて撮影者が礼を言う。「ところで、途中で終わったさっきの話のつづきをずっと聞きそびれていたんですが、君の身長が7メートルにまで伸びたことが、これまでに一度でもあったんですか?」
「いいえ」 首を振って女が答える。
「できれば、こういう安っぽい話にはしたくないんですが」と、撮影者は女の足元から頭にかけてレンズをゆっくりと動かしていく。「さっき君が、まったくの思い付きで人の死体のサイズの話を始めたんじゃないとすれば、もしかすると今回のクジラの一件が君の過去の視覚データの一部分を引き寄せようとしているのかもしれませんよ」
 女は穏やかな声を流し台のステンレスに落とす。「なんか、ドラマみたい」
「言ったでしょう、安っぽいって」そう不平じみた小声で言ったあとに、撮影者自身の腹の音がみじかくカメラの視野の外に鳴った。「君じゃないとすれば、いったい何が巨大化するんでしょうか。もしかして、何かが巨大化していく そのイメージ・データを、君はいつか見ていたんじゃないですか?」




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