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裏庭のバジル 22 


 妻のセガワは湯を沸かしに台所に立って、やかんを載せたヒーターのスイッチを入れたあと、リビングのソファに座っている店主の後ろ姿を一瞥します。 それから彼女は後ろに向き直り、縦横に並んだ数枚の四角い開き戸のうち一枚の取っ手に指先を引っ掛けると、扉を開いて中から湯呑茶碗を二個まとめて器用な手つきで指に挟み込んで取り出します。
 ――本人はそれを受け取るのを嫌がっていたようでしたが。
 そう言ってセガワは戸を閉じて調理台に 湯飲み茶碗 を二つとも置くと、つぎにまた後ろを振り返って別の扉の取っ手に指先を渡し、今度は棚の中から煎茶の缶と茶瓶を取り出します。
 ――わたしよりずっと上手に作ってあります。
 茶葉の入った缶を調理台の上に置いてセガワは一方の手でその缶の側面を掴んで支えます。 そしてそのあと脇をななめに開いて、他方の手で缶のふたを真上から鷲づかみにします。 ふたが すぽん と音を立てて開いた直後、芳しい香気が缶の中から立ち上ります。
 店主は手に取ったばかりの一個の陶器から視界を逸らして、陶器を入れてあったアンティーク調の木製の小箱を眼前のリビング・テーブルの上に見やります。 そして彼はその小箱の購入者が夫のセガワであることの見当を付けて、もとは腕時計か指輪、あるいは香水の瓶か何か、またあるいはそれこそ何かの器がその箱の中に収められていたものと思います。 店主はそれからもういちど自身の手元に視線を戻します。 小箱の中にはいつか店主の息子が造形した陶器が収めてありました。 それは大人の片方の手に乗る程度の大きさの深皿で、その器の口がかろうじて円状を成してはいるものの真ん丸からは程遠く、またそれにくわえて胴の厚みが不均一であることなど、一見すれば大胆さと武骨さをあえて強調した食器のような見栄えをしています。 店主にはその陶器の出来の良し悪しがいまいちよく分かりませんが、いくら素人目に良心的な見方をしたところで、その器の歪んだ形状を作り手の個性か何かに関連付けて評価するには造形が明らかに雑であるように感じられます。 またその反面、器の外面に塗装された色には何かしらの特別な風合いがあり、そこにはその制作行程を生業とする者の色彩的な感性が示されているようでもあります。 銀色の中に深い青緑を溶け込ませていて色名はありません。 店主はリビングの天井灯の明かりに透明の艶めきを放つその陶器を間近に見入って、妻のセガワの手元にそれを置いておかせるための気の利いた文句を考えに掛かります。 セガワは やかん の底に細かな水泡の音を聴き取ると、ヒーターのスイッチを切って二個の湯飲み茶碗それぞれに湯を注ぎ入れます。
「それにしても変わった色だな」 と、店主は陶器に見入って言います。
 ――夫がつくりました。 そう言ってセガワは眼下に立ち上る湯気を手でひらひらと払いのけて、それから湯飲み茶碗の胴の部分に指の腹を当てて温度を確かめます。
「色に奥行があるように見える」
 しばらくの沈黙につづいてセガワは言います。
 ――そういう見方もできますが――商業的な利用は出来ません。
 それを聞いて店主は手元の陶器から視線を逸らすと、背後を振り向いてセガワを見やります。
 ――家計の足しにはならないんです。
 セガワは乾いた口調で言って視線を落とします。 湯飲み茶碗に入れてあった湯をすべて茶瓶の中に移し入れ、キッチンタイマーの設定時間を三十秒にセットしてそれを茶瓶のわきに置きます。 まもなくして茶瓶のふたが閉じる、乾いた小さな音が台所に鳴ります。
 店主は自身の手元に向き直って一個の陶器を見るともなく見ます。 それから表情をしずかに緩めて自身の背後の離れた場所に意識を向け、互いの持つ感性の特殊性を認め合いながらも当のセガワ夫妻がそれを口に出して言い合わずにいたものと察しを付けます。 そして店主はおもむろにソファを立ち上がってセガワを振り返り、トイレを借りても良いかなと言います。
 ――あと二十秒ほど待っていただけませんか。
 キッチンタイマーの表示時間を目で確認したあとセガワは、茶瓶の取っ手を掴んでそれを自身の胸のあたりに掲げて、他方の指先で茶瓶の胴を軽く何度か小突いて見せながら言います。

 店主は食卓のわきに立ってセガワの視線を浴びながら茶を飲み終えると、その湯飲み茶わんを茶盆の上に置いてダイニング・リビングの室内を出ます。 ――トイレの場所、わかりますよね――そのセガワの言葉どおり、すでに店主の頭の中にはセガワ家の間取りがその細部の場所に至るまで描かれていました。 廊下に出たあと店主はセガワ家の内玄関に暖色の灯りが付いているのを見て取ります。 それから彼は視界を移して家の奥に向かって廊下を歩き出します。 家屋のデザインとおなじくトイレの室内もまた和風を基調とした落ち着いたつくりになっています。 一枚板のカウンターが柔らかな材木の色味を放っていて、その板の中央に埋め込まれている淡青の手洗いボールには水垢や傷などがひとつも付いていません。 壁板が人の腰元の高さにまでぐるりと室内を巡っていて、おなじ種類の床板の上には毛髪の一本すら落ちていません。 店主は自宅のトイレの床板と、そこに飛び散った霧状の尿を思い浮かべます。 そしてそのあと彼は自身の頭の高さに位置している曇りガラスの小窓を見やって、どうというわけなく片側の窓を開き、窓枠の外に顔を突き出して向かいにある生垣から自宅の屋根へと視線を渡します。 午後八時三十数分の夜気が屋外に充満しています。 両家の向かい合わせの側壁のあいだを、夜の風がゆるやかに流れていきます。 自宅のトイレに灯された照明が生垣の枝葉の隙間を縫って店主の目に映ります。 四角いトイレの窓が細かい葉影を散らした不完全なモザイクを成しています。 店主は目を凝らして生垣の向こうに意識を注ぎます。
 自宅のトイレの小窓が開いていました。 窓枠の内側にはトイレの壁紙が見えます。 店主は自分の息子が時機よく同じようにトイレを使用しているものと思い、その奇遇な状況に対して不意に小さく吹き出すと、ごく微かな笑いを目尻に浮かべて気迷いのない手付きで窓を閉めます。 それから彼はトイレの便座カバーに歩み寄ってカバーを手で引き上げ、ベルトを外しながら便器に背を向けて腰を落とします。

 トイレの戸を開けて店主が廊下に出ると、程近い場所の照明の灯りが廊下の床に伸び広がっていました。 その灯りのほうへと廊下を歩いて行けば、左手には洗面所、右手には浴室、そして正面には勝手口の扉があります。 わずかに気迷いを覚えながら店主が一歩を踏むと、ほどなく浴室に水音が鳴ります。 当の部屋が浴室であることの確信のもと、それが湯かき棒を使用する音であるものと店主は直感的に理解します。 そして彼は自身の息子が過去に自宅の風呂の準備をしていたときの場面を反射的に思い起こし、浴室に水音の鳴る状況としてそれらがほとんど同様の一場面を成していることに妙な感覚をおぼえます。 どことなく悠々とした印象をかもす水音が確かに鳴ってはいますが、しかし実際に店主の耳目にはセガワの姿や声が入って来ません。
 店主は聞き耳を立てながら浴室の前にまで来ると、すりガラスをはめ込んだ引き戸の前に立ち止まって、その開きかけのガラス戸と戸枠の十数センチの隙間に声を掛け入れます。 浴室の前には一本の廊下を挟んで洗面所があります。 洗濯乾燥機の上には脱衣カゴが置いてあります。 下着や靴下やフェイスタオルなど、数日ぶんの洗濯物がカゴの中に放り込んであり、それらの布地の色からはセガワの地味な趣味と女気の欠如ぐらいしか見出せません。
「もうそろそろ失礼させてもらうよ」 と、店主はセガワの後ろ姿に視線を移します。
 湯かき棒を浴槽から引き抜いて、セガワが店主のほうを振り返ります。
「さっき君が言った “預けたい物” というのは、あの器のことだな」
 ――そうです。
 セガワは湯かき棒をタイル床の端に立てて置いてから浴槽のふたを閉めます。 そしてそのあとまた店主に向き直ります。
「じゃあ、たしかに預かっておくよ」 と店主は言います。
 ――もうすこしお時間をいただけませんか。
 セガワは店主の胸のあたりに落とした視線を引き上げて息吹くような声で言います。 そのあと彼女は浴室のガラス戸を大きく開いて店主のわきを通り抜け、間近の壁のスイッチに手を掛けて浴室の照明を落とし、またさらに表情ひとつ変えずに壁際のタオルハンガーからバスタオルを摘み上げてそれを洗濯機の上に載せてあった脱衣カゴに手早く広げて掛けます。 一方の店主は手首に巻いてあった腕時計の表示板を眼下に見ています。 「明日も仕事なんだがね」
 セガワは洗濯機の隣にある洗面所の前に立ち位置を変えます。 グラス・スタンドに伏せてあるプラスチック製のコップに水道水を注ぎ入れてそれを一息に飲み干し、その空になったコップを元の場所に戻したあと、ちらと斜めに視線をずらして店主の顔を鏡越しに見ます。
 ――生垣のことで、お話ししておきたいことがあります。
 それを聞いて店主はセガワの顔にことさら注意を向けます。 「いちど家に電話を掛けさせてくれないかな」
 セガワは店主の発言の意味を考えながら鏡の一点をじっと見つめます。
「テレビの前で息子が眠っているところに君からの電話があった」
 ――リビングへ戻りましょう。
 洗面台の鏡に映っていたセガワの姿が廊下を遠ざかります。 店主はスリッパの擦れる音を廊下に聞くかたわら、スラックスの前ポケットから携帯電話を取り出し、そこに登録してある自宅の番号を画面上に表示させます。 デジタルの発信音に耳をかたむけて眼前の鏡に映った自分の上体を眺めているうち、その鏡の表面のどこにも くすみひとつ 付いていないのを見て取ります。



「冷凍食品をレンジで温めて食うらしい」
 店主は台所に立つセガワの姿から視線を逸らしてリビングのソファに向けて歩を進めます。 「明日も学校があるから、今夜はここに来られないんだと」
 ――明日も仕事があることを分かった上でここにいる大人だっているのに
「出来た息子だろう」
 セガワは小型のフライパンの中に十数個の厚切りベーコンの薄っすらとした焦げ目を見て取ると、すでに冷蔵室から取り出してあった保存用タッパーのふたを開けて、一口サイズに切り分けてあったホウレン草の束をまとめて箸でつまみ上げます。 そしてそれをフライパンの中に落とし入れて、調味料で味付けをしてから一片のバターをパンの底に転がします。
「腹が減ったよ」 と、店主はソファの背もたれに寄り掛かって深々と吸った息を鼻から抜いて、そのあと特に何を思うでもなく “腹が減った” と、声を落として繰り返します。 リビングのテーブルの上にはアンティーク調の小箱が置いてあります。 その箱の中身を妻のセガワの手元に置いておかせるための気の利いた一言を考えようとして なかなか思い付かず、そこでふと店主は、セガワという人物が過去の思い出を持たない類の女なのではないかと考えます。




『店主とセガワ、隣家の家事とそこに鳴る音』

 谷川俊太郎という名の詩人が、まずはじめに頭をからっぽにすることを作詩において重要視しているらしいです。 なんとなく普段から僕もそんな気がしてはいたのですが、あらためてそのことを詩人その本人の発言として再認識してみると、小説というのはなんと肩の凝る文学形式かと思えてきます。



音楽は多数の音符の集まりだ
音符の羅列を音楽と呼び
人がそこに耳かたむけるだけ

音符に心は無い
音符の羅列に心は無い
音符の羅列は心を介さず
あるべきように並びを成せば
ただ人がそこに耳かたむけるだけ

kono