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裏庭のバジル 12 



 匂いは無いですが色はあります。 音には微かな曇りも無く、目の前の手触りには何の異常もありません。 そしてそこには仄かな温度があります。 淑女はそれが自分の体の一部であることの確信を持って、その白く肉感に乏しい手を太陽から逸らせます。 澄んだ日差しが彼女の顔を照らします。 まばゆさに思わず目を閉じます。 静かに顔を下げて、まぶたの裏に浮かんだ輪状の残像に意識を添わせます。
 そこが自宅の裏庭であるという根拠はありません。 ですが淑女には見覚えがありました。 庭の形状や生垣の外見に、あの飾り気ない自宅の庭の一面を重ねて見ることが出来ました。 いつか自分で設置したはずの物干し台と二個のプランターが庭内のどこにも見当りませんが、しかしそれはそれとして、自宅の庭の外観をそうすぐに忘れられるものではありません。 匂いは無いですが、色はあります。 形はすべて種別の輪郭と影を持ち、それらは彼女の視界の遠近のどこかにしっかりと接しています。 淑女は庭の隅を見やります。 いつからと知れず、厳然としてその形を成している一台のブランコもまた、数本の太いアンカーピンを足に打たれて芝地に接しています。 二等辺三角形のかたちに溶接された太い鉄製のパイプが二個ぶん対座し、庭の一角に高さ二メートルあまりのブランコ台を成しています。 その台のふたつの頂点には一本の鉄製のパイプが渡してあります。 二本のロープがそのパイプの中程に括り付けて垂らしてあり、それらのロープの下端には天然木の踏板が一枚、おなじく特殊な結び方で固定されています。
 淑女は視野の回復した目をしばたき、それから視線をななめに滑らせます。 ブランコの鉄枠の影が芝生の上に落ちています。 その影と交差するようにして、踏板の影が一定の速さを保ちながら地面に弧を描いています。 そして――いつからそれと同じ状況が続いているとも知れません――ひとりの男児がブランコの踏板に立って、いっそう勢い付けた板を前後に大きく揺らしています。 淑女はその男児の姿に目を凝らします。 近隣の小学校に通う児童であることの憶測をしながら、風になびいた男児の髪の向こうにその幼い横顔をひとしきり眺めます。 そのうち男児の小柄な体が中空に高く浮き上がっていきます。 目に見えてブランコの踏板の動きに乱れが出始めます。 淑女は事の行く末を案じながら、慣れた足付きで縁側の踏石に片方の裸足を下します。 しかし彼女がブランコを止めに掛かるには、もう時機が遅すぎました。 目先の差し迫った状況から予想される一連の場面が、その直後、彼女の視線の先にほぼ忠実に再現されます。
 ブランコの踏板の表面を男児の靴がまっすぐに滑り出し、彼の両手の指先がロープから離れます。 指に弾かれたロープが無造作に揺れ、踏板が芝生の上で小躍りをします。 淑女は唖然として男児のからだを目で追います。 男児は一声も上げません。 なにか脱力でもしたような、あるいは何かの重みでたわんだような彼の全身がそのまま庭の生垣の上へ放り上げられ、そのあと隣家の草地に鈍い音を立てて落下します。
 淑女は目を閉じます。 眉間に深い皴を寄せて、喉を震わすようにして口から息を吐き出します。 男児の体が地面に落ちた瞬間、彼女はその音に対して生物の死の具体性を一瞬だけ感じ取りました。 それは男児の意識の輪郭が失われる音でした。 彼の体の血流が一息に止まる、ぬるい音でした。
 何をすべきと考える間も無く、淑女は目を開けて他方の裸足を縁側の踏み石に下ろします。 視界の隅には見覚えのない大きさにまで成長を遂げた木々が横並びしています。 多数の枝々が網目状に絡み合っていて、その隙間に鮮やかな日光が射し込みます。 淑女はおずおずと視線を斜めに上げようとしますが、ふと自分の足元の異変に気付いて思わず声を上げます。 そこには水が張ってありました。 いつからと知れず、彼女の体を載せた一個の踏み石が水面に接しています。 ちょうど今の今まで庭の草地だったはずが、いま彼女の眼下には澄み渡った水が底なしの淡い群青色を成しています。 そして、そこにきて淑女の上体は前へ傾いでいく途中にあり、もう今さら後戻りは出来ません。 淑女は自分の足裏がどこにも接地しようのないことを眼下の水面に見て取ると、いましがた前に突き出したばかりの片脚をとっさに曲げて、そのあと他方の脚をばねにして跳び上がります。 右手の親指と人差し指で鼻をつまみ、それらの指先に左手の指を重ねます。 閉じた左右のまぶたに力を込めて、唇をしっかりと一文字に結びます。
 それからわずか二秒あまり経って、淑女の足裏には冷やかな感触がありました。 眉間に寄っていた皴がわずかに薄まり、ぎこちない動きで顔がいくらか上向きます。 淑女は意思の有無を自覚することなく、ちょうど綱渡りでもするように腰を落として、左右の足を交互に前に踏み出していきます。 うっすらと両目を開き、静かに息を吸い込みます。 ふたつの波紋がその互いの輪郭を淑女の足元で崩し合いながら周囲の水面を小刻みに揺らしていきます。 「水」 と淑女は呟きます。
 水に沈み込む恐怖を、淑女は感じませんでした。 それをわずかに感じたとき、隣家の庭に水の音が立つのを聞きました。 水面のかたちが変わる音です。 男児のからだが水没する音です。 淑女にはそのことがはっきりと分かりました。 男児のからだが水面を歪め、たったいま開いたばかりの彼の眼前に口泡が立ちのぼります。 髪が無造作に揺れます。 何かを話そうとして彼は唇を動かしますが、口内に満ちた水に言葉は遮られます。 まばたきをして視線を上げると、数個の細かい泡がまぶたの裏から出てきます。
 それ以降、音はしません。 生垣の木は適度な高さに刈り込まれてあります。 淑女の足元には依然として水が溜め込まれていて、男児のからだが水中を沈んでいく様子が彼女の目に鮮烈に浮かびます。 淑女は茫然と生垣を見やり、たどたどしい足取りで水面を歩いていきます。 列を成している生垣の株元からは無数の根が長々と垂れ広がっています。 その根の先端が水の中に揺らいでいて、根の周辺には砂煙のような灰色のものが不定形に漂っています。 そしてそれは次第に灰色の幕となって水中の奥深くへ尽きることなく下りていきます。
 淑女は生垣の上面の高さに気付いて足を止めます。 隣家の様子を確かめるには、いちど自宅の玄関先の門柱を抜けてから隣家の敷地に立ち入らないといけません。 彼女は踵をかえして歩を運びながら、すでに男児の体が水の奥深くにあれば良い、と思います。
 ほのかな甘い匂いが鼻元に充満しています。 その匂いがどこから漂ってくるのか、淑女にはまるで見当の付けようがありません。 裏庭の周囲に植わっている生垣の木々が匂いの原因であるかにも思えてきます。 それを町全体の匂いと考えるには、いささか鼻に突くような気もします。 その匂いの生じた時機が男児の水没にあったか、もしくは自分自身のほうの何かにあったかもしれない。 そう思った直後、背後に水音を聞き取ります。
 甘い匂いはすでに失せていました。 淑女はただ緊張のために後ろを振り向く時機を捉えあぐねていました。 ――こんにちは――つい今しがた背後に聞いた言葉を、ただそっくりそのまま事務的に繰り返し、うしろを振り返ります。 彼女の足先が水面に二本の曲線を描き出します。
 それはたしかに淑女の見覚えある顔でした。 ひとりの男児が水面に頭を浮かべて立ち泳ぎをしながら、人差し指を水中の下方に何度か指し示して 「気持ちいいよ」 と笑います。
「わたしは、これより下には行けないみたい」 と淑女は言います。 彼女の足裏には硬い感触が伝わってきます。 男児は眉を下げて、遠くを見るような淡い表情を浮かべます。
「昨日も、ここにいたでしょう」 そう言って淑女は視線を逸らし、そのあと家屋の縁側に向かって爪先立ちで歩き出します。 彼女の足元に水跡が尾を引いていきます。
「それって、誰のこと」
 男児はそう言ってから頬に空気を溜め込みます。 両方の手のひらで眼前の水を左右に押しひらき、それから頭を水に突っ込みます。 水中で軽やかに身をねじって、ある程度の深さまで潜り進め、生垣の根の先端を両手でかき分けて隣家の庭のほうに移動します。
 淑女は両方の足を踏石に載せて後ろを振りむき、ほっと一息をつきながら生垣の向こうに視線を投げます。 彼女の裸足を縁取るようにして、踏石の表面がその色濃さを深めていきます。




『淑女と水庭』