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裏庭のバジル 20 



 前夜と何ら変わり映えないある日の夜、妻のセガワは店主の自宅に電話をかけて翌日以降にしばらく家を空ける予定であることを彼に伝えました。 思春期の頃から原因不明の病気をからだに抱えていて、その治療を定期的に受けるために、定評のある病院の近くにアパートを借りてそこで暮らすのだとセガワは言います。 その病気の正式な名称や、治療に関するそれ以上の詳しいことは何も話しません。 一方の店主にとってそれが唐突に過ぎる話題のように思われたのは、セガワの体調不良に思い当たる節が無いからでした。 セガワ本人から病状を聞き知ったこともなければ、その当人の病弱をうかがい知る言動を見聞きしたこともありません。 彼はただ無言のまま返事の内容を探しあぐねた末に 「なんとも急な話だ」 と、わずかに情感の含んだ掠れ声で応じます。
「たいていの場合、そういうものです」 とセガワは事もなげに言います。
 店主はセガワ夫妻の人柄をみじかく想い起して、そういうものかもしれないと思います。 店主の自宅もセガワ家も築年数と居住年数にしてたかだか三年余りに過ぎず、家の壁板に若干の薄汚れが付いているとはいえ、まだ雨風による木材の色褪せがわずかにさえ起きていません。 屋内に組み立てられた無垢の木の香りは新築の頃のものにも似た程度の密度を保っています。 柱や床板は長い年月をかけて飴色に変色し、やがて年を経るごとに住人の生活の年輪が各家ごとにそれぞれ刻まれていきます。 店主はそれらのことに思いを巡らせ、セガワ夫妻の物静かな暮らしと、その彼らとのあいだに築いた隣人関係に思い至り、そしてそれから何というわけもなくセガワ家の建築費用の金額について、その見当も付かないまま、ただ漠然と考えます。
「聞いていますか、わたしの話」
「うちの息子のやつ、なんて言い出すだろうな」
 もし仮にセガワ夫妻がその住居というものを生活の場と見なしていたのだとして、しかし、生活的な拠り所のひとつとして彼らはそれを所有していなかった。セガワ夫妻は家を不定期間に保有して、ときにはそれをヤドカリよろしく敷地内に放置する――店主は受話口から意識をわずかに逸らせて思います――彼らにはいちど家を建ててそれを放置するだけの金があったのだ。
「わたしに付いてくる、とか」
「それは困るよ」
「だからわたし、あの子には何も言ってありません」
「こまるよ」

 妻のセガワは、店主の息子に対する唯一の個人的な責務として (同件の話を持ち出すにあたって店主の息子に関する過去の一件にまでは言い及ばなかったものの) セガワ家の裏庭の一角に置いてある家庭用ブランコの踏板を外しておくことの意図を店主に伝えたあと、踏板の取り外しの作業を代わってもらえるよう彼に願い出ます。 店主は過去の一件を反射的に振りかえって、事故当時に妻のセガワが見せた無表情な謝罪の一場面を思い返し、その事故の再発を防ぐ手立てについてセガワが電話口で申し出ているものと察しを付けます。 それから彼はブランコ台の渡し棒から吊り下がっているのが2本の鎖であるかロープであるか、そして、いったいどのようにしてそれらが踏板と繋がっていただろうかと考えてから、自宅の裏庭の物置の中に保管してある工具箱にはじまり、六角レンチやら何やらの工具の形状をざっと頭に浮かべます。
「お願いできないでしょうか」
 店主はセガワに了承を伝えて電話を切ると、自宅の裏庭の隅にある物置の中から工具箱を持ち出してセガワ家に向かいます。 玄関灯の明かりを目先に眺めながら門柱を抜けてインターフォンを鳴らすと、裏庭のほうで妻のセガワの明瞭な呼び声が上がります。 店主は了解の一言を返して裏庭につうじる表通路に立ち入り、携帯電話の照明機能を立ち上げて、そのLED灯の明かりで通路上の石版の連なりをなぞって歩きます。 いましがたのセガワの呼び声に対して、それまでに感じ取ることのなかった彼女の生気とでもいう類の性質を想い起こします。
 妻のセガワはすでに裏庭に出ていました。 麻でつくられた白い半袖のカットソーを身に着けて、下半身にはタイトなデニムパンツを履いています。 股下から伸びた二本の脚が健康的な肉感をかもしており、当時まだ中年の頃にあった店主にとっては、そのセガワの姿態は印象深くあります。 セガワ家の縁側の天井灯の明かりが、ちょうど彼らのいる裏庭の半面ぶん程にまで伸びています。 店主は陶芸家の仕事風景を無知のままに想像して、いつも普段から体を鍛えているのだろうとの憶測を立てますが、しかしあとになって考えてみれば、かねてより妻のセガワの普段着をほとんど意識して見ていなかったその理由がはっきりと彼女の平生の服装に示されていたのでした。 セガワはいつも決まって大きなサイズの妊婦服を重ね着したような格好をしていました。 夏の盛りの時期になど、額のあたりや首回りに薄っすらと汗を滲ませながらも、変わらず服だけは首下から足首に掛ける寸胴なものばかりを着ていました――「ずいぶんと厳重に結んであるでしょう?」
 店主はブランコのすぐ近くに腰を落として踏板を手に取ります。 セガワは店主の斜めうしろに立って、それとなく彼の手元を見下ろしています。 ブランコの踏板の両端には半円状の銀色の金具が取り付けてあり、その金具にはロープがしっかりと括りつけてあります。 それはハングマンズ・ノットと呼ばれる紐の結び方で、絞首刑の首つりロープをつくる際に用いる他、引越しや釣りの際などに多用される結び方でもありました。 店主はそれが紐の結び目を丈夫にしておくための方法であるとだけセガワに伝えておくと、 そのあと彼自身のわきに置いてあった工具箱のふたを開けて、中から取り出した二本のラジオ・ペンチをそれぞれ両手に持って一本目のロープを取り外しに掛かります。 その手作業をしながら彼は、セガワの夫の消息とその本人からの連絡の有無をたずねます。 セガワは無言に店主の作業の手付きを見下ろしていましたが、しばらくの沈黙につづいて乾いた口調で話し始めます。
 ――彼がここに戻るつもりでいるのかどうか私には分かりません。 もうずいぶんと長いあいだ彼には電話を掛けていませんが、つながらない電話を掛ける気はありません。 ――いいえ、まず彼がパスポート以外のカード類や生活資金などを持って日本を出るのは当然のことですので、わたしがそれに対して不満を感じるのはお門違いでしょうし、それに、これまでにも何度か、連絡ひとつ寄こさずに、ときには長くて半年ぐらい日本に戻ってこなかったこともありました。 わたしは彼の帰りを待つことに慣れています。
 店主は作業の手を止めたまま、自分の真後ろにセガワの気配が移動するのをその彼女の発声の位置から判断します。
 ――かえって陶芸に打ち込んでいられるような気がします。 こうして彼と別居していても日常生活に支障を感じていませんし、今のところ、わたしの物づくりにも差し障りが無いように感じます。 それどころか、とくに工房にいるあいだは夫婦生活がもともと不要であったようにも感じられます。
「旦那が不憫だ」、雑然と混じり合う微妙な感情を揺らしながら店主は言います。
 ――もし何か連絡があれば、彼の安否を確認できて有意義に感じられるのかもしれません、でも、それはたぶん私にとって、その、ひとつの事実とか、自覚的な体験の認識とでもいったようなものでしかないはずなんです、一国の大統領が暗殺されたとか、いつも可愛がっていたペットがどこかに姿を消したとか、ここ最近は野菜をあまり食べていないとか、太陽がまぶしいとか。
「だから、連絡が来なくても何も思わないわけだ」 そう言って店主は踏板の二本目のロープを半円状の金具から取り外しに掛かります。 「私だって、そうだな……たとえば、別れた妻が息子のケイタイにしか電話を寄こさなくなったからといって気を落とすわけではないだろうが……いや、しかしまあ、そもそも私と君の場合では、ずいぶんと事情が違うだろうからな」
 セガワは首を伸ばして店主の作業の手が止まっているのをちらと見下ろします。
 ――なんていうか、彼は外国に行くたびに少しずつズレていっているように思います。 何がズレていくのかはうまく説明できませんが、わたしの元から離れていくのとは少し違います――その、吐息や肌の匂い、話し口調、それに、お互いの見ているもの。
「私と君とでは、吐き出す息がそれぞれ違う。 肌の匂いも違うし、口調が違う、それにやはり、見ているものも違う」
 店主は会話の間断を見て取ると、「さて」と、掛け声をこぼして立ち上がり、それから背後に向き直ってブランコの踏板をセガワに手渡します。
 ――わたしにはまだ、この違和感の原因がはっきりと掴めていないんですが――と、そこで言葉を切ってからセガワは、たったいま受け取ったブランコの踏板を手元にじっと見下ろしていましたが、つぎにその自分の視線と踏板を一緒に前に差し出すと、無意識のまばたきに合わせて店主の喉のあたりをまっすぐ見やります。
 ――わたしは、子供がいる家庭を夢想して、その生活の一部を体験してみただけでした。
 店主はブランコの踏板を受け取ります。 セガワ家の縁側の天井灯がセガワの衣服の側面に濃い影を付けています。
「きみの何が本音で何がそうでないのか、いまだによく分からん」 そう言って店主は一方の手で掴んでいた踏板を何ということなく一度だけセガワの前にひょいと掲げて見せます。 そしてそれから彼は自宅のリビング・ダイニングの床に敷いてあるカーペットの上に男児の寝姿を思い起こします。
「息子のやつには、私からうまく言っておくよ」
 それを聞いて妻のセガワは店主の首元から顔へと、撫でるように視線を引き上げて言います。
 ――他にもまだ、お預けしたいものがあります。
 妻のセガワは 「こちらへどうぞ」 と言い加えながら踵を返して、そのまま家の玄関に向けて店主の前を歩き出します。 店主が携帯電話のライトを点けてその明かりをセガワの足先に投げ掛けると、「大丈夫です、夜目が利きますので」 と、顔をわずかに斜めにかたむけてセガワは礼の一言を口先に溢します。 店主が携帯電話の画面を指で操作して灯りを消すと、セガワの着ている白いカットソーの輪郭が水に滲むように辺りの薄闇に溶け込みます。 シャツの白地に夜の粒子が吸い付いていく様子を思い浮かべ、店主はその自身の想像の拠り所ともいえる一冊の絵本を頭の隅で開きます。 終盤のページに描かれた風景の絵柄が思い出され、またそれに合わせるようにして、ひとりの女の声が彼の脳裏をかすめていきます。

 ざらざらしたよる ほしがたくさん じめんにばらばら きのめがでたよ
 ぱぱがわらって ままもわらった めをとじてすぐに ふたりがねむれば
 ほしがたくさん ざらざらしたよる ほしをおとして そらがとじるよ
 いそいでかえろう ぼくもかえるよ ほしがおちるよ そらがとじるよ




『店主とセガワ、踏板の結び目』