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裏庭のバジル 6 



 淑女は食卓椅子に深く座り込み、流し台に立つ老人店主の後ろ姿に視線を投げます。 そして、食後のひとときの沈黙に浸るようにゆっくりと室内を眺め渡すと、そのあと自分の手元を見下ろします。 ホワイトオーク材で作られた天板を、その板面に投げ出した両手の爪先でかるく何度か小突くと、まるでなにか板の内部にまで沈み込んで発しているふうな、柔らかくも硬くもある音々が鳴ります。 その音を聞いて淑女は重々しく目をつぶります。 料理皿の上に保存用のラップが切られる音が鳴ったあと、そのラップの長箱が調理場の定位置に収まる音がします。 冷蔵室の扉が開閉し、直後に製氷室の小さい扉が開きます。 アイス・スコップが数個の氷をすくい上げます。 淑女は両肘を食卓に突いて、左右の手のひらに顔を伏せ、それから弱々しい吐息をつきます。 水道水がグラスの底を打ちます。 数個の氷が亀裂の音を立てます。
 どうせなら俺の淹れる茶を飲んだあとにしてくれ、老人店主はガス台に置いてあるステンレスのやかんに視線を戻してそう言います。 淑女は鼻をすすり上げ、ちょうど目の前に垂れ下げられた一枚のキッチンペーパーに気付いて息吹くように笑い、ついでそのキッチンペーパーを指で引き下ろしてそれを自分の目元に押し当てます。 老人店主の息子は、ロール状のキッチンペーパーを定位置に戻したあと、食卓から掴み上げたグラスの縁を口元に引き寄せます。



「ああ、おれが刈ったよ」 と、老人店主は興味深げに息子の顔を眺めます。
 食卓の一辺に店主の息子が両肘を突いています。 背を丸めて椅子に座り、天板に置いてある茶飲みを両手で囲い込むように持っています。 一方の店主は、息子の意図するところを無言に推しはかる中、その次の発言を待ちます。
「あんなに低く刈ってしまうと、隣の庭が丸見えじゃないか」と、かすかに頭を振って男は言います。 「となりの家を覗き見する趣味がお父さんにあるとは、もちろん思っちゃいないけど、いったい、何のための生垣だっていうんだ。 人目を遮断するためじゃないか」
 老人店主は息子の口調に思いのほか稚拙さをつよく見出し、眉を開いて苦笑を漏らしながら淑女の顔を見やります。 「おれがそんなことをすると思うか?」
 淑女は目を丸くして首をよこに何度か振ります 「木なんて、そのうち自然に伸びていきます」
 まぁ、しばらくすれば伸びてくるよ。 そう言って老人店主は卓上に落としていた視線を息子の顔に移します 「あれは、ああするしかない」
 淑女は重みの無い静けさを室内に感じ取り、息をつめて老人店主の顔を見ます。
「だから、前々から何度も同じことを言っているじゃないか――キンメツゲかシラカシあたりで、手軽に良い生垣がつくれるんだから」 そう言って男は両手を茶飲みから放します。 そしてその両手のひらを食卓の天板にびたりと着けて、つい今しがた自分の手元に落としたその視線を店主の顔から淑女の顔へと素早く移していきます。 「虫が付いたからって、それはべつに大したことじゃないよ」
「あの」 淑女が手を低く掲げて言います 「虫って、あの、害虫のことですか」
「あの木には、虫が付かん」 と店主は淑女に一視を投げて言います。 「たいていの木には虫が付くだろう?――害虫から、そうでない虫まで。 だが、我々の家の敷地を囲んでいる生垣には、虫が付かん」
 淑女は、六本の脚や体節など、昆虫の主たる特徴のいくつかをほぼ同時に思い浮かべますが、しかしどういうわけか、昆虫が木の表面に引っ付いている光景をすぐには思い浮かべられません。 一本の木の、いったい何処に虫が付くのかと淑女は首をひねります。
 つぎに店主は、彼らの家を囲んでいる生垣の木に、もうひとつそれ特有の性質が備わっていることを話題にあげて説明を始めます。 ――数年をかけて生垣の枝がそろって ある程度の高さにまで伸びたあと、春先になって無数の小さな実が枝々に付き始める。 その年の秋の終わりにもなると、成熟した実の表面が硬くなりはじめ、それからまたしばらくすれば、足で踏んでも割れないほどにまでその硬度が増していく。 さらにそのあと季節が冬をむかえて木が休眠期に入ると、すべての実が昼夜をかけての落下を始める。
「とにかく実のサイズが小さい。 だから靴で踏んでも割れない」 そう言うと老人店主は左右の手のひらを食卓に着けて、天板を前後にかるく撫でるような手振りをして見せます。 「だが、ここに実を置いてそれを金づちで叩けば、たぶんヒビぐらいは簡単に入るだろう」
「ヒビ、が入ると、なんですか」 淑女は押し殺した声を切れ切れに漏らします。
 わずかなあいだ台所に沈黙が落ちます。 老人店主はくだらない妄念を打ち消そうとでもいうふうに、かすかに首を振ります。  「『妄覚症』といって、その場には無いはずのものを人に見せるらしい――しかしだからこそ、枝を切るんだ。いつも適当なときに枝を切っておけば、特に何も問題は起きない」 そう言ったあと彼は視線を淑女から息子の顔へ移します――そうだろう? ――そしてまた矢継早に言い加えます 「とはいえ、その話が事実であるという確証も無い」
「いや、その幻覚がどうだとかいう話は、もしかしたら単なるデマかもしれない。 だが、虫が付かないという話は本当だ」 と、そこで老人店主は言葉を切ると、それから一方の手で茶飲みを持ち上げ、しばしの沈黙に次いでそのまま茶飲みを卓上に戻します。
「以前、“ニーム” という名前の木が海外で広く話題になった。 200種類以上の虫を寄せ付けないという売り文句を引っ提げて、もちろんこの国の日常生活にも多少の関わりを見せた。 ――たとえば家庭菜園やガーデニング、それらの場において害虫の忌避効果が期待されていたんだが、まぁ、それは誰だってそうだろう――自分の育てた植物に害虫の被害を見れば、その被害を減じようと何かしらの対策を取ろうと考えるものだ」
 老人店主の息子は、椅子の背もたれに寄り掛かると、両手を上げて大きく伸びをして、それから眠気の交じった声で言います。 「たしかに、ニームという木は実在します。 ですが、害虫の忌避効果を目的としてその木を民家の生垣に利用する人は、おそらく誰もいないはずです。 その木の性質上、寒暖の差が大きい土地では育てることが出来ないからです。 ――と、そんなわけですので、この家のまわりに植わっている木がニームであるはずがないんです、どうしたって冬の寒さには耐えられませんからね。 ――そうだ。 もしよろしければ、ニームの木の外観をインターネットなどで調べてみてください。 そうすれば、庭の木とニームの木の違いをはっきりと分かっていただけます」
 老人店主は座面から尻を浮かして椅子を後ろに引きます。 そして上体を前に屈めて食卓椅子から立ち上がり、彼の視線の先にある天井灯の豆電球の交換を思い出します。 「――これまで俺が自宅のパソコンを使って調べてきた限りでは、すべての虫という虫を寄せ付けない生垣をつくるのは、どうやらまず不可能に近いらしい。 なぜなら、そんな特異な性質をもつ木が何処にも無いとされているからだ」 と老人店主は言います。 それから彼は、湯を沸かすためにガス台へ向かいながら、すこし明るみの強めた声を自身の背後に向けます。 「このあと二、三年のあいだは、きみの暮らしには何の影響も出ない。 そして、その二、三年の経過に合わせて、また先日と同じように伸びた枝をすべて刈り込む、そうすれば何も問題はない」
 老人店主の息子は、淑女の顔つきにさしたる変化の無いことを見て取って、しずしずと茶飲みを手に取ります。
「なんというか、その、よくわからない木を、ああして今もまだ庭に残していらっしゃるからには、きっと何か、そうしなければいけない理由が、あるんですよね」 と淑女が言います。
 室内に張り付いたその沈黙の中、やかんの底に立ち始めた沸騰の音を聞いて、店主は換気扇の付け忘れに気付きます。 油分で薄汚れた紐がガス台の向かいの窓に垂れ下がっていて、店主がその紐を引くと、換気扇のシャッターが音を立てて開きます。
「あ」   「いえ」  「大丈夫です」 「わたし」
「もうひとつお訊ねしたいんです」 そう言って淑女は、いざ仕切り直しとばかりに尻を浮かせてあらためて座面に着きます。 そして、眠気にくすんだ意識を二人の男らに注ぎます。 「あの庭の木をお植えになったのは、お二人のお知り合いの方ですか」
 しばらくの沈黙のあと淑女は、これまでになく落ち着きのある明瞭な声で続けます。 「いいえ――その――木の種類や性質については、わたし、ほとんど気になりません。 それに、だって、ほら――なにも心配ないですよね。 人に幻覚を見せるっていう、あの先程の話が本当なのかどうかは、ご主人もご存じでいらっしゃらないということでしたので」
 淑女はそう言ってから自身の家に思いを募らせます。
 かねてより念願だった一戸建てに住まいを移してから、まだ十日あまりしか経っていませんが、その自宅の特定の場所には深い愛着を覚えるまでになりました。 二十万円ちかくの費用を掛けて設置したその煉瓦造りの門柱にはアンティーク風のランタンを模した門灯が取り付けてあって、淑女が仕事から帰宅した夜には、自動点灯式の仄かな灯りがいつも玄関先に揺れています。 また、ここ最近になってやっと自分好みに配置を終えたばかりのベッドや照明などを寝室に眺めているうちに、うっとりとした顔つきになって寝室の戸枠に幸福の手触りを確かめに掛かるのが就寝前の常となっています。
 そのように自宅に寝室を持つことが淑女の数年来の夢でした。
「――ここにきて、どうにも切り出しにくい話ではあるが、こればかりは、なるべく早いうちに君に伝えておくべきだろうから」
 さらに老人店主は言います。 「その旧姓をセガワといって――いま君が住んでいる、あの家の施主の、かつて夫人だった女性なんだが」
 老人店主の息子は、淑女の手元にある茶飲みを斜めに見下ろし、それから視線を浮かせて、淑女の目元に何がしかの感情のわずかな変化を認めます。
「だいじょうぶ。 何の害もない、いたって普通の隣人だったよ」
 老人店主は “普通” の一言にわずかな語気の違いを込めて言ったあと、さらに口を衝いて出ようとするその同じ一言を、すんでのところで喉の奥に押し止めます。




『淑女と店主と息子とニーム』