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裏庭のバジル 14 



 妻のほうのセガワが住居を他に移して以来、築年数にして十五年の年月を経て、ようやくセガワ家が売りに出されることになりました。 それが今からおよそ二年と半月前のことです。 その家屋に住んでいたセガワ夫妻の三年余りの居住年数と、屋内の良好な使用状態、そしてそれが裏庭付きの物件であることなどが好条件とされ、とある中年夫妻の入居が決まるまでにそう大して時間は掛かりませんでした。 その中年夫妻には同町の小学校に通う五年生の娘Sがいて、Sは老人店主の駄菓子屋に何度となく顔を見せました。 またその一方で、イチイ家の住まいも町内のおなじ区域にあり、姉のほうのイチイは同町の中学校に通う一年生で、弟のほうは小学三年生でした。 すでに姉のイチイにとって縁遠くはありましたが、弟のほうのイチイは生活の一貫として放課後に駄菓子屋を利用することが日常的に多々ありました。 老人店主はその男子学生の姓を知りませんでしたが、学生らと毎日のように顔を突き合わせながらも、ひと目で難なく判別できる程度にはその彼の顔に見覚えがありました。
 イチイ一家と、セガワ夫妻の建てた家に入居した一家には、もともと直接的な関係は何もありませんでした。 のちに両家の子供同士の些細な言い争いが根本的な原因となって、後者・一家の妻が神経症に悩まされることになったところ、その彼女への対応を考えようと、すくなくとも彼女の夫とイチイ夫妻とのあいだには良心に満ちた関係がうまく築かれていきました。 その後、おなじく後者一家の妻が裁判所に民事調停を申し立てたことが決定的なきっかけとなり―― (ただし、その申し立ての一件をイチイ夫妻は知らされていません) ――彼女の精神疾患を理由として最後は同家夫妻の転居に至りますが、それは他の誰よりもイチイ夫妻のふたりにとって切実に感じられる結末でした。 というのは、見ず知らずの同町民であるに過ぎなかったその両家の交流の発端と、そして後者・一家の妻の精神疾患を引き起こしたその原因というのが、イチイ夫妻の息子の発言にあったからです。

 老人店主がその二人の姉弟関係を知るのは、当のイチイ姉弟が駄菓子屋で待ち合わせをしていたときのことです。 ――それは冷たい初冬の風が吹く、午後三時頃のこと――。 店主の見慣れない制服を身に着けた女学生が店の引き戸を後ろ手に閉めて、室内の木床を眺め渡しながら目を爛々と輝かせます。 彼女は溜息まじりの関心したような一声を吐いて、かつてその床にセメントが張ってあったことの記憶を言葉みじかに口に出して言います。 焼き芋の販売ケースが店内の一角に置いてあるのを見知って彼女は頬をゆるめ、嬉々としてその購入を老人店主に申し出て、それから自身の弟の来店を待つ間じゅう、店主の厚意にあずかり、売り場に用意された丸椅子に座って芋を頬張ります。 そしてそのうち、ひとりの男子小学生が店のガラス戸の向こうにあらわれます。 彼が視線をずらして店内に姉の姿を見つけ出すなり、姉のイチイは親しそうに笑い掛けて何度か手招きをします――。 その数日後、イチイはまたおなじ学生服の姿で店を訪れます。 出際の見知らぬ小学生から奇異の視線を受けて、彼女は 「こんにちは」 と、その学生に進路をゆずり、そしてもういちど今度は出入り口の戸枠を抜けてから、店の奥にいる店主に向けて挨拶をします。 老人店主は一冊の読みかけの本を開いたまま座敷に伏せて置いて、イチイに視線を戻し、彼自身にですらその陽気な調子がわずかに耳につく発音で 「いらっ “しゃ” い」 と言います。 近隣の小学校に通う学生らの成長していく姿をイチイの背格好に重ね見て、老人店主は自らの視野の狭まりを自覚しながらも、そこはかとない感慨にひとしきり浸ります。 そして一方のイチイといえば、数日前とおなじく焼き芋を買ってそれを食べながら、「うまい」 や 「甘い」 などと、その室内で芋を食べる許可を得たことに対する心持の表われとして、どこか事務的な口調でありながらも、それらの一言を呼気に乗せて何度か口に出します。

――きみの欲しいものは、あまりここには置いていないだろうな
――うん、ちょっと

 目に付いた個売りのサラミをひとつ手に取って、イチイは店の奥のレジへ向かいます。 「もっと単価の高い商品があっても良いんじゃないでしょうか。 ほら、たとえば “今日のおすすめ” ってあるでしょ? そんな感じの何か特別なものがあっても良いと思うんです」
「なるほど」 そう言うと老人店主は腕を組んでから天井をななめに見上げます。
「150円ぐらいまでの値段で――」 そう言い掛けてイチイは、身に着けている学生服のブレザーのポケットに手を挿し入れて、取り出した財布のファスナーを開き、二枚の十円玉を一枚ずつ手早く取り出します 「こういうのって余計なお世話でしょうか」
「そんなことないよ」 と、店主は慣れた手つきでレジスターに金額を打ち込んで金銭の保管用の引出しを開けます。いましがたレジ台の上に置かれた二枚のうち一枚の十円玉を指でつまみ上げて、引出しの内部の区分けされた一箇所にその一枚を落とします。それからレジスターの蓋を手先で閉めて、レジ台の上に残しておいた一枚の十円玉をイチイの前に差し出します。
「駄菓子屋さんの棚に個性は無くても良いかなって思います」 イチイは手のひらに受け取った十円玉を見ながら納得の表情をわずかに浮かべ、その十円玉を財布に入れてそれをブレザーのポケットに収めます 「その、個性は要らないんだけど、アクセントはあっても良いんじゃないかな……ちょっと意外な商品が置いてあったりして、これ何だろうって目を引く感じ、どんな商品なのか気になる、ちょっと触ってみたくなる感じ――触らせたら、こっちの勝ち」
 店主はイチイの顔を正面に見据えて下唇をすこしだけ突き出します。 「ひょっとすると、きみのほうが商売には向いているかもしれん」
「そうですか?」 とイチイ。 「でも、お店を続けていくのって、なかなか大変でしょ?」
「その若さで、ずいぶんと現実的な考え方をするんだな」
「そうでしょうか」 イチイはそう言って、レジスターの置いてある四角いケヤキの卓袱台の上から商品のサラミを指でひょいと摘み上げ、透明の包装フィルムを開いてその中身をさっと口に入れます。 「きっと、おじさんって、お金持ちなんですね」
「まさか」 老人店主はイチイが気兼ねない様子で商品を食べに掛かったことを好ましく感じて、おもわず口の隅に笑いを出します。 それから彼は片方の手を座敷に突いて上体をかたむけて 「金は持っていないが――」 と言いかけてレジ台のわきに置いてある小さなゴミ箱を他方の手で掴み上げ、そのあと姿勢を戻し、サラミの包装フィルムをゴミ箱の中に入れるようイチイにうながします。 「――ただ、歳を取った覚えはあるかな」
 それを聞いてイチイは愛嬌のある微笑をさっと顔に出して、わずかな気遣いの思いに駆られて首を横に何度か振ります。 それからとっさに、ひとつ思うところがあって店の出入り口を振り返り、そのガラス戸の上にある 掛け時計 に現在時刻を確かめます。 つられて老人店主も時計を見やります。
「あの、“そこ” で宿題させてもらえませんか」
 イチイは店の奥に向きなおって座敷の一角を指します。
 その思いがけない申し出に、老人店主はただ見るともなくイチイの顔を見続けました。 学生の来店者を座敷に上げるといって、とくにとりたてて不都合があるわけではなく、また、それが学業に対するイチイの態度であるものと憶測を立てれば、そこで好意的な対応をしたくなるのが老人店主の心情というものでした。
 イチイは店主の承諾を得て座敷に上がります。 その六畳間の隅に置いてある折りたたみ式のロー・テーブルの前に正座して、肩から下ろしたバッグのファスナーを開き、それぞれ二冊の教科書と大学ノート、ペンケース、そして手のひらに収まる小型の置時計を取り出し、それらをいちど机上に配置します。 それから彼女は座敷のななめ後ろを振り向いて口早に言います。 「二十五分ぐらい掛かりますが、良いですか?」
「いいよ」 老人店主はもういちど店内の掛け時計を見て、二十五分後の時刻に見当を付けます ――午後二時五十五分―― 「二十五分もあれば宿題を終えられるのかい」
「今日も弟と 待ち合わせです」 イチイは開いたペンケースからシャープペンと消しゴムを取り出しながら、半分うわの空でそう言うと、ついで一冊の教科書を手に取り、プラスチック製のしおりを目印にして意中のページを開きます。 その教科書の紙面に見入って彼女はそのあと、いまにも消え入りそうな声で誰ともなしに呟きます。
「今日 宿題 多くて」
 老人店主はイチイの後ろ姿から視線を逸らします。 店内の出入り口のあたりに差し込む西日を眺めて、ささやかな同情を込めた相づちの一声をみじかく漏らします。




『老人店主とイチイと宿題』