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裏庭のバジル 16 



 夫の失踪につづいて妻のほうのセガワが行方知れずとなり、老人店主の息子はその状況がしばらくのあいだうまく理解できずにいました。 夫妻の仲に不穏な空気を感じ取ったことはなく、まして妻のセガワに対して疑いの目を向けたことなど一度もありませんでした。 “夫・セガワの単身赴任の件について”自分の父親や妻のセガワから話を聞かされた際には、それもまた社会人の責務であるという父親の言葉をひしと心に刻み付けて、なんとか納得の思いにまで至ったものですが、ただし妻のほうのセガワまでもが何も言い残さずに姿を消したとあっては、そこに夫婦関係の破綻などを想うと同時に、妻のセガワに対する不信感をわずかながら覚えずにはいられませんでした。
 老人店主はそんな息子に対して、遠地におけるセガワ夫妻の同居を虚言し、そしておまけに、その彼らの強い夫婦関係の結び付きについて、もっともらしく――妻のセガワは自身の夫婦生活を再開させるために夫の元へ移り住んだと――そう説明してありましたが、一方の息子にとってみればそれは事の重点ではありません。 彼はただ妻のセガワが何も言い残さずに去ったという事実にだけ執着しているのであって、さほどセガワ夫婦の情交にまつわる話には関心が持てませんでした。

 店主の息子がセガワ家の敷地に立ち入るようになったのは、彼自身の幼心に些細な歪みが生じていたからではなく、また、自ら望んで傷心を癒そうとしていたためでもありません。 それは彼が妻のセガワの姿かたちを隣家の敷地内に見ていたからでした。 なかば無自覚のまま、時季と場合によっては日没の午後七時十分を過ぎるまでのあいだ、その大柄な人影にも似た現象に対して無言に視線を添わせていきました。
――はじめのうち店主の息子は、太陽の光の加減によって生じた影か何かであろうと高を括っていましたが、その薄黒く不定形な立体が庭の草を押さえ付けて接地しているのを見て、それが一種の物質であることを感覚的に理解します。 風が庭内に吹き込んでくると、その風の強弱に合わせて立体が地面を這うようにゆっくりと伸びて、風の止んだ途端に、またゆっくりと原形に戻っていきます。 店主の息子は興味をおぼえて、庭の一角を遠目に見据えたまま注意ぶかく弧状に進路を取って歩きます。
 時間が経つにつれて、裏庭の生垣の影が草地を伸びていきます。 その影に混ざり合うことなく、薄ぼけた立体がそれ独特の実在をひとところに留めています。 店主の息子は虚ろな視線をななめに落とし、あぐらをかいて草地に座り込んでいます。 まぶたが重々しく下がってくると、きゅっと弱々しく眉をしかめ、気だるい表情を顔に出してあたりを見回します。 そうして彼はひどい眠気に耐えながらも、風の流れにかたちを変える立体の観察を続けます。 それが何かの細かい粒の集合体であるようにも見えて、どこかの見知らぬ自然の中にある葉陰のようにも思えます。
 そのように店主の息子は隣家の裏庭に数時間かけて居座ることを一時の習慣としていました。 小学校から帰宅すると、まず台所の流しで手洗いと うがいをして、それから食卓に置いてある菓子パンをグラスに注いだ牛乳で胃の中に流し入れます。 通学用のかばんを自室に置いたあと、その室内で私服に着替えてからトイレを済ませ、玄関を出て、父親から預かっている自宅の鍵で戸締りをします。 そしてそのあと隣家の庭に足を向けます。 庭の周囲には彼の背丈を優に超える高さの生垣が植えてあり、庭の一角に座り込む少年の姿には誰ひとり気が付きません。
 店主の息子は、まずはじめに子供用の携帯電話の画面を手元に見下ろしてアラーム機能をセットします。 彼の父親が帰宅するその一時間前を目安にした時刻があらかじめ携帯電話に登録されていて、たとえセガワ家の庭内で寝入ることがあったとしても、やがてその設定時刻をむかえれば、アラームの電子音に目が覚めるという心積もりでした。
 老人店主はいつもだいたい同じ時間に退社しました。 職場の最寄駅の周辺にある飲み屋で同僚らと夕食を取ったり、もしくは百貨店で買い物をしたりする場合などに彼の帰宅時間がいつもより遅くなることはあったにしろ、午後の七時までに帰宅したことは、ただ唯一、彼の息子が事故に遭ったその日を除いては、たったの一度もありません。 店主の息子はセガワ家の庭でいつもかならず携帯電話のアラーム機能を使用しました。 設定時刻はいつも午後六時に合わせあり、そしてその時刻の前後のどちらかにアラームの設定を自分で解除するのが日頃の常となっていました。

 帰宅途中の電車に揺られながら、老人店主は携帯電話の画面に表示されている電子地図を手元に見下ろしていました。 その地図には彼の息子の携帯電話から発信される位置情報が時間別に表示されていて、居所を示す赤印と文字表記(番地だけではなく枝番までもが表示される)によって、息子の時間ごとの所在がすぐに分かるようになっています。 店主はそれから画面に表示されている息子の現在位置を確かめて思わず目を凝らします。 いつもであれば、その時間帯の息子の所在表示が自宅の敷地内にあるはずのところ、どういうわけか赤印の表示がセガワ家の敷地の一角に位置していました。 そこで店主はとっさに思い立って、携帯電話の画面上にある表示を更新させてみます。 ところが、時間経過の表示内容に分秒の違いがあるだけで、息子の所在をあらわす赤印の位置がセガワ家の敷地内に留まったままです。
 店主は自分の息子が学校から帰宅したあとにセガワ家の敷地内に立ち入るのをすでに知っていました。 さすがにアラーム機能の件までは知りようもありませんが、その立ち入り行為を続けるにあたって息子が父親の目を意識していることは明らかであり、午後七時を過ぎてなお息子の所在が隣家の敷地内にあるのは、いかにも妙な状況のように思われます。 店主は息子の平生の心身状態にわずかであれ変化が起きた、もしくは異変が起きたものと察しを付けて、携帯電話に登録してある連絡先の一覧から息子の姓名を選んで電話をかけます。 車内の座席から立ち上がります。 乗降ドアの脇に肩をもたせかけて、窓の外の夜景に意識を逸らせます。
 電話の呼出しの音が五度目に差し掛かったあたりで、ふと老人店主の視界の遠くのほうに一枚の看板が飛び込んできました。 実寸にして縦幅30メートル、横幅45メートルの大型看板が、遠くの街明かりとは相容れない異様な明るみを郊外の山沿いに張り付かせています。 彼の目にはそれが看板の四辺の数か所に取り付けられているであろう照明の為すところであるふうに見えて、看板自体の発光をも想わせる外観であるように思えます。
 七度目を終えたあと、電話の呼び出し音が途切れました。 店主は看板から逸らした視線を車外の中空に逃がして、そのあと、発信を終えた携帯電話をかばんの内ポケットに落とし入れます。 そして彼はもういちど窓の外を見やります。 さっき遠目に眺めていたその大型看板が車内のロングシートの窓をゆっくりと流れていきます。 ひょっとすればそれは照度の高い光の作用によって引き起こされた目の錯覚であったかもしれませんが、彼の目にはその山沿いの看板が一枚の巨大な白壁のようにも映っていました。




『老人店主と息子の所在、赤印と白壁』