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konoです。
新しく音楽ソフトを買ってそれを使い始めてみて、音楽ソフトの編集画面の基調色は個人的に黒のほうが良いように感じました。
なぜそう感じるのかよく分かりませんが、白が有形のほとんどを人目にさらしてしまうことが関係しているかもしれません。(それは裏を返せば、その白の中に有形が溶け込んだように錯覚することができれば、音楽ソフトの編集画面の基調色は白でも良い――ということでしょうか。

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【音楽鑑賞に興味のない人が、別の種類の芸術物の鑑賞に入れ込む――という場合を仮定して、さらにはその本人の目の前にある物がすべて “死” にもとづいた、いわば死生的な芸術物である場合】


 “死を見る” ということは “生の土壌に立つ” ということであるはずで、もし仮にワタシが、小説であれ音楽であれ、または絵画やその他のものであれ、それらに対して程度によらず空虚さを不意に感じたのだとしたら、その表現物には日常の感情的表現が大きく描かれているかもしれません。
 生きた人間は感情表現をしますが、死んだ人間は感情表現をしません。そしてその生きた人間の感情表現には娯楽的な性質が帯びやすく、またその娯楽性を足掛かりとしたエンターテインメント作品ともなりやすい。 その娯楽作品の多くには表象化された生死が扱われていても現実味のある死生は扱われていない。 エンターテインメントというのは人の感情に訴える 『生』 の体感を意味していて、そこにあって 『死』 の多くは生を導くための一コマとして扱われている。

(『死』は硬く、感じないし動かない。 だから死は人の感情表現には向かない)
※これは死生的芸術物(表現物)に関する考察です、僕の今の心理状態を示すものではありません。


 想像の 『死』 に現実味が感じられたり、またそこに生の片鱗をちらちらと見させるような芸術物――その “死生的芸術物” に触れることの意義というのを考えてみてそれを “鑑賞者が作者をつうじて人間の死生に対するひとつの見方やその現実味に触れること” であると仮定すれば、その死生の現実味をつよく帯びた芸術物こそウィキペディアの 『芸術』 の項目にも記載されている―― 『精神的・感覚的な変動を得ようとする』――そのための最たる一因なのでないかとも思えてきます。 まず一般的にはサイケデリックな性質を帯びる音楽や絵画 (動画) が “そのための” 高い即効性を得るための一因であると認知されているでしょうけど、考えてみれば、『精神的・感覚的な変動』 を得ようとするとき人は何かしらの欲求を “進んで” 満たそうとしているのであって、すくなくともそこには個人の日常と完全に (ほぼ完全に) 切り離されたその場所における外圧的かつ圧倒的な変動というものがそう簡単には起こりえないのではないでしょうか。
 ひとつ思うに、その圧倒的な変動を引き起こしうる絶対的な一因というのが 『死』であって、その死から副次的に生じた 『生の片鱗』 は (ちょうど地面に落ちた木漏れ日のように) ほぼ確実に個人 (鑑賞者) の 『死』 の上に落ちて、張り付いて離れない。
 死が絶対的な一因であるということは、死と瀕死のあいだに引かれた一線が確実に両者を隔てているということ、さらにはその死が人を完全に孤立させるということ、またその死に対する人間のあらゆる感情が無意味であるということの意味合いを含みます。 ――死が圧倒的な力で人の無感覚を誘い、そしてある種の人の関心をつよく惹き付ける。 (ただし実際のところ死は美しくも何ともない)

 そうして純然とした生の片鱗が生じるとき、そのための直接的なきっかけとなった死生的芸術物の価値の大きさを想像するのはそれほど難しくないことのように思います。 もしかしたらその芸術物は、鑑賞者に死の孤立を疑似体感させたかもしれませんし、ただ静かに呼吸することについて考える機会を本人に与えたかもしれません。 エンターテインメントがあくまでも生の体感を意味していて、そこにあって死は多少なりデフォルメされた単なる一コマであるに過ぎないということを本人に気付かせたかもしれませんし、すべての生きている人間がただそれだけで生存価値と多少の可能性を “持っているには持っている” ということを気付かせたかもしれません。 ――死というのは個人の持つ 空虚という感情 ですらも無遠慮に飲み込んでしまうほどの力をそなえて当人のわきに “黙って立って” はいるけど、言い換えればその力というのは、空虚に生きる人間を静かに安らかに孤立させるところから当人を生かす方向に誘っていく力のことであると――そういう長ったらしい内容の文章を当人の手元にあるメモ帳に書かせたかもしれないです。