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裏庭のバジル 2 



 庭草を刈り払っていくかたわら老人店主は何度となく隣家の庭に視線を滑らせてきましたが、いまだ淑女の佇まいには何の変化も見られません。 いつから淑女がその姿勢を取り続けているのかと、店主はふと疑問に思います。
 
 その日の前日の昼下がりのことです。 淑女の申し出を受けて、店主は草刈り機の基本的な扱い方をかるく手ほどきしました。 そしてその店主の目の前で、おそらく未経験者の誰もがそうするように淑女もまた、ぎこちない身のこなしでありながら無難に草を刈り進めました。 それはとても単純な作業でした。 回転中の刈り刃で庭の表面を撫でていけば自然と草が刈られていくことを知って、 “肩すかしを食らった” とでもいうような感想を淑女が口に出して言ったほどです。
 そんなわけあって店主は、これといって特に心配はしていませんでした。 というよりも、まず何はさておき、取り扱い説明書に記載されてあるとおりに肩ベルトをかけて草刈り機を使用していれば、よほどの乱暴な扱い方をしないかぎり、平坦な庭地で人身事故など起きるはずがないのです。
 ところがその翌日になって、老人店主の思いもよらない事態が起きます。
 店主は草刈り機のエンジンを停止させてそれを足元の地面に置きます。 それから生垣へと歩を進めて、隣家の庭内の一箇所を遠目に眺めます。 庭の片隅のほうに淑女が顔を伏せて立ち、その背後には小ざっぱりとした草地が一畳ぶんあまり伸びています。 淑女の頭は胸元にだらりと屈みこみ、片方の手が腰のわきに垂れ下がり、そして他方の手といえば、その親指で エンジン回転数の調節レバー をぐっと前に押し込んだまま、草刈り機のグリップを手のひらでしっかりと包み込んでいるといった具合です。 老人店主は淑女の表情を確かめようと生垣に沿って歩き始めますが、淑女の前髪が鼻元にまで覆いかぶさっているために、その面持ちを見て取ることができません。 店主はそれから淑女の足元に注意します。 ともすれば庭土の削られる音が荒々しく鳴り始めるところ、草刈り機の刃が庭の地面に対して平行に保たれているため、まだ今のところは刃の回転音だけが地面すれすれのところで継続して鳴っています。 もしそのうち淑女の体が地面に崩れ落ちるようなことがあれば、その拍子に草刈り機が自走を始めるかもしれませんし、そればかりか、刈り刃が淑女の足に突き立つ恐れすらもあります。
 せめて意識の有無だけでも確かめようと、店主は声を張り上げて淑女に呼び掛けます。 淑女、淑女と、その名を何度となくあたりに響かせます。
 ちょうどそのとき、老人店主の自宅の台所で朝食を取っていたひとりの男が、そのしわがれた声を庭先に聞き取って、ほのかに湯気立つコーヒーカップを片手に縁側へやって来ます。 そして、ついさっき口に放り込んだばかりのトーストの一片を咀嚼しながら庭の様子を注意ぶかく眺めて、ひとりの老人男性の背姿に自分の父親の姿を重ね合わせ、それが紛れもなく実の父親であることを見知って肩を落とします。 コーヒーを啜ります。 父親が年甲斐もなく隣家に住む独身女性の名を繰り返して呼ぶからには、本人のそれ相応の覚悟というものがそこにあるはずだ、と男は考えます。 それからまたコーヒーを啜ります。
 いっこうに淑女からの返事が来ないことに苛立ちを覚え、いっそのこと隣家の庭に乗り込んでやろうと踵を返したところ、その視線の先には彼の一人息子が しょぼけた表情を顔に浮かべて立っています。 老人店主は自身の背後に親指を何度か差し向けて、「となりの様子を見てきてやれ」と、いささか辟易した様子を示しながらも力強い口調で息子に命じます。 男はコーヒーカップの縁を下唇に載せたまま、父親が縁側のほうに歩み寄ってくるのを視界の隅に捉えると、そのあと隣家の庭に目をやって、ようやく彼の心配すべきところが自分の父親の言動にあったのではないことを見て取ります。 そして男は、その淑女の身に起きた異状に眉をひそめて見入りながら、さしあたり父親の心理状態を気に掛ける必要のないものと判断をつけて、安堵の息を鼻から抜きます。
 意識があるのかどうか分からん――老人店主は性急な口調で言うと、縁側の沓脱石の上に足袋を脱いで、板敷きの通路に立ち上がり、眉間にしわを寄せて何事かを言い漏らしながら足早に歩いていきます。 そんな父親の背姿を廊下の突き当りに見送ったあと、もういちど男は隣家の庭に立っている淑女の姿に目を凝らします。 ぬるいコーヒーを口に注ぎ入れ、たゆみない父親の足取りに倣おうとして、その意思とは真逆にあると言っていいぐらいの重々しい一歩を踏み出します。 
「さっさと行け」 と、老人店主の叱責の声がリビングで上がります。
 男は実体のない視線を庭の生垣へと投げて、“もうすこしだけ低ければなぁ” と、間の抜けた声をあくびに乗せてゆっくりと吐き出します。




『とある淑女と店主と息子』