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裏庭のバジル 19 



 裏庭に通じる表通路の両脇には丈の不揃いな雑草がまばらに生えていて、その通路の中央に敷いてある石板の連なりが月明かりに浮かんでいます。 店主はセガワ家の門柱を通り抜けたあと、玄関の扉を横目で見ながら表通路に立ち入ります。 背広のポケットから取り出した小型のライトを点けてそれを目先に差し向け、しばらく歩を進めてから通路を右に折れます。 さらに石板はつづきます。 視線を左に移せば、その通路に沿って生垣が立ち並んでいます。 生垣の向こう側には彼の自宅があります。 店主は自宅とセガワ家が対称的に建ち並んでいることを思い返します。 セガワ家とおなじように彼の自宅の側にもおなじく表通路の石版が地面に敷き並べてあって、その通路の先には自宅の裏庭、そしてその裏庭を外界から覆い隠すようにして生垣が巡らしてあります。 両家の側壁のあいだをまっすぐ縫うように生垣が植わっていて、なおかつ四角の枠状に並べて植えられた生垣が両家の敷地をぐるりと囲んでいます。 各家ともに出入り口はひとつしかありません。 裏口はありません。 門柱を入って敷地に立ち入り、門柱を抜けて敷地の外へ出ます。
 店主は通路を歩きながら小型のライトを左手の生垣にかざすと、ついでその灯りを生垣から自宅の側壁へ投げかけます。 採光窓が自宅の屋根の軒に沿って数枚ぶん側壁に取り付けてあります。 その壁面には経年の汚れが僅かながら付き始めています。 店主はそれから視線と小型ライトの照明をセガワ家の庭に至る通路へと戻して、今度はライトの灯りを自身の右手の方向にかざします。セガワ家の側壁の上部にも同じく数枚の明かり窓が付いています。 店主は壁面を伝わせて視線を下げます。 彼の手のとどく高さの位置に一枚の小窓があります。 そもそものところ、セガワ夫妻の意向によってセガワ家の屋内の間取りが左右逆に造られてあるため、本来であれば同家の反対側の壁に付いているはずのトイレの窓が店主の自宅のほうを向いています。 生垣に阻まれて二枚の小窓の対面を目では確認できませんが、それらの窓はたしかに向かい合う位置関係にあります。 店主はそのトイレの窓にまつわる記憶を辿ろうとして、彼自身の息子の足跡を辿ることに意識を戻します。 背広のポケットに手を差し入れて携帯電話を取り出し、呼び出し音が鳴り始めたあとに携帯電話を耳から引き離すと、それから彼はセガワ家の裏庭に意識を寄せて、そのどこかに着信の振動を聞き取ろうと耳を澄ませます。
 そしていよいよ、通路に敷いてある石板の最後の一枚を踏み越えます。
 両家の裏庭を隔てるように生垣がまっすぐに植わっています。 庭草が人の足首の丈にまで不揃いに伸びていて、その裏庭に面する家屋の軒の真下には二枚の幅広い電動シャッターが下りています。 ナチュラル・シルバー色のシャッターがセガワ家の縁側を完全に覆っています。 和風の家屋の外観に相容れない冷やかな一面として、それは店主の視界に長広く異質に張り付いています。 シャッターの下にある家屋の基礎コンクリートとコンニャク型の踏石が月明かりに浮かび上がり、その踏石を置いてある犬走りの一辺に沿って庭草の先端がそろって垂れかかっています。
 店主の靴が庭草をかき分けます。 彼の手中にある携帯電話の受話口からは呼出し音が小さく漏れています。 また近いうちに草を刈ろう、と店主は思います。 それから彼は歩をゆるめて背後を振り返り、セガワ家の縁側を閉ざしているシャッターを見やります。 そのシャッターは妻のセガワが家を空けたことの証明として、とある日の朝、自宅の縁側に立っていた店主の視界の先にありました。 そのとき店主は一興をでも眺めるような視線をシャッターの全面に巡らせて、その日の前夜にはまだセガワ家の窓枠に室内灯の明かりが落ちていたことを思い返したものでした。 店主は前に向き直って、もういちど携帯用の小型ライトの明かりを目先の草庭の一箇所にかざします。 その途中、彼はセガワ家の庭の一角に置いてある家庭用の大型ブランコを視界の隅に捉えていました。 ブランコ台の渡し棒からは二本のロープがまっすぐに垂れ下がっていて、そのロープの先端には結び目がありません。
 右の肩を地面につけて、ひとりの男子が横たわっています。 海の浅瀬に打ち上げられた小鯨のようです。 庭草がその男子の輪郭を模るようにして体の周囲を覆っています。 店主はその背格好を遠目に一目見て、それが自分の息子であろうことの見当を付けると、ついで携帯電話の発信を終了させてそれを背広のポケットに落とし入れます。 そして彼は、いましがた視界の先に見て取った男子の寝姿にライトの明かりを当てながら歩を運び、まもなくして男子の前に立ち止まると、一呼吸を置いてからその場に膝を突きます。
 男子は店主に背を向けて、おまけに顔をななめに伏せています。 それはたしかに店主の息子の普段着でしたが、ふと店主は、彼自身が過去に見た映画の内容を思い起こして、いま眼下に横たわっている人物が間違いなく自分の息子だろうかと疑念を持ちます。 とはいえもちろんのこと、現実的に見てそれが自分の息子でないはずはありません。 店主は小型ライトの取っ手を自身の上下の前歯に挟み込んでおいてから、まず初めに男子の首の動脈に指を当てて脈拍の正常を確かめます。 そのあと、男子の背後から両脇に手を差し入れてその上体を引き起こして、その狭い背中に店主自身の腕を添えたまま男子のわきに膝を突きなおします。 そして店主は息子の口元に耳を寄せて安定した呼吸を確認してから、息子の頬を軽く何度か手で打って、小型ライトを口にくわえたまま 「おい」 と一声を掛けます。
 かわらず息子は顔を下げています。 店主が息子の名を呼びます。
 もういちど名前を呼んで、また何度か息子の頬を手で打ちます。
「もう起きてるよ、もう、わかったから、もう起きたんだって」
 目を閉じたまま、息子は間の抜けた唸り声を出して言います。
 店主は安堵の一息を鼻から抜いてから息子の背後に立ち上がり、息子の両脇に腕を差し入れてからその体を勢いよく引き上げて自立をうながします。 息子は反射的に素っ頓狂な声を上げて父親にささやかな抵抗心を示したあと、セガワ家の裏庭で寝入ってしまったことを後悔しながら、いかにもその自分の失態を誤魔化すふうな大げさな口調で言います。
「あれ、なんだ―― “まだ夜じゃないか” 」
 それから息子は首をねじって背後に立っている父親の顔に上目を注ぎますが、店主の口から投射される小型ライトの白色系の明かりを顔面に浴びて早々と前に向き直ります。 店主は息子の体の側面を手でぽんぽんとはたきますが、しかし息子の衣服には庭土など微かにさえ付いていません。
「帰るぞ」
 そう言って店主は上体を前にかたむけて、草庭に寝かせてあった仕事用の鞄の取っ手を掴んでそれをひょいと持ち上げます。 そして彼は自身の前歯に挟み込んでいた小型ライトを二本の指でつまみ取ってそれを息子の手に握らせると、それから、うしろに向き直ってそのままセガワ家の玄関に向けて裏庭を歩き始めます。 風呂の準備をしよう、と店主は思います。
 息子はとくに何を考えるでもなく店主の後ろ姿に小型ライトの明かりを当てます。 それから息子はバネに弾かれたように後ろを振りかえり、 ライトの明かりを足元に照らして草地を斜めに見下ろします。 彼の横たわっていた場所に生えていた草々だけが斜めに倒れ込んでいて、たしかにその場所に自分の一眠りした形跡を見て取ることは出来ます。 ところが、はたして夜に覆われてその実体が目に見えないだけなのか、あの得体の知れない薄ぼけた立体を周囲のどこにも見出せません。 店主の息子は、父親から受け取った小型ライトの明かりを辺りに巡らせながら、セガワ家の裏庭に父親の足を向けてしまった原因が自分自身であることを思って後悔します。 そしてそれから彼は視界を移して父親の足跡を辿るように歩き始めます。セガワ家の縁側を覆うナチュラル・シルバー色のシャッターの前に立ち止まって、しばらく物思いに耽ります。 ――その立体物に手を伸ばしたことは間違いなかった。 つよい眠気に薄らいでいく意識の隅に、なだらかで平穏な眠りの予兆を感じた。 しかし、手触りの記憶がない。 自分がそれに向かって手を伸ばそうとして、ある瞬間に意識が急速に遠のいたことを覚えてはいた。 ちょうど毎夜の眠りを自室のベッドに得るようにして、ごく日常的な無感情の眠りに落ちたのだった――。 店主の息子はナチュラル・シルバー色のシャッターのアルミ板に手を触れさせます。
 ちょうどそのとき、自宅のほうから父親の呼び声がします。 息子は視線を移し、生垣の枝葉の細かな隙間をとおして自宅の裏庭の敷地内に暖色系の灯りを眺めます。 自宅の縁側の天井に取り付けてある蛍光灯の明かりが同家の裏庭へと伸び広がっています。 そしてそれと同時に、蛍光灯の明かりは店主の息子の背丈を優に超える生垣の一部分に暖かな色味を染み込ませ、なおかつ生垣の枝葉の隙間をとおしてセガワ家の庭の一角をまで、薄ぼんやりと照らし出ています。 店主の息子には、それが生垣そのものの淡い発光であるふうにも感じられます――「もうすぐ帰るよ」――と、口先の返事を自宅のほうに投げ掛けたあとも、しばらくのあいだ時間の経過を忘れてその生垣の様子をぼんやりと眺めていました。
 そのあと彼は一台のブランコに視線を移します。 彼の眠りのかたわらで月明かりに潜んでいた一台のブランコ台が、いまは暖色の灯りを反射させて彼の視界の中央に薄っすらとその外観をさらしています。 店主の息子は、ほぼ無自覚のままに結んだ唇を軽く曲げて、(それまでにも何度か、ふと何かの折に考えたことがあったように) 自分の父親と妻のセガワが結婚すれば良かったと思います。
 しかしそう思ったのも束の間、その二人の子供であったことの可能性をただちに迷いなく胸中で否定したあと彼は、妻のセガワの半裸と、その彼女の蛇のような体に手を這わせたときのことを思い返そうとします。 女の首元から左右の肩口にかけるゆるい傾斜と、背中の中央部のゆがんだ窪み、そして上体の各部のあらゆる滑らかな曲線を頭に浮かべようとします。 しかし彼にはそれがうまく出来ません。 妻のセガワの風貌から連想されるものといえば、ゆっくりと思考を吐き出すような彼女の物言いや、いつも一貫していたその柔和な佇まいでした。 彼は妻のセガワの体にもういちど触れることの願望に後ろめたさを覚えながらも、そのくせ彼女の半裸の像をあいまいに思い描いては、ただ色合いのない欲求だけを募らせていきます。

 店主は風呂場の壁に取り付けてある浴室リモコンの 給湯スイッチ を押したあと、リビング・ダイニングに戻って、息子の帰りを待ちます。 作り置きしておいた玉葱スープの小鍋をガス台の火にかけて、彼と息子の使用する二個のマグ・カップに玉葱スープを注いでおきます。 そして店主はそれらのカップを食卓に置いてテレビのリモコンを手に取ります。 彼には息子を叱るつもりはありませんし、セガワ家への立ち入りを禁じるつもりもありません。
 やがて帰宅した息子は、玄関からリビング・ダイニングの前を通り過ぎて洗面所に向かいます。 店主は部屋の出入り口から顔を出して、スープの用意が出来ていることを息子の後ろ姿に伝えます。 息子は一言に返事をしてから洗面所の戸口をくぐり、陶器のボウルの前に立って手洗いをします。 そして彼は自室に戻ってそこで特に何をするでもなく、ただ部屋をぐるりと見渡してからそこを出て、多少の気まずさを覚えながらも台所に入って食卓の所定の席に腰を下ろします。 店主は電子レンジの中から二個のマグカップを取り出して、それらを両手に持って食卓に戻ります。 そのスープを飲むよう息子にすすめたあと、夜間の屋外における睡眠が人の体調に悪く影響するだろうことを気軽な物言いで息子に伝えます。 それに対して息子はマグカップの側面を両手で包んでその仄かな熱に意識を注ぎながら、カップの内側に浮かぶ玉葱の小さな四角片を静かな顔をして見ています。 店主にとってむしろ、その息子の沈黙が好ましくも感じられます。 それが休日であるならまだしも、仕事から帰宅した夜とあっては、他ならぬ自分の息子の弁明ですら聞く気にはなれず、また心理セラピーまがいの対話をする気にもなれません。
 店主はそのあと、なるべく隣家に立ち入らないよう息子に言い聞かせますが、しかし元はと言えば、そうなることを見越してブランコの踏板を外しておこうと思い立ったのは、妻のセガワでした。 つまり、セガワ家の裏庭に店主の息子の立ち入ることをセガワ本人がほぼ容認していたようなものであり、そのことを知っている店主にしてみても息子の行為を厳格に禁じるつもりはまったくありません。 店主は、セガワの不在中に隣家の敷地へ立ち入ることの是非を一般的な尺度にもとづいて説明しておいてから、その行為を禁じるつもりのない旨を息子に伝えておきます。




『店主と息子、裏庭とブランコ台』




konoです。
ブック・カバーやらフリスク・ケースやらブレスレットやらシガー・ケースやら、高価でない革製品(本革とか栃木レザーとか何とかいう名称で部類されているレザー製品)を少しずつ買い集めているところなのですが、その製品によっては革の芳香――というより、自分の気に入った芳香――がしないものもあり、私宅に届いたばかりの革製品の匂いを嗅いだ瞬間に、あれ、と思うことがあります。

わたしは革が好きです