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裏庭のバジル 15 



 イチイは机の上の置時計に手を伸ばすと、その置時計の上面に付いてあるボタンを手のひらで軽く押して、電子アラームの小さな連続音を止めます。 ごく微かに声の混じった一息を吐き出し、それと同時に気の集中を解いて、シャープペンと消しゴムをペンケースに手早く収めます。 そしてそのあと、開いてあった教科書とノートを閉じてそれらを机の上に重ねて置いて、さらにその上に置時計とペンケースを縦に並べたあと、自身の傍らに置いてあったバッグのファスナーを開けて、その中に宿題一式をまとめて滑り込ませます――「ありがとうございました」――そう言ってイチイは、膝の上に置いたバッグのファスナーを閉じながら上体をねじって後ろを振り向きます。 「机をお借りできて助かりました」
 老人店主はレジ台の上に置いてあるノートパソコンの画面から視線を逸らして、一方の手で自身の老眼鏡を外します。
「きみが宿題を終えるのを、さっきから待っていたらしい」
 イチイは座敷のたたみに手を突いて、店主の指差した方向に上体の姿勢を変えます。 店の出入り口のガラス戸に背を向けて立っている男子学生に目をやって、それが自身の弟であることを彼女は口早に言います。
「すぐ君に知らせたほうが良かったかな」 と言って店主がイチイに視線を移すやいなや、「そんなことないです」 と、イチイはバッグを肩に掛けて立ち上がり、座敷の端まで歩を進めてそこに腰を下ろします。 そして彼女はそのすぐ足元に置いてあるスニーカーに両足を入れて売り場の床に立ち上がり、老人店主に向きなおって眠気の差した表情をゆるめます。
「じゃあ、帰ります、さようなら」
「さようなら」 いつになくかしこまった口調で店主は言うと、ちらと視線を斜めに移して上体をわずかに前へ乗り出し、好奇を装った表情を顔に出して店先を眺めます。 ひとりの男子学生が店のガラス戸に顔を近づけて室内の様子を眺めています。 老人店主がさらにそのあと片方の手のひらを掲げて笑い掛けると、無表情でこそあれ男子学生もまたそれと同じふうに手を掲げて見せます。 「なんですか」 とイチイは店主の身ぶり手ぶりをやや不気味に感じ、わずかな惑いを含んだ薄笑いを口元に浮かべて店先を振り返ります。

 イチイ姉弟が駄菓子屋の前から立ち去ったあと、老人店主はレジスターを置いてあるケヤキの卓袱台の上にノートパソコンの画面をじっと見つめます。 無線マウスのホイールを指先で回して、パソコンの画面に表示されているウェブページの閲覧を続けます。 画面にはインターネット販売の多種多様な菓子がずらりと一覧表示されています。 それらの菓子の種類や外装の見た目などを参考にして、姉のイチイから出された意見にあった “百五十円” ――それに五十円を上乗せした価格を目安にして菓子を選んでいきます。 その後日、菓子が箱詰めされた段ボール箱が老人店主の自宅に届けられますが、しかし、その菓子の味見をすることになっていたイチイ本人が、以降のおよそ四週にわたって店に姿を見せなかったため、菓子の段ボール箱は未開封のまま座敷の押入れに保管されつづけることになります。 店主はその箱の中身にはさほど関心がなく、あくまで若い世代の者と対話する上での話題づくりの手段であるものとしか考えていませんでした。
 また、それまで店の売り場では扱ってこなかった価格帯の菓子ばかりを注文してありましたので、その商品選びにおいて多少なりとも両者の嗜好の違いが出るのは当然として、まさか段ボール箱の封を切ったイチイの反応に数秒の冷ややかな沈黙が前置きされることになろうとは老人店主は思ってもみませんでした。 彼の選んだ菓子は淡い色合いの物ばかりで、合成着色料の危険性がイチイにはいまいち感じ取れなかったのです。 そこで今度はイチイ主導のもと、“意外性” をまずひとつの前提として、外国製の菓子に的をしぼって商品の候補を選び直すことにします。 ところが、彼女の思い描いていた理想の菓子の多くが海外のウェブサイト上に閲覧できるものばかりであったため、それと類似する菓子を国内の販売サイトに探していくことを条件に、ひきつづきイチイに商品選びが任せられることになります。 ふと何かの折にイチイが未練を口に出したときには――販売を目的とする商品の輸入手続きの必要性にはじまり、国内の駄菓子屋で扱われるべき商品としての適性とその価値について――老人店主が彼自身の否定的な意見をイチイに言って聞かせました。
 イチイの自発的な献金が、洋菓子の購入代金の一部に当てられます。 その数々の商品を箱詰めにした段ボール箱が老人店主の自宅に届けれられ、以前とおなじく店の座敷の押入の隅に保管されます。 そうして二度目となったその菓子の購入でしたが、つぎにイチイが店を訪れたのは、それからさらに二週間あまり経った日のことです。
 ――季節はすっかり冬の只中にありました。 黒のダッフルコートを羽織ったイチイが外気の寒さに首をすくめて店の戸口をくぐり、ガラス戸を後ろ手に閉めたあと、背後をふり返って頭上のななめに掛け時計を見やります。 それから視線を店の奥に戻して、売り場に面する小壁に取り付けてあるエアコンを見上げます。 「こんな あったかいところで仕事が出来るなんて羨ましいわ」 と、左右の手のひらを擦り合わせて彼女は言います。
「冷える店に、客が入るか」 と店主は応じます。
「まあね」 と、イチイはダッフルコートを脱いでいく一方で、老人店主の立ち上がる様子に気を留めます。 座敷の押入れから段ボール箱が取り出されるのを見るが早いか、彼女は身近にあったアイスクリームの保冷ケースの上にダッフルコートを二つ折りにして置いて、「それって、このまえ買ったやつよね」 と微笑を目尻に寄せて店の奥に向かいます。
「さて、いつのことだったかな」 と、ケヤキの卓袱台に片肘を突いて店主が言います。
「だいぶ前よ」 と、いたずらっぽい笑みで唇をゆがめてイチイは言います。 「だけど、一カ月も経っていないわよ」

 そうしてサンプル商品の購入と試食を “月日をかけて” 繰り返していくうち、販売の予定となる商品の数が着々と増えていきました。 またそのイチイの不定期的な来店をつうじて、老人店主はイチイの家庭の内情とその近況を知らされていくことになりますが、思えばそれは彼にとって、どこか現実味に欠ける話のようでもありました。 隣家 (旧セガワ家) に住んでいる一家の女親の人柄に対して、イチイの話に聞き知ったような神経過敏な一面を見受けたことがなかったのです。 たしかに実際のところ、隣り合わせにある日常生活の一部が互いの家の裏庭に漏れ出して来てはいましたが、しかし老人店主は、ひとりの専業主婦の異様な精神状態や、その兆候を見聞きしたことがそれまで一度もありませんでした。 またそれに加えて、夫妻の一人娘 S と店主自身の息子のあいだには良好な関係が築かれてもいましたので、隣家の健全な家庭の在り様を疑う余地などおよそ無いように思えたものでした。
 老人店主はその両家の内情の詳しいところまでは知らされていませんでした。 姉のほうのイチイは、事の発端と “なりゆき” を、ちょうど他人の身に起きた事件のあらすじでも紹介するように、あくまで気安い口ぶりを保ったまま店主に話すに留めていました。 そのイチイ本人でさえ弟の内心を測りかねていたため、弟の心理状態やら何やらに関する老人店主の意見を聞くことを彼女は怖れていたのです。 それにまたイチイにとっては、その駄菓子屋で過ごす生ぬるい時間が心地良くもありました。 世間の死角にでもあるようなその一室が失われるのを、彼女は心の内で何となく怖れていました。
 そして一方の老人店主にしてみれば、そんなイチイの雲がかった心境を本人の言動に見出すことはさして難しいことではありませんでしたが、だからといって他家の抱えている問題に進んで足を突っ込むつもりはなく、またその媒介者となりうる相手が誰であろうと、その者に対して気安く干渉をはじめる気もありません。 彼自身の一人息子と隣家の一人娘の交友をとおして、その二人の身に危険の及ばないうちは、ほどよい距離をおいて穏便に隣人関係を維持しつづけていくことが最善であると考えていました。
 老人店主はまたその一方で、どうというわけなくセガワ夫妻を曖昧に思い返すことが何度となくありました。 妻のほうのセガワが姿を消してからというもの、たったの一度ですらセガワ夫妻を近辺に見掛けることはありませんでしたが、といって、その彼らの気配がまったく感じられないかといえば決してそうでもない。 隣家の敷地内に住人の足音や窓の開閉する音が鳴ったとき、老人店主は、いちど住人不在となった隣家に 空き家の管理業者 が出入するようになった頃のことを振りかえります。 そして、さらに過去へと記憶をさかのぼり、夫のセガワの着ていたワインレッドのブレザーと、妻のセガワの精気に欠く長身をかすかに思い浮かべます。




『老人店主とイチイと冬』