untitle db log

裏庭のバジル 5 



 午前七時に開店して以降、ひとりの男子学生が113円の消しゴムを一個買ったきり、午前七時三十四分に至るこれまでのところ駄菓子屋に立ち入る学生は一人もいません。
 小学校の正門が閉じる午前八時十分までのあいだ、店に面する登校路を数多くの足音やランドセルの揺れる音などが通り過ぎていきます。 老人店主の見知った学生らの中には、フロントガラスの前に立ち止って店内に向けて無言に手を振る者や、店頭を通り過ぎるまでのあいだに店の中を一瞥する者もいます。 店の軒下に取り付けたオーニングテントの下には自動販売機を利用する学生がいます。 その学生が店舗わきに置いてあるゴミ箱の近くに立ってそれを飲み終えるまでに掛かる時間は三十秒あまり――そのあと学欲を奮い立たせるように口から強く一息を吹いて、空になった茶色の瓶をゴミ箱の底に静かに置きます。 とある二人の学生がその昨夜にテレビ放送されたアニメ番組に対して、まるでなにか品評でもするように落ち着き払った口調で感想を出し合います。 ひとりの女児が店頭を走り抜けていった直後、その女児に対して立ち止まるよう訴えかける男児の声が高らかと切実に上がります。 老人店主は小学生らの立てる強弱様々な音に聞き耳を立てながら、店の奥まった場所に置いてある小型ワゴンの天板からコーヒー・メーカーの保温サーバーを取り上げて、その注ぎ口をコーヒーカップの縁にあてがいます。 駄菓子屋の店内に通じる自宅廊下の向こうには、朝の情報番組を画面に映し出すテレビの音や、数個の食器が重なる音、そして保温サーバーの不在に対する不快感を含んだ息子の声など、ここ一年のあいだ老人店主には馴染のなかった朝の生活音が鳴っています。
 そしてさらに今朝の、その湯気立つコーヒーをひとすすりした直後にあっては、家の玄関のほうに女の声がします。
 ――おはようございます。
 老人店主はコーヒーカップを小型ワゴンの天板の上に置いてから玄関に向かいます。 そしてダイニングキッチンの出入り口を通りすがる際、その室内にいる息子に対して言葉みじかく店番を言い付けます。 すると息子が一呼吸をおいたあとに素っ頓狂な声を上げて、店番の不慣れであることを理由にして自らの接客を申し出ますが、まもなく父親と来客の会話を玄関のほうに聞き取ると、そのあとは食器の整理もそこそこに、自身の過去の店番・経験を想い起しながら店につうじる廊下を歩き出します。

「てっきり私、この時間には息子さんが出ていらっしゃるものとばかり」 と、淑女は恐縮の思いを込めた声色で言います。 当の淑女は、四つ折りにした毛布をさらに二つに折ってそれを胸の前に両手で抱え、小首を傾げて毛布のわきに顔を出しながら店主に視線を当てています。 その毛布を抱いている一方の手には、小さな無地の紙袋がぶら下がっています。
「これも習慣でな」 と老人店主は笑います。 「足が勝手に動くんだよ」
 淑女はそれから老人店主の息子のことを話題に挙げていくつか言葉をつむいだあと、毛布を借りたことに対する感謝を言って (さらにはその毛布を洗濯していないことを言い添えて) 自宅から持ってきた紙袋を店主に手渡します。 その紙袋の中には、淑女の自宅の冷蔵庫に入れてあった 焼きプリン が二個入っています。 「お口に合うかどうか分かりませんが」
「これ、あいつのぶんもかい」 紙袋の中身を見下ろして老人店主が言います。
「お二人でどうぞ」 淑女は玄関から屋内へと伸びている廊下をちらと見やります。
「気を遣わせてすまん」
「毛布のお礼ですから」 そう言って淑女は両腕に抱いていた毛布を店主の前に差し出します。
「あれから体調はどうだい」 焼きプリンの入った紙袋を床に置いて毛布を受け取ったあと店主は、開いたままの玄関戸から後ずさりを始めようとする淑女に対して、なるべく神妙な口調を意識しながら前日の件を話題に挙げます。 「まぁ、見るかぎりでは心配なさそうだが」
 淑女は自身の体調の良さを強調するように手振りを交えて話し始めます。 店長はその淑女の健康に一切の根拠がないことを、まず初めに淑女の言った “これまで、あんなこと無かったんですが” という一言を聞いて思います。 そして、いささか気詰まりを覚えながら彼は視線を淑女の喉のあたりに落として言います、「これまでに一度も意識を失うことがなかったのは、これまでにかぎって君の体にそういう異変が起きる心配が無かったからだが、ああして良からぬ症状が実際に出てしまった以上、もう、これからのことを考えていかないと」
「近いうち、病院に行ってきます」  「まずは脳と心臓を検査してもらいなさい」
 老人店主は床に置いてある紙袋の取っ手を掴んでそれを腹の前にまで持ち上げ、袋の底に他方の手を添えてから感謝を口に出して言います。 そしてそのあと彼の一礼に合わせて淑女がそれとなく玄関の軒下に出ようとしたとき、ちょうど宇宙海賊船の船員が 白髭の長 に対して緊急事態を報告するときのような音調の付いた――店長――その一言につづいて――ちょっと待っていて――という、少しだけ温情の混じったような声が屋内にまでみじかく響きます。 その声を聞いて淑女は、玄関の引き戸に手を掛けたまま身動きをとめて、ひとりの男が宅内に駆け込んでくるのを静かな顔で待ちます。 老人店主は口元につくり笑いを浮かべてから身をひるがえし、わずか二、三歩ぶんも進み出たところで足を止めます。 するとその店主の見据えている廊下の突き当りに、彼の息子が足音を床に立てて現われます。
「どうした」 老人店主がたしなめるような口調で言います。
「“白色の墨汁”」
「ある、売り場に並べていないだけだ」 断乎とした口調でそう言ったあと、店主は毛布を小脇に抱え込んだまま廊下を歩き出します 「習字の授業で教師が使うんだ――覚えておいて損はないぞ」
 それから老人店主は少しばかり歩調をゆるめて数歩を重ね、ややあって後ろを振りかえります。
「今夜、うちに夕飯を食いに来んか」
 淑女は、その言葉の意味をたぐり寄せるように店主の顔をじっと見ます。
「おゆうはんですか?」
「こいつが何か旨いものを作ってくれるだろう」 老人店主は顎で息子を指したあとにまた歩き出し、ほどなく通路の突き当りの壁に沿って左に折れます。

「お料理なさるんですか?」
 そう言って淑女は男の顔をとっくりと眺めます。 家の奥からは店主の接客の声が聞こえてきます。
「まぁ、ええ」 と、男が二度つづけて頷きます。
「あの、お邪魔してもよろしいんでしょうか」
 男は淑女の顔のあたりに視線を巡らせながら、また何度か小さく頷くような仕草を続けます。 そうしている間じゅう彼は、実家の台所の戸棚に置いてある目ぼしい調理器具をひととおり頭の中に滑らせていきます。
「はい、なんとかなりそうです」 そして男は言います。




『淑女と店主とプリンと男』