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裏庭のバジル 17 



 それから五分あまりのあいだ、店主――いずれ自宅の一角を改築して駄菓子屋を開業する男――は、乗降ドアの片脇に立って、車窓に流れる質素な夜景を眺めていました。 おなじ車両には十人足らずの乗客がいて、その多くが各自の降車にそなえてロングシートの端々に座っています。 うちのひとりは車内に流れた駅名のアナウンスから意識を逸らすと、そのあと、またもういちど向かいの窓に映る自身の姿を見やります。 ひとりは通い詰めた風俗店に働いている意中の女性店員を思い浮かべます。 ひとりは車内を眺め渡して、ロングシートの座面と背もたれの色褪せた部分に乗客の座する間隔を想います。 ひとりは眠ります。 ひとりは赤ら顔をすこしほころばせ、溜息にのせて酒気をゆるやかに吐き出します。
 やがて電車は人気の無いホームにもったりと速度をゆるめて停まります。 ひとりは立ち上がり、開きかけの乗降ドアを押し開くように体を乗り出してそのままホームに一歩を踏みます。 つぎに扉が閉じるまでのあいだ、車内の暖気が外に漏れ出していきます。
 アナウンスにつづいて乗降ドアが閉まり、電車はその車体の窓の上部にホームの天井照明を長々と反射させながら駅の構内を動き出します。 店主は乗降ドアの上に設置されてある路線図を見上げて、三駅ぶん先の駅名を一視すると、それから今度はドアの窓越しに、線路の敷地内にある “レンタル看板” の数々を目で追っていきます。 スポーツ・クラブや書店や歯科医院、それに中古車の販売店や学習塾や美容室など、雑多な業種の看板・広告が整然と横一列に並んでいます。 看板の上辺に取り付けられた二個の照明器具の明かりと、その看板の前を通り過ぎる電車の窓明かりに照らされて夜間の視認性は十分にあり、たとえば、食品や芸能人の顔などが板面に大きく表示されていた場合、その当人の顔や広告商品に対する印象が強まるようでもあります。 現に、店主がひとりの女性芸能人との性行為を寝床の夢に見た際には、その芸能人の手には化粧品の容器が握られていましたし、カメラ・メーカーの宣伝広告に扱われていた国内の終戦後の風景写真を看板に見て (のちに自身の妻から “なぜ、未相談のまま” との批判を突き付けられる原因ともなる) 約36万円のデジタル一眼レフカメラの購入に踏み切ったものでした――そのような立て看板が、どの鉄道会社の駅の構内にかぎらず、ごくありふれた広告媒体として設置されていました。 日没から夜更けにかけて徐々に辺りが暗みがかっていくのに合わせて、その看板の外見の印象に変化が付くような演出の意図が込められていました――帰宅途中にある会社員らの多くが、一枚の窓越しに見るその夜景の異質へと意識を逃がすようになりました。 店主はそれらの看板の多くを、いつもだいたい駅裏の光まばらな夜景と対比させるようにして眺めました。 白色の看板・照明に浮かび上がる様子は何かの作品の展示を想わせ、車窓の縦枠の影が連続的に投影されていく様子は、ひどく古めかしい映画に出てくる一場面のようでした。 また、それらの看板の枚数は十にも満たず、電車の速度の緩やかなあいだに板面の内容をすべて目で確認できるよう、あえて少数の設置に留めてあるということを察する乗客が大半でした。 彼らは、その宣伝広告のいくつかに、決まって夜間の鑑賞を前提としたデザインが施されることを知っていました。
 『広告募集中』 と表示された最後の一枚が店主の視界を過ぎります。 ほどなく電車の走行音が軽快な調子を帯びてくると、商業地域ならではの店舗看板の数が目に見えて少なくなります。 電車は同町の住宅地との距離を空けていきながら、隣町の駅を目指してさらに速度を上げていきます。
 店主は窓の外の夜景から視線を逸らして、すでに鞄から取り出してあった携帯電話の画面に指先を走らせ、彼の息子の現在地の確認を始めます。 しかしながら事の状況は先と何ら変わりなく、なおも息子の携帯電話の所在を示す赤印がセガワ家の敷地内にあります。 店主は慣れた手付きで自身の携帯電話の画面を操作して、登録してある連絡先の一覧から息子の姓名を選んで発信します。 その呼び出し音が十一回目に差し掛かろうとするや、たった一瞬の無音につづいて留守番電話の応答アナウンスが流れます。
 店主は迷わず発信を終了させます。 そして携帯電話の連絡先の一覧から、今度は彼自身の姓名で登録してある自宅の固定電話機の番号を選んで、そのまま手早く発信の操作に移ります。 その呼出しのデジタル音には聞き馴染みがあるようで、どことなく余所余所しくも感じられます。 まるでモザイク画から剥がれ落ちる数片のノイズのようです。 その音の反復が店主の希望を少しずつ削いでいきます。 音はただ単調に滞りなく繰り返され、一音ずつの反響によって店主の耳の奥が圧迫されていきます。 そこにきて彼はようやく、その音自体に息子の心身状態を知る手がかりが何も含まれていないことに今更ながら思い当たり、ただちに発信を終了させると、胸に深く吸った息をみじかく鼻から抜きます。 そして携帯電話をかばんの内ポケットに落とし入れ、そのかばんを両腿の上に構えてロングシートの端に腰を下ろします。

――車内非常ボタンが押されたため停止します――

 運転士の男声アナウンスが、直後、連結されている全ての車両に鳴り渡ります。 つい今しがた店主は頭を前に傾げて目を閉じたところでしたが、その男声が鳴り終わったあと、多少の気疲れに重たくなった両方のまぶたを力なく開いて、電車の速度が平生どおりに落ちていくことに感心を覚えながら左右を見渡します。 その車両内に異状は見受けられませんが、前方の車両につうじる貫通扉のあたりに視線を留めてそこに見入ります。 その扉の近くのシートに座っていた学生風の青年が、自身の顔の前に掲げていた携帯電話を操作してカメラ機能を立ち上げ、それから、目を見開いて前後の車両の様子をつぶさに確認します。 青年は後方の車両にじっと見入る際、視界の隅にあった店主の存在をまるで気に掛けもせず、そして彼はそのあともういちど前の車両を振り返ってから立ち上がると、自動に開いた扉の向こうへ全身を押し出すようにして移動します。 右肩に引っ掛けていたデイパックを貫通扉の縁にぶっつけて何がしかの固い音を周囲にみじかく響かせておきながら、さしてそのことを気に掛ける様子もなく、自身の背後に閉まった扉から足早に遠ざかっていきます。
 店主は視線を真正面に戻してから足を組み、向かいのシートの窓に映った自分の上体を見るともなく見ます。 それから、電車の発進を待つあいだにと思い、目を閉じて頭を前にかがませ、ちょうどその拍子に思った疑問を確かめようと、さっそく目を開けて立ち上がります。 かばんを片手に持って向かいのシートへ歩を進めます。 そのまま片膝を座面に、そして一方の手を車窓の表面に突いて、そこに映り込んでいる自分の姿や車両の内観の先へと目を凝らします。
 その窓、開きますよ――店主の背後に男の声がします。 店主は窓から顔を引き離して、ほとんど無意識のうちに窓枠の底辺に視線を這わせます。 その底辺の両端にはクリップ状の金具が取り付けてあり、二個の金具を指で押し込んで窓を上方にスライドさせられる構造となっています。 ずいぶんと時代遅れな窓だと店主は思います。
「いま、どのあたりでしょうね」 と、店主は窓の表面に手を突いたまま、うしろを振りかえります。 しかし背後には誰の姿もありません。 店主は視線を横に滑らせて、その眼球の動きに連れられるように車内の前方へ顔を向けます。 そのあと膝をシートの座面から離して床に立って、うしろを振りかえり、落ち着きに欠いた数歩を運びます。 彼の視界の先にある後方車両に、見知らぬ二人の乗客を見て取ります。

――まもなく運転再開します――

 先とおなじ男声のアナウンスが乾いた調子で車内スピーカーから流れます。 店主はうながされるようにして、身近にあるロングシートの座面に腰を掛けます。 「窓、開きます」 と独り言を漏らし、とっさに背後の窓を振り向いて、その一枚窓を囲んでいるステンレス製の枠に目を凝らします。 眉をひそめます。 口元にわずかな笑みを落として立ち上がり、元いた座席の位置に立ち戻ろうと、眼下のロングシートに沿って座面の端まで移動します。 乗降ドアに近い位置の窓だけが “開閉式” になっています。 店主は、いつか遠い昔のある日を思い返します。 まだ年端のいかない少年だった頃、開いた窓から顔を突き出して昼間の田園風景を眺めながら、自身の横顔に吹き付ける風に青草の匂いを嗅ぎこんで胸を晴らしたものでした。
 緊急停車を報知するアナウンスが鳴って以降、店主にはその電車の停発進の動きに 緊急性 が毛ほども感じられず、どこかの車両で本当に何か問題が起きていたのだろうかと疑わしく思います。 彼はそれから片膝をシートに突いて、窓枠の底辺の両端に手を伸ばし、クリップ状の二個の金具をそれぞれ両手の指先で押し込んで、スライド式の窓を一息に押し上げます。 そしてその窓枠から顔を突き出してみると、さっきまで窓に映り込んでいた車両の内観が当然のことながら彼の目先には無く、そこにはただ彼の見慣れない町外れの清閑とした夜がありました。 線路沿いに長々と金網が張ってあって、さらにそのすぐ向こうを木柵が立ち並んでいます。 電車はだだっ広い駐車場の一辺に沿うように停車していて、車内の明かりが木柵の向こうにある掠れた黄色の斜線 (駐車禁止区域) を照らし出しています。 その駐車場の端には、閉店して久しいガソリン・スタンドがあります。 社名を表示させていたすべての電飾看板の板面が撤去され、数台の給油機の上に設置してある平らな屋根が、巨大な患者を待つ診察台のような佇まいで、その白い平面を夜空へと差し向けています。
 電車がもったりと動き出します。 八分遅れで運行しています、とのアナウンスが車内に鳴り渡ります。
 店主は、頬を撫でる夜風に気を良くして、窓を開け放したままシートにどっかりと座り込みます。 そして、背後から吹き込んでくる風に後ろ首をさらし、微かな笑いを口元に浮かべます。
 夏であれば良かった、と彼は思います。




『店主と車窓』