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裏庭のバジル 3 



 アンティーク調のレンガ造りの門柱をほんの少しだけ浮ついた気分で通り抜けて、男はそのまま家の外壁に沿って裏庭へと足を向けます。 そして、その門柱と玄関の位置関係に始まり、家屋の大きさや窓の配置や、家の周囲に立っている生垣の並びなど、目に映るすべてのものに対して既視感をおぼえると同時に、父親と淑女それぞれの趣向の違いをひしと感じ取ります。 淑女はその私有地に西洋の色味を混ぜ込んで楽しんでいて、老人店主は家の一部を改築してそこで学童相手に商売をしている――男はうしろを振りかえって、真新しい門柱にもういちど好奇の目を注ぎ、それから物思わしげに過去を振り返ります。 かつてこの地区一帯に区画整理の手が入った際、老人店主もその息子も、そして淑女の前の住人も、まさか住宅カタログに掲載されているうちの一種の和風住宅が二戸ぶん、その家屋の外観をいつか付き合わせることになろうとは思ってもいませんでした。 そしておそらく、両家の住人が隣人同士という関係を超えた特別なよしみを互いに持ち合っていられたのは、そのおなじ外観をもつ家屋がいつ何時も静かに横並びしていたからだろうと、いまでも男は実家に帰省するたびに愉悦にも似た思いに浸ることがあります。
 それから男は前に向きなおって裏庭の一部を視野に入れます。 そして唐突な笑い声をみじかく空中に投げ上げます。 あるとき父親が建築中の新居の様子を見に来たとき、両家の差別化を図るためのささやかな増築を思い迷った、という話をいつか父親本人から聞いたことをいまいちど振りかえります。
 まもなく首筋にひとつ雨粒が落ちてきます。 男は町外れの空を遠目に眺めます。 その広い空の下には、水に沈んだようにひっそり立っている淑女の後姿があります。 草刈り機のエンジン音と刈刃の回転音が侵入者に対する警戒を示しているかにも思われ始め、男はわずかに視線をさ迷わせますが、ばかばかしいと、かぶりを振ってその想いを頭から払います。 ついで男の目には、幼少の自分が眼前の庭を駆け回っている光景が浮かんできます。 父親がいつまで独りで暮らし続けられるのかと、そんな突拍子もない思いにも駆られます。 草刈り機のエンジンを掛けっぱなしにしたまま淑女は身動きひとつ取らずに立っていて、その足元には平べったいビーチ・サンダルと丸型の刈刃が相容れない様相を見せています。 それを目先に眺めて――まったく――と男はつぶやきます。 ホームセンターにまで付き添って、草刈り機の購入に助言まで出しておきながら、そんな父親がどういうわけか作業時の注意すべきことをまで淑女に言い及んでいなかったからです。
 老人店主が大きな眼鏡のフレームを指でつまんで自宅の縁側に立ち、隣家の庭の様子を注意ぶかく眺めています。 男はすこし顔を下げて視界の奥にぼんやりと父親の姿をとらえます。 老人店主がその大きなフレームの眼鏡をかけるのは、本や新聞などを読んだり、また何がしかの細かな手作業をしたり、あるいはパソコン画面をじっと眺めながらインターネットで調べ物をしたりするときです。

 男は淑女の背後に立ち止まると、万一の危険を想定して気を引き締めたあと、淑女の右手を草刈り機のグリップから取り放しにかかります。 まずはじめに淑女の親指を エンジン回転数の調節レバー から引き離し、そうして刈刃の回転数を落としておいてから、つぎに草刈り機のグリップのあたりに付いている 動作停止ボタン を押してエンジンを止めます。 いまだ残り四本の指が、その指先を揃えるようにしてグリップを下から包み込んでいます。 男はそれらの指をゆっくりと慎重に伸ばしていって、最後に淑女の右手をグリップから引き離そうと自分の手をそこに重ねますが、その淑女の手の冷たさに思わず息を呑みます。 もちろん彼には淑女の手の平温など分かるわけありませんが、肉感に乏しい手の、それが適温であるかどうかの判断も付けられません。 ――作り物のようだ、と男は思います。 皮膚の表面に毛穴や皴などが付いているかどうか、それに指骨の輪郭に自然な曲線が描かれているのかどうかも疑わしい。 指は時計の針のように真っ直ぐ伸びていて、つるりとした滑らかな肌を指の表面に見て取ることは出来ても、その内側に血液の静かな流れを思い浮かべることができません。
 淑女の腕にはまだ多少の力が入っているため、そうして男が手を離したあとも腕はぎこちなく空中に静止しています。 男は心の芯が風に吹かれたような思いに駆られ、もう居ても立ってもいられなくなります。 淑女の代わりに草刈り機のグリップを握ってその細い肩に掛かる重みを減らしておいて、それから淑女の後ろ髪と首のあいだに手を差し入れ、そのまま手のひらを首に沿え当てます。 男は人体の仄かな温もりに深い安堵をおぼえると、つぎにその手を淑女の首筋にあてて脈拍を取りにかかります。
「人は立ったままで意識を失うものかい?」 男は淑女の首から手をひいて視線をななめに落とします。 わずかなあいだ沈黙が流れます。
「てんかんの気があるかもしれん」 老人店主は抑揚のない声で応じますが、その類の個人的な話を淑女から聞かされた覚えは彼自身にもありません。
 男は一語ずつを確認するように “てんかん” と口元に漏らしながら、肩掛けバンドの片端を草刈り機のメイン・パイプから手際よく取り外し、地表に浮かんでいた刈刃を地面に着けて置いたあと、淑女の肩からバンドを引き下ろしてそれを地面に垂らします。 そこで手を止めて何やら考え事を始めますが、ほどなくしてその考えを払うように息づくと、すこし離れた場所に草刈り機を置きます。
 今からそっちへ行く――老人店主の声を聞いて男はうしろを振りかえります。 もうすでに隣家の縁側にはその姿がありません。 男は淑女をかえりみて一呼吸をおいたあと、拠りどころのない茫然とした思いに急かされるように隣町の空をちらと見やります。





『とある淑女と店主と息子と』