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裏庭のバジル 23 


 店主はそれが自宅の周囲を覆う生垣の名称であることに気付かないまま、しばらくセガワの顔に漫然とした視線を当てていました。 およそ三年前、夫のセガワから聞き知ったその名称を手掛かりにインターネットを使って関連記事を探したものでしたが、しかしそれに該当する樹木の話題はおろか名称そのものさえ見付けられず、そこにきて店主としてはもう夫のセガワの言葉どおりそれが国外に成る樹木であることを不確かに想像する他ありませんでした。 そしてその後、生垣の管理をセガワ家に任せて月日を経るうち、木の名称や性質が店主の記憶から自然と薄れていきましたが、それから三年あまり経ったこの日、ひとつの聞き慣れない言葉として店主の記憶の隅をさっとかすめます。 店主は妻のセガワの顔の仄かな赤らみをテーブル越しに注視しながら、いつか夫のセガワを目の前にして感じていたその微妙に白んだ不穏な空気をまたおなじように感じていました。
「そうだな。 たしか、イェフスだった」
 そう言って店主は眠気の差した目線をテーブルに下げたあとに両目を閉じて、それから左右の眉をぐっと上げて目頭に鈍い疲労を感じます。 テーブルの中央には妻のセガワが手早く作った酒のあてが大皿に盛って置いてあり、赤ワインの瓶が二本、セガワの手近に立ててあります。 テーブルをはさんで対座する店主とセガワは、それぞれ封の開けた缶ビールとワイングラスを卓上に置いて午睡の間際にも似た感覚に浸っていたところでした。
 ――なんですか。
 セガワは店主の表情のあからさまな変化を見て、唇の端に微妙な笑いを落とします。
「君の旦那も、たしかイェフスと言った」 と、店主はカーテンの開いたリビングの大窓を見やって、室内の灯りを薄ぼんやりと浴びる窓外の生垣を眺めます。 室内には沈黙が流れ、セガワは店主の横顔をしらっとした表情で眺めています。
 ――まず、木の名前に関してお話ししますが――あの木がもともと植わっていた土地では、現地の若い人たちが “イェフス” ではなく “イエス” と呼んでいたらしいです。
 それを聞いた店主が儀礼的に笑って気だるくセガワに目を向けます。
 ――キリストです。
「だろうと思った」 と、首をかすかに振って店主は気のない声をこぼします。
 ――夫から聞いた話ですので、わたしにはその真偽は分かりません。 あくまで酒の席の他愛もない話だと思って聞いてください。
「わかった」 店主は腕時計の表示板に目を落とし、「生垣の管理方法だけを教わって帰るのも味気ないだろうから」 と、そう説明の口調で言い足してからセガワの顔をもういちど見やります。 セガワの表情や語調には平生の取り澄ましたふうな理知的な印象がなく、一見してその顔に飲酒の効果が見て取れます。

 イェフスという単語がロシア系住民の性のひとつであることについてセガワが言い及ぶまで、そのラトビアという一語の示すところに店主は気付きませんでした。 ――ラトビア共和国――と、セガワは正式な国名に言い換えておいてから、自身の夫が天然染料の開発に携わっていた関係上、その素材探しや開発研究の視察を名目として海外の国々を転々としていたことを言い加えます。 そのいずれかの国で夫のセガワが日本語教師の海外派遣プログラムに参加して以降、本業にかける滞在日数を超えて派遣先の現地に住まう機会が増えていき、そして夫はその移動と滞在を繰り返すかたわらアンティーク家具や雑貨などを買い付けて日本の国内でその販売を始めるようになります。 妻のセガワはリビングダイニングの出入り口のあたりに置いてある一台の小棚を指し示して、その類の家具に二十万円前後の値段が付けられるのだと言います。
 ラトビアの滞在中に自身の夫がイェフスの木の存在を知ったことの可能性にまず触れておいてから、セガワはさらに表情ひとつ変えずに淡々とした物言いで説明をつづけます。 『イェフス』 のロシア語のつづりは不明。 ラトビアに住むロシア系のカトリック信者が自身の非国籍者としての在住を自嘲し、なおかつイエスの迫害と、ph の語用 (fの一文字に置換させ得ることの非合理性) と 『ph』 の存在意義に対する私的感情を込めてyephs―― the tree of yephs ――語中に含まれる ph がはっきりとは発音されず、あるとき夫のセガワは、その文字の本来のつづりを知っていながら 「イエスの木」 と聞き間違えをしますが、それは彼が期せずして現地の生の言語文化のひとつに触れていただけのこと、つまり一種の言葉遊びの感覚で現地住民が 「イエス」 と意図的に発音したのを、夫のセガワはそのまま正しく聞き取っていたのでした。 妻のセガワは夫から聞き知った話の一部を挙げて、それが綺麗な顔立ちをした青年であったこと、そして、ラトビアに生まれ育った女性の美しさにちなんでその青年の性別が疑わしく感じられてきたことなどを話します。 またそれから妻のセガワは、夫の日本語授業に出席していた男女生徒らの顔写真が自宅に保管してある、と、まどろんだ視線を送って店主に写真の確認を提案します。 対する店主は首を振ってセガワに話をつづけるよう促してから、青年の性別が実際に女だったのではないかと胸中に呟きます。 “ありそうな話だ” と、あくびを噛み殺しながら思います。
 妻のセガワは夫から聞き知った情景を思い浮かべながら話を続けます。 それらの想像の一片一片は夫の撮影した現地の風景画像をもとにしてあります。 広大な湿地帯を覆う吹雪の跡や、空一面に広がる鉛色の雲をまとめて捉えた一枚の画像を思い浮かべ、自身の夫が撮影した中でその一枚がもっとも美しく感じられたことを思い返します。 彼女がラトビアの未開の森を想像するとき、その森の上空には曇天が広々と重々しく垂れ込めています。
 イェフスの木が “イエスの木” と称されて現地の住人らに認知されているのにはもうひとつの理由がありました。 成木して以降、人が両腕を広げたように枝が横向きに延びていくからです。 地面に対してたわむように角度を付けて放射状に伸び、木の全体がちょうど傘を広げたようなかたちを取ります。 木の頭頂から株元に生えているすべての枝が少なからず同じように伸びていきます。 地上三、四メートルの高さに水平を保って横這いに成長をつづけ、やがてすべての枝先はゆるやかな線を描いて地面に向かいます。 冬の極寒の時季になると葉の落ちた細い枝々が不完全に氷で覆われ、風に吹かれれば氷の重みでそれらの枝が雑然と揺れ始めます。 無数の枝先が不揃いに風に揺れているようでもあり、ぎこちなく自発的に動いているようでもあります。
 店主はラトビアの冬をあいまいに思い描いて、夫のセガワの姿をその想像の寒空の下に立たせてみました。 そして、セガワ本人にとって居場所が日本であろうと外国であろうと関係ないのではないかと思います。 夫のセガワの失踪に事件性が無いのであれば、その行動に至った決定的な原因はまず少なくとも妻のセガワには無い――冬の寒さは万人がほぼ等しく肌身に感じられるものであるはずで、なにも夫のセガワひとりだけが格別な寒さを感じていたわけではない。
 妻のセガワはそれを店主の無関心の表われであるものと勘違いをして話を中断します。 店主の沈々とした視線を追っていると、テーブルの中央にある大皿や、空になったワイングラスや、セガワの座しているソファの背もたれやセガワの上体など、関心の薄れに眠気が相まったような態度があからさまに見て取れます。 一方の店主は意識して深く息を吸いながら何の気なく視線を上げて、そのときちょうどセガワの乾いた視線に気付きます。 そして彼は同時に、セガワの話がいつからか中断されていたことを思って、やや気まずく左右の眉を吊り上げて見せます。
 ――眠いですか?
「すこし考え事をしていたんだ」 と、店主は首を振って言います。 「明日になれば君は家を出る。 だから今こうしていられるあいだに聞いておくべき話がいくつかあるように思う」 それから店主はさらに言葉を継いで 「まずひとつは、イェフスの木に害虫の忌避効果があるという話について聞きたい」
 ――迫害された者の孤立に例えているんだと思います。
 セガワはそう言って片手をソファの座面に突くと、口先に酒気を漏らしてソファの背もたれから上体を引き離します。
 ――あの木が虫を遠ざけるのか、それとも虫があの木を遠ざけるのかはわたしには分かりませんが。
 店主は無言にセガワの行動に視線を押し当てます。 グラスにワインを注ぎながらセガワが声を押し殺して短く笑いを漏らすと、その様子を見て店主は先のセガワの発言が本人の冗談であったものと思ってむしろ安心を覚えます。
 ――実際に虫は付いていませんよね?
 セガワはそう言ってからワイングラスの液面に注意を払ってゆっくり姿勢を戻していきます。
 ――それ以外のことは、わたしには何とも言えません。 あの木が本当にラトビアの土に植わっていたのかどうか分かりませんし、それに、あの木を日本に持ち込むことの違法性についてもわたしには分かりません。
 セガワはそしてワイングラスを口元に寄せながら店主の顔に目をやります。
 店主はソファの背もたれに寄り掛かって卓上に見入ります。 大皿の中央に盛ってあった厚切りベーコンとほうれん草の 炒め和え が半量ちかく残っています。
「たとえそれが量的にわずかであれ、木に何かしらの毒の成分が含まれていることはおそらく間違いない」
 ――そうかもしれません。
「そして、もう一点、その毒は虫を殺すのではなく、虫を木に寄せ付けすらしない」
 セガワは黙って視界の外に店主の声を聞いています。 唇の内側に付いていた油がワイングラスの縁にわずかに付いていて、彼女自身がそれに気付きます。 二本の指でグラスの縁を上から挟み込んだあと、指の腹を横に滑らせて油の跡を拭います。
「この歳になって、それも子供がいるとまでなると、その類の目に見えない危険を無視できない」 と店主はわずかに語気をつよめて言います。
 ――それは私には分かりません。
 店主は卓上に置いてある飲みかけのビール缶を一瞥したあと、ソファから背を浮かし、大皿の端に寝かせてあるトングを手に取って自分の小皿に酒のあてを盛り上げます。
 ――虫は、木の葉や草を食べるでしょう?
「腹が減るから仕方ないよ」 と、店主は小皿の縁に寝かしてあった箸をつかって一塊のほうれん草を口に運びます。
 ――ミミズは、ときに芝生の感染病を引き起こします。
「その多くは、土を肥やしてくれる」、ベーコンから染み出す油に租借したほうれん草を混ぜ合わせて店主はそれを飲み込みます。
 ――ですが、土を肥やして芝草を枯らすのでは本末転倒です。 「それは暴論だよ」 そう反射的に応じてから、店主は温いビールを喉の奥に流し込みます。 ――芝生に薬を撒くのが一般的な予防対策のようですが――だからといって私たちの場合、最初からその必要はありませんから。
 店主は空き缶をテーブルに置いて、眠気と酔いのあいまった妙な不快感に押されるまま淀みなく話します。 「これまでのところ、あの生垣に気を病んだことは一度もない。 それはきっと君たちが木の管理をしてくれていたからだろう。 だけど、それとこれとは話が別なんだよ。 木の管理者である君がここからいなくなってしまえば、あの生垣を家の周りに植えておくことのリスクを、いよいよ私自身が考えないといけなくなるんだ」
 店主はそこで言葉を切ってソファから立ち上がります。
「もう一本、ビールをもらっても良いかな」
 ―― “二年か三年に一度” で結構です。 木の内側に日光が差し込む程度にまで枝葉を刈り込んでください。 そうすれば問題ありません。 妻のセガワは口早にそう言うと、ついでソファの座面に手を突いて上体の向きを変えてから、リビングを遠ざかる店主の横顔に視線を這わせます。
「たしか、あのとき君の旦那もそう言ったんだ」
 ――管理していれば大丈夫です。
「たしかに何事も管理だ。 管理をしていなければそれまで保っていたバランスがいつか崩れるだろう」 と、店主は台所の調理台の縁に右手の五本ぶんの指先を伝わせて、そのまま台所の端に置いてある冷蔵庫に向かって歩きます。 セガワはソファの背もたれに手をかけて背後を振りかえり、台所の天井灯の下を横切っていく店主の姿を眺めます。
「開けても良いかな」
 妻のセガワは黙って一度うなずきます。
「本当に良いのか?」
 セガワは虚を突かれたような表情をつくってから黙ってうなずきます。
 それを見て店主は冷蔵室の扉の縁にかけた手を鉤状に曲げて、ゆっくりと扉を開きます。 するとそれに合わせて彼の顔や上体に庫内の暖色が張り付いていきます。 食品棚の二段目の端には瓶詰のフルーツ・ジャムが三本並べて置いてあります。 そのとなりには二個のチーズケーキがプラスチックの簡易容器に入れたまま置いてあって、『栗蒸羊羹』 と記載された紙のパッケージがまだ開封されてもいません。 庫内の三段式の棚すべてに何がしかの食料品が置いてあって、保存用タッパーと生卵の個数、またその他の生鮮食材の数々を見るかぎりでは、翌日以降も妻のセガワの姿が自宅にあって不思議ではありません。 店主は自分の顔や首元を冷気にさらしながら物思いに浸り、そしてそれから目を閉じたところで庫内の無臭に気付きます。
「冷蔵庫の中では声が締まるんだ」
 店主の両肩がゆっくりと少しだけ上下します。 「気のせいだと思うか?」
 セガワは冷蔵庫に溜め込んである食品などの処分を思います。
「大雪の日には人の声が響かない」
 そう言ったあと店主は重いまぶたを開けて、なんということなく食品棚に視線を巡らせます。




『店主とセガワ、イェフスとイエス』

konoです。
新しく音楽ソフトを買ってそれを使い始めてみて、音楽ソフトの編集画面の基調色は個人的に黒のほうが良いように感じました。
なぜそう感じるのかよく分かりませんが、白が有形のほとんどを人目にさらしてしまうことが関係しているかもしれません。(それは裏を返せば、その白の中に有形が溶け込んだように錯覚することができれば、音楽ソフトの編集画面の基調色は白でも良い――ということでしょうか。



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【音楽鑑賞に興味のない人が、別の種類の芸術物の鑑賞に入れ込む――という場合を仮定して、さらにはその本人の目の前にある物がすべて “死” にもとづいた、いわば死生的な芸術物である場合】


 “死を見る” ということは “生の土壌に立つ” ということであるはずで、もし仮にワタシが、小説であれ音楽であれ、または絵画やその他のものであれ、それらに対して程度によらず空虚さを不意に感じたのだとしたら、その表現物には日常の感情的表現が大きく描かれているかもしれません。
 生きた人間は感情表現をしますが、死んだ人間は感情表現をしません。そしてその生きた人間の感情表現には娯楽的な性質が帯びやすく、またその娯楽性を足掛かりとしたエンターテインメント作品ともなりやすい。 その娯楽作品の多くには表象化された生死が扱われていても現実味のある死生は扱われていない。 エンターテインメントというのは人の感情に訴える 『生』 の体感を意味していて、そこにあって 『死』 の多くは生を導くための一コマとして扱われている。

(『死』は硬く、感じないし動かない。 だから死は人の感情表現には向かない)
※これは死生的芸術物(表現物)に関する考察です、僕の今の心理状態を示すものではありません。


 想像の 『死』 に現実味が感じられたり、またそこに生の片鱗をちらちらと見させるような芸術物――その “死生的芸術物” に触れることの意義というのを考えてみてそれを “鑑賞者が作者をつうじて人間の死生に対するひとつの見方やその現実味に触れること” であると仮定すれば、その死生の現実味をつよく帯びた芸術物こそウィキペディアの 『芸術』 の項目にも記載されている―― 『精神的・感覚的な変動を得ようとする』――そのための最たる一因なのでないかとも思えてきます。 まず一般的にはサイケデリックな性質を帯びる音楽や絵画 (動画) が “そのための” 高い即効性を得るための一因であると認知されているでしょうけど、考えてみれば、『精神的・感覚的な変動』 を得ようとするとき人は何かしらの欲求を “進んで” 満たそうとしているのであって、すくなくともそこには個人の日常と完全に (ほぼ完全に) 切り離されたその場所における外圧的かつ圧倒的な変動というものがそう簡単には起こりえないのではないでしょうか。
 ひとつ思うに、その圧倒的な変動を引き起こしうる絶対的な一因というのが 『死』であって、その死から副次的に生じた 『生の片鱗』 は (ちょうど地面に落ちた木漏れ日のように) ほぼ確実に個人 (鑑賞者) の 『死』 の上に落ちて、張り付いて離れない。
 死が絶対的な一因であるということは、死と瀕死のあいだに引かれた一線が確実に両者を隔てているということ、さらにはその死が人を完全に孤立させるということ、またその死に対する人間のあらゆる感情が無意味であるということの意味合いを含みます。 ――死が圧倒的な力で人の無感覚を誘い、そしてある種の人の関心をつよく惹き付ける。 (ただし実際のところ死は美しくも何ともない)

 そうして純然とした生の片鱗が生じるとき、そのための直接的なきっかけとなった死生的芸術物の価値の大きさを想像するのはそれほど難しくないことのように思います。 もしかしたらその芸術物は、鑑賞者に死の孤立を疑似体感させたかもしれませんし、ただ静かに呼吸することについて考える機会を本人に与えたかもしれません。 エンターテインメントがあくまでも生の体感を意味していて、そこにあって死は多少なりデフォルメされた単なる一コマであるに過ぎないということを本人に気付かせたかもしれませんし、すべての生きている人間がただそれだけで生存価値と多少の可能性を “持っているには持っている” ということを気付かせたかもしれません。 ――死というのは個人の持つ 空虚という感情 ですらも無遠慮に飲み込んでしまうほどの力をそなえて当人のわきに “黙って立って” はいるけど、言い換えればその力というのは、空虚に生きる人間を静かに安らかに孤立させるところから当人を生かす方向に誘っていく力のことであると――そういう長ったらしい内容の文章を当人の手元にあるメモ帳に書かせたかもしれないです。




現在午前三時十五分