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裏庭のバジル 9 



 夫のほうのセガワが歩み寄ったその場所には、所々に塗装の剥げ落ちた古めかしい西洋の小棚が置いてあった。 セガワは小棚の上に置いてあるコピー機の排出トレイから数枚の紙を取り上げると、その紙の四隅を両手で揃えながら食卓に戻ってきた。 わたしは手元に差し出されたそれらの紙を天板に見下ろしたのだが、それが何の変哲もない一本の成木であるようにしか見えなかった。 コピー用紙に印刷されてある画像には、周囲の方々に枝を伸ばした一本の緑樹が撮影されていて、夫のほうのセガワの説明するところによれば、樹齢は (その正確な年数にはもう心覚えが無いのだが) 二十年かそれぐらい。 わたしは夫のほうのセガワを見やって、害虫の忌避効果に関する話の真偽を訊ねた。 するとセガワは “害虫ではなく、どんな一匹の虫ですらも” といったふうに、わたしの先の発言に対する訂正をするに始め、彼自身の職業と、その仕事の一貫としての海外任務の経験をおおまかに話し終えると、そのあと彼はイェフスの木が過去に国内輸入された可能性にいちど触れてからそれを否定する自論を述べた。 そして彼自身の手元にあったカップを口元に寄せて、その何がしかの液体を喉に流し込んだあとに一時の沈黙を置いた。 わたしにはその沈黙そのものが事の重点であるようにさえ思えてくるのだが、それから間もなくセガワは、イェフスの木が日本の輸入検査を通る可能性の極めて低い植物であることを説明し、そしてさらにまた、輸出前の措置が取られた時点で法的な規制が掛けられてしまうのだと言い加えた。 わたしは彼の話の内容が途端に きな臭さ を帯びていくのを感じ取って、おなじ室内に息子がいたにもかかわらず (いやもしかしたら息子と妻のほうのセガワは別室にいたかもしれない) イェフスの木を国内に輸入することの犯罪性をそれとなく指摘したあと、その是非やら何やらをセガワに問い掛けたのだが、それに対して彼は変わらず乾いた表情を浮かべながら、その種の行為のいくつかが黙認され得るとか何とか、ことさらその点を強調しようとしてか、わたしには聞き覚えのない海外犯罪の未解決な事例をいくつか挙げて話したかと思うと、するりと話題を逸らすようにして、あの妄幻症の話を始めたのだった。



妻 「お気づきになりませんでしたか?」
妻 「お宅の間取りと、この家の間取り」


 両家の外観の対称性にわたしが気付いていなかったのは、わたしの注意がほぼいつも家屋の面構えに向いていたからだった。 その外観の特徴であるものとして家屋前面の中央のあたりに玄関が位置し、おまけにその玄関口からおよそ垂直の方向に棟の頭頂部があったため、それこそ住宅パンフレットに掲載されているとおりの成りで両家が横並びしているものと思い込んでいたのだ。 それらの外観は実際のところ同一の関係にはなく、妻のほうのセガワの告白にあったとおり左右対称の関係を成していたわけだが、まさか隣人がそのような奇異な発想を持ってそれを実現化するとは私は思いもしなかった。 そして、またもうひとつ予想だにしない話をそのとき聞かされることになるのだが、わたしの息子は以前よりその対称性に薄々気付いていたらしく、当の本人から聞くところによれば、好奇心の赴くままに各家の敷地を歩き回っているうちに、両家のトイレの小窓が向かい合わせの位置にあったことを発見していたのだそうだ。 では、その対称性に気付いていながら、なぜ息子は両家を見比べてそれらの家屋前面の外観に “目立ったズレの生じていないことを” 見て取ることが出来たのだろうか。 あのセガワの告白にもあったように、両家の外観は同一ではなく左右対称を成していた。 おなじ外観や屋内構造をもつ二戸の家屋がそこに横並びしていたわけではない。 両家の屋内に施工されていたすべての個室の配置が対称的であったように、それらの家屋前面の造りもまた同じく対称的だったのだ。 にもかかわらず、わたしの息子はあたかも住宅パンフレットに掲載されているとおりの住宅が二戸ぶん彼の視界の左右に建ち並んでいるかのように言い表して、さらに彼は大工工事業者などの堅実な仕事内容を家の外壁に眺め入って感心の一声を上げた。 ということは、それはつまり彼が両家の外観の 非対称性 を目先のどこかに見ていたということではないのか? その、がらんどうな両家の対称性を見比べながら、セガワ夫妻やわたしには感じ取ることのできない非対称性を確かに見取っていたのではないか。

 そんな息子がセガワ家において宿泊を繰り返すようになるのは、セガワ夫妻の入居から一カ月も経たない頃のことだった。
 登校の際にこそ息子の通学かばんが自宅の彼の部屋から持ち出され、また帰宅の折にこそ彼のかばんは勉強机の上に投げ出されてはいたが、妻のほうのセガワが陶芸工房から帰宅する夕暮れ時になると、その通学かばんを肩に提げて息子は自宅から駆け出して行って、小学校から持ち帰った宿題の指導を妻のセガワに願い出るのだった。 ところが、彼の苦手とする算数や理科の科目をおなじくセガワもまた苦手としていたため、 そこで彼は、自分にとって難易度の低い教科の宿題をセガワ家に持ち込むことを思い立つのだが、しかしどうやら、わざわざ頭の悪い小芝居を打ってまでしてセガワの気を引き付けておくには、いささか息子の辛抱が足りなかったようだ。 そのわけあって結局のところ、彼は本来の意図から逸れたところにある 陶芸体験 をつうじて、自分の居場所をセガワの身辺に得ることになった。 わたしはその詳しいところをセガワから聞かされてはいないが、やはり隣家において息子の眼差しは妻のほうのセガワに多く向けられていたらしい。 それに対する彼女のほうといえば、わたしの息子から寄せられる情意には気付いていたようで、(だからといって、彼女にいったい何の思うところがあったのか当時の私には分からなかったが)―― “ひとりの少年” の成長過程にある倒錯について私に話したことがあった。 そのときセガワがあまりにも淡々と話を続けたものだから、わたしにはかえってその話の内容に妙な可笑しさが感じられたほどではあったが、とにかく彼女はそのようにまず “ひとりの少年” と言い表してそこにわたしの息子を内包させておいてから、その彼がいつまでセガワに対して近親間の縁をだけ純粋に理想し続けるかは分からない、といったふうに語るのだった。 ――ひとりの少年の見境を失わせるには、寛容かつ不純な異性がひとりいればそれで十分である――そしてセガワは唐突にそんなふうに言い足してから視線をななめに落とすのだが、しかし彼女は確かにそのとおり寛容な人物でこそあっても、ひとりの少年の倒錯を引き起こすための器用な立ち回りが出来るような女ではなかった。 おそらくあのときセガワは、テレビの情報番組か女性雑誌などから得ていた世俗的な知識を突発的に言い沿えたのだろう。
 もちろん、その実際のところを私は知らない。 わたしに対するそれは彼女なりの心遣いだったかもしれないし、もしくは考えようによっては、あのとき彼女が二言目をうまく見つけられなかったという、ただそれだけのことなのかもしれない。




『妻のセガワと両家の間取り』




明けました。
文章力の向上を目標に置いて、今年もブログ記事を書き続けるつもりです。
どうぞ今年もよろしくお願いします。

kono