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2018.7.18 『イェフス』39 40 41 42 43 new








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イェフス 43 


 十二月も中頃を迎えた土曜日の朝、セガワ家の敷地で耳を突く鋭い音が鳴った。住宅地の日常に発するにしては特殊に過ぎる音だった。その地区に長く住む老齢の住人らにしてみれば、町の警報機が誤作動を起こした程度にしか感じない。だが、休日の午前の平穏なひとときに彼らの家事の手をひとまとめに止められる程度には異質で不穏な音でもあった。
 店主の息子もまたその音を聞き取ってリビング・ダイニングに顔を見せた。父親を探して隣室とトイレと洗面所と風呂場を順々にまわり、その足で縁側へ向った。彼の目先には部屋着を身につけた店主の姿があった。
「隣りの家の人が木を切っているんだ」店主は息子に気付いて言った。
「うるさいね」と、息子もまた縁側から大窓の外を眺めた。
 家の壁に音が反射し、辺り一帯に小刻みな太い響きが鳴り重なっていた。音の上昇につれて、その鳴り渡る範囲が家の敷地の外へと広がった。店主が定期的におこなう庭の草刈もまた普段の家庭生活に生じる音量の比ではないが、この日の午前を切り裂く音といえば、そのまたさらに大きな音で耳障りに鳴っていた。店主は玄関を出て、門前の道をセガワ家の裏手へ回った。彼の視界の先では、初老の男が地面のアスファルトに膝を突いて作業を続けていた。生垣の木の一本が男の目の前をまっすぐに傾き、そのままセガワ家の庭にばさりと倒れた。男は上体を戻して一方の手を後ろ腰に当てて、息を吐きながら背筋を伸ばした。チェーンソーのエンジンを止めて、やれやれ、と言った。
「おはようございます」店主は様子を見計らって声をかけた。男は後ろを振りかえってチェーンソーを地面に置くと、軍手の表面に付いた木屑をかるく手で払い落とした。二本の木がセガワ家の庭に倒してある。どちらの幹も地面から三十センチあまりの高さで切り離され、その断面には綺麗な切り跡が付いている。店主は男の前に歩み寄って、二メートルほどの幅に空いた生垣の向こうに、草の伸びた裏庭と縁側用のシルバー色のシャッターを眺めた。初老の男は、保護メガネを外してチェーンソーを顎でしゃくると、それがホームセンターのレンタル品であったことを話した。そして男はそのあとエンジンの動作や刃の切れ味に対する好ましい印象を口に出して言いかけるのだが、ちょうどそのとき店主の関心が木のほうに向いていて、男の他愛ない世間話は宙に浮いたまま立ち消えていった。男は屈託ない笑みを浮べて店主の様子を眺め下ろした。
 二本の木の切断面には、どちらも二十本ちかくの年輪が付いていた。手を広げて株の直径を測ると、長さにしておよそ十五センチあった。隣り合わせで密接していた他の木々の側面にも枝の成長が見られた。緑色の葉こそ付いていないものの、陽光の遮られた枝陰の中にあって細々とながら確かに横枝が伸びていた。それまで何度となく生垣を剪定してきた店主自身にでさえ、その枝の成長の具合には目が行き届いていなかった。それはいつかセガワ夫妻から聞き知ったイェフスの木の性格そのものだった。枝の手入れをせずに木を放置し続ければ、やがて隣り合う木々のすべての枝々が互いに交差するように横這いに伸び続ける。
「休みの日に、すみませんね」男はすっかり緊張の取れた表情でチェーンソーを足元に見下し、腹の前で手を組んで気さくな口調で言った。「なかなか威勢のいい奴で。力があるけど、そのぶん音もでかい」
「ええ」そう言って店主は腰を上げると、ふつと沸き立った微細な感情にまかせて、男の目に視線を投げ返した。「どうして木を切ったんですか?」
 ここに小さい裏門をつくろうと思いまして。男は木の幹の断面からゆっくりと視線を上げて答えた。保護メガネの縁の跡がまだ彼の目の周囲に赤みがかって残っていた。男はそしてまたチェーンソーを手に取り、セガワ家の庭に寝かしてあった二本の木の後処理に取り掛かった。「ちょっと待っていてください」と、チェーンソーのエンジンをかけると、木の幹から伸び広がっていた枝をすべてチェーンソーで切り落とし、そのあと二本の幹をそれぞれ等間隔に小切って処理を終えた。
「手馴れたものですね」店主はいちど湧き立った感情を抑え込んで言った。
 男は恐縮めいた声で笑った。足元に散らばった枝や幹を庭の隅に片付けながら、バーべキューの予定をまた話題に挙げた。たったいま小切った枝や幹を天日で乾燥させて、それらを着火剤と合わせてドラム缶の中で焼却しようという考えだった。男は自分の手近に置いてあった新品のシャベルを土に突き刺し、株と根を掘り起こし始めた。一方の足に体重をのせて、いくつかの掛け声を敷地のまわりに響かせた。
 翌日、ホームセンターの担当店員が軽トラックに乗ってセガワ家を訪れた。施工の作業が始まってから一時間足らずで、家の裏手にアルミ製の門柱と片開きの扉が取り付けられた。

 その次の日、自宅の倉庫の中を引っ掻きまわす店主の姿があった。夕食後の静まり返った夜だった。庫内の天井灯の明かりを反射させた塵や埃が戸枠から外へと漂い出てきた。すでにもう小一時間ものあいだ、そうしてブランコの座板を探して手狭な庫内をあちこちと探し回っていた。思い当たる場所には見付けられなかった。防水用の塗料でうすく艶びく一枚の座板を、端材と見誤ってゴミに出したはずは無かった。それを持ち出した人物が他に誰かいるとすれば、自分の息子以外には考えられなかった。
 振り向きざまに店主は、戸口を流れ出ていく塵のかがやきを見て思わず息を止めた。倉庫の小窓と引き戸を開け放したまま家に戻った。

 息子は特に気おくれをする様子もなく、自室の奥の床に置いたダンボール箱から座板を取り出した。そしてそれを左右の手で胸の前に掲げて、眠気の差した顔を上向けて父親を見やった。ブランコの板の実寸は以前と変わりなかった。それを持つ手がまだ小さかった。
 だが、それよりも店主が気に掛けたのは、部屋の隅に置いてあるダンボール箱の方だった。以前、息子がリビング・ダイニングに持ち込んだ物とはまた別に、大きさの異なるもう一個のダンボール箱が彼の自室に置いてあった。一方の箱の表面には接着剤の商品名、そして、他方の箱には粉末釉薬の商品名が印字してある。店主は息子への対応に思案の声を漏らしながら、息子の背後にあるダンボール箱にそれとなく視線をずらした。箱の上面にある四枚の蓋がすべて外側へ斜めに傾いていて、その蓋の隙間からは白い布地が覗いていた。
「三年ぐらい前かな」と、店主は床に敷いてある絨毯に目を渡して言った。深い青色の毛足が夕凪の海のようだった。「ブランコから落ちただろう?」
「ジェットコースターみたいだった」息子は自分の記憶を辿った。
「だから取り外しておいたんだ」そうすることを提案したのは、店主ではなく瀬川知里だった。
「お前に預けておくよ」と店主は言い添えた。
 息子はいぶかしげな顔で父親の顔を眺めていたが、そのうちまたもういちど座板を手元に見下ろして一度うなずき、わかった、と言った。
「風呂へ行くか」店主は誰に言うともなしに言った。そして戸口の木枠から肩を離して外の廊下に後ずさった。その間際、店主は思い出したように言い出た。座板の正確なサイズを測っておきたかった。息子から受け取った板をダイニングの食卓に置いてから風呂に入った。
 午後八時を回ろうとしていた。
 息子は防寒着を羽織って自室を出ると、ガス台で温めた茶をマグボトルに入れてそれを片手に家を出た。
 冬の只中にあって夜の冷気が頬を刺した。息子は自宅の生垣に沿って歩を進めて、セガワ家の門前を横切ってぐるりと敷地の外を回った。下校時に回り道をして確かめてあったとおり、生垣の一部が切り倒され、その場所に裏門が頼りなく建っていた。アルミ材で出来た伸縮式の扉だった。レバー・ハンドルを下げて扉を右側に引くと、音を立てずに扉が開いた。
 歩道灯が淡い光を落としていた。アルミ製の裏門がおぼろに白く浮き上がっていた。その門の扉を閉じたあと息子は、足元にマグボトルを置いて生垣に背中をもたせ掛けた。手袋をはめた両方の手を防寒着のポケットに差し入れて首をすくめた。
 歩道を行く者は誰もいなかった。車道の脇に停めてあった一台の軽自動車がアイドリングを終えて走り去った。遠くにある門灯のひとつが消えて、そのあとしばらくしてまたひとつ他家の灯が消えた。瀬川家の裏庭から道を挟んで向かい側に立ち並ぶ板塀の表面を、暖かい灯りが斜めから射し照らしていた。地面に埋め込んだ小さなライトの明かりがひどく眩しかった。
 一方、歩道灯の光源をどれほど見続けていても、ほどんど目の疲れを感じなかった。星明りよりも目に優しく、星明りよりも彼の身近にあった。またさらにそのまま視界の先へと順々に目を移していく。遠くの十字路にある道路灯の光がいまにも消えそうなほどに薄白かった。光は十字の四方に伸びる道先をすべて短く断ち切っていた。何物も照らし出さず、ただそこに意味もなく浮かんでいるだけのようだった。
 生垣に沿って伸びる歩道に、冷えた風がゆるく吹き流れていた。店主の息子は左手の人差し指を口に咥えて、唾液の付いた指の皮膚で風の向きを確かめた。そして、ちらっと斜めを振りむいて裏門に注意を払った。門を隔てた向こう側に人の気配があった。よく通る口笛の音に合わせて何者かがセガワ家の裏庭を歩み寄ってくる。店主の息子は微かな不安に駆られて「さむい」と、背をこごめて自分の所在をそれとなく小声で打ち明けた。すると間もなく、その声に気付いた相手が門の外に首を突き出して声を放り落とした。
「こんな寒いときに、どういうつもりだ?」
 男の声には好奇の色合いが帯びていた。
「この場所が、すごく寒いんだ」息子は裏門を指で差すと、平静を装ってそう答えた。
 男は大きな懐中電灯の光を扉のフレームの上下に流し当てた。二箇所の鍵穴の位置を目で確かめたあと、家から持ち出してきた鍵をブルゾンのポケットに手探りし、中から取り出した二本組の鍵の先端に電灯の明かりを射した。息子は真鍮で作られた鍵の輝きから目をそむけて前に向き直った。
「鍵を掛けたって意味ないよ」息子は扉越しの背後に向けて言い放った。「こんな小さいドアぐらい、すぐによじ登れるから」
「だろうな」と男は言った。「けどな」そう言葉を続けたあと、門の格子に吹き入る風の流れに気付いて敷地の外に出た。「まさかとは思うけど、“鍵を掛けるから盗人が入る”なんて考えているんじゃないだろうな?」
「それ何?」息子は訊いた。
「だとしたら、それをキベンって言うんだ」と、かまわず男は断定の口調で付け足すと、歩道に出て視線を左右に渡した。風が右から左へ一方向にそよいでいた。そしてそれとはまた別に、門の格子の隙間にだけは引き寄せられる風の流れがあった。排水溝に流れ込む水のようだった。
「夏になるまで待てば良いのに」そう言って男は胸の前で両腕を組み、下唇を噛んで身を震わせた。「寒いと、小便が近くなる」
「お酒を飲むからだよ」息子は呆気を含んだ声で言い捨てた。向かいの家の板塀の隙間から民家の窓明りが細く何本も漏れ出していた。男は自分の口の前に一方の手をかざし、吐いた息の匂いをすっと嗅いだ。
 僕もそうだよ。と、店主の息子は思うままに言った。そのことを他者に話したのは初めてだった。
 それからしばらくして息子の話を聞き終えると、男は理解が出来ないといった表情を浮べて訊いた。
「寝小便をして困るのは、修学旅行のときぐらいのもんだろう?」
「おじさんみたいに一人暮らしをしてるんじゃないんだから、困るときもあるよ」
「お父さんは知らないのか?」
「夜になったら起きて、もう一回お風呂に入る」うなずいて息子は自分の習慣を話した。
「おじさんだって、仕事から帰ってきてもご飯を作ってくれる人がいないから困るけどな」
「分かるよ」息子の遠く目先に車のヘッドライトが点いた。
「お父さんがご飯をつくってくれるんだろう?」と男は訊いた。
「炊飯器だよ」と息子は答えた。「タイマーが作ってくれる」
「電気が作ってくれるんだよな」男は目を細めて笑った。
 息子の視界の遠く先で、タクシーの丸い行灯が滑らかに色を変えた。その視線を辿って男もまたタクシーの車体を眺めた。「おじさんなら、どこから風が吹いてくるのかなって、あっちを見るかな」そう言って逆の方向を指した。
「なんで?」と息子は訊いた。
「風がゆっくり流れてくるように見える」
 それを聞いて息子は物知り顔で“うん”と言った。風の流れを目で捉える方法が思い付かなかった。
「他にも何か話したいことがあったら、いつでも俺が聞いてやるから」
 そう言いながら男は一方の手のひらで息子の背中を軽く叩いたが、そのあと、ふと気まずさに口をゆがめて、あぁ、と、声をみじかく漏らした。一年後には瀬川家を出てまた別の土地に移り住む予定だった。
「どこかへ行くの?」と息子は訊いた。
「そう。どこへ行くかは分からないけど」
「それって、どこでも良いの?」
「体が健康なうちはな」
「大丈夫だよ、自転車に乗れるんだから」
 タクシーが二人の前をゆっくりと通り過ぎた。球形の行灯が何種類かの淡い色を数秒おきに移し変えた。制帽を浅くかぶった運転手が眼前のハンドルに置いた手の指を上下に小刻みに動かす。カーナビの画面にはニュース映像。車内の天井から吊り下げてある客用の液晶ディスプレイにもおなじく中年のニュースキャスターの佇まいが映し出されていて、そのキャスターの胸の前にはニュースの主旨が表示してある――人の記憶保存技術の今。記憶ビジネスと、その管理業務における課題
「あんなに歳をとった人でも、布団の中で漏らしちゃうんでしょ?」と、息子は男を振り向いた。
「体が衰えてくればな」
「だから漏らすの?」そう訊いて息子はそのあと、自分の記憶にある忘れがたい数夜を思い起こしてそれを男に話して聞かせた。
 あとになって息子はそれが不慣れな寝床に入った始末であったと知るのだが、当時はまだその因果関係には思い至らず、子供ながらに深く落ち込んだものだった。
 ――彼自身まったく予期していなかった。目覚めると、自分の下着の布がべったりと股間に張り付いてた。それに気付きながらも彼は、しばらく身うごきを取らずに天井の照明器具を眺め上げていた。丸い照明カバーの内側にある薄い板状の部品がゆっくりと静かに動いていて、カバーの内側に満たされた豆電球の灯かりが自動的にそのかたちを変えていった。月の満ち欠けのようでもあって、自分の気を鎮めるには十分な効果があった。
 息子は瀬川知里の寝息に注意を払ったまま身をねじった。かけ布団の片端をめくり上げて、温みの残るカバーの一箇所に指先をあてた。そこには僅かな湿りがあった。寝間着の股から尻の方にかけては、それとはっきり分かる程度にまでじんわりと濡れていた。息子はそれからベッドを下りて、足音を立てずに寝室の前の廊下に出た。暗んだ廊下の壁に手を伝わせて階段の降り口まで歩いていくと、壁づけの照明スイッチを押して天井灯の明かりを点けた。寝間着の薄青い布地がその色を濃く変えていた。
 廊下が異様なほどに静かだった。そんな中、他家の、それも自分の家の間取りを写し取った屋内で、なかば呆然と立ち尽くしている。誰のせいにも出来なかった。家のせいでもない。ただただ自分の起こした失態だけが目の前にある。
 階段を降りようと足を踏み出した矢先、その息子の背後から女の呼び声がした。つられて息子は早々と後ろを振り返った。ちょうど知里がショーツ一枚の格好で寝室を出てきたばかりだった。薄明りの中で見た知里の裸が、ちょうど息子のまっすぐ目の前にあった。知里は片方の手に持った室内用のスリッパを息子に差し向けて、他方の手の指先で自分の頭皮をざりざりと掻いた。息子は羞恥心の意味合いの微妙な変化を自覚する間もなく、さっと顔を背けて階段に向き直った。その様子を見て知里は “風邪ひくよ” と、つぶやくように言った。
 息子は知里に言われたとおり、洗濯かごに寝間着のズボンを入れて、風呂場のシャワーの湯で股間の汚れを洗い流した。洗面所から持ち出してきた大きなフェイスタオルをベッドに敷いて、半身を露出したまま知里の傍らにもういちど足を差し込んだ――
「大人の女の人に裸で寝られたら、そりゃ緊張して小便も出るよな」
 店主の息子の話を聞き終えて、男は気さくな口調でそう言った。
 二人の視界には近隣の家灯りが変わらず張り付いていた。風の流れを除いて、時間の経過を感じさせるものは他に何もなかった。息子は道の真向かいにある家の板塀から視線を逸らし、男の顔をふいと振り向いて言った。「セガワさん、ぜんぜん嫌な顔しなかったよ」
「お母さんみたいな人ってことだろうな」
 息子は小首をかしげて言った。「寝ているときはね」
「ロマンがあって良いじゃないか」男は感慨の息を吐いて冷気を吸った。夜の寒さに耐えかねて奥歯を小刻みに打ち合わせた。「だけどな。年寄りの寝小便は、また別の話なんだよ」

 風呂を出た店主が息子の不在に気付くまでに、そう時間は掛からなかった。店主の呼び声に応じる気配はなく、子供部屋に息子の姿がないとあれば、本人の居場所がセガワ家のどこかにあるものと考えるのが妥当だった。はじめにセガワ家の裏庭に思い当たったが、その想像に掻き立てられる自分の発想が何より疎ましく思えた。店主は、いちど閉めた扉をもういちど開けて、明かりの点いた息子の部屋をただ無言に眺め渡した。そうしているあいだにも、店主の注意はベッド脇にある二個のダンボール箱に否応なく引き寄せられていった。うちの一個には加護幸久の陶芸展で放映された数々の映像メディアが入れてある。となれば、もう一個の箱の中身もまた加護に関わる何物かであって当然だった。断定にも似た思いに駆られて、店主は部屋の窓辺へと歩いた。
 箱の中に入っていたのは女用の服だった。それを元妻の物であると推しあてるには、店主の記憶がひどく曖昧だった。妻の着ていた服など一枚一枚覚えていなかった。だが、箱の中から漂い出るその匂いだけは、明らかに彼の自宅のどこにも無かった。店主は気乗りのするとしないに構わず、むしろ自分の懸念を払う衝動にまかせて箱の中から服を取り出した。その服をささっと適当に丸め直してそれを絨毯の上に置くと、余計な考えを挟まずにそのまま箱の底を見下ろした。
 二個の白い袋が箱の底にあった。袋の生地や外見は、茶葉を入れた複合繊維のパックそのものだった。嗅ぎ覚えがあるその特徴的な匂いさえなければ、市販の防虫剤をそこに重ねて見たかもしれない。
 確かに、それは防虫剤の用途を成していた。袋の中身の性質を思えば、もう特に疑いようは無かった。店主の目に袋の中身が透けて見えた。粒の大きさに個々の違いはあったが、それをセガワ家の寝室で見た黒い粒状物以外の何に例えて見ることも出来なかった。店主は自分に言い聞かせるように、まいったな、と呟いた。
 玄関のインターフォンが鳴ったのは、このあと店主がリビング・ダイニングで息子への対応を考えあぐねていたときのことだった。隣りの家に済む初老の男に連れ添われて息子が帰ってきた。「裏門が珍しかったようで」と、男は店主の息子の代わりにささやかな弁解をした。それに続いて息子は、昼間に聞いたチェーンソーの音を理由に挙げて、無断で家を出た訳を手短に父親に伝えた。
「そんなところだと思ったよ」と、口元に微かな笑みを浮かべて店主は言った。
 息子の部屋に見つけたダンボール箱とその中身については伏せたまま、そのあと店主は風呂に入るよう息子をうながした。箱の中の衣服が瀬川知里の物であるなら、知里に対する息子の思い入れがまだ風化せずにあって違いなかった。

 後日、店主は数日ぶんの休暇を取って加護幸久の住む町で過ごす予定を立てた。息子を連れて家を空けるのは久しぶりだった。加護幸久に電話をかけてその旨を伝えたところ、手ごろな料金で泊まれる旅館を数軒ぶん紹介された。加護は、冬の時季に出される夕食の献立を思いつくままに話した。以前の通話と相変わらず、加護の話しぶりには酒の席の陽気があった。店主はそれを好ましく思った。たった一本の電話で、加護に対する偏見がいくらかは弱まった。加護から聞いていた“通話中の人の声について”、それが携帯電話の通話に限られた音質であるという旨を話した。固定電話の会話には通話者の声の波形がそのまま電線を行き交う仕組みとなっている。それを聞いて加護は「そうでしたか」と、抑揚のついた声で酒気をまき散らすように言った。「だから要するに、いま僕は“おたく”の本当の声を聞いているということでしょうな」
 加護はそのあと自分の工房への経路を説明した。それは彼の陶器の販売サイトに記載されていたとおりの内容だった。店主の住んでいる町から電車で四時間あまりを移動して、そして駅前からバスに乗り継いで三十分をかけて山間の町へ向かう。三年前に開通したバイパス道路を利用すれば、少なくとも林道のわきを川へと転げ落ちる心配はない。そう冗談まじりに言って早々、加護は迎えの車を出す用意を言い出た。新鮮な近海魚をつかった冬の地元料理を何品か紹介した。「とにかく、寒いですよ」と、防寒を念押ししておいて、それから最後に言い加えた。山間に吹き流れる風と朝晩の氷点下の気温に体調を崩しかねない。
「まだすこし気が早いですが、よいお年を」
 と言って加護は電話を切った。

 十二月に入って二週目の中頃にもなると、年の瀬の押し迫った世間を、人が小忙しく行き交っていた。その余流に乗って十二月の日々を繰り返している自覚だけは店主にもあった。人の流れに合わせて年末の時期が過ぎるように思えた。街中の雑踏に紛れて歩いていると一年を振り返らずに済んだ。時間と意識の平坦な流れを感じた。
 そうして十二月が滞りなく過ぎた。二十五日の夜、瀬川家に住む男から店主の息子に箱入りのショートケーキが手渡された。新年を四日後にひかえた二十八日の夜、瀬川家の玄関に正月の飾りが取り付けてあった。三が日の留守を挟んで、その後、男はポチ袋を持って店主の家の玄関をくぐった。七日の朝になって瀬川家の飾りが取り外された。近隣にあるゴミの集積所に、その飾りだけを入れた透明のゴミ袋が置いてあった。




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イェフス 41 


――お久しぶりです。
――承認してくれてありがとう。正直、こういうかたちで君に連絡をするつもりはなかったけど、でも、そうせずにはいられなくなった。
――何かご用があったんですか?
――要点だけを書くと、ドロテさんが家を出た。一週間ほど前には家の灯りが点いていたから、たぶんそれ以降だろうと思う。
――そうでしたね。予定では三か月を住んでもらうはずでしたが。
――ひょっとしてドロテさんから何か連絡があった?
――お礼のメッセージがありました。
――フランスに戻るって?
――そうは書いてありませんでした。相変わらず日本語で上手に書いてありました。とても気の良い感じでしたよ。家賃についても残り二か月分の払い戻しの必要はないって。
――良かった。それともう一件。君の家の寝室にあった作品が無くなった。
――また私の寝室に入ったんですか?
――ちゃんと君のお母さんに断りを入れたよ。
――ドロテがあれを持ち去ったんでしょうか?
――入居したあとにドロテさんが金づちで壊してゴミに出したのかもしれない。
――どちらにしても、今となってはもう必要ありませんので別に構いませんけど。
――その二点を君に伝えておきたかった。特にドロテさんのことが気に掛かっていたから。
――あの子は元気にしていますか?
――うちの息子か?
――そうです。
――君がいなくなってから毎日のように君の家の庭に立ち入っていたけど、ドロテさんが来てからはそうしなくなった。
――良かったです。他の住んでくださる方を早く見つけないといけませんね。
おたずねしますが、私のややこしい作品を見たから私のサイトで商品を買わないというのはどういう意味ですか?
――陶器にはあまり興味が無いんだ。
――それが理由ですか?
――食器を買い替える理由が無いんだよ。
――食器を買い替えるのは食事を楽しむためだと思うんですけど。
――それは私にも分かるよ。食事は器という話だから。
もうそろそろ失礼するよ。ドロテさんに関する確認が取れて良かった。
――他には何か無いんですか?
――体の具合は?
――特別良くはありませんが、悪くもないです。今度、知らない人の骨盤の骨を移植する予定なので、今よりも体調が良くなると思います。
――手術が上手くいくように願っておくよ。
――私もです。
――他には何も無いか?
――私が住んでいる地方では寒波のせいで雪が降っています。
いつだったか、雪の日には人の声が響かないって教えてくれましたね。でも、しっかり私の声は響いていました。響かないなんて話をどこで聞いたんですか?
――たぶん声が小さかったんだ。そうでないとしたら、雪の中にいたんだろう。
――もう雪の中に入るのはやめてください。
――そんな馬鹿な真似をした覚えはないよ。
――他にはもう何も無いですか?
――この町の天気について話す以外、もともと君と私のあいだに共通の話題なんて無かった。だから、もう何も無いだろうな。
――そう思って私は天気の話をしたんです。
――海の向こうで今でも君が生きていて良かったと思う。
――ありがとうございます。何のことですか?
――今日は、夕方を過ぎてから雨が降るらしいよ。
――こちらではまだしばらく雪が降りそうです。
本当に何も無いようでしたら、もうこのあたりにしますか?
――天気の話が出来て良かった。
――お元気で。


 知里の投稿記事に掲載されていた数々の画像には、フランスの街並み、広大な麦畑、十六世紀に建った宮殿や、そして世界的な画家のアトリエなどが撮影してあった。インターネットの観光サイトで紹介されていたとおり、それらの建築様式には中世ヨーロッパの趣きが色濃くあった。また、そうした景観や建造物にかぎらず、知里の生活圏から切り取った調理器具や爪切りなどの類それらすべてにおいて何かしらの味わいがあった。
 その日常にある景色や生産物を撮影画像の数々に眺めていると、そこに収められた二次元的なあらゆる印象の中に知里が溶け込んでいくように感じられた。先日に知里の母親と会話をした中で、知里に関する挿話にその本人の実在をはっきりと感じ取ったばかりであったにもかかわらず、現在の日常を切り取った投稿画像を見ているうちに、知里自体の像が今度は店主の頭の中で次第に線や輪郭を失っていった。
 共用サイトからログアウトをしたあと、店主は食卓の椅子の背もたれに寄りかかった。顔を上向けて息を吐いてリビングの天井に無言の視線を渡していると、そのうち彼の視界の端を取り留めのない考えの尾が横切った。その漠然とした考えはもうすでに、ひとつの印象と化して店主の頭の中にその像を滑らかに広げようとしていた。店主は発作的に息を吸って半身を起こした。テーブルに突いた左右の手のひらにじっとりとした汗を感じた。すぐ目の前にはノートパソコンのキーボードがあった。キー配列の黒い文字がすべてその固有のかたちをねっとりと崩していった。とっさに顔を引き上げた店主の目の前には、先と変わらず共用サイトのログイン画面が表示されていた。店主は自分の口から出る音を確かめながら呼吸を重ねた。しかし、そこにきてまだ彼の頭の中には知里の姿があった。
 店主はその自然風景をいつかどこかで見ていた。過去に訪れた観光地のどこか、あるいは、映画の中に映し出された静謐そのもの。広く青い湖と、それを囲う鬱蒼とした森。湖畔には木々の深い影が落ちていて、水面には仄白い無数の光が静かにたゆたっている。そして、その肌白い背中を水に浮かべたまま、知里は微動だにもしない。
 魚か蛇のようだった。

 翌朝、ノートパソコンを起動させて習慣のメールチェックを始めたところ、受信メールの一覧に一通の見慣れないメールを見付けた。湯気立つコーヒーカップを口元に寄せたまま、店主はモニター画面に視線を張り付かせた。過去にその送信主とアドレスの交換をした覚えは無かった。メールの件名には『はじめまして。瀬川知里です』そしてその本文欄には、たった一文だけが記してあった。『アカウントを削除するついでにメールアドレスも変えておいた方が良かったんじゃないですか?』
 受信した時刻は、前夜の二十二時十分だった。




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イェフス 40 



 特に何の変哲もなく、それでいて店主にとっては心障りのない四週間だった。彼の期待していたとおり、ドロテが家見に訪れた日から、息子の所在を示す赤印がセガワ家の敷地に表示されなくなった。店主自身の携帯電話に搭載された電子地図に、息子の位置情報を確認する必要が無くなった。
 何の変哲もない四週間だった。行きつけのコンビニの閉店セールでサングラスを買った。職場の上司が退職した。仕事の帰りに立ち飲みに寄る機会が多くなった。古本屋にいた男の客が手持ちの鞄に商品を差し込んでその場を立ち去った。電車に乗っていた数人の女子学生のうち一人が、雨の匂いを植物の脂の匂いであると話していた。配送業者の手から段ボール箱を受け取る際、重いですよ、と言った男の息が店主の顔にかかった。銀行のATMのフックに掛けた傘を取りに店内に戻り、利用待ちの列に並ぶのをやめて店を出た。トイレットペーパーなどの日用品をインターネットで定期購入することにした。息子が料理に興味を持つようになった。
 いつから息子の足取りを電子地図に追うようになったのかと、その時期を振り返ってみるが、それが息子との二人暮らしを始めた時期と本当に重なるのか店主自身にも分からなかった。元妻の希望で息子に携帯電話を与えた日から地図の確認を続けてきたような覚えがある。息子が生まれた日からずっと毎日つづけてきたような気もする。
 いずれにしても、そうして万が一の事態にそなえて息子の居場所に注意を払い続けてきた。その日中の行動範囲を把握してそれを一応の管理義務と考える一方、それを建前として息子への精神的な依存欲求を満たしてきた。職場にいる数人の男親から家庭の愚痴を聞かされて他家の内情を知った。家庭維持と家庭管理の違いを考えるようになった。区の主催するレクリエーションに息子と参加した。その体験が父子関係の杭になったとは思えなかった。携帯電話の画面に赤印を眺めることによって、息子に対する行き過ぎた保護を避けられる。息子が平生の行動範囲を移動しつづけるかぎり、その身の安全を思い込むにあたって必要となる最低限の客観性をいつも手元に得られる。店主は、そう考えることで毎日の生活を維持してきた。

 ドロテの入居から五週目を過ぎた火曜の夜、セガワ家の窓に灯りがつかなかった。
 翌朝、新聞を取りに玄関先へ行ったついで、店主は屋外スリッパの擦り音を足元に短く立ててセガワ家の前まで数メートルを歩いた。そして、年若い女の住まいを朝っぱらから見上げている自分をいたたまれなく思い、とっさにその場で新聞を開いて紙面に目を落とした。当然のこと、肌寒い朝の屋外に立って読むべき記事は何もなかった。新聞を閉じて自宅に戻った。
 それから二日間、ドロテが家に戻った様子は無かった。
 金曜の朝になって、店主は気迷いに構わず思い切ってセガワ家の敷地に足を踏み入れた。玄関前のタイル床にはカトレアの植木鉢が置いてあった。草丈は三十センチ程度で、三本の株ともに大きな薄紫の花が咲いていた。それから店主は裏庭の水道場へ行って、柄杓を突っ込んだバケツに水道水を汲んだ。縁側のシャッターは閉めてあった。四週間の短さを店主は感じた。玄関前に戻ってバケツに汲んだ水をカトレアの株元に流し入れ、そのバケツと柄杓を元あった場所に戻しにまた裏庭へ行った。カトレアの育て方をインターネットで調べてみると、寒さに弱く、冬場には”鉢の土を乾燥ぎみにしておくこと”と書いてあった。
 そして翌日の土曜の午後、店主がカトレアの植木鉢を両手に抱えて半身を起こしたところ、ちょうど銀色のワンボックス・カーがセガワ家の前に停まり、青い上下の作業服を身に付けた三名の男が車を降りた。助手席からも一人の女。車を降りると女は、門柱の向こうにセガワ家の外観を眺めて、感じ入るとも呆れるともいったような声をみじかく飛ばした。白のニットセーターと黒いチノパンツを身に付けて、白いマスクで顔の半分を覆っていた。ラクダ色のムートンコートが本人の高い背丈をさらに際立たせていた。店主は植木鉢を腹の前に持ったまま玄関先のアプローチを歩いた。
「どなた?」
 女は店主と向い合せに立ち止まって訊いた。
「隣の家の者です」休日の張りの無い笑みを浮かべて店主はそのあと、両手に抱えてあった植木鉢をななめに見下ろした。「これは、この家の住人が持ち込んだ花です」
「なかなか出来ることじゃないわ」女は目尻に深い皺を寄せて微笑した。「引っこ抜いてゴミに出すのも、ある意味じゃ良心だけど」と、言い加えるや女は石敷きのアプローチを玄関へと真っ直ぐに歩いた。手持ちのスクラッチバッグから取り出した鍵で扉を開けた。
 加護の作陶映像に映っていた女だった。容貌や体型には大した変わりは無いが、重ねた年数ぶんの老いが紛れもなく顔に出ていた。黒いベリーショートの髪には張りがなく、額の生え際には短く細い髪がまとまりなく垂れていた。落ちた頬には小さな染みが点々と付いていて、鼻の両脇から顎にかける二本の皺のあいだには赤みの失せた唇があった。後年のセガワチサトの顔付きを思い浮かべるには、その老いた女の顔に個人的な苦労の跡が色濃く付き過ぎているように見て取れた。
 店主は、女のあとを歩いてきた作業服の男らに便宜的な挨拶をしながら、開いた玄関のわきに立ち位置を変えた。年配の清掃者が軽く一礼をして戸口をくぐり、手に持っていたクリップボードを指差して、その紙面に記載された作業工程を手短に説明した。チサトの母親は「はい」やら「うん」やら「お願いします」などの相槌を素っ気なく打った。
 その母親の背後から、今度は年若い男の声がした。一人は肉付きの良い大柄の男、もう一人は頭にタオルを巻いた赤ら顔の男だった。二人はそれぞれ掃除機を手に提げて家に上がった。家の一階と二階に作業担当の場を分けると、二人とも家中の窓を開けて回った。

 年配の清掃者は説明を終えて、クリップボードを靴箱の上に置いた。それから彼は配電盤の位置を女に訊いたが、答えたのは女ではなく店主だった。清掃者は玄関先にいた店主を振りかえり、好奇と疑念を滲ませた表情を顔に出して礼を言った。そして男はそのあと、作業服の腰ベルトに取り付けたホルダーから小型のトランシーバーを取り出し、配電盤の取付けてある場所を社員に伝えた。
「あなた、良く知ってるのね」と、女は店主の顔を見て冗談まじりに言った。年配の清掃者は玄関先に止めてあった台車からモップや道具箱や洗剤のボトルを詰めたコンテナなどを屋内に運び込んだ。女は「どうする?」と、店主の顔を見て訊いた。「知里が普段どんな生活をしていたのか、よかったら教えてくれないかしら」
 店主は戸口のわきに立って内玄関から程近い場所にある階段を物思わしげに眺めていた。二階に上った社員の鼻歌が聞こえてくると、店主は女の顔に視線を移して、おざなりの返事につづけて訊いた。「すこし二階にお邪魔しても良いですか?」
 こざっぱりとした顔で、良いわよ、と女は答えた。あなたも一緒に掃除をするの?
 店主は愛想を込めて遠慮がちに笑い、お邪魔します、と、屋外用のスリッパを脱ぎ置いて早足に階段を上がった。二階を担当する大柄の男は、掃除機の電源コードのプラグをコンセントに差し込み、階下から近づいてくる足音に聞き耳を立てた。知里の母親は、階段の上り口に立ってその突き当りの壁を見上げ、用事が終わったら下へ来てねと、語尾を短く伸ばして言った。
「寝室に入りました?」
 店主は寝室の前へと廊下を歩きながら、後ろを振り向いて清掃者の男に訊いた。
「窓を開けなきゃいけなかったので」と男は答えた。
 それを聞いて店主は返事がわりに気軽な調子で一方の手を掲げた。廊下の突き当たりを右に折れて、寝室の前に歩を止めた。部屋の中から漏れ出した木材の匂いが廊下に薄っすらと満ちていた。店主は手で扉を三回ノックし、他方の手に握ってあったレバーハンドルを下げて扉を開けた。
 先日に見たとおり、部屋には一台のベッドだけが置いてあった。クローゼットの扉も閉めてあった。窓から風が吹き込み、開いたレース・カーテンの端が揺れていた。いまひとつ室内の明かりが足りず、店主は壁付けの照明スイッチを押して寝室の灯りを点けた。すべてが先日と変わりなく、そして特に何の疑わしい点も無いように見えた。そうありながらも、しかしベッドフレームの収納の引き出しの部分にだけは何かしらの異変が見受けられるようでもあった。フレームの全体には花や孔雀などを密にあしらった東洋的な模様が彫り込んであった。蛇行する細長い葉状の模様の内側には、それこそ葉の断面図のような緻密な描写がしてあった。羽を開いた蝶や、足を広げた甲虫など、フレームの表面の空間を埋めるようにして小さな模様が点々と数多く描いてあった。それらの模様はすべて位置関係やサイズの大小の点において規則性が無かった。同種の虫のおなじデザインが二つ揃えてある場合もあれば、スペースに合わせて虫の拡縮を変えてあるものもあった。ちょうど、ネズミよりも蟻のほうが大きく描いてある、といった具合に。
 しかしそれは、ただそれだけのことでしかなかった。店主の目には何の異変も見えていなかった。結局のところ、ベッドフレームに掘り込んである模様が彼の目に留まったに過ぎなかった。フレーム全体の濃い色合いが長い年月の経過を想わせるが、収納の引き出しがレールの上を滑らかに動く様子からすれば、そのベッド本体には何の有義な時代性も無いように思えてきた。
 店主はそしてベッドの引き出しを大きく開けて、予想のひとつに沿った状況を眼下に眺め下ろした。知里の作品が跡形もなく消えていた。少量の黒い粒が引き出しの底板に散らばっていた。息絶えたドロテがそこに横たわっていないだけまだ良かった。と、その不謹慎な発想そのものに知里の“ドラマ好き”の趣味の影響を思わずにはいられず、店主は自嘲じみた笑いを落とした。
 引き出しを足の先端でゆっくりと閉じて、そのまま部屋を出ようと戸口に向かった。それから、壁付けの照明スイッチに手を伸ばそうとした矢先、彼の視界の端にクローゼットの折戸が映った。それは店主の自宅にある物とまったく同じ、オーク材の突板を張り付けた軽量の扉だった。だが、それを開いて中を確認するつもりは無かった。折戸の内側から人の声が漏れ出てでもいないかぎり、隣家の寝室のクローゼットを無断で開けて良いはずが無い。
 なぜ私をここに来させたんだ、と、店主は疑問に思った。クローゼットの扉を開けた直後、内部の天井照明が点いた。
 左右に渡してある備え付けのハンガーパイプには、男用と女用の衣服が左右にわけて掛けてあった。多くは冬物のコートやブルゾンだった。パイプの右端には予備のハンガーが数本、そのすべてがおなじ色と形をしていて、それとおなじハンガーが何本か店主の目の前にも掛けてある。備え付けの棚には収納用の小箱が整然と積み重ねてあった。折戸の内面に取り付けたパイプには真新しいネクタイが何本か吊ってあった。店主はもういちど目の前にある空のハンガーを見て、そこにセガワ夫妻の冬の身なりを思い返そうとしてみたが、どうも上手くいかない。それはハンガー以外の何物でもない。
 ところが、三着目の上着を持ち出した人物像にドロテを当てはめてみると、思いのほか具体的な想像を浮かべることができた。知里の作品に上着を被せて、それを一方の脇に抱えて家を出る。人目を避けて夜道の端を縫うように歩く。たかだか十五分程度で陶製の作品の重みを身をもって知る。といって――そこは夜の住宅街だ――歩く以外には移動のしようがない。道端のアスファルトに作品を下ろすとき、力の加減に気が回らず、作品の足先を地面によわく打ちつけてしまう。その様子をドロテは無言に眺め下ろしている。額には薄っすらと汗の湿りがある。汗粒が背筋のくぼみを流れ落ち、肌着の繊維に自分の汗が染み込んでいく。すでに呼吸は落ち着いているが、そうして考えがまとまっていく中、自省の思いが静かに掻き立てられる。欠損した陶のなだらかな断面を見ているうちに息が落ちつく。――知里の作品を腕に抱えて、なにも自暴自棄に屋外を歩き続けたわけではない。どこか人目につきにくい場所に作品を置いてこようと思った。それが、歩きはじめて家々の窓明かりを何度も通り過ぎていくうち、町の住人の多さをひどく漠然と思い、とたんに気が逸れてしまった。気づけば、ただ歩き続けていた、ぼんやりと人の暮らしを思い浮かべながら。
 ここで店主の想像が打ち切られる。「すみません」と、年の若い清掃者が寝室の戸口に首を突っ込んで言った。「掃除したいので、入っても良いですか?」
 その場の微妙な雰囲気を見取って、どうぞ、と、店主は少しばかり声を張った。クローゼットの扉を閉じたあと、寝室を出る間際になって部屋を振りかえり、コンセントの挿し口の位置を言い知らせようとして、そうするのをやめた。
 階下におりて奥へと廊下を歩いていくと、家の奥のほうから掃除機の音が聞こえて来た。その音の出所を家の奥のどこかに聞き定めようと耳を澄ませながら、店主は何の気なくリビング・ダイニングの出入り口の前に立ち止まった。台所に立っていた知里の母親がカウンター越しに店主を呼んだ。母親はその口元を白いマスクで覆っていた。一枚の未使用のマスクを店主に差し向けて、小旗を振るように指の先でマスクを揺らした。
「他に行く場所がなくてね」母親はさめざめとした演技を交えながらも嫌味なく言った。そしてそのあと、店主の顔に目を留めて今度はあっさりとした調子で口早に訊いた。「二階で何事かありました?」
「何事もありませんでした」店主は首を振って答えた。
「何事か、あるはずだったんでしょう?」
「はい。ですが、本当に何もありませんでした」
「そう」母親は年増の見せる意味ありげな笑みを浮かべた。「何があって何が無いのかしら」と言い足し、それからまたさらに続けて「それが言えないのよね?」

 立ち話を始めてしばらくのあいだ、知里の母親は思いの丈を吐き出そうとでもするように立てつづけに話した。
「電話が掛かってきたかと思ったら、いまフランスにいるって言うんですよ」「しかも一人で」「フランスで陶芸の先生をしてるって」「言葉が通じないのに、どうやって外国の人にモノを教えられるんでしょうね」「べつに、知里が何をやったからって、たいていのことじゃ私は驚きませんけど」「結婚するとか、家を建てたとか、旦那さんがいなくなったとか、庭で人が死んだとか、警察がそっちに行くと思うとか」「知里から来る連絡はぜんぶそんな感じですよ」「亡くなった方のご両親がわざわざ家にお見えになって」「謝ってお帰りになったわ」
 切れ目なく、それでいて辻褄を合わさずに母親が話を進めたもので、店主には何とも返事のしようが無かった。ただ、知里が自分の身辺に起きた事実の報告を母親にし続けていたことに対しては、ただ単純に妙な安心を覚えた。
「今回のことで気を悪くなさったでしょうけど」そう言ったあと母親は頭をすっと下げて、「許してください」と、子供の作文の締めくくりを読むような平べったい声で言った。母親の話し方には、それまで何度となく謝り続けてきた者の諦めが込められているようでもあった。その乾いた謝罪の声が店主の胸にこびりついたが、しかしそれは彼女の声色に子供の作文の終わりの一節を連想したからだった。ただそれだけのことだった。
 開け放されたリビングの大窓からは冷ややかな空気が入ってきた。窓辺から離れた位置にある座面に向い合せで座ってみたが、母親と店主の足はソファのどこに挿し入れようもなく、ただ冷気に晒されるばかりだった。
「立会人も楽じゃないわね」知里の母親が悪気なく言った。
「窓を閉めましょうか」店主はその気も無く言ったあと、ソファから立ちあがって窓際ではなく台所へ向かった。「お茶を淹れますよ」
 母親は店主の後ろ姿に視線を沿わせて「これじゃまるで、あなたの家みたいじゃない」と無邪気に笑った。店主にはそれが当たり障りのない嫌味であるようにしか聞こえなかった。知里の母親はそのあと、ひと笑いを溢して目をしばたき、目尻に笑みを残したまま言った。
「まちがえて隣の家に入っちゃいそうになるわね」
「玄関に入れば気づきますよ」店主は台所のカウンターから知里の母親に視線をやった。「匂いが違いますから」と、そう言って調理台の脇のタイル壁に吊り下げてあったミルクパンに水を入れてそれをガス台の上に置いた。指でガス台のスイッチを押し込むと、何の問題もなく火が着いた。ガス台にはタイマー機能が付いていた。グリルの引き出しの窓に多少の油汚れがあった。店主は、配電盤のスイッチを切って家を出たドロテを想った。知里の母親は愛嬌を目じりに滲ませ、つい今しがた呟いた言葉をそれとまったくおなじ静かな口調で「そうよね」と繰り返した。「においが違うわ」

 知里が幼稚園児の頃のことだった。左側が自分の家だったが、彼女は右の家に入った。隣り合わせのどちらも小さな平屋だった。
 その家の玄関を入ってすぐ右手には台所があった。歳の頃にして八十過ぎの一人住まいの老婆が夕食の煮物を作っていた。老婆は玄関に立つ知里を見て、あっちがお嬢ちゃんの家でしょ、と、台所の一方の壁を指して言った。それにも関わらず、知里は日を分けて何度も自宅を間違えた。知里の母親はそれを異常とは見なさなかった。それどころか、自分の思い付いたその悪戯の成果を頭に浮かべて頬をゆるめる始末だった。
 通園バスを降りて知里が家に入ると、実の母親が台所に立って料理を作っていた。染みた衣服の匂いが台所に漂い、食器棚には水垢の付いた茶碗や湯呑が置いてあった。知里の背丈にちょうど合うぐらいの小型の冷蔵庫が置いてあった。一人暮らしに見合った冷蔵庫だった。ところが、知里はそれらを気に掛ける様子もなく台所に上がり、そのまま平然と奥の居間に入った。
 それを何度か繰り返して知里と老婆の親しい付き合いが始まった。
「お婆ちゃんは喜んでくれたし、だから別に良いのよ、危険な遊びをしているわけでもないから」「玄関に花を飾っているほうがウチだよ、とか、竿に知里の下着を干している家がウチだよって」「だけど何を言っても駄目なの」「私が家の玄関に立って知里の帰りを待っていてやらないと駄目なの」「毎日そうしていてやらないと、別の家に入っちゃうのよ」「でも、なんで間違えるの?――って訊いても、答えなかったわ、何度訊いても、ただ黙り込むだけ」「いまのあなたみたいにね、何て言って良いのか分からないってふうに、ただ黙ってるの」「でもだからって別に、それが原因で私が病んじゃったってわけじゃなくて」「みんな、あの子に良くしてくれたから」「私たちがあの家を出るまでずっと」「ただ、やっぱり、いまでも訳が分からないのよ」「だから私一人で勝手に思い込むことにしているの」「知里には全部の家が自分の家みたいに見えていたのかな、って」 「全部、同じ家だったから」
 店主は物思いに視線を落としてそれを部屋の床にゆっくりと這わせ、それからまた視線を目の前のテーブルに戻した。手持ちぶさたに湯呑みを掴んで、生温かい茶を喉に流し入れる。
「翌年の秋に、お婆ちゃんは亡くなるんだけど、知里がそれを見取ったのよ、お婆ちゃんの家財やら貯金をぜんぶ受け継いで」母親は交えた左右の足先を擦り合わせて言った。そして手持ちのスクラッチバッグを開き、中から取り出した二冊の本をテーブルの上に静かに置くと、「知里が “これをあなたに” って」そう言ってまた視線を浮かせた。
 店主は台所に見つけた木製の薄いトレイに湯呑みを二個置いた。さらに、戸棚に入れてあったクラッカーの小袋をためらいなくトレイにのせて、ちょうど機械人形がそうするようにトレイを腹の前に持ってリビングへ慎重な足取りで向かった。知里の母親は、戻ってきた店主の顔を斜めに見上げて「窓、閉めちゃおうかしら」と、思い付いた悪戯を打ち明けるように言った。
 一冊には『まちのクジラ』、そしてもう一冊には『うみのクジラ』と題してあった。古じみた絵本だった。店主は本の表紙にある著者の名を目でなぞり、その一冊を右の手で取り上げた。絵本のことだけあって厚みは無かった。裏表紙には各種コードと価格が表示してあった。大判の絵本の定価を五百円とするその時代性を考えてみれば、出版年の古さをだけはうかがい知れた。絵本の裏表紙を開けてみる。

1962年2月16日 初版
1970年1月5日 10版
著者 かがりまち
発行所 (株) 白岩社
代表者 田波淳

 その他、発行所の所在地や電話番号が裏表紙の見返しに記載してあった。紙肌の微かなザラツキが店主の指先に伝わってきた。紙面には経年の匂いや薄っすらとした変色があった。そしてその見返しの直前のページには未開封の袋とじが紙面いっぱいに貼り付けてあった。店主は平常心をよそおって袋とじから注意を引き剥がし、さらに前にさかのぼってページを一枚めくった。見開きの両ページの隅々にまで、何処かの街並みが描いてあった。その片方のページには大きく皮のめくれ上がった一頭の痩せた鯨が描かれていた。赤黒い肉の所々にまだ白い皮下脂肪が残っていて、それはまるでどこかの列島をでも描いてあるようだった。鯨の生死を説明づける描写は何も無かった。大通りや建物の壁に塗りたくった血の跡が、その街の一帯に歪んだ線となって長々と延びていた。震える老人の手で描いた円のようでもあった。
 見開きの両方のページの端に、誰のものとも知れない科白があった。

これは わたしいがいの なにものかのちですが
わたしは それをしりません

 店主は裏表紙を閉じて、その絵本をもう一冊の絵本の上に重ねて置いた。鼻から息をしずかに押し出して、それから知里の母親の顔をガラステーブル越しに見た。
「あなた疲れてるんじゃない?」知里の母親は店主をまっすぐに見て訊いた。
「今日は仕事が休みですから」店主は首を振って答えた。
「そんなこと訊いたんじゃないの」
 知里の母親はソファに背をもたせて脚を組んだが、そのあとすぐに解いた脚をひたりと閉じて、ソファから引き剥がすように背を起こした。そしてそれから軽い口調で「エアコン付けよう」と、立ち上がって目星をつけた場所へと歩を進めた。店主はもういちど絵本を手にとって裏表紙を開き、カバーのそでに印刷してある『全三部』の文字を指してそこに知里の母親の注意を引いた。
「この絵本はシリーズ物になっていて、全部で三冊あるんです」そう口に出して言った店主だが、彼にとってその冊数は大した問題ではなかった。何かの話題を出して母親との会話に結ぼうと考えただけのことだった。
「知里が持っているんでしょ」
 エアコンの本体を見上げて母親は言った。低い作動音と共に、エアコンのルーパーが開いていく。リモコンを片手にリビングのソファに戻ってくると母親は、店主の掲げていた絵本の”カバーのそで”に目を注いだ。そして一方の腕を背もたれに掛けて、温みの残る座面にゆっくりと腰を落とした。絵本のカバーには『ベストセラー』の売り文句が太い文字で印刷してあった。朗読のカセットテープも同じ出版社から販売されていて、“どちらも好評発売中!”とある。
「知里に電話で訊いておきましょうか?」母親は手に持っていたリモコンの画面を見て、設定温度の調節ボタンを軽く何度か指で押した。「いいえ」と、店主は首を振った。
 リビングダイニングの外の廊下では、「他の部屋からにしよう」と、年配の清掃者の声がした。それを聞いて知里の母親は、お言葉に甘えてもう少し話しましょう、と、今度はリモコンの風向き調節ボタンを何度か押した。彼女はそれから店主の顔に色のない視線をやった。すっかり席を立つ時機を逃してしまった店主だったが、仕方なく彼はそのあと知里の夫の行方に話題を変えようとして、「セガワ」と、そう言いかけて途中でやめた。「知里さんの旦那さんは、まだ見つかっていないんですか?」
 母親は部屋の遠くにエアコンの本体をながめて温風の吹きだす音に耳をそばだてていた。思い出したようにリモコンをガラス・テーブルに置いて、「柔和そうな人だったでしょ」と言うと、左右の肘をすっと上げて、両方の手で横髪をすくい、そのまま手先を後ろ髪の裾へと流した。「清潔そうな人だった」さらに視線をテーブルに落として矢継ぎ早に、「何の後ろめたいこともないって顔をしてて、そう、なんていうか、純粋で傷つきやすくて」その言葉の途中から母親の視線がテーブルをまっすぐに這い進んだ。そして、店主の上体から首元へと渡った視線が、直後、店主の目の位置にさっと引き上げられた。
「塗料をつくる仕事なんて、それを作り終えちゃったらもう立派な達成じゃない。なのに、分をわきまえずにそれ以上の何かを欲しがるから、だから自分のことがよく分からなくなっていくの」「結局、スタートラインと自分の足首に縄をくくり付けておかなきゃ駄目なのよ」「大学生のとき、美術品の修復のアルバイトをしていたんだけど、そのことであの子、ずいぶんと悩んだみたいで」――「これは知里の話ね」――「他の作家さんの仕事に手を入れるのは、考えていたよりもずっと難しいことだって」「それが出来る人もいるけど、私には上手く出来ないって」「――でもね。あの子の腕はけっこう評判が良かったから、仏像の服の皺とか、手の部品とか、仏像の後ろにある、あの、ほら、サーフィンの板みたいなやつね」「あと、その他にも、ブロンズ像を作る職人さんの中に混じって、すごく大きなやつよ、お寺の門番みたいなやつ――ほら、分かるでしょう?――そう、そういう仕事もしてたみたいだけど、でも、自分には上手くやれないって」「だからって、もちろんそんなこと、周りの職人の方は気にしてくれないわ。だって、知里は実績を出し続けるんですから。仕事を続けようと思えば、きっといつまででも続けられたのよ」
「羨ましいです」と店主は言った。そう言葉を選んでおくのが無難だと思った。「誰かに求められるような、特別な腕が私にもあれば良かったな」
「誰にでもひとつぐらい取り柄があるわ」呆気から豊かな微笑へと、母親の顔になだらかな表情の変化があった。「羨ましいだなんて思っちゃ駄目よ。目が曇るわ」
 店主は力なく笑った。目の前にいるのが知里の母親であって他の誰でもないように思えた。
「話が横に逸れちゃったけど、とにかく悪い人じゃなかった。身なりは清潔だったし、お酒を飲むと人懐っこく笑った」「――でも、そうね、ズボンの丈が少し短かったわね。もっと長ければ、今でも二人で仲良くやっていたかもしれないって思うわ。ほら、だって、すこし長いぐらいのズボンを履いている人とのほうが夫婦生活がうまくいきそうだもの」「美術じゃなくて裁縫のセンスが知里にあれば、もしかしたら、って思うわよね」
 店主は母親の顔をまんじりと眺めていたが、思い出したように小さく頷いた。
「あのね」「当たり前だけど、おたがい離れた場所に住んでいると、普段の付き合いなんて全くないの。だから、娘婿の性格がどんなかなんて私には分かりっこないのよ」「ただ、ひとつだけ言えることがあるとしたら、嘘を付き慣れていない大根役者は出来の悪いギャグ漫画の脇役にしかなれない、ってこと」
 室外の廊下に鳴っていた掃除機の音が止んだ。
「セガワ君のことを仰っているんですか?」店主は部屋の出入り口から視線を戻して言った。
「そうじゃなきゃ、今みたいな言い方しないわ」と母親は答えた。「あなたに言っても仕方がないって、分かっているの。でも、つい愚痴を言いたくなるの」
 まくし立てるように言いながら彼女は、ガラステーブルの脚に立て掛けてあったスクラッチバッグを手で掴み取った。その中から携帯電話を取り出し、親指と二本の指で画面を操作して、それから少しの間を置いて今度は人差し指でその画面を縦の方向にスライドした。
「食事会の日取り、どうする?」と母親は画面を見ながら語尾を上げて言った。「お父さんって、体を洗ってから風呂の湯に浸かってた?」「夫婦に一番大事なのは寛容だって思うんだけど、お母さんは寛容だった?」「うちの家紋って、どんなんだった?」
「知里さんからのメールですか?」
「四件よ」
 と母親は短く吐き捨てるように言った。「検索に引っかからないメールもあるから、正確な件数は分からないけど」「――あれだけ何でもかんでも書いて寄こしてたのに、自分の夫に関わるのが“たったの四件”」
 たったの四件。その数の多少は店主にとって大した意味はなかった。そのとき彼の頭の中には、加護幸久の話を聞き出すかどうかの考えしか無かった。知里の母親の携帯電話に保存されている送受信のメールの中に加護幸久を話題とした内容のメールが複数あるはずだった。例の作陶映像を思い起こしてその判断を付けかねていたところだが、知里の母親と無言に視線を合わせつづけているうちに、その考え自体がまとまらなくなった。「知里さんは、小さい頃からカヌーをされていたとか」
「カヌーね」
 と、承認でもするように短く言ったあと、母親はソファに背をもたせて指で携帯電話の画面の操作をはじめた。「カヌーは、ざっと百八十通以上はあるわ」――釣り具の大型店で見付けたライフジャケットの値段が四着分――部活の合宿先から送られてきた練習内容の箇条書き――カヌー部の先輩と体の関係を持った話――整形外科の院内から送られてきた診断結果――朝の練習のときに見たウミガメの話――
「全部読む?」
 そう訊いたあと母親は、店主の返事を待つ様子もなく携帯電話の画面を指でスライドさせた。その指の動きに合わせて、受信メールのタイトルの一覧表示が縦の方向にすばやく流れていった。「いろいろあったのよ」――カヌー競技の県大会のレギュラーに選ばれた――チームメイトが病院に担ぎ込まれた――その入院先でチームメイトと一緒に写真を撮った――合宿の夕食に川魚や旬の山菜の料理が出た――知里の母親は本の目次を読み上げるように立て続けに話した。そして、その自覚もなく口調を弱めていくと、タイトルの一覧に過去の思い出を振りかえって一人笑いをこぼし始めた。
 店主は何ということなく室内の壁にエアコンを見上げた。上着を脱いでそれをソファの背もたれに引っかけてソファから立ち上がり、糸を吐き出すように口から息を抜いた。リビングテーブルに置いてあるリモコンの画面には『30℃』の表示があった。エアコンからは温風の吹きだす音が大きく鳴っていた。部屋の外では業務用の洗剤をつかった床の拭き掃除がつづいていた。
 この最後のやつが、なんだかよく分からないの。
 そう言って母親は沈黙を切ると、うしろを振りかえって店主の様子をうかがうように台所を見た。店主は知里やドロテが取っていた手順をまた思い返しながら、壁棚の所定の置き場所から茶葉の缶を手で掴み取った。「最後ですか?」と、店主が知里の母親をリビングに眺めやると、母親はまた新聞の見出しを読むようにメールの文面を声に出して読んだ。

この前、クジラが浜に打ち上げられたでしょ。あのとき知らない人に話しかけられて、君は海で死ぬから気を付けなさいって言われたの。だけど、ちょうど私すごく気持ち悪くて吐いちゃってたから、その人の顔を見上げる気分じゃなくて。なんか、おじいさんみたいな声で、きっと私を見て可哀想って思ったんだと思う、ずっと私の背中をさすっていてくれたの。いま思うと少し気味が悪いけど、でも、そのときは本当にそんなんじゃなくて。死刑になる人に情けをかけるみたいに、疲れた声で優しく言ったの。
私思うんだけど、やっとこれでカヌーは終わりなんだよ。医者でもコーチでもなくて無関係な人の話を最後に聞いて、それで終わり。あの人が本当に私の知らない人だったら良いのにって思うよ。

 店主は知里の母親の背姿をしばらく眺めていたが、戸口に立つ年配の清掃者の姿に気づいてその男に頭を浅く下げた。「お話し中、失礼します」と清掃者の男が言うと、母親は部屋の出入り口を振りかえって表情を和らげた。
「お二階ですが、いまはエアコンの掃除をしている最中です」男は慣れた口調で言った。「カーペットの染みを抜いて、お二階の掃除は終わりになります」男はそのあとダイニングとリビングをぐるりと見回し、「一階の掃除は、こちら以外の場所はだいたい終わりました」
「さすがプロの方です」そう言って母親が同意を求めるように店主の顔を見ると、店主は調子を合わせて二度つづけて頷いた。
「それで、お布団の丸洗いをご依頼されていましたので、のちほどお預かりして工場に持ち帰って、後日、配送業者のほうに宅配を頼んでおきます――(手持ちのクリップボードに挟み込んであった印刷紙をぺらぺらと形ばかりにめくり上げながら)配送先は、こちらの住所になっていますね」そこで言葉を切ると男はそのあと、めくってあった紙をひとまとめに下ろした。
「私がお待ちしております」と母親が軽い調子で言った。
「宅配の日程については、また後日、お母様のお電話にご連絡差し上げますので」
 知里の母親が快く相槌を打つ。
「ではまた、こちらのお掃除の際にお邪魔しますので、ひとつご協力をお願いします」
「ごめんなさいね。ちょっと話が弾んじゃって」
 母親は愛想のいい表情を顔に出してそう言うと、ついでリビングの大窓を指して気兼ねのない明るい口調で訊いた。「窓は開けておいたほうが良いんですよね?」
 それを聞いて清掃者の男は口調を和らげて気さくに答えた。「こちらの掃除に取り掛かる際にまた開けますから、結構ですよ、いちど閉めてくださって――ですので、えっと、代わりに玄関を開けておきましょうか。いちおう、“清掃中”の看板を立てておきますから」
 言い置いて男は部屋をあとにした。知里の母親はいそいそとソファから立ち上がり、身をこごめて窓辺に向かった。大きく開けてあった窓を閉めると、飛び込むようにまたソファに腰を落とした。
「看板を立てておけば、知らない人が家の中に入って来ないのよね?」と、母親は台所に立つ店主を見やった。
「すくなくとも、人は入って来ませんよ」と店主は笑った。
「野良猫が入ってくれば良いわね」目尻に笑みを残したまま、母親は独り言のように言った。
 好意的に相槌を打ってはおいた。しかしその店主自身、自宅の敷地内では昆虫の一匹すら見かけたことがない。セガワ夫妻から聞いていたとおり、害虫の忌避効果についてはその成果が目に見えて明らかだったが、その他、猫や鼠はおろか、家グモや秋虫の類でさえ敷地内には一匹も入って来ない。思い立って調理台の引き出しをいくつか開けてみる。ゴキブリの卵や糞は一粒すら無い。

 屋内では拭き掃除がひどく静かに続けられていた。店主には作業の進捗を確かめようがなかった。部隊か何かに周囲を固められていくような時間が過ぎていく中、いつまでも母親と悠長に話を続けられるはずがなく、そして、いつかまた成り行きで一室に居合わせでもしないかぎり、知里の母親と話をする機会はおそらくもう二度とない。そもそも初めから特に何も話すことはなかったのだが、遠縁の知人との面会時間の終わりが差し迫ってでもいるように思えて気が落ち着かない。なんとも妙な気分だったが、ただひとつだけ確かなのは、知里に対する店主の個人的な関心が現実に晒されて薄れていくということだった。生母の口から娘の過去が語られるにつれて、その知里本人の実在が紛れもない事実となって感じられた。
 気付けば、湯呑みから湯気が立っていた。
 リビングテーブルには口をつけた湯呑みが二個置いてあるが、ちょうどそれとおなじ乳白色の湯呑みが台所の食器棚に何個も並べてある。水瓶のような卵型をしていて、表面のガラスにはくすみひとつない。そして、その他のカップから各サイズの皿や器まで、棚に並んだすべての陶器が同じ色味の物で揃えてある。店主は、洗う食器の数には気も留めず、加護の作陶映像に記録されていた場面を思い起こした。それは“素焼き” を終えた状態の物を知里が投げ壊す映像だったのだが、そのときの薄茶色の器と、セガワ家の食器棚に置いてある器は、強度と色の違いをのぞいてどちらも器としての体を成していて、同時に無個性でもあった。どちらも知里本人の作家性とは関係のない無個性の器だった。
 では、彼女の作品であることの根拠とはいったい何だろうか。知里が美術品の修復ではなく陶芸活動に就いた理由は、生来の作家であるという実証の出来ない理由の他にも何かあったのだろうか。「知里さんは、いつから陶芸をされていたんですか?」と店主は訊いた。
 母親は店主が台所から持ってきた湯呑みを受け取ると、手元にあった空の湯呑みを無言にテーブルの隅に寄せた。そして、注ぎたての湯呑みをテーブルのガラスに置いて「そうね」と過去を振りかえり、またもういちど傍に伏せてあった携帯電話を手に取った。
「中学のときにクラスのみんなでお皿を作ったのよ、たしか。
 ちゃんと陶芸を始めたのはそのあとでしょ、いつだったか覚えていないけど。
 少なくても百通以上はあるわね。この頃にはまだ、毎日、何通も送られてきた。
 でも、高校生になってからは段々と、たぶん、それが親離れだったのね」
 母親の物言いには、もう特に何の棘立つ調子も無かった。過去の母子関係をいとおしむのでもなければ、その関係を手放そうと思い込んでいるのでもなく、ただ過ぎた日を遠くに眺めているだけのことだった。気の済むまで泣き散らした子供の寝言のように母親は話した。知里はその後、美術大学への入学を機に、中高時代を過ごした町を離れて一人暮らしを始めた。
「陶芸家の方に作り方を教えてもらっていたんじゃないかしら」と母親は言った。
 かご・ゆきひさ――店主は胸の内にそう呟いた。
「“カゴさん” っていう方よ」
「セガワ君も、知里さんと同じ大学に通っていたんですか?」
 店主は母親の言葉に上塗りするようにして口早に訊いた。
 どうかしらね、と、母親は携帯電話の画面に指先を置いた。

『カヌー部の先輩と寝たけど、これって別に嬉しくも悲しくもないね』
なんていうか、人が裸になってべたべた好んで触り合うっていうのは、
酔ってなきゃ出来ないことなんじゃないの、って思ったの。それで、顔
を洗うみたいにセックスが出来るようになったら、それはトイレをす
るのと同じようなものじゃないの、って。
それで美術部の友達に訊いたの、セックスはファンタジーなんじゃな
いかなって。そしたら、何事もない顔で彼女が言ったのよ、

 知里の母親はそこで言葉を切って店主に真顔を差し向けた。
「色気じみたことを、私の口からは言わないほうが良い?」
 店主は無言に首を小さく振った。

もしそうだとしたら、ワタシは画を描いてセックスをしているのね、って。
だけど私にはその考えがあまりよく分からなくて、なんとなく分かってる
ような顔をして黙ってたら、彼女が言ったの、男は女の裸にファンタジー
を感じているでしょ、たぶん男ほどじゃないけど、女も同じように男の裸
を見ている、そうやって現実にある身近なファンタジーを大事にしてる、
だから要するに、男女が肌を触り合うみたいに、ワタシはキャンバスを
筆で撫でるのよ、って。
経験したことあるような言い方するのね、って私が言ったら、美術部に
も男はいるわ、だって。でも、それは音楽室のベートーベンと同じ意味で
の男じゃないの? って私、もちろん言わなかったけどね。だって、実際
美術部には男子が半分ぐらいいるから。

 母親は目を力なく開いて、親指の背で笑い涙をぬぐった。そして、ふっと息を吐き出すと、わずかに表情をゆがめて鼻をひとすすりした。その彼女の様子を見て店主は何ということなく視線をテーブルに下げた。母親の仕草に女の一時の悲哀を思い込むことも、しようと思えば出来たはずだったが、それがただ酷く空しいことのように思えた。
 押し黙った店主の様子を目の隅に置いたまま、母親は自分の読み上げた文面を振りかえった。そこに書かれていた “カヌー部の先輩” をセガワ本人に結びつけて、ゆるやかな物言いで憶測まじりに話をつづけた。だが、その話の架空には疑いようが無かった。セガワの細身の体格からは体育系のどの部活を思い浮かべることも出来ない。少なくとも店主にはそう思えた。セガワに対するそれは母親の当り障りない愚痴でしかなく、彼女自身がその自分の立てた憶測をどこかで否定しないかぎり、いつまでも話が当てなく続いていくようだった。そしてそれは実際にそのとおりだった。
「日本でだって暮らせるじゃない」
 しばらくして母親は知里の海外志向がセガワの職業に影響されたものだったと話した。目の前にいる仮想の相手を優しく問い詰めてでもいるような話し方だった。心もとなげに声が少しだけ震えていた。
「旅行じゃ駄目なのかしら」
 それを聞いて店主は寝息のような曖昧な返事を言葉みじかく漏らした。海外赴任で日本を出る者がいて、望んで海外生活を始める者もいる。赴任に頭を悩ませる者がいれば、日本に居心地の悪さを感じる者もいて、日本の国内であれば居場所は何処であっても良いと思えるはずだろうし、たとえ何処であったとしてもその本人の感じる息苦しさには変わりが無い。店主にはそれ以外の良心的な説明の仕方が思い付かなかった。
「日本を思い出すとき、きっと知里さんはお母さんを思い出しますよ」
 口を衝いたにしては良く出来た言葉だった。店主の口元にひどく自然な笑みが落ちた。
 そしてその後、鍵穴の交換をしに業者が家を訪れるまでのあいだ、二人は清掃者らに居場所を明け渡して、台所で立ち話をつづけた。

 玄関先で店主を見送る際、楽しかったわ、と、母親は視線を浮かせて言った。それから店主の顔をもういちどまっすぐに見て、ありがとう、と言い加えた。無表情でありながら、顔の皺々が彼女にわずかな表情を付けているようでもあった。
 たしかに店主の目には母親が笑ったように見えた。

 その日の夜、ベッド脇の照明をつけて、木製の簡素なスツール椅子に二冊の絵本を重ねて置いた。その取り合わせが懐古主義者の慰めにでもなりそうだった。明かりに照らされた絵本の表紙には、取るに足らない細い線傷が何本も入っていた。ただ見ているだけで本紙の匂いが鼻元にまで漂ってきそうだった。それはたしかに店主の想像したとおりの芳しい匂いだった。過去に何度か嗅いだことのある匂いだった。中程のページに挟んであった栞にも、巻末に付けてある未開封の袋とじにも、それらすべてに古書の匂いが染み付いていた。土曜の夜の安らかな眠りを誘うには十分だったが、一方で、巻末の袋とじの中身を思うと寝つきが悪くなりそうでもあった。どちらの袋も未開封のままだった。
 一冊の絵本の袋とじには水の封入が記載してあった。すでに水は揮発していて、袋の外からでは液状を思わせる触感はない。中にはただ小さな固形物だけがいくつか入っている。その硬く丸みを帯びた粒が店主の指先を押し返す。絵本の題名は「うみのクジラ」――そして、もう一冊の絵本の袋とじには細かく砕いた瓦礫の封入が記載してあった。その大きさの不揃いが袋ごしに指先に感じ取れた。ちょうど手にひと掴みできる程度の量で、絵本そのものを斜めに傾けると、袋の中を何かが“ざっ”とすべり落ちた。題名は「まちのクジラ」。その二冊のどちらの袋とじにも――みんなで種を育てよう――とあった。
 店主は首元まで布団をかぶってスツールに置いた絵本の表紙を眺めていた。枕元の照明を消しもせず、彼はそしてそのまま耐えようもなく眠りに落ちた。土曜の夜の安らかな寝入りだった。
 
                    ●

『まちのクジラ』 かがりまち 著

 場所は明記されていない。街中の壁という壁に、黒く細い線が数多く縦に引いてある。
 一頭の鯨が路上にべったり横たわっている。皮膚は乾いて艶がない。路上の砂塵が無数の傷跡の溝を埋めている。
 擦り傷や切り傷をまた負えば、めくれ上がった端のほうから皮膚が段々と剥がれていく。鯨は痛みをそれと感じ取ると、そのつど身をしならせてビルの谷間を跳ね進む。発達した胸びれと尾羽がしなやかに路面を払う。路面に散らばるガラス片がいっせいに一度だけ小さく跳ねる。
 大小の瓦礫で鯨の残りの皮下脂肪が削り取られ、その奥から血が滲み出る。興奮を鎮めて痛みを抑え付けようとして、鯨は街中の壁に身を打ち付けて這い進む。ずずずと這って、ずずと這って、だん、と壁を打つ。こそげ落ちた尾肉が、ひび入った壁に薄くこびり付いている。
 またひとつ壁を打つ。巨体を斜めに押し上げた瞬間、ついに疲労に耐え切れずに胸びれの骨が折れる。
 日ごとに鯨の血が街中の壁に塗り重ねられていく。胴の赤黒い肉は削られ、頭の白骨はほぼすべて剥き出しになっている。下顎の骨が途中で折れてあらぬ方を向いている。目はもう潰れているが、臓器はまだ動いている。

 
                    ●

『うみのクジラ』 かがりまち 著

 十頭の群れ。その中に一頭の細身のメス鯨がいる。あるとき、海流に沿って虹が大きく渦巻いているのを見掛ける。虹を眺めていてメス鯨は眠ってしまう。
 細身のメス鯨は深く潜れない。ある水深を越えてはそれより下へ泳ぎ進めることが出来ない。他のメスはもっと深くにまで軽々と潜っていく。
 水中ライトを持った人間が足ビレを付けて群れの前にあらわれる。細身のメス鯨の目は、人間と向かい合って薄赤色に光る。他のクジラの目は青く光る。
 十頭のメスの群れに一頭のオスが加わる。オスは複数のメスと交尾をする。
 その数々のメスと同様、やがて細身のメス鯨にも子が生まれる。子鯨は体をよじって臍の緒をちぎり、泳ぐとも沈むともなく海中を下りていく。メス鯨は尾を大きく振って一泳ぎに子を追う。以前の深さにまで潜り進めることが出来ない。呼吸が持たず、胸が苦しい。
 水を掻いて身をひるがえし、すばやく明るみに向かう。海から顔を突き出すと、メス鯨の頭に人の顔がある。水に濡れた長い髪をしっとり垂らしている。その容貌の変化に自分では気付いていない。
 いつものように息を吸うなり、また水に頭を浸ける。昼間の海の中にある、そのありとあらゆる色を、瞬きのひとつもせずに呆然と見下ろしている。


                    ●

 インターネットに公開されていた趣味の個人サイトに、管理者の書評を取りまとめた投稿ページがあった。紹介されていたのは新刊ばかりではなかった。主には近代小説を取り上げていたが、その他にも江戸時代の通俗小説や国内外の政治小説、そして漫画や絵本の論評や感想など、冊数にして二百近くはあった。略説が斜体で書かれ、作中描写への解釈や時代背景の解説をしてあった。短くまとめた感想を書いて、最後に『以上です』と締めていた。 
 管理者は “かがりまち” の描いた絵本を二冊紹介していた。その二作ぶんの書評記事がつづけて投稿してあった。記事の日付からも連日の投稿が見て取れた。
『うみのクジラ』と題した記事の略説の下に改行をいくつか入れて――絵本であって児童書ではありません――という見出しの一文が太い文字で書いてあった。そしてその記事の最後に、前日に書かれた記事の内容を兼ねた管理者のコメントが沿えてあった。

 元の出版社が倒産し、版権を引き継いだ出版社からの復刊となったシリーズですが、本の内容が時代に沿わず、売り上げが伸びずにその後、出版停止となりました。社の判断で巻末の袋とじが付属されなかった事も、売上げの不調の原因のひとつだったと言われています。
 私の読んだ二冊は古書店に置いてあったものではなく、図書館の設置端末に保存されたデジタル図書です。新しく登録された本の一覧通知が送られてきての閲覧となり今回の書評となりました。
 二冊の閲覧をとおして興味深い話をインターネットサイトで見つけました。この「クジラ」シリーズの残りの一冊となる「さばくのクジラ」は、それ以前の二冊の好評にもかかわらず初刊の発売から数ヶ月で販売停止となったそうです。ただ、それだけではありません。クジラ・シリーズの復刊の計画が立った当初から、同著だけが再刊の枠から外されてもいたのだそうです。
 どうやら、前述した袋とじの中身に問題があったという見方が強いようです。残念ながら、その問題の事実を詳しく書いたサイトを見つけられませんでしたが、私のように普段から何事に対する憶見も怠らない諸先輩方の見方では、その袋とじの中身に社会倫理的な問題と人体の健康被害を招く原因が含まれていた可能性が高いのだそうです。おまけに、袋の中に混ぜてあった種子から被爆樹の芽が出るのだという意見までありました。
 もしかしたら、ただ単に作者との権利調整が上手くいかなかっただけなのかもしれません。絵本の評価には無関係だと出版社が判断したのかもしれませんし、定価を下げる目的があったとも考えられます。

 先の諸先輩方と同様、私も都市伝説的な誇大妄想を好みます。シリーズの復刊にあたって三部すべての巻末から袋とじが除外されることになった背景には、袋とじにまつわる出版制作側の事情が本当に何かあったのでしょうか?

まちのクジラ  広島や長崎の被爆遺構
うみのクジラ  ビキニ環礁の海底に沈む戦艦内部の水
すなのクジラ  中国の核実験場の砂

 Fドットコムの名○さん、なんとかなりませんかね?(笑)

                    ○

 翌日、店主は会員制の共用サイトに『Chisato Segawa』と表示されたページを見つけた。
 友人登録の申請をしたところ、数時間後に承認が下りた。




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イェフス 39 

 土曜の夜、環状線に乗って職場からの帰路につく。いつもと変わらず音の無い町並みが車窓の下辺を流れていく。無数の家灯りの先には郊外の山並みがあり、その上空にはかろうじて見える程度の星々が無数に散らばっている。空と稜線の境目を付けているのは星明りではない。白く大きな広告板がその四隅に取り付けたライトの灯りに照らし出され、その板の反射光が周囲の空間を仄かに浮かび上がらせている。いつからそうして町の山際に白く浮かび上がっていたのか、店主には心当たりが無かった。パチンコ店の客寄せや新築マンションの住民募集など、そこには何の広告も張り出してはいないが、むしろその白板にこそ人目を引くだけの確かな理由が感じられる。なぜ無広告を広告し続けておく必要があるのか、と、毎日のように眺めながら店主は思っていた。風景の一部分が修正液で四角く塗り潰されているようでいて、あるいは見ようによっては、白板をのぞく現実風景そのものが緻密に描かれた絵画のようにも見える。
 いつまで経っても広告は出ないだろう、と店主は思う。

 ドロテが入居した週の日曜、時刻にして午前十時の冷える朝だった。ドロテはバケツに汲んだ水を柄杓ですくってそれをカトレアの植木鉢に流し入れていた。母国に住む祖母に言われたとおり、些細な習慣を新生活の一部に組み込むことにした。
 そんなドロテを眺める一人の男がセガワ家の玄関先に立っていた。初老の男だった。紺色のカットシャツにグレー色のブレザーを着込んでいた。頭にはベースボールハットを被せて、合成皮革の黒いウォーキングシューズを履いていた。男は表札を見やって、またもういちどセガワ家の玄関先にいるドロテを振り向いた。そしてセガワ家の外観をひととおり眺め渡し、そのあと今度は隣家のほうに視線を留めた。デザインの似通った家が二軒並んでいる。男は思い立って隣家の敷地の前へと歩き出した。両家とも門柱の形や色までもが同じだった。表札に刻んである姓はそれぞれに違った。玄関先に植え込んである庭草の丈も違った。家々の周囲に巡らされた生垣の様子も多少は違って見えた。
 男はセガワ家の門柱の前にまで戻ってくると、家の敷地に首を突っ込むようにしてドロテをしげしげと眺めた。そしてそれからまた表札を見た。
「ごめんください」男は一方の手で帽子を脱いで言ったあと、顔を上げたドロテに向かって頭を深々と下げた。「長男がご迷惑をお掛けしました」
「どちらさまですか?」
 杓子の縁から垂れ落ちた水滴が玄関前のタイル床に点々と落ちた。
 男はそのまましばらく上体を傾げたまま何も言わなかった。ドロテが杓子をバケツに入れて前庭の石板を歩き始めたところ――「セガワさんを訪ねて参りました」男は姿勢を戻して言った。若い兵士が上官に対するような口ぶりだった。ドロテはチサトの不在を男に伝えて、それから、彼女自身がセガワ家の借主であることを伝えた。男は緊張を削がれた思いのままドロテの顔をただじっと眺めた。
「チサトのお知り合いの方ですか?」ドロテは男の前に立ち止まって訊いた。
「以前、こちらのお宅の庭で、長男が迷惑をやらかしまして」
 それを聞いてドロテは憐れみに目を細めた。セガワ家が事故物件であったことを数日前に店主から聞いたばかりだった。「ご愁傷様です」語気を弱めてそう伝えたあと、家に上がるよう男を誘った。男はその誘いを丁重に断り、裏庭を見せてもらえるよう願い出た。
 セガワ家の縁側のシャッターは開いていた。ドロテ自身が電動スイッチを押して開けてあった。初老の男はその縁側の床に座って裏庭を静かに眺めていた。男の自宅の庭の様相と比べれば、セガワ家には住人の趣味を匂わせる物が何もなかった。そこに置いてある一台のブランコから連想されるのは個人の趣味ではなく公園の公共性でしかなかった。男はドロテの手から湯呑を受け取って頭を浅く下げ、鼻元に湧き立つ湯気と茶の匂いに頬をゆるめて安らかに息を吐いた。そしてそれから男は身近に腰を落としたドロテのまっすぐな背中を見て、すでに前に沈みかかっていた彼自身の半身をゆっくりと起こした。「ひょっとして何か、ご用事があったんじゃないんですか?」と男は訊いた。「外出されるときは仰ってください、私もおいとましますので」
「もおいとまし」と、ドロテは小首を傾げた。男の顔の輪郭や各部位に視線を移しながら、その言葉の意味に思い巡らせた。日差しの加減で男の顔色や頬の肉付きが見て取れた。
「“おいとま”というのは、ここを立ち去るという意味です」
 途中に区切りを入れて男が言うと、ドロテは納得して小さく頷いた。
 男はそれから踏板の外されたブランコを遠目に見た。芝庭を指し示して――草、伸びていますね――と言った。丈にして十五センチにも満たない。庭の全体の草がその先端を四方八方に垂らしていて、ただ庭の手入れの悪さだけが目に付いた。男はそうしてしばらく静かに庭を眺めていたが、思い立ったように自分の腹の前で一方の腕を水平に動かして見せた。「草を刈る――鎌は無いかな」
「セガワさんに訊いてみないと分かりません」ドロテは首を振って答えた。
 男は小さく相槌を打ち、いつからセガワ家に住んでいるのかと訊いた。ドロテはふと斜めを見上げて眉間に皺を寄せると、指折り日数を思い起こして「四日前です」と答えた。
 なら仕方ないですね。そう言って男は背筋を少しだけ伸ばし、どうしようかな、と、わずかな間を埋めるように視線を遠くへ投げた。男の口調につられてドロテもまた些細な悩みを共有するように軽い声を漏らしたが、それからほどなく彼女は両手を膝元の床に着いて正座から立ち上がり、「となりの家の人に訊いてみましょうか」と、癖のない日本語で言った。縁側のサッシに手をかけて軒下に身を乗り出し、生垣の向こうに隣家を見やった。

「いま、家にいないよ」答えて店主の息子は寝間着の胸元のボタンを留めようとして、ゆっくり顎を引いてボタンに指を掛けた。その様子を見てドロテは口元をほころばせ、心の惹かれるままに腰をかがめて息子の目ヤニを指で差した。
 店主の息子には草刈用の鎌に見覚えが無かった。父親が草を刈る際にはいつも電気モーターの音が鳴っていた。「鎌じゃなくても良い?」と息子は訊いた。
 初老の男は頭を横にもたげてドロテの後ろから息子に話しかけた。店主の帰宅を待って、あらためて草刈り機の使用の許しを得に来るつもりだった。息子は首を小さく横に振った。父親に承諾を得なければならない理由は特に無いのだと、目先の空を横切っていく一羽の鳥を目で追いながら言った。そしてそれから息子は屋外用のスリッパを履いたままドロテの脇をすりぬけて、「ついてきて」と、さっと男を振り返った。
 店主の家の外壁に沿って歩いていると、隣り合う二軒の家の対称性がはっきりと目に見えた。ドロテは通路に敷いてある石板に足を引っ掛けないよう気に掛ける一方、窓の位置やその形状にはじまり、通気口や雨樋の取り付け位置などをつぶさに観察した。手先を壁に這わせて歩くと、指の腹に摩擦の温みが感じられた。そうしているだけでセガワチサトを身近に想えた。カーテンの開いた窓の向こうに、セミダブルのベッドが一台だけ置いてあった。掛け布団の片端が大きく裏返っていた。
 初老の男もまたひとり思いに浸った。店主の息子の後ろ姿を眺めながら、そこに自身の長男の少年期の頃を重ね見ていた。長男の遺体の火葬が終わって以来、誰にかかわらず他家の子供の後ろ姿を見るたびに長男の姿を目に浮かべてきた。すべての子供らは男に対して後ろ姿だけを向けていて、男の記憶は次第にただ淡く縁取られていった。長男の死に顔を見ることが出来ず、それが今にまで至る唯一の心残りではあったが――それで良かったのだ――と男は思う。安置室の開いたドアの向こうで、彼の妻が台車の縁に手を掛けて床に崩れ落ちる。しかしそれでも男は部屋に足を踏み入れなかった。
 それで良かったのだと、そしてまたもういちど男は思った。
「鍵をかけているの?」とドロテは訊いた。
 初老の男は歩みを緩めた。斜めをふり返ってドロテの顔をまじまじと眺めた。
「そうだよ」答えて息子は縁側の踏石の上にスリッパを脱ぎ捨て、足早に床を歩きながら言った。「僕じゃなくてお父さんだよ。いちいち鍵を掛けるんだ、泥棒が入っちゃいけないからって」そして息子は縁側の内壁のフックに引っ掛けてある一本の鍵を手に取ると、また足早に裏庭へ戻ってきた。物置の鍵を開けて、一枚の大きな引き戸を開く。庫内の壁際に立て掛けてある草刈り機を両手で掴み上げてそれを外に持ち出す。
「充電式だね」初老の男は受け取った草刈機の本体を見て言った。
「使えるかな」と、息子は男を見上げた。
「どうかな」男は穏やかな笑みを口元に浮かべた。庫内の作り付けの棚を眺めて、充電器の置き場を訊いた。

 しばらくして店主が家に戻った。
 どこで草刈機のエンジンの音が鳴っているのか分からなかった。聞き慣れた音のようであって、音の性質がいつもとは違うようにも思えた。店主はレジ袋を両手に持ったまま、一方の手の人差し指を玄関の取手に掛けてドアを開いた。家の中に入ってリビングダイニングの出入り口をくぐり、台所の冷蔵室を開けてレジ袋の中身を室内の棚に入れていく。そうしていると、部屋の出入り口から息子の声がした。息子はトレーナーの襟首から頭を突き出し、前髪を一方の手で撫でつけながら台所に向けて歩いた「何か食べるもの無い?」
 店主は冷蔵室の棚に置いたばかりの蒸しパンを手に取ってそれを息子の前に差し出した。その袋の封を開けて息子は甘い匂いを嗅いだあとにパンを大きく頬張り、そのあと左の腕で店主の体をわきに押しやって冷蔵室の扉のポケットから牛乳の箱を掴み上げた。
「ドロテさんに草刈機を使わせたのか?」と店主は訊いた。
 頬を膨らませたまま、息子は不平じみた声を口先に溢した。手に持ったグラスを引き寄せて半量の牛乳を口に流し入れたあと、違うよ、と言った。「ドロテさんじゃなくて、お客さんが使うんだよ、庭の草を刈りたいからって」
「お客さん?」
「男の人」空のグラスに水道の水を流し当てながら、語気を上げて息子は答えた。
 くぐもった草刈り機の音が鳴っていた。店主は玄関を出て隣家を訪れ、セガワ家の呼び鈴を鳴らした。しばらく待っても、ドロテは玄関先に現れなかった。店主は表通路を歩いて裏庭に向かった。草刈機のモーターの音が次第に大きく聴こえてきた。裏庭では男が作業を続けていた。店主の知らない男だった。縁側の床にはドロテが座っていた。ドロテは胸の下で腕を組み、背を丸めた姿勢で男の庭仕事を眺めていた。
 店主の姿に気付くと、ドロテは寒さに首をすくめたまま大きな声を上げて店主を迎え入れた。その声を聞いて初老の男は作業の手を止めた。モーターの音が途端に小さくなり、同時に刃の回転が遅くなる。
「お借りしています」と、男は愛想の良い表情を浮かべて小さく頭を下げた。そして、それから表情をふっつりと消して、物思わしげに辺りを眺め渡した。その判然としない表情を顔に張り付かせたまま、男は店主に向けてもういちど頭を下げた。
 その後、作業の再開から十分足らずで、セガワ家の庭草がすべて短く刈り揃えられた。
「手間をお掛けしました」と店主は言った。初老の男は縁側のコンセントから充電器の電源プラグを引き抜き、結束バンドでケーブルをまとめてそれを縁側の床に置いた。
「出来た息子さんをお持ちで羨ましい」
 と男は唐突に言った。それを聞いて店主は恐縮の声を漏らした。
 そのあとすぐ二人のあいだに沈黙が差した。それを見取ってドロテは二人をリビングに誘ったが、対する初老は当たり障りない態度でまたその誘いを断った。ドロテは好意的な笑みを残したまま店主に手招きをした。茶の用意を手伝うようにと、気兼ねのない口調で伝えた。
「あの人の子供がチサトに迷惑を掛けたって」
 ドロテはガス台の火をつけて、初老の男から聞いたとおりの話を店主に伝えた。店主はすぐに見当を付けた。セガワ家の裏庭で起きた一件を引き合いに出して彼自身の推測を話したところ、ドロテは店主の顔をまっすぐに見て無言に小さく頷いた。
 相変わらずセガワチサトの置き残した家具や食器や家電製品ばかりがダイニング・リビングを占めていた。ドロテを個人付ける物といえば、その本人以外には何もなかった。
「私が、彼と話してみるよ」店主はドロテのあとに続いて部屋を出た。縁側に向かうにつれて屋内の気温差が肌身に感じられた。
 間もなく二人が縁側に戻ってくると、初老の男は一方の手を縁側の床に着いて店主の顔を斜めに見上げた。「家庭用にしては、ずいぶんと立派ですね」そう和やかな口調で言って、男はまたもういちどセガワ家の裏庭にブランコ台を眺めた。「ブランコが置いてある家なんてそうそう無いでしょう」
 店主は調子を合わせて笑みを溢した。「セガワさんがブランコに乗っているところを一度も見たことがありませんよ」それから店主は近くにいたドロテに目くばせをして「オブジェか何かだと考えていたんじゃないでしょうか」
 言い加えながら店主は二週間前の日の夜を思い返していた。サワムラアリサから聞いた話では、自分の家にもブランコがあれば良かったと、独り言を吐いたあとに当の青年が首を吊ったとのことだった。店主はサワムラアリサに対する配慮から、その遺言めいた青年の言葉を男には話さずにおいた。
「セガワさんは陶芸家でいらっしゃるとか」男は店主を振り向いて言った。「どのような“いきさつ”があって、自分の職業に陶芸を選ぶものなんでしょうね」
 そうした当たり障りのない話題をいくつか出していくうち、彼らの沈黙にも安穏が流れ始めたが、男はしかしそのあと何の前置きもなく自殺事故の経過状況を話し始めた。「遺書はありませんでした」それが彼の第一声だった。
 遺書は無かった。警察の検視の結果、死因は頚部圧迫による自殺とされた。
 その三日後、死体検案書を受け取りに警察を訪れ、それからまたさらに数日が経って、男の自宅に警察からの電話があった。署員の話によれば、チサトの自宅にフランスの警察官と日本人の大使館員を向かわせ、事の状況をチサトに通達すると共に、損害請求の意思確認をしたとのことだった。だが、少なくともチサトにはその意思が無かった。借主の自殺でもなければ屋内での自殺でもない。原状回復費や逸失利益などの賠償が請求されずに済んだのだと、署員は事務的な口調で男に言い知らせた。
「出費がかさまずに済んだだけまだ良かったと考えることにしているんです」それから男は言い切るような口調で言った。「もっと悪い死にざまが世の中にはいくらでもある」
 店主はただ無言に小さく頷いた。
「あなたが長男を発見してくださったとか」それから男は店主の顔を見て言った。「妻が発狂せずに済んだのは、きっとあなたのおかげですよ」
 それを聞いて店主は沸き起こる衝動に駆られ、二度目の首吊りで青年が死を遂げたことを男に伝えた。「もっとご子息と話をしておけば良かったのかもしれません」
 男は店主の横顔に無感情の視線を押し当てていたが、そのうち、ふと表情をゆるめて庭先に目を向けた。「長男はあなたに何か話しませんでしたか?」
 セガワさんに好意を持っていたそうです、と店主は答えた。
「そのようですね」男はそう言うと、ブレザーの内ポケットから携帯電話を取り出した。ディスプレイを指で操作して、保存してあった撮影画像を店主に見せた。73個の画像が『知里さん』と題したフォルダに保存してあった。うちの数枚にはチサトの顔が正面から撮影されていたが、その表情には好意も嫌悪も、そしてそれ以外の何がしかの些細な感情も見受けられなかった。男は店主の手元を斜めに見下ろして静かな口調で言った。「自分の目の前にいない相手を想って命を捨てるなんて、正気の沙汰ではありません」それから男はたったいま聞いたばかりのドロテのくしゃみの声につづけて言った。「ドロテさん、寒かったら家の中にお入りください、どうぞ無理をなさらず」
 鼻をひとすすりしてドロテは手のひらで口を覆ったまま二度目のくしゃみを堪えた。
「当たり前に考えてみれば、相手を想いながら一人で死ぬなんて、そう簡単に出来るはずがないんです」初老はドロテの顔から逸らした視線をまた店主の手元に落とした。「結局、長男は自愛におぼれて命を捨てたようなものです」
 店主は携帯電話の画面を見下ろしたまま操作の手を止めた。その画面にはどこかの町中を歩くチサトの後ろ姿が映し出されていた。妊婦用にも見えるその白い布地の服がチサトの足元までをすっぽりと覆っていた。店主はその白服に覆われたチサトの背中に見入って、湾曲した背骨をそこに想像した。
「なんとなく分かります」ドロテは小さくも決然とした声で言った。あなたの子供はチサトを心の支えにしていたんです。
「だとしたらね、ドロテさん」初老は一方の手を縁側の床に着いてドロテを振り向いた。「自分の心の空しさを埋めるために、なにか彼に出来ることは無かったのかな――そのためだけに、本当に何も出来なかった?」
 ドロテは黙った。男の言い回しがいまいちよく理解できなかった。
「結局、長男は考えることを放棄したんです」そう言って男は視線を店主の顔に伝わせてそのまま庭先に戻した。「恋やら愛やらを心の拠り所にして、あと半年を生き延びることも出来たはずだった」そして男は音を立てて鼻から息を抜いた。「世間にある気休めの愛で、ひとりの愚か者が救われる場合もある」
 男の物言いに含みを感じて、思わず店主は目尻に皺を寄せて無言に笑った。
「可笑しいですか?」初老がにんまりとして訊いたところ、対する店主はさっと視線を浮かせて取り繕うように首を振った。
「そういうの、かなしいです」ドロテは手元に視線を落とした。左右の手のひらで二の腕をさするその彼女の様子を見て、男は上体を斜めに倒してドロテの顔を下から覗き込んだ。
「ドロテさん。すこしだけ家の中にお邪魔しても良いですか?」と男は訊いた。
 その後、ダイニング・リビングへ通じる廊下を歩いていると、男の手首に巻いてあった腕時計がデジタルの音で正午の時刻を知らせた。男は自費で三人分の出前を取らせて欲しいと言ったあと、思い立って店主の息子の同席を提案した。店主は後ろめたさを覚えながらも事の状況を率直に伝えた。店主は、まだ息子に自殺事故の一件を話していなかった。男はその話を聞いて恐縮したように声を落として “何かと、ご迷惑をお掛けします” と、店主の心境を推し量った。
 リビングのソファに腰を落として、辺りをぐるりと見回し――立派なお宅ですね――そう言って初老はダイニングを振り返った。「そうだ、ドロテさん」
 冷蔵室の開いた扉に手を掛けたまま、ドロテは後ろをさっと振り向いた。店主はリビングテーブルの中央に置いてある一輪挿しのガラス瓶から逸らした視線を手元に戻した。
「どうして、あのブランコを使えなくしてあるんですか?」と男は訊いた。
 店主はドロテから借りたタブレット・パソコンの画面に弁当屋のウェブサイトを見下ろしていたが、その初老の言葉を聞いて顔を上げた。「うちの息子が以前、遊んでいるときに事故を起こしたんです」そこで言葉を切って店主はまたタブレットの画面に弁当の商品一覧を眺め下ろし、画面に指を滑らせながら半分うわの空で言い加えた。「ブランコの板は、私が持っています」
 初老は店主の視線を伝わせてタブレットの背面を見て、それから店主の目の動きを観察するように見た。
 出前の予約を取って通話を終えると、店主はタブレットの個人的な使用をドロテに求めた。ドロテの許可を得てタブレットの画面にインターネット・ブラウザを立ち上げて、検索欄に文字を打ち込んでいく――『食品分析総合技術センター』――そして店主はそのタブレットの本体をテーブルの向かい側の端に置いた。初老は店主の顔をちらと見やり、ソファの背もたれから体を起こして居住まいを正した。ブレザーの胸ポケットから薄い革ケースを取り出し、中から引き抜いた老眼鏡を着けてタブレットを両手に取る。画面に表示されたウェブページの内容をざっと閲覧したあと、老眼鏡の上縁を指で少しだけ下にずらして、テーブルの真向いに店主の顔をじっと眺める。
「先ほど裏庭で、なにか匂いませんでしたか」店主は男と視線を合わせて言った。
 微動だにせず店主の顔に見入ったあと男は、同意の声を小さく落としてタブレットの画面を指で差した。「あの匂いと“これ”が、何か関係あるんですか?」
 はじめに店主はウェブサイトをつうじてDNA検査を依頼したことを男に伝えた。検体はセガワ家の寝室で見つけた黒い粒状物だった。依頼書と検体を封筒に入れてそれを隣県にある事業所に宛てて発送した。検査を依頼すべきかどうか一度は迷ったが、その検査結果によって法的な責任を負う恐れは無かった。誰の行為に違法性があるかといえば、店主ではなくセガワ夫妻だった。
 また当然ながら店主には、彼の大義とも言えるものがあった。精神被害を防ぐ義務の意識にもとづいて検査に踏み切る正当性を彼は初めから得ていた。セガワ・チサトの夫の話では、店主とセガワの両家を囲っている生垣の木から “黒く小さな種” が落ちるとのことだった。日本への不法な輸入が示唆されていて、おまけにその種子の特性というのが人の精神に対する毒害だった。
 タブレットを受け取ると店主は、食品分析総合技術センターのウェブページの項目を何度か指でタップして『DNA塩基配列解析』と題した一項の内容を画面に出した。男はそのページに掲載された内容にざっと目を通して、それから、老眼鏡を外してリビングの大窓の向こうに生垣を眺めた。ツルを折り畳んだ老眼鏡をそのままブレザーの胸ポケットに挿し入れ、手に持っていたタブレット・パソコンを店主に返す。「その木が本当にあるものとお考えですか?」初老は訊いたあと、机の上に置いてあった革の眼鏡ケースに気付いてそれを手に取った。
「どこにでも植わっているという話です」そう答えて店主はタブレットの電源ボタンを押して画面の表示を消した。男は相槌を打って無言に何度か頷き、「図鑑にも載っているような木でしょうか」と、考えを巡らせて言った。「七万円を支払うほどの木ですか?」
 どこにでもある――先日の通話中、加護がそう言った。ところが、インターネット上にいくら調べてみても、イェフスと同じ外見をした木を見つけられなかった。世界中に現存する樹種の数は六万以上もあり、自力で調べるには限界があるように思えた。世界の樹木種のデータ・ベースに照らしてみれば、イェフスの樹種を特定できるかもしれなかった。
 イェフスの木の撮影画像が店主の手元には無く――(いつかセガワの夫から見せられた一枚の画像には、枝々を横這いに伸ばした一本の成木が撮影されていた)――そのため、木の外見を男に見せる術がない。店主は、加護の作陶映像に収録されていた一本の木について話すべきかどうか思い迷った。加護はその木を指して『イエス』と呼んでいた。果樹など数種の木の枝を接いであるのだが、その台木となった木の外見がイェフスの木のそれに似ていた。
「万がいち法に触れた場合、どうなさるつもりですか?」と初老は訊いた。
「警察の判断に従います」と店主は答えた。
 セガワ家の寝室にあった粒状物とセガワ家の庭草の断面からは、どちらも同じような甘い匂いがした。その粒がイェフスの木の種子である確証は無いが、しかし、そうでない確証もまた無い。セガワ夫妻の言葉を信用して生垣の剪定を定期的に行ったにもかかわらず、木の枝々に付いた種子を実際に目にする前から、もうすでにイェフスの種の幻視作用と思しい影響をきたしている。
 男は店主の無言の間を埋めるようにして話を続けた。「私共が知らない猛毒の木も、もちろん探せば何処かにあるでしょう――ですが、たとえそうであるとしても、なぜ、その木をわざわざ何本も家の周りに植えておくんですか?」
 店主は初老の顔に視線を戻し、それから、リビング・ダイニングの室内にドロテを探した。彼女の姿が見当たらない。部屋の外からは洗濯機の音が小さく聞こえてくる。
「大麻というものがありますでしょう」
 そう言って男は腕を組んで顔を下げると、テーブルの天板の一か所を見るでもなく見た。「あの、いわゆる薬物の大麻のことですが」と、言葉をついで彼はまたさらに「あれは麻の花や葉で作るんだそうです、種ではなくて」
 はじめに大麻の一言を聞いたときから、店主の表情が硬く顔に張り付いている。
「たしか、麻の種は栄養価値が高いんですよ」と、初老は店主の心情を察して言った。
「花は咲いていませんでしたか?」
 つづけて初老がそう訊き終える前に、店主はにわかにソファから背中を引き剥がし、テーブルに目を這わせながら腰を浮かせた。イェフスの木と大麻の類似性を考えると、ただ唯一、違法性の側面ばかりが頭に浮かんだ。店主は過去にイェフスの花を一度も見たことがなかった。セガワ夫妻から聞いた話の一部がごっそりと自分の記憶から抜け落ちてでもいたような気がして、とたんに生々しい緊張が背筋を走った。
 初老は店主の表情に注意を向けて「お坐りください」そして語気をわずかに上げて言葉をつづけた。「私が言いたかったのは“特に害がない”ということです。麻の種は栄養価が高い、いわば健康食品ですよ」
 店主は言われるままソファに腰を落とした。思い付くままに白い花を思い浮かべて、その花を裏庭の生垣の枝に見出そうと想像を巡らせた。上手くいかない。
 男は店主の表情をずっと注意ぶかく眺めている。「あなたを惑わせるつもりはありませんが、大麻を英語でウィードと呼ぶんだそうです。俗語ですが、ウィードの意味は“雑草”です」
「どこにでもある?」と店主は訊いた。
「なぜ種の匂いと草の匂いが同じなんでしょうか?」と、頷いたあとに初老の男は訊いた。
 店主は男の目をじっと見て「土」と、独り言のように答えた。さらにつづけて要因を推しはかり、眼前のテーブルに視線を下げて「根っこ」
 それを聞くと初老は両手を左右の膝に着いて腰を浮かせ、疲れを押し出すように息を吐きながらソファに座り直した。「あの程度の匂いであれば、敷地の外に漏れ出したところで不審に思う人はいないでしょう。木であれ植物であれ、たいてい何かしらの匂いを放ちますから」そして初老はそのあと草の切断面に作られる癒傷組織について話した。「ですから、何日かすれば匂いが収まるはずです」
 そうですね、と店主は心置きを抱えたまま言った。「しばらく様子を見てみます」
「検査結果が出たら、ぜひ私にもお教えください」初老はソファの背もたれに寄り掛かって後ろ首に両手を組み、そして店主の顔を見るでもなく見た。
 その後、店主がドロテの居所に話題を変えれば、男もまた当たり障りのない返事で話をつむいだ。正座に慣れたドロテの所作に対する感心を男は話した。日本語を流暢に話す理由が“日本のテレビ番組”にあったことを店主が話した。ドロテの両親はフランスのペルージュという町で観光ホテルを営んでいて、その立場からドロテの渡航費用をこころよく出した。丘の上にあるペルージュの町には古い石造りの家並みが広がっている。その町の景観の枯れた美しさに惹かれて町を訪れる人々が多くいる。いずれドロテは町に戻ってホテルの仕事を学ぶのだという。
 洗濯機の音はすでに止んでいた。リビングの壁に取り付けたエアコンからは生温い風が吹き出していて、室内にはそれをアロマオイルと特定できない程度の薄っすらとした澄んだ匂いが漂っていた。住人がドロテであるからこその無害がそこに感じられた。隣人を選ぶことが出来たなら、表現行為にいそしむ陶芸家ではなく、ホテルマンを志す学生であるほうが好ましいように思えた。
 そうしてドロテに関する話を男と続けたところで、しかし今ひとつ店主の気が晴れない。初老の男が自身の長男の死を追憶して他者と時間を過ごすように、店主もまたイェフスの木にまつわる他の話をして手早く心の均衡を得たかった。そして彼は、ついにそれを話すべきかどうか決められなかった。会話の場の雰囲気に流されて他言するには一抹の不安があった。その話の内容に含まれる疑いようのない現実味をあらためて認識すれば、心の均衡を得るどころか、むしろよりいっそう翌朝の目覚めが悪くなるような気がした。店主自身、なぜ加護幸久に関する一切の話に触れるべきでないと考えるのか、確かなことは分かっていなかった。
「ところで、ご存じですか?」
 と初老の男が訊いた。ちょうど店主が上着の袖口を一方の手で擦り上げて腕時計の表示を見たところだった。
「大昔のエジプトでは、大麻の煙を吸って神と対話したとされています」そう言って初老は一度下げた視線をまた店主の顔に戻した。店主は上着の袖に手を当てたまま男の顔を見た。
「ですがもちろん、それは神でも何でもありません」男は自身の左脇を振り向いてそこに視線を当てて見せた。といって、そこに何の特別な物が見えているのでもない。リビングの大窓から差し込む陽光がソファの座面の隅の埃を照らしているだけだった。
「あなたがいま見ているのも、ですから言ってしまえば、ただの幻なんです」
 そう言ってそのあと男が店主の背後を指差したところ、ちょうどリビング・ダイニングの壁に取り付けたスピーカーから玄関のチャイムが鳴った。男は下ろした手をブレザーのポケットに入れて、中から二つ折りの革財布を取り出した。
「私にも見えています」そして男はまたもういちど店主の背後を見た。
 店主は斜めを見下ろし「何が見えているんですか?」と、たったいま立ち上がったばかりの男の顔を見上げて訊いた。男は千円札の枚数を目で数える最中、指を札入れに差し込んだまま店主の背後を見て「あなたが見ているのと、おそらく同じものです」
 ドロテがリビング・ダイニングの前の廊下を玄関へと歩いていく。その姿が部屋の出入り口の向こうを横切ると、それを見て初老の男はリビングの床に歩を進めた。店主もまた、いそいそとソファから立ち上がった。男は後ろを振り向き、弁当代の支払いを気にしないようにと、一方の手のひらで店主の歩みをかるく制した。そして「妙なことです」と、前に向き直って言うやいなや、男はまた後ろを振り返った。「私が気づく前からずっとそこに立っていたようにも思えます」そう言って、首をわずかに横へ傾けた。

     〇

 一輪挿しの小さなガラス瓶をテーブルの下段の棚に置いて、四つ折りの濡れ布巾で天板を拭いた。一方の腕をテーブルに突いて身を前に乗り出せば、そのドロテの身ごなしに合わせて彼女の背中に引き寄せられるかのように、黒い靄がその形を滑らかに変えていった。テーブルを拭き終えたあとドロテが店主の隣に腰を下ろし、ようやく昼食の時間となった。
 正午を四十分ばかり過ぎていた。日本の弁当が好きだと、ドロテは言った。弁当の容器の底に手を添えては、その温みに安堵の声を漏らし、湯を注いであったカップ入りの味噌汁のふたを開けては、カップの上に顔を伏せてうっとりと息を吐いた。店主はその気取りない様子にドロテの平常心を見て取った。初老の男と店主の目に見えた物を、それと同じ外見のままドロテがもし見ているのであれば、彼女の心境がその表情に現れないはずがなかった。初老の男もまた同じく、ドロテの平然とした表情を気にかけていた。その思いを喉の奥に押しとどめて食事を始めたが、あるときガス台のやかんを取りにドロテが席を離れた際、男は店主の顔をテーブル越しに見て、それから語気をわずかに下げて言った。
「長男の近くにも、私共と同じように何かがあったはずです」
 それを聞いて店主はふと箸を止めて、“気付いていたのではないか”と思った。サワムラ・アリサの告白によれば、首を吊る前に青年はブランコ台の下に立って独り言をつぶやいたのだった。それはしかし実際には青年の独り言ではなく、その本人の身近にあった何がしかの存在に対する会話の発端だったのかもしれない。あるいは、聴き手の気配を意識した青年の短い遺言だったかもしれない。
「たしかに、そうかもしません」と店主は答えた。首を吊った青年の傍らで、ひっそりと夜に紛れていたのかもしれない。
 やかんを片手に「お待たせしました」と、ドロテがリビングに戻ってきた。店主と男はそれぞれ示し合わせたようにドロテを見た。