untitle db log

 


―第99回 六部、現在、迷霧、土夏―



前回 → 第99回 五部



 土夏が見ていたのは無数の爪楊枝を広く山肌に突き刺したような、その全域にわたって立ち枯れた針葉樹林だった。 表皮の剥げ落ちた木々が黒茶の土に立ち並び、場所によって山肌の土が大きく削げ落ちている。 木の主幹の根元から折れて地面に倒れ込んでいる樹もあれば、隣接する数本で互いを支え合うふうにして力無く立っているものも数多い。 と、そんな有り様を呈してはいるが、よく見れば、その細々とした多数の枯木に混じって、樹齢の若い緑木が山の限られた範囲にだけ散在していることが分かる。
『あれ、生きているな』 と土夏は無感動に思った。 それら小ぶりなサイズを見るかぎり、すべてが樹齢の近しい木ばかりのようだった。
【声】 (なんという種類の樹でしょうか)
 その返事の内容を何度となく頭の中で振り返っているうち、なにか釈然としない思いが次第に高まっていくのを土夏は胸の内に感じた。  「ぼくがそれを答えるのか?」

(………)

『きみは何を知っているんだ』

(なんですか?)

 なんですか。 一語ずつ短く切るような口ぶりで言ったあと土夏は、すでに閉じてあるジャンプ傘のビニール地を 留めバンド で丁寧に巻き止めた。 「そういうときは何か適当な嘘を付いてくれれば良いんだ」 と素っ気ない調子で言い足し、ふと心に思うところがあって、いまいちど目先の寒々とした山景色を広く眺め渡した。 やはり先とおなじく、若い緑木の散在が山並み全体のごく限られた範囲に、それも数少ない人手を想わせる程度の本数で認められた。 土夏は気休めに一息を吐いて、あの地下施設にいた青年らの言うところの “リーダー” なる男と、その本人にまつわる特徴的な情報を思い返そうとしてみた。 そしてそのあと何気なく小首をかしげて、靴先の地面に視線を落とし、物思わしげな表情を顔に出して “車、種、変人” などといった、そのリーダーの男にまつわる独り言をつぶやき始めると、それからわずか数秒のうちに、彼の視野の周辺部に一台の車が音もなく現われたものだ。 といって土夏はさして驚くでもなく、その車体の後部を遠目に眺めて、たったいま自分が何がしか事の進展に大きく関わる状況に足を踏み入れたものと見当を付けた。 車の荷台の上には数本の若木が載せてあり、その様子の意味するところを想うには容易かった。
 それは、いつかの時代にピックアップトラックという名で種別されていた車だった。 土夏が生まれる以前に生産されたタイプのもので、その車体の角ばった形状には馴染みがなかった。 彼の知っている同型車の外観といえば、もっと車体が丸っこく、車高は高く、フロントまわりの見た目には、たとえば流行的なデザインの装甲車、あるいは大胆不敵な黒人ボクサーの童顔、またあるいは空腹を満たしたばかりのツキノワグマの上機嫌な顔とでもいったような、時代の移り変わりと共に変遷を遂げたデザイン性が色濃く感じられたものだが、しかしいま彼の見ている車体には、やけに広々としたボンネットや、光沢に乏しい塗装面、はたまた主張性のない武骨なかたちをした骨格――といったような古めかしさばかりが目に付く。
 土夏は、そうして過去の記憶をふり返りながら、いま彼の視界にある一台の車の在り様に対して明確な違和感を抱いた。 ――まず、あの無人の地下街と、その場所につうじる地上口のゲートの外観を想い比べてみると、その両者のあいだにはいくらか時代性の違いが認められはしたものの、どちらもが近世的な建築様式に沿って造られてはいた。 多くの者がその種の新古の混在について 「なぜ一方が新しく、なぜ他方が古いのか」 とは疑問しないのと似たような道理で、たとえ地上口のゲートのすぐ先に砂漠が広がっていようとも、まず何より、万事の起きうるその幻想世界において、そしてやはり、砂漠地帯の暮らしに無頓着な土夏にとって、その異様な光景でさえも未知の都市景観の一部分それ以上にも以下にもなりえなかった。
 ところが、いまここにきて彼は、その幻想世界の在り様には明らかにそぐわないと直感しうる、たった一台の車を遠くに眺めている。 それはまるでコンピュータ・グラフィックスで描かれた画像のようでさえあった。 精巧に描かれた車体のイメージが、その乾いた被膜に覆われたような自然風景の一箇所に、たった一点の異物として冷ややかに張り付いている。 土夏はその様子をしばらく眺めたあと、「おい」 と、ぶっきらぼうな呼び声を上げた。そしてほどなく彼がまた同じふうに呼び声を上げようとした矢先のこと、たしかに聞き覚えのある無機質な声が彼の頭の中にひっそりと垂れた。

『そちらの声は、私には聞こえません』

 土夏は押し黙ったまま車の後部を斜めから眺めて、しばらくのあいだ車体のブレーキ・ランプに目を凝らした。 ときには砂塵の付いたリア・ウインドウをとおして車内の不確かな様子をつぶさに観察してみたり、またときには何者かの降車を即座に見てとらえるためドアの開閉状態を仔細に確認してみたり――どんな些細な変化に対しても心持をすぐに変えられるよう車体に深く見入った。 そうした中、その妙な静けさの目に付く様子を見かねて、声の主が 『どうしたんですか』 と訊いた。 土夏は車体から視線を逸らして無心に空を見上げた。 暗雲の垂れこめた空一面に雨の兆しが見えた。

 土夏は想定したとおりの変化がいずれ目先に起きるものと強く考えていた。 ただ身をじっと強張らせたまま、ひとしきり黙々とランプの点灯を待ち続けた。 いつからとも知れず胸の内に生じていた強迫観念の程度をそのまま強めてしまうだろうことをよくよく分かっていながらも、彼はそれ以外の変化を認めないとするまでの威圧的な意思によって、自身の想定した変化が実際に具象化するのをじっと待った。 するとそのうち、たった一点の染みのような想念が彼の意識のすみに淡く浮かんだ。 その染みは自発的に色の濃淡の調子をすばやく滑らかに変えながら、たったいま土夏が想像していた、その、とある一場面を、そっくりそのまま彼の頭の中に描き出していった。 それは、すでに車体のわきに立ってドアノブに手をかけている彼自身の姿だった。
 ブレーキランプの点灯を身動きひとつ取らずに待ち続けてはみたが、しかし結局のところ、その様子に見切りをつけた声の主が彼の名を呼ぶまでのあいだ、ただ土夏は息を凝らして遠方の一箇所を眺めていたに過ぎなかった。 土夏は、つい今しがた聞こえたその呼び声に応じるように一度だけ深々と呼吸をすると、「きみは女か?」 と、そっけない調子で言った。 それを言い終わらないうちに一歩を踏み出したとき、なぜ今までそうしなかったのかという疑問にかられた。 いつ起きるとも知れない変化をいつまでも待ち続ける理由はこれといって特に何も無かった。
「きみの声は邪魔だな」と土夏は言い加えた。そのあと空を見やって耳を澄ませると風の音が聴こえた。 ビニール傘の先端が彼の足元の地面に乾いた音を継続して立てていた。
 車の停めてある場所に向かって長らく歩いているうち、ふと目を逸らしたその視線の先に一本の道を認めた。 表皮の剥げた無数の針葉樹ばかりに気を取られて、遠目には見分けの付かない山道を見損なっていたのだ。 山の裾野の木立の中をよくよく見てみると、黒茶の色をした道がゆるいカーブを描いて山肌に延びていることが分かる。 その道の途中には分岐点が何ヵ所か設けてあって、数本の道々が山の各所をつないでいる。
 土夏はそれがアスファルトで舗装された道ではなく林業の専用道であることを、その路面の黒茶色 (山肌の色) と、おぼろに思い浮かべたアスファルトの色、それら両色の違いをもって種別した。 そして彼は不審に思った。 ひとたび山の景観を見れば、まず針葉樹林としての利用価値がそこに認められないことは明らかだった。 適切な間伐や、林道の築造など――整備された典型的な造林の様子を呈しているにもかかわらず、しかし彼の視界にある実状といえば、表皮の剥がれ落ちた無数の枯木がそっくりそのまま放置され、林道の路面に覆いかぶさる土砂には除去の手がいっさい加えられていない。 もはや林の手入れが放棄されたどころの話ではなく、そこに本来あるべき人工林の生気がもうすでに失われている。 そんな状況にあって一台のピックアップトラックが山際に停めてあり、山肌の各所には数十本の若木が植わっていて、その植樹作業にいそしむ者の姿がどこにも見当たらない。
 ――とあるコミュニティのリーダーでありながら、そのコミュニティに共存する同志たちの敬遠にも近しい念を背に受けている………車を運転して、植林に努める――土夏は車の所有者について憶測を巡らせている最中、まるで何かに弾かれたように眉をしかめて性急に一歩を踏み込むと、そのまま何食わぬ顔で駆け出した。 ウィンド・ブレーカーのナイロン生地が彼の両方の手足の動きに合わせて激しく擦れて音を立てた。 おなじくナイロン地のフードがその内側に風を入れて膨らみ上がった。 地面を蹴り付ける感触が靴裏に小気味よく感じられはしたが、さすが普段着にウィンド・ブレーカーを重ね着しているだけのことはあって、満足に身動きを取ることができない。 メッセンジャー・バッグが彼の背中で小躍りを続けるかたわら、土夏が腕を振って走るのに連動して、ずっと彼が手で握りしめているビニール傘が風を切って音を立てた、ちょうど何かを威嚇しているように。 それからほどなくして土夏の表情に苦悶の色が帯び始めた頃、わずかに戸惑いの混じったような一声が土夏の頭の中にみじかく鳴った。 その声が鳴りやまぬうちに、つい今しがた彼の手を離れたビニール傘が、灰色がかった空に放物線を描き、そのまま遠くの地面に音もなく落ちた。 そして直後、「傘が無くて、君が困るのか?」 と土夏が苛立たしげに声を荒げた。 「僕以外の、いったい誰が困るっていうんだ?」
 硬い表情を顔に張り付かせたまま呼吸をとめて走り続けて、やがて十数秒のうちに心肺の限界を感じると、土夏は荒い息づかいに肩を波打たせて足の運びに緩みをつけた。 両手のひらを腰にあてがって目先の地面に視線を押し付けて歩を進め、そのあと躊躇いがちに目を斜めにやったところに車体の後部を見て捉えた。 土夏はそのとき気勢がいくらか削がれたような気がして、やや大げさな息づかいで呼吸を何度も重ねながら車体のわきを歩いた。
 数本の若木が、その樹頭を車の荷台の前方へと向けて寝かせてあった。根の乾燥を防ぐため、一本の樹につき一枚の濡れたムシロがその株元から根の先端にかける範囲をぐるりと覆ってあった。 多量の水分がムシロに含まれているらしく、荷台の端から地面へと水が滴り落ちていた。 すでに植樹の済んだ木が何本かあるようで、その本数と同じ枚数のムシロが、このあと植樹を控えているものとおぼしい他の若木の根本に重ね掛けしてあった。 土夏は、荷台から外した視線を山肌に向けて、植樹に務めるその人物に対して思うままに想像を巡らしてみた。 目の前に広がる枯れ山のどこかに男の姿を探したが、それらしき男の姿は何処にも見当たらない。 山の裏手に男がいるのかもしれない、と思った。
 それから土夏は車の運転席のドアの近くにまで進み出て車内に視線を投げた。 レゴリスと呼ばれる細かい砂が車窓の一面に薄っすらと付着していて、車内の様子をはっきりとは見て取れない。 うかつにドアを開けて何かしらの思わぬ事態を招くわけにはいかず、とはいえ、ただ興味本位に指先で窓の透過性を高めるのも気が引ける。 そこで土夏は目を凝らして車内を見まわすにとどめた。 ハンドルやバックミラーや座席などが確かにあった。 鍵穴にはキーが差し込んであった。 エアコンやヒーターのコントロール・パネルもまた何の変わった様子もなく車内にあった。 ところがそのすぐ上にある棚からはオーディオ装置が取り外され、その空き棚には煙草のカートン箱が開封した状態のままで突っ込んであった。 土夏は自分の耳にはっきりと聞こえるように安堵の息をつよく吐いた――車のキーが鍵穴に差し込んだままにしてあって、なおかつ煙草のカートン箱がオーディオ装置の置き棚に突っ込んである。 それは言い換えれば、土夏の見知らぬその運転手が、ときに車のキーを鍵穴に差しっぱなしにしておくタイプの人間で、またときには煙草のカートン箱をオーディオ装置の置き棚に突っ込んでおくタイプの人間であるというわけだ――そんなふうに思って土夏は、わずかに口元をゆがめて気の抜けた声で短く笑ったあと、うってかわって落ち着き払った表情を顔に浮かべて 「どう思う?」 と独り言のように呟くと、ついで地平を這うような低い声色で 「まちがいなく、喫煙者だろうな」 と冗談めかして言った。 その声には彼自身にもそれとはっきり聞き取れるほどの、まるで誰か他人のものであるような異質な響きが含まれていた。それからしばらくのあいだ土夏は押し黙ってその場に立ち通していたが、いくら耳をそばだてていても、誰からの返事も聞こえてこない。 「ただの愛嬌じゃないか」 と彼は軽くあしらうように言った。 そのあと車窓から視線を外して、両腕をあらんかぎり宙に伸ばして間の抜けた声をみじかく上げた。 「人間の他に、煙草を吸うヤツがいると思うか?」と、どことなく軽々しい口調で問いかけたあと、力無く両腕をだらりと下げて欠伸まじりの息を鼻から抜き終え、そうとは気付かずに周囲の風向きが変わった直後に一歩を踏み出した。 色彩の欠いた山並みを正面に広く見渡して歩いた。
 ほどなく土夏が山の斜面に差し掛かったとき、ちょうど砂利の擦れ合うような音が彼の視界の外に鳴った。 はっとして土夏は息をのんだ。 落ち着きのない視点で雑然とした線を眼前に描き出し、いくらか気負い込んで意中の場所へ視線をすべらせた直後、そこに一人の見知らぬ男の姿を見てとらえた。 しばらくのあいだ男は何かの品定めをするような目付きで土夏を眺め入った。 土夏は目の前の木々が枝葉を風に揺らして涼しげな重音を立てているふうな錯覚を起こした。 その不安定な心境をうっかりと表情に出してしまうのを怖れて、土夏はよりいっそう男の外見に目を凝らすのだが、やはり、そこでもひときわ目に付いたのが、男の前頭部に装着してある黒いフレームのライダー・ゴーグルだった。 まず男の着衣には目立つところが特に何もない、ただの黒色のつなぎだ。 それでいて土夏の立っている場所からは男の目鼻の位置関係をまで見て確かめることができないため、ついつい知らないうちに、その特徴的な分厚いフレームに目が向いてしまうのだった。 そしてどういうわけか、いつしかそのゴーグルの二個の楕円がどことなく人間の肥大した目であるかにも思われはじめると、たちどころに土夏は男の足元に視線を突き立てて、そこに二足の靴を見やった。 それから眉を開いて鼻から息を抜いて、まっすぐに上向けた視線を今度は男の首元のあたりに泳がせた。 それを事実として認めたくはなかったが、どうやら、その男の外見に対する違和感の原因が、当人の首の長さにあるものと見なして間違いないようだった。 せいぜい人間の一般的な首の長さに五センチばかりの長さを足した程度でしかなかったが、しかしその数センチを人間の首の個体差によるものと説明付けるには、いささか不自然に感じられるほどの長さでもあったのだ。 土夏は、つとめて平静を装いながら山道をゆっくりと歩き進めていった。 そうして少しずつ男との距離を詰めていく中、なるべく男の姿に焦点を結ばないよう心掛けながら、ときには声高に咳払いをして威勢を示し、またときには枯れた針葉樹の一本一本に、ささくれた爪楊枝の乱立や、剣山の針などを連想して気分をほぐした。 そしてその後、およそ三メートルの距離を目先に空けて、二人とも示し合わせたように足取りにゆるみをつけた。
 土夏は男の前頭部に引っ掛けてあるライダー・ゴーグルに視線を逃がした。 そのレンズの表面には曇りがまるで無く、レゴリス砂漠に舞っている砂塵の付着が明らかには認められない。 それとまたおなじく男の顔面や着衣にも砂の膜は見当たらず、男の砂漠の移動方法を何かに特定するための手がかりとしてはそれだけでもう十分であるように思えた。
「おい。名前だよ、名前」
 男はいくらか語気を強めて言った。 その口の動きにあわせて彼の唇の端に引っ掛かっていた煙草が何度か揺らいだ。 男はそのあと、ふたの開いた煙草の箱を手に持ったまま、自身の腰に巻いた革ベルトに他方の手を寄せて、黒地の角張った腰袋の中からライターを取り出してそれを口元に寄せた。 それとほぼ同時に、土夏がすばやく目をそむけた。 その見知らぬ男を警戒するあまり、ついうっかり男の手の動きに視線を集中させてしまっていた。 土夏は性急な口調で名乗った。 それから、たったいま脳裏に刻み付けたばかりの男の首の外見をいやおうなしに思い返して、男の頸椎が3、4つは余分に組み重なっているのではないかという疑念に駆られ、どうしようもなく冷え冷えとした気持ちになった。
「吸うか?」 こざっぱりとした口調で言いながら、男は開いた煙草の箱を土夏の目先に差し出した。
「吸えよ。 お前には無害だ」
 その決まり文句は、男にとっての、いわば対人に向けた気軽な挨拶のようなものだった。 しかし対する土夏には、煙草の無害を訴える男の神経が当然のこと理解できない。 しばらくすると男は土夏が無言に拒否の意を示しているものと見切りを付けて、煙草の箱を閉じてそれを腰袋の中に差し込んだ。 「しかし、よくここまで来られたな」 と、つぎに男は仕切り直しをするつもりで、なおも気楽な声色をつくって言った。 そして、口の隅に引っ掛けてあった煙草の先端にライターで火を着けたあと、林に吹きぬけた風にそよいだ紫煙を顔に浴びて眉をしかめ、うっすらと目尻に涙を浮かべて深々と煙を吸い込んだ。 土夏は、つい今しがた喫煙をまぬがれて安心を得たもつかの間、さっそくまた返答に窮せざるを得なくなった。 まさか事実を口に出して言う訳にもいかない。 なにせ彼は、自分ですらその種の空間移動のいったい何たるかを知らないまま、一瞬のうちに砂漠を越えてしまったのだ。
「車でも持っているのか?」 そう言って男は煙草のけむりを口先から線状に吹き出した。 「車だよ、車」
「持っていません」 
「けど、おまえ。 その恰好では砂漠を歩いて越えられんだろう」 そう言うと男は、土夏の伏せがちな目に注意を向けて、そこに視線を当てたまま親指と人差し指でつまんだ煙草を口に寄せた。 土夏は二、三の相づちを打って男の意見をまず肯定するにとどめておくと、つとめて動じる気配を見せず 「気にしないでください」 と口元を不器用にほころばせて言い添えた。 そして彼はそのあと、いくらか声に弾みをつけて場の進展の主導をこころみた。 「それより、種探しを手伝います」
「あぁ」 と男が事もなげに応じる。
「あの。 どんな種なんですか――その種の形や大きさ――何でも良いんですが」 土夏は居心地の悪さを感じて、男に発言をうながした。 すると、「今日のところは黙って私に付き添え」 男はそう言ってうしろに向き直り、その日すでに何度か行き来をくり返した山道の斜面を、緩慢とした足取りで登り始めた。 「あと一時間も経てば今日の散策は終わりだ」
 土夏は、たったいま男が下ろした腕の手首のあたりを見やった。 腕時計の金属製のベルトがくすんだ輝きを放っていて、その秒針が幻想世界の時間経過を不正確に刻んでいる様子が頭に浮かんだ。
「それにしても」 土夏は男の背後から数メートル離れた場所を歩きながら、視線を辺りに巡らせて言った 「ここは、ひどい」。 その口調に若人なりの青臭い哀愁が帯びているように感じられて、男は思わず小さく吹き出してしまった。 自分もまた同じように枯れ山の惨状に見入って感傷に浸ったことがあったかもしれない、そう物思いに耽ったあと、いくらか笑みを含んだ表情を顔に湛えた 「はじめてここへ来た者は皆、そう言うよ」。 そして男は耳を澄ませた。 いつものように何処かで鳥の鳴き声がしているが、鳥の姿など相変わらずどこにも見当たらない。 その朗々とした伸びやかな鳴き声を聞くたびに大型の野鳥を連想したものだが、しかし思えば実際のところ、それらしき野鳥が同種の一羽と連れ添っている姿や、痩せ朽ちて死骸となった姿などを山中に見掛けたことは一度もない。 男はこれまで、たった一度ですら鳥の羽ばたく音を聞いたことがなかった。 いつからか彼は、その鳴き声を効果音の類に過ぎないものと考えることにしていた。

 その日に男が植樹をしていた作業場へと向かって、二人は山道を登り進めた。 そして特に何の会話も無いまま、わずかながら確実に暗みの増していく林の中を歩き続けていると、そのうち土夏が今更ながらに周囲を見渡してそれを明らかな異様であるものと感じ取った。 山の匂いがしない、植物の匂いがしない。 といっても彼には、まず、それが枯れ山の特有の匂いであるかどうかの判別が付けられないのだが、ただ、山中の隅々にまで深く染み付いていると思しい、その湿った土の匂いを間断なく嗅いでいると、まず植物の死滅をだけは想像するに難くなかった。彼の身のまわりにそびえる数十メートルの木々がすべて、わずかな生命の望みも残さず完全に死に絶えている。土夏はとっさに山頂の向こう側の景色を想像して恐ろしくなった。見上げるに堪えうる光景を、正気のままに見下ろすことができるとは限らないのだ。
 もし仮に男の作業現場が山の反対側に位置している場合は、もと来た道をまっすぐ辿って下山するつもりだった。 土夏は息ひとつ乱さずに、登山に慣れた足取りをほぼ一定の速さに保ったまま、男とのあいだに気兼ねない距離を置いて歩き続けた。 そして、それから何度か山道の分岐点を越えたあたりで、意を決して土夏が植樹の作業場所について男に問い掛けようとしたとき、対する男が無言のまま唐突に立ち止まって右手をすっと掲げて、たった一言だけ 「おい」 と背後に呼びかけた。 「ここは駄目だ。 引き返すぞ」 その言葉を聞いて土夏は足取りをゆるめて男の間近にまで歩を進めると、その場に男が立ち止まった理由を男の背越しに見知った。 路面が数メートルに渡って崩落していた。 土夏は唖然として、しかしそのわりには感心の色を多分に含んだ一声を短く上げて 「これは、気付かないな」 と言った。 それもそのはず、二人が長らく歩き続けた地表の色と、土砂の崩落跡の色が、よほど注意して見比べでもしないかぎり識別できないほどに酷似していたのだ。 土夏は眼下にその様子をまじまじと見て、身の縮む思いを抱いた。 もし、そうと気付かずに歩き進めて足を踏み外したなら、その土砂のえぐり取られたあとの急斜面を大した怪我もなく滑り落ちることだろう。
 男の話によれば、山腹の土崩れは何の前触れもなく起きるらしく、その崩落の起きる原因が――そう言いかけて男は上向けた視線を辺りに巡らせ、 「この林だ」 と無表情に言い捨てた。すると直後、一陣の風が林の中を吹き抜けた。 とっさに土夏は首をすくめて、なにか麺でもすするように素早く息を吸い込んだ。 「寒いか?」 と男は言った。 「けっこう温そうな恰好をしているじゃないか」
「けっこう温いですよ。 これ、僕の服じゃないですけど」 土夏は自嘲ぎみに笑った。
「貸衣装みたいなもんか」 そう言いながら男は後ろに向き直り、ちらと土夏の顔に一視を送ったあと彼のわきを通り過ぎた。 土夏は好奇に駆られて首をのばして、土砂の削げ落ちた跡をおそるおそる見下ろした。 どうやら地表に流出したのはおおかた土砂に類するものばかりで、その土砂から突出している岩石片に注目してみると、そのサイズは大きくとも赤ん坊の頭ぐらいの大きさでしかない。 土夏は今更ながらそのことに気付くと、途端に表情を曇らせて、少しばかり慎重すぎるぐらい慎重な動作で後ろを振り返った。 すでに男の背姿がずいぶんと遠い場所にあった。
 土砂の崩落現場の最寄にある山道の分岐点を通り過ぎた頃、にわかに雨が降り出した。 彼らの目的とする場所が間近にあることを男が言葉少なに土夏に知らせると、ちょうど時機よく一粒、二粒、はじめのうちは雨雲の気の迷いを疑わずにはいられないといった程度の水滴に過ぎなかったが、そのうち土夏にもそれとはっきり感知できるぐらいの少雨となって、見るまに山道を暗い色に染めていった。
 土夏は手持ちのジャンプ傘を取り出そうと、背負っていたメッセンジャーバッグを慌ただしく腹の前に引き寄せるなり、わずかに眉をしかめて短く唸り声を上げた。 いつか彼自身がその傘を力のかぎり宙へ放り投げたことにあっけなく思い当たった。 そしてそのあと眉をしかめたまま両目を閉じて、じわじわと自分の喉元に込み上げてくる不敵な笑いから意識を逸らせるため、あえて抑制した口調で 「しまった」とつぶやいた。 見方によっては沈痛とも滑稽ともいえる、その土夏の表情を気にするそぶりも見せず、男はもういちど空を見上げて差し迫った現況の認識を深めると、「おい、お前、ドナツ」と雄々しい声で呼び掛けた。 男はそのあと落ち着き払った動作で山道のかたわらに立っている一本の枯木に歩み寄って、太やかな幹に背中をもたせ掛け、とくに案じている様子はなく、むしろ面白がっているような口ぶりで土夏に注意を喚起した。 土夏は、わけも分からず、ただ男に言われるまま身近にある一本に寄り添って、その雨に濡れた木の幹に渋々ながら両手でしがみつくと、男の言葉には半信半疑のまま空を見上げて、それとおぼしい巨大な落下物を樹林の頭頂の指し示す方向に見てとらえた。





                                第99回 七部 につづく