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裏庭のバジル 4 



「けいれんは起きていない」
 老人店主は上体をいくらか屈めると、淑女のうつむいた顔を覗き込んでその口元に目を留めたまま、自宅から持ち出してきた老眼鏡のつるを開いてそれを耳に掛けます。 眼鏡のブリッジを鼻に引っ付きそうになるぐらいまで指で押し上げ、さらに淑女の口つきに目を凝らして言い加えます。
「動いとらんな」
「さっきからずっと動いていないよ」
 いささか無愛想な口調で応じながら男は父親のわきにまで歩み寄り、すっくと腰を落として淑女の顔を見上げます。 一見したところ、なかば目を開けたまま安らかに午睡しているようでもありますし、また見る角度によっては所在の無さが色濃く表われているようでもあります。 なにか異型の美術品でも見るように、そうして老人店主も男も淑女の顔に目を注いでいますが、そのうち店主が急激な疲労をうしろ腰に感じて大儀そうに半身を起こします。 ついで彼は息子の顔に感情の表出の有無を確かめるつもりで、それとなく自身の傍らに男の姿を見下ろしますが、じきに淑女の佇まいに視線を戻します。 というのは、男が溜息の交じった息を小さく吐いたあとで口をヘの字に曲げたからです。
 男は、目を薄っすらと開けた人々が海底の柔らかい泥の上に並んで立っている光景を頭に浮かべていました。 といってもまず初めのうちは、誰というわけでもないそのひとりの人間の立ち姿を、台所や公園や電車のホームなど、人の日常生活に根差した場所に当てはめていきながら、その淑女の意識の消失もまた医学的に認められたものであるという可能性にまで楽観的に考えを及ばしていったに過ぎませんでしたが、まるで見覚えのない光景がそのうち彼の頭の中で急激にはっきりとした形を取っていきます。 だだっ広い海底に何人ぶんかの姿があり、皆一様にして全身の輪郭を海中に溶かし込めています。 その人々の足元には海底の泥がうっすらと、ちょうど薄暮か何かを想わすように漂っています。
「おまえ、代わりに草を刈ってやらんか」 そう言って老人店主は、草地に置いてある淑女の草刈り機を顎で指します。 「今朝の作業をそれなりに楽しみにはしていたようだが、どうにもな――またいつこんな状況を招いて今度は怪我をさせるとも知れん」
「病院に連れて行かなくても良いのかい」 と男が草刈り機のわきに歩み寄って体を前に傾けながら言います。
「そっとしておくほうがいいかもしれんよ」 老人店主は淡々とした物言いでそう言って淑女の顔に視線を移します。 「しばらくして意識が戻らんようなら救急車を呼ぼう」
 男は老人店主の言葉を胸の内で反芻してそこに何か父親の思うところがあるものと察しをつけます。 それから一方の手でグリップをにぎって軽々と草刈り機の本体を持ち上げるなり、肩掛けバンドを足元に垂らしたまま庭を対角線状に歩き始めます。 「せっかく良いやつを買ったのに」 男は誰にともなく妙に熱を入れて話し掛け、その自分の声にうながされるようにしてグリップをにぎる手にいくらか余分な力を込めます。
「あぁ、そうだ」 男は後ろを振り返ってさらに言葉をついで 「もういちど音を立てたら意識が戻るかもしれない」
 気のない返事をしたあと老人店主は何やら感じ入ったようにうなずき、淑女の顔から逸らした視線をそのまま淑女宅の玄関先につうじる表通路へと滑らせます。 「ちょっと家に戻るぞ」
 男は父親を目で追います。
「便所だよ」 店主は声を落として言います。

 低速で刈刃を回転させて庭草を刈り進めていきます。 高麗芝と呼ばれるごく一般的な庭草がその表面に朝露をつけて柔らかくなっていて、しかも男の使用している草刈り機の刃の状態が新品同様なわけですから、切れ味はもう申し分ありません。 ただひとつ草刈り機の重量が女性向けでないことをのぞけば、いたって使い勝手の良い生活機具であるように感じられます、たとえば食器乾燥機や掃除機などと同じような。
 その後しばらくして庭の半面ぶんほどの草刈りを終えたあと、小休憩のために草刈り機のエンジンを止めて、淑女の様子をうかがおうとその方向を眺めやるが早いか、ちょうど時機よく庭の隅のほうで淑女の声が上がります――おはようございます。 淑女はデニムシャツ・ワンピースの生地が庭草の露を吸ってその色味を深めていくことに気付かぬまま、べったりと尻を地面につけて男の近寄ってくるのを眠たげな視線で眺めます。 そして先とおなじく呼気を多く含ませた、それでいて何か決然とした態度をでも示すような声で 「いつからですか」 と続けます。
 はじめのうち男は淑女が何を言わんとしているのか察しかねていましたが、まもなく淑女が草刈り機に視線を移したのを機にその話題に気付きます。 「15分ほど前からです」
 その返事を聞いて何かを考えようとした矢先、淑女は男の額にうすく浮かぶ小粒の汗に気付きます。 「すこし待っていてください」 淑女はそう舌足らずな口調で言ったあとに緩慢な動きで立ち上がり、そして何の前触れもなく膝から落ちるようにして前かがみに倒れ込んでいきます。 その拍子に男はつんのめるような姿勢を取って二、三歩前に進み出て、ひしと淑女の両肩をその正面から掴みます。
「ねむい」 顔をななめに伏せたまま淑女はそう言って、直後に意識を失います。
 ほどなく淑女の膝が直角に折れます。 その上体がずり落ちるようにして男のほうに寄り掛かってきます。 男は淑女よりもさらに低く膝を折って、とっさに両手を淑女の脇の下に差し込みます。 淑女は遠慮もなく倒れ込んできます。 男はいくらか仰け反るような姿勢を取ったあと片足をすこし後ろにずらして淑女の体重の分散を図り、それから顔をせわしなく横にそむけます。
 淑女の襟元と男の右の頬が密着します。 淑女の顎が男の肩に載っています。 男は奥歯をつよく噛み合せながら 「こんなはずじゃなかった」 と弁明の念を込めてつぶやきます。 そして、 “いったい何がこんなはずではなかったのか” と自問したあとに息を凝らし、つぎにその自分の仰け反らせてある上体を力いっぱい右の方向にねじります。 するとその動きに合わせて、上体から下半身にかけて淑女のからだがゆっくりと仰向けの動きを見せます。 淑女の首が後ろにもたげます。 だらしなく口が開いていくと同時に、額の左右に開きつつあった前髪の先端が両耳に覆いかかります。
 二人の上体が離れます。 男は淑女の両脇に通していた二本の腕をすばやく鉤状に曲げてそこに淑女の両脇を引っ掛けます。 淑女は自分の尻が露に濡れた庭地に下りていくことに抵抗を示すでもなく、ただ目を薄く開いたまま上下逆さになった裏庭の眺めに瞳孔を当てています。 男はそのまま淑女のからだを背中から頭にかけて横たえていって、さてどうしようかと、一仕事をでも終えたような感に浸ります。
「なにやっとるんだ、お前」 ちょうどそのとき老人店主が便所から戻ってきます。 何を動じる気配もなく、息子の元に歩み寄りながら空を眺めやります。 「雨が降り出すまえに、家の中へ連れて行ってやれ」
 男は父親の帰りの遅さにいささか苛立ちをおぼえます。 ただ無言のまま淑女の頭頂のすぐちかくに左右の膝を突いて座って、両手でその小柄な上体を起こします。 そして背後から両脇に手を差し入れて淑女のみぞおちのあたりで手首を組むと、そのあと、ゆっくりと後退を始めます。 老人店主は、息子が淑女の尻を地面に引きずっていくのを温和な表情をしながら眺めて、なにか二人が幼少の遊びをでも真剣にしているふうな印象を受けます。
「介護しとるようにも見えるな」と、抑揚をつけた口ぶりで老人店主が言います。
 その気楽な言葉にはかまわず男は自分の背後にある淑女宅の縁側を顎で指して、
「うしろ、戸を開けてくれよ」
 老人店主は息子の発言に嬉々として 「よし」 と声に弾みを付けて、それから両股を開いてちょこちょこと足早に歩を進め、見慣れた沓脱石に片方の足を乗り上げて縁側のガラス戸に手を掛けます。 小気味のいい音を立てて大窓が開きます。 その音を聞いて店主は思わず感嘆の一声をみじかく溢すと、その淑女宅の縁側に興味ぶかげな視線を巡らせながら物思いにふけります。

 淑女を縁側に横たえたあと、老人店主は思い出したように腕時計を手元に見下ろして、駄菓子屋の開店時刻をいくらか過ぎてしまったことを息子に告げ知らせます。 といって、そのことを深く気に掛けるような様子は見せず 「まぁ、仕方ないな」 と、淑女の寝顔に気を楽にして言い添えると、店主はそそくさと自宅に戻って行きます。 そのあと男も自宅に戻って、庭の隅にある倉庫の中から小型のブラシと伸縮式の熊手を取り出し、そしてもういちど淑女の自宅に足を向けます。
 ちょうど男の去り際になって、縁側の開いた大窓から老人店主が身を乗り出し、四つ折りにした毛布を突き出して男を呼び止めます。
 おれのは、匂うだろうからな。
 男は四折りの毛布を左の小脇にかい込み、熊手とブラシを両手に持って淑女の家に向かいます。 彼が実家の玄関に面する町道に足を踏み出すと、そのとき登校の路にあった小学生らが男に対して好奇の目を注ぎます。 彼らの中には老人店主の駄菓子屋を頻繁に利用する学生らも混じっていますが、その実家を離れて遠地で街暮らしをしている男にはそんなこと知る由もありません。 小学生らの視線を背後に振り切るように淑女宅の門柱を通り抜けて、いつかとおなじように過去をかえりみて一笑を漏らし、いまにも脇から滑り落ちそうな毛布を落とすまいとして腕に力を込めます。 そうして庭につうじる表通路を足早に歩いていると、ほどなく視界の隅にはっきりと人の気配を感じ取って男はその場に立ち止まり、何の気おくれもなく半身をねじって一人の男子の姿を視界にとらえます。
「おじさん、だれ」 男子は低く刈り込んだ生垣の上面に両手をかけて、男の真顔に対して純然とした興味を注いでいます。 「おじさん、この家の人?」
「となりの家の人」 と男は言います。 「きみは誰?」
 男子は何かを考え込むように、しばらくのあいだ低い声を垂れ流します。
「ここから歩いて十八分ぐらいのところ――そこに住んでいる人」
「けっこう遠いところから学校に通っているんだな」 と、男は視線を上げて近隣の地図を頭に浮かべ、小学校の所在地と男子の自宅とのあいだの距離を想います。
 男子はまた考え込むようにして低く声を垂らし始めますが、まもなく 「うん」 と切り出すと、そうでもないよ、と言い加えて生垣から両手をすっと下ろします。 そしてそのまま路面を滑り出そうとでもいうふうな軽い身ごなしを取ってから勢いよく駆け出します。 男は生垣に沿って視線を横滑りさせて、淑女宅の門柱の前を男子が駆け抜けていくのをその軽快な足音とともに見送ったあと、さっき男子の口を衝いて出た言葉を気軽に口ずさみながら、やがては表通路を抜けて裏庭に足を踏み入れます。  だれ  おじ  さん  だれ  おじ  さん  だれ

 両腕を高く掲げて目の前に毛布を垂れ下ろすと、花柄を散りばめたその毛布の表面からは、いつか確かに馴染のあっただろう匂いが漂ってきます。 毛布の片隅に縫い付けてある会社名のタグに母親の実名が黒のマジックペンで書かれてありますが、しかしそれが人の匂いであるか部屋の匂いであるか、それとも家全体の匂いであるのか、その毛布の匂いがあまりにも抽象的なものであるかに感じられて男には判別の付けようがありません。 ひとしきり考えてから男は、その毛布を淑女の体にかぶせておくと、つつと顔を上向け、縁側の匂いを鼻に吸い込みます。 そして何を思うでもなく静かに庭へ戻ります。 遠目に見上げた雲の切れ目からは光芒が下りていて、気のせいか庭内の湿気がいくらか少なくなったようでもあります。
 男は、熊手で草をかき集めてそれを庭の隅に積んでおいたあと、ブラシをつかって草刈り機の掃除をはじめます。
「お前、いつまでこっちにいるつもりだ」 隣りの家の縁側に、老人店主の声がします。
「あと一週間ぐらい」 男は地面に置いた草刈り機にブラシを掛けながら応じます。 「そんなことより、店番をすっぽかしても良いのかい」
「暇なのか、お前」 老人店主がすこしだけ声に弾みを付けて言います。
 男は掃除の手を止めて立ち上がると、生垣ごしにブラシを左右に振って見せます。




『淑女と店主と男と男子』




今もまだ当ブログの小説記事に興味を持ってくださる方がいらっしゃるのかどうか存じませんが、これからしばらくは連続短編モノを書いていきます。 もう一方のブログ小説ではその一話ぶんの記事にふくむ文字数を 多め に考えてありますもので、まだ今のところ集中してあちらを書き進められる気がしません。 興味を持ってくださっている方々がいらっしゃるようでしたら申し訳ないです、しばらくのあいだ、どうぞ短編モノをよろしくお願いします。