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裏庭のバジル 1 



 とある曇天の早朝、淑女と駄菓子屋の老人店主が各々の自宅の庭に伸びた草を刈ろうと、あらかじめ互いに言い合わせでもしていたように手持ち式の草刈り機を物置から持ち出してきて、朝露に湿った庭草の上に立ちます。 それから両人とも互いの姿を正面に認め合い、つい先日に短く刈り込んだばかりの若い生垣越しに、まず淑女のほうが微笑を顔に湛えながら頭をわずかに下げます。 老人店主はそれとなく事の奇遇を驚くように挨拶の一声を上げると、きゅっと顔をしかめるふうなその特徴的な表情でみじかく笑い掛けます。 店主は長丈の作業服や足袋などを、そして一方の淑女は長丈のデニムシャツ・ワンピースと低いヒールのついたショートブーツを身に着けています。
 
 老人が自身の腰痛に顔をゆがめて苦悶の声をみじかく上げます。
 淑女の髪先が当人の肩を撫でてそのまま首元に垂れ落ちます。
 
 たったいま作業をはじめたばかりの老人ですが、彼は淑女がショート・ブーツを履いたまま草を刈ろうとするのを視界の端にとらえると、とっさに草刈り機の刃を草地から引き離して、片方の手を後ろ腰にあてがい上体を起こし、しわがれた声を尖らせて隣家の庭へと危険性を訴えかけます。 淑女は素直に作業を中断し、店主の声に応じるように片手を上げて見せたあと、上体を前に屈ませて草刈り機を足元の草地に置きます。 そして自宅に引き返してサンダルに履き替え、足裏の冷感と足元の安定感に機嫌を良くして揚々と庭へ戻ってきます。
 老人は淑女の素足の露出を見知って、あきれ顔で溜息を吐きます。

 老人が自身の腰痛に顔をゆがめて苦悶の声をみじかく上げます。
 淑女の髪先が当人の肩を撫でてそのまま首元に垂れ落ちます。

 淑女が草を刈り進んでいく傍から、刈り草の断片が “刈り草・飛散防止カバー” をかいくぐって淑女のサンダルや足の甲などに張り付いていきます。 その様子に気づいた店主は淑女の足首に視線を留めます。 淑女は店主の視線にはおろか、自分の足首に草の断片が張り付いていくことにすら気付いていません。 草刈り機のエンジン音によって彼女の視野の範囲は狭められ、身のまわりに起きる一切の状況から意識が遠ざけられてしまっています。 そしてそのうちまた一切れ、また一切れと、朝露に湿った草の断片が淑女の足首に音もなく張り付いていきます。
 しばらくして淑女が足首の皮膚のわずかな痒みに気付いたとき、朝日が庭のおよそ半面を明々と照らし出し、庭草の青い匂いがあたり一帯に立ち込めています。 知らぬ間にずいぶんと時間が経ったものだと異様な感にうたれながらも、しかし淑女はどこかまだ納得のいかないような表情を顔の隅に浮かべてその場に立っています。
 それからまもなく足首の痒みがいくらか強まったかに感じられ、淑女は皮膚を掻こうと上体を屈めますが、その動作の意外なまでの身軽さに不審を覚えたために、頭を下げた姿勢のまま身を硬く強張らせます。 そして、ほどなく思い当たったその理由を確かめようと自分の胸元に手を引き上げ、それとほぼ同時に顔と視線をさらに下げたところで事の状況をすぐに認めます。 草刈り機の肩ベルトが彼女の肩から腰のわきにかけて 斜め掛け されてありません。 いまだ肩口の肌にはそのベルトの重みが際立って感じられるようでもあり、この現状の不可思議がそのうち在りもしない気配と化して自分に幻覚を突き付けるだろうとの予感すらもあります。
 直後、淑女は自宅の庭のどこかにエンジンのうなりを聞き取って、あわただしく反射的にその方角を振り向きます。 彼女の視線の先には、隣家に住む老人の面影を残した、それでいて顔の日焼けした若々しい男が草刈りをしています。 男の横顔をしか見て取ることができませんが、その日の起床後に初めて出会った隣人の老いた顔を思い浮かべてそこから類推してみれば、いま彼女の視界の先に立っている男の 何者たるか に思い当たらないはずがありません。 淑女は目を丸くしたまま髪を振って、心ここにあらずといった表情で早々と隣家の庭に向き直ります。 庭には一台の草刈り機が置いてあるだけで、その所有者たる老人店主の姿はどこにもありません。
 淑女はもういちど髪を振って自宅の庭に視線を投げて、いまにも上ずりそうな弱々しい声で男の背中に呼び掛けます。 しかしその力無い声は、男の腰元のあたりに発しているエンジンの音にかき回され、もうじき草丈の揃いつつある庭の何処かへと風に流されていきます。 ――それからはもう、ただただその無機的な音によって淑女の心許なさが掻き立てられていくばかりでありました。 また、それに合わせて庭草の刈り口から発せられる独特の芳香を何度となく胸に深く吸い込むわけですから、当然のこと淑女の心持は否応なしに朦朧としていくというものです。




『とある淑女と駄菓子屋の老人店主』

2014年6月16日のブログ記事