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裏庭のバジル 13 



 老人店主は壁に掛けてある丸型の時計から視線を逸らして、その時計の下方にある二枚の引き戸のあいだに十センチ足らずの隙間を見て取ります。 ちょうどそのとき、小学生の男子グループが何かしらの話題について語らい合いながら店先を歩いて通り過ぎます。 そしてその際、彼らの声々に気を引かれて店の外を振り向いたのが、女子中学生・イチイ(14歳)――「まぁ、なかなか良い感じだと思う」――そう言って彼女は店内の商品棚に視線を這わせて老人店主を振り返って、手に持っていた菓子の外袋を胸の前に掲げて見せます。 「これ、食べてみても良い?」
「もちろん」 そう言って老人店主はレジスターの置いてある四角いケヤキの卓袱台に両手を着いて、ゆっくりとした動きで座敷に立ち上がります。 身近の壁際に歩み寄り、その壁に取り付けてある調節ダイヤルをひねって店内照明の光量をすこしだけ強めます。 イチイは言葉みじかに感謝を述べておいて、店の出入り口に向かって歩を運び、強化ガラスの張ってある二枚の引き戸の隙間を閉じたあとに店の奥を振り返ります。 そしてそれから彼女は菓子袋の一辺に並んだ鋸状の切れ込みを指先でなぞって 「パッケージがすこし分厚いわね。 うっかり指を切っちゃいそうよ」
 老人店主は座敷の端にもういちど腰を下ろし、眼下の床に置いてある屋外用のスリッパに足を入れて、イチイの姿を正面に眺めます。
「そんな菓子、世間の親には見せられんな」
「そうかしら」 イチイはそっけなく言って、商品の陳列棚の前を歩き始めます。
「色彩文化の違いを知るきっかけぐらいにはなるかもしれんよ」 と店主。
「言ったでしょ、これはあくまで客寄せのためなの」 そう言うとイチイは菓子の袋を縦に引き裂いて、その開け口に鼻先を寄せて眉をひそめます。 「なんていうか――嫌味のある、爽やかな匂いね」
「色も香りも、それに味も良い」と店主は皮肉を漂わせながら言います。
「いいえ、味はいまいちだわ」 つい今しがた口に含んだその四角いグミ菓子を舌先で転がして、イチイはさらに 「お子さまのお菓子は色物なのよ、イロモノ」
「そういえば、どこかの国には緑色や青色のポップコーンがあるっていう話だ」
「食べる?」 と、封の開いた菓子袋を差し出してイチイは言います。
 老人店主は黙って首を横に振ります。 そして傍らに置いてあった小型の段ボール箱を自身の膝の上に載せて、中から数種の菓子をまとめて両手で掴み上げます 「いちおう、これも頼むよ」
「ええ、そのつもりよ」 そう言うとイチイは唇の端を曲げて笑い、後ろを振り向いて視線を売り場に移します。 「できれば、あの、真ん中のあたりが良いわ、小窓みたいな感じのスペースを空けておいて、その場所にだけ外国のお菓子ばかりを並べるの」
「その窓を開けて、君たちは外国に行くわけだな」 老人店主は段ボール箱から取り出した菓子の小袋の裏面に目を凝らします。 その外装に印刷されたイラストや、またその他の表示内容がすべて菓子の品質の粗悪さを示しているように思えてきます。 一方のイチイはグミ菓子をもうひとつ指で摘まみ上げてそれを口の中に入れて、「わたしにはもう、小さすぎるでしょうね」
「そうかな」 菓子袋の裏面に見入る中、老人店主はイチイの視線に気付いて 「わかったよ」 と言い換えると、ついで何の気なく別種の菓子を段ボール箱から取り出して、その色鮮やかな外袋を元あった位置に静かに戻します。
「ところで、弟は元気にしているかい」
「ちょっと失礼」 イチイは店主と並んで座敷に腰を下ろし、いくらか上体を斜めに傾けます。 さっき開封したグミ菓子の袋を店主の膝の上の段ボール箱に入れて、その代わりにチョコレート類の商品を箱から取り出し、それから彼女はひときわ強く変色した自分の舌先を眼下に確かめて薄笑いを浮かべます。 「元気には違いないけど、まあ、相変わらずよ」
「この店に彼を連れて来てもらっても構わんよ」 と老人店主。
 イチイはチョコレート菓子の外装を開けて、中から円状のチョコレート・ビスケットを二本の指で摘まみ上げます。 「ありがとう」 そしてそう言って菓子を口に入れたあと、小気味いい音をみじかく立てて甘味を舌に広げます。 「わたし、ほら、あの、弟の顔をひっぱたいたときに、もしかしたら事の一段落が着いたんじゃないかって、そう思うの」
 店主は、たったいま目の前に差し出された小袋の中から一枚のチョコレート・ビスケットを取り出して、その菓子の裏表に検品のまなざしを注ぎます。
「人の気持ちが変わっていくのは当然のことよね、そうやって上手く生きていけるようになっているんだから。 もちろん、気持ちが変わって良くないことが起きたりもするけど、でも、良いことだってあるよね」
 店主の口の中からビスケットを噛み砕く音が漏れ出してきます。
「あの子、今だってこの店の前を歩いて学校に通っているのよ。 だけど、これまでのところ、まだ何もトラブルを起こしていない。 それって、なかなか凄いことだと思うの」
「たしかに、この店の前を彼が通り過ぎていくのを見掛けることはある」 そう言うと店主はスリッパを脱いで座敷に立ち上がり、両腕をひろげて体を伸ばしたあと、鼻から息を抜いて視線を畳に落とします。 「ちょっと、茶を汲んで来ようと思うんだが、きみも飲むか」
「どう思う?」 と、イチイは老人店主を見上げて言います。
「よくできた姉だと思うよ」
 店主の顔を無言に眺めて、イチイは様子をうかがいます。
「客が来たら呼んでくれ、台所にいるから」 そう言って老人店主は歩き出します。 「隣りに新しい住人が引っ越してきたことを、きみの弟はもうすでに知っているんだ。 そして君の言うとおり、これまでに何ひとつトラブルは起きていない」 ――座敷を歩いてイチイの元を離れていくにつれ、店主の語気がいくらか強まっていきます。 「たまにこの店で一息を入れるのも、彼にとって悪い話じゃないとは思うんだがね」
 しばらくして店の奥から緑茶の匂いが薄っすらと流れてきます。 イチイは座敷に仰向けになって天井を眺めています。 足元の床に並べて置いてあるスニーカーの履き口にそれぞれ彼女の左右の足先だけが差し込んであります。 イチイは仰向けの姿勢のまま、身近に置いてあるダンボール箱の中を手探りして、外国産の菓子をひとつ取り出し、「外国いきたい」 と間延びした口調で言います。 それから彼女は菓子袋の表面にプリントされた英字の商品名を、その発音を変えて自信なげに何度か読み上げたあと、片方の足に引っ掛けたスニーカーを手持ち無沙汰に床の上で揺らしながら、「そとのくに」 と、うわごとを口に漏らして目を閉じます。




『老人店主とイチイ(14歳)』