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裏庭のバジル 18 



 かすれたブレーキ音を立てて、電車が駅のホームに滑り込みます。 店主を載せた車両が改札口の前をゆっくりと通り過ぎます。 ホームに待機していた二人の救急隊員が駅職員の誘導を受けて特定の位置への移動を始めます。
 それからまもなくして電車が所定の位置に停止します。 乗降ドアが開きます。 隊員らは担架を携えて車内に乗り込み、要救助者の症状を確認したあと、その広げた担架の上に当人を載せて降車します。 そして彼らはホームから改札口を抜けて、視界の先にある同駅の出入り口へ向かいます。
 店主は開いてあった窓から事の状況をうかがっていました。 駅の改札口の向こうには売店やチケット販売機や十数席ぶんのベンチ・コーナーなどがあり、その駅の唯一の出入り口の先には駅前広場、そして、ちょうどその出入り口のわきには救急車が停めてあります。 売店の女性スタッフは担架の運び出される様子を目先に見るかたわら、(いつもであれば、電車の停発進の様子はおろか、電車そのものにすら関心を寄せませんが) 店舗の “ホーム側に位置するガラス窓” の向こうに乗降ドアの閉じた電車をしげしげと眺めます。 店主はその女性スタッフから逸らした視線を改札口の向こうに移して、担架に横たわっていた初老の姿を断片的に思い返します――その髪型や身なりのずいぶん丁寧に整えてあったところからすれば、駅の改札口に担架が通されることの客観的な見方も多少なり違ってくるのではないか――店主は状況の落ち着いたかに見える舎内から視線を逸らして、生きていただろうか、と思います。
 救急車がサイレンを鳴らしながら駅前を離れていきます。 駅舎の中にいた人々の多くは、担架が外に運び出されていく様子を茫然と眺めていました。 緊急時にあってそれが当然の光景であるとは誰も考えません。 電車の遅延時間の表示はすでに舎内の発車標から消去され、そして、乗車を待っていた者らはすでに車両に乗り込んでシートに腰を下ろしています。 それが救助行為のための臨時的な措置であるという駅職員の報知が事前に舎内スピーカーから流され、そうしてあらかじめ駅の利用者らに事態の把握をうながしておいたはずでした。 ところが、その現場に居合わせた駅の利用者らは、ただ黙々と速やかに行われる救助作業の一場面に目をくぎ付けにしました。 担架の上には、細身の初老の女が仰向けに寝ていました。 長い白髪が後頭部にまとめてあり、耳の上部には銀の輪状のイヤークリップがはめ込んでありました。 グレーのワンピースの全体にはバラ柄の黒いプリントが施され、本人のかたわらに置いてある黒革のハンドバッグには小穴模様のブランド・マークがさりげなく描かれてありました。 その駅の舎内にいた人々の多くは、要救助者の容体や生死にかかわらず、それを現実離れした一場面であるものとする各々の無意識の判断のもとに、ただ現場を食い入るように眺めていました。
 そしてそのあと、舎内にいた人々の流れの停滞をゆるめようとして、ひとりの男性駅員が駅務室にある放送装置に向かいます。 駅員は装置の本体マイクを手に取って、その装置の全面パネルの LED表示器 を確認します。 放送の状態を “舎内放送” に切り替え、再生時間にして六秒ほどの短い案内音を舎内のスピーカーから流したあと、マイクの集音部を口元に引き寄せます。
 その一方、電車は同駅の人気に欠いたホームに沿って速度を上げていきます。 黄色い点字ブロックがホームの先端から数メートル手前の位置で途切れていて、その周辺に設置されている安全用 (転落防止用) の外灯がホームの先端を淡く照らし出しています。 店主は目をしばたいて、それが目の錯覚でないことをあらためて確認します――ひとりの若い女がホームの先端に立っていました。 女はブルージーンズと白いTシャツを身に着けていて、肩から赤いストラップを斜め掛けしてあります。 店主は女の姿に視線を当てたまま、彼の乗った車両がその彼女のわきを通り過ぎるのを見計らって窓枠から顔を出し、車内のまばらな視線にはかまわず、女の姿の前面を見やります。 女は両手に一眼レフのカメラを持っていました。 店主の視線に気付いて彼女は片方の腕を自身の頭上に掲げると、無言に大きく手を振ります。 外灯の光の加減で、女の姿の半分以上が影に覆われています。 店主は反射的に窓枠から腕を伸ばして手を振り返します。

 電車が二駅ぶんの停発進を繰り返し、車両には店主と、ひとりの男の乗客が残りました。 男は携帯電話で会話をしながら車内に乗り込み、乗降ドアの間近の座席端に立ててあるポールを右手で掴むと、そのままポールを支点にして自身の体を右の方向にぐるっと巡らせ、そして通話中の携帯電話の本体を彼自身の耳と肩で挟み込み、窓枠の底辺に両手を伸ばしてクリップ状の金具に手先を掛けました。 それから男はいかにも慣れた様子で「よっ」と一声を上げると、ついで窓を上方にスライドさせてから席に着きました。
 店主は自身の降車駅を次に控えて、乗降ドアの手前に立っています。 すこしだけ離れた場所から男の話し声が聞こえてきます。 店主はその声が何かしら異様な響きをもって車両内に鳴り渡っているように感じて、さりげなく乗降ドアから一歩うしろに下がり、車窓に映っている男の姿に視線を当てます。

「そう、だけど、予想していたことは何も起きなかった」
「手紙が届いた。 僕は元気だ、君も元気だろうと思いながら僕も元気にしてる、って」
「ちょうどそれが自宅を引き払う日だった。 その手紙をヒロインが自分の胸に押し当てて、そこで終わり」
「人生は別れだ――んで、そのあとも主人公は生きていく――っていう感じの終わり方あるだろ、そういうの……とくに面白くも何ともないけど……まぁ、だからって、べつに悪くもないな」

 店主はそのとき何の根拠も無しに、自分の息子の身には何の問題も起きていないだろうと思います。
 それからしばらくして電車が店主の自宅の最寄駅に着きます。 店主は乗降ドアの開きざまにホームに下りて、携帯電話を操作しながら人気に欠いた線路わきを歩きます。 携帯電話に登録してある連絡先の一覧から息子の姓名を選んで電話をかけると、呼出しの電子音が鳴り始めます。 店主は電話の受話口に耳を押し当てたまま、心もち歩調をつよめて無人のベンチの前を通り過ぎます。 駅のホームの天井スピーカーから閉扉のアナウンスが流れ、溜め込んだ呼気を吐き出して乗降ドアが閉まります。 店主はホームの階段を上がりながら、別の車両に乗っていた乗客らの後ろ姿に視線を巡らせ、たったいま自分が降りた電車にその彼らも乗っていたのだということを思います。 脛丈のタイト・スカートを履いた女が左右の膝を交互に上げるたび、その彼女の尻の線が斜めに交互します。 髪の薄い男が肩を開いて顎を浮かせ、ビニール製のビジネスバッグを腰のわきに前後に揺らしながら、もったりした足付きで踏み段を上がっていきます。 ひとりの女が自身の肩に掛けたショルダー・バッグのストラップを両手で掴んで、うつむき加減に段を踏みます。 店主の耳元では携帯電話の呼出し音が鳴っています。 そしてそのうち留守番電話の応答音声が再生され――電話を返すように――と伝言を残したあと店主は、通話を終了させて携帯電話をかばんの内ポケットに収めます。 タイト・スカートを履いた女がスカートの布地の端を指で摘まんでそれをいくらか引き下ろします。 店主が薄髪の男のわきを追い越して階段を上っていくと、一方の男は店主の後姿に半死の目付きを寄せます。 男はタイト・スカートの女の尻に視線を移したあと、ふと彼自身の疎ましむ相手の顔を思い出し、つよく舌打ちをします。



 午後七時二十六分。
 駅前で客待ちをしているタクシーの後部座席に乗り込み、自転車置き場を視界の端に捉えて、翌朝の通勤手段に徒歩を組み入れざるをえないことを思います。 それから店主は自宅の住所を運転手に伝えて、後部座席の窓を開くことの了承を得ます。 運転手は、そのタクシーの車両が代車であることをやや恐縮めいた物言いで前置きしておいてから、バックミラーに映り込んだ後部座席をちらと見やって、窓の下方に付いている回転式のハンドルを回すよう申し出ます。 店主は言われたとおりにして窓を半分ほど開きます。 車外の町並みから視線を逸らし、かばんの中から携帯用の小型ライトと携帯電話を取り出してそれらを背広のポケットにまとめて落とし入れます。 車中に漂っていた微かな紫煙の匂いが窓から抜けていきます。 夜気が風になって車内に吹き込んできます。




『店主と電車、夜の移動』