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裏庭のバジル 25 


 妻のセガワの転居から数日が経つと、店主の息子は彼女の不在に勘付いてそのことを憶測交じりの話しぶりで父親に言い知らせた。セガワを慕って毎日のように隣家を訪れていただけのことはあり、その息子の見当に大きく違わず、妻のセガワはすでに別の土地で新たな暮らしを始め、その一件にまつわる彼女の個人的な事情を店主はあらかじめセガワ本人から聞かされてもいたのだった。 そして、そこにあって一方の店主は自分に少なからず非があることを自覚していた。 最後にセガワ家を訪れたあの夜に、翌日以降のセガワの不在を電話口で息子に伝えてさえおけば、その後の数年間にわたる父子関係に頭を悩まさずに済んだはずだった。 いちど悪化した互いの関係の回復には時間の経過を頼らざるをえない。 そのことを店主は過去の経験をつうじて知っていた。 実際のところ、息子の心の傷は以降もしばらく息子自身の足枷となった。 何かを考えて判断しようとするにつけて、傷ついた心の硬化した種が彼の意識の奥で “じわり” と熱を持った。 それは息子にとって一種の呪いであり、一人の青少年にとって人生の足枷だった。 そして、いわばそんな息子の人格の成長を待つことが店主の責務であり、親としての価値を自覚するに十分な機会でもあった。 それは店主にとっては呪いでも足枷でもなかった。 すでに彼の歩幅は伸びきっていて、彼の持つ分別は “昨日” と “今日” と “明日” を無理なく隔てていた。

 日没がセガワ家の裏庭を明暗に切り分ける。 その裏庭の一角に店主の息子が座り込み、彼の眼下の庭草には薄ぼけた立体物がその確かな質量を日光に触れさせ、風になびかせている。 いちど父親に居場所を知られて以降、とくに悪びれる様子もなく同じ場所にまた何度となく立ち入り、その薄ぼけた立体に触れようとして知らず知らずのうちに眠ってしまうのだが、それから数時間後に目を覚ましたとき、いつもだいたい息子の身近には聞き慣れた声がする。 彼の父親であり、いずれ退職後に自宅の一角で駄菓子屋を始める男の声だ。 父親の姿はたいてい目覚めた息子の視界の外にあり、その声には何がしかの感情も示されていない。 まれに寝起きの息子の頭や背中に父親の手が触れることもあったが、それは息子に対する寛容ではなく、父性的な慰めと多少のあきらめの表れだった。
 息子は携帯電話を介して自分の所在を父親に把握されていたことを知らなかった。 よって、まず少なくともその件について父親に不平を訴える気を起こすはずもないのだが、そのうち息子はセガワ家への立ち入りを続けるかたわら罪悪感の芽生えを胸中に感じ取るようになり、その心理的なストレスのせいあって父親に対する明確な意図のない反抗を始めた。 十歳になろうという頃のことだった。 日没後の暗らみが深まっていくにつれて、薄ぼけた立体物が辺りに溶け込むように輪郭を失い、やがては消えていく。 息子はその不思議な現象をたまらなく愛おしく感じた。 セガワ家の裏庭への思いに浸りながら静かな心地良さを感じてもいた。
 だが、その立体物に触れようと手を伸ばせば、いつも決まって唐突な眠気におそわれるのだった。 何の確かな手触りの記憶も無いままに、気付けば地温の失せた庭土の上で目を覚ました。 視界の外には父親の気配があった。 毎日のようにそれは何度となく繰り返された。

 その翌年の春先の日の夜、セガワ家の裏庭で自殺未遂事件が起きた。 二十四歳の男で、妻のセガワの所属していた美術会派のメンバーのひとりだった。 当時、まだセガワが家を空けてから半年も経っておらず、店主の息子が早くもセガワを過去の思い出の一部として位置付け始めた頃のことだった。 セガワ家の裏庭には座板を取り外した家庭用の大型ブランコが設置してあった。 そのブランコ台の頂点に渡してある金属棒にネクタイをくくりつけて、男がそこに首を引っかけるのだが、しかしそう本人の思い通りにはいかない。 ただ首を絞めて窒息の苦痛を味わうばかりで、うまく頸動脈が絞まらない。 ようやく意識がすっと白み始めて “今度こそは” と思ったら、ネクタイの結び目が音もなく外れ、自制の効かない男の体が草地にどうと崩れ落ちる。
 ――店主はすでに男の嗚咽を屋外に聞き取っていた。 トイレの開いた窓の向こうに耳をそばだてて、自宅かセガワ家のどちらかに方角を見定めようとするのだが、ついにその嗚咽の出どころを両家のどちら側にも特定できなかった。
 午後8時半に差し掛かろうとする時刻にあって、店主の息子は風呂上りのテレビ鑑賞をリビングで始めたばかりだった。 その一方、店主は手に握ってあった懐中電灯のスイッチの入り切りを何度か繰り返すと、その明滅する鮮やかな灯りで意気を少しばかり高めておいてから廊下に足を踏み出した。 縁側の天井灯を消しておいたまま、他方の手に用意してあった携帯電話の画面の明かりを足元にかざして縁側に立ち入り、ガラス戸に掛かるカーテンを静かに開いてガラス戸の鍵を開けた。 それから戸の隙間をあけて屋外に耳を澄ませると、生垣の向こうには庭草の擦れる音がしていた。 それは間違いなく生垣の向こう側で鳴っていた。 わずかながら気が楽になる思いがした。 自宅の敷地内に不審人物の存在を認めたくなかった。 店主は大型のガラス戸をさらにまたゆっくりと開いていくと、踏み石の中央に載せてある屋外用のスリッパには足をとおさず、裸足のまま芝生に下りた。 懐中電灯のスイッチを入れて、その白色の鮮やかな明かりを自分の後方にかざして歩いた。 みじかく刈り払われた芝生の上には店主の足音は立たない。夜の庭草が足の裏に冷ややかな心地よさを与える。 店主はセガワ家の裏庭に注意を向けたまま、“アライグマか何かだろう” と思った。
 生垣の向こうに懐中電灯の明かりを差し向けると、そこには店主の見知らぬ一人の男の姿があった。 しばらく庭草の手入れがされておらず、草の丈が人の足首の高さにまで伸びていたが、ただ一部の草だけは根元から倒れ込んで無造作に重なり合っていた。 ブランコ台の金属棒にくくりつけてあるネクタイが疲労しきった輪ゴムのような楕円をしていて、座板に括り付けられていた二本のロープがその結び目のない先端をまっすぐ垂れ下げたまま微動だにしない。 まだ春先の冷ややかな夜だというのに、男は顔を赤らめて額に汗の粒を浮かべていた。 小刻みに喉を震わせ、ねばった浅い呼吸を繰り返した。 懐中電灯の明かりを浴びて眉をしかめながらも、両目を見開いて怯えた視線を弱々しく前に突き立てていた。
 店主はそれが男の上着であるものと察しを付けた。 一着のカーディガンがブランコのわきに放り投げてあり、その上着の生地の赤が嫌味な異彩を放っていた。 店主の脳裏には夫のセガワの衣服の色がちらついていた。
 男は手のひらで顔を覆って、「こっちに向けないでください」 と、どことなく悲痛を帯びた声で不快を訴えかけた。 店主はとっさに懐中電灯の明かりの向きをずらして 「声がでかいよ」 と言ったあと、視線をななめに落として自宅の屋内に注意を向けた。 息子の足音は聞こえてこない。 店主はそれからセガワ家の裏庭に向き直って、赤味のカーディガンから男の全身へと照明を流し当てた。 男は芝生に尻をべったりと付けて座り込んだまま、警戒とも怯えとも見分けの付かない目付きで店主の顔を見上げていた。
「余所の家で何をやっているんだ」 と店主は言った。 すると男はまたさっきと同じように手のひらで懐中電灯の明かりをさえぎり、その拗ねたような顔をいくらか下げて首を弱々しく振ったあと、ひねり出すように息を吐いて言った――「疲れた」――。 なかば躍起になって何度となく試してみたものの、ただ喉が閉まるばかりで、うまく首の頸動脈を絞めることが出来なかった。 あるとき意識がすっと遠ざかっていき “今度こそは” と思ったら、予期せずネクタイの結び目が解けた。 直後、男の長身は草地に落下した。 前後不覚のまま地面に倒れ込んだ。 首を吊ったのはそれで数回目だったが、平衡感覚を失ったのは初めてだった。 また次に試してみれば成功するかもしれない、と、ほぼ無意識のうちに男は手近にあった庭草を掴んでそれを地面からむしり取った。 彼の胸の奥には自信にも似た思いがあった。
 店主はブランコのロープの下端をそれとなく見やった。 セガワ家から持ち帰ったブランコの座板は自宅の裏庭にある物置に保管してあるが、それを息子に見せたことは一度も無かった。 店主はブランコのロープの下端から視線をそらして、死にぞこなった男の痩せ細った長身をあらためて注意ぶかく眺めた。 男は片膝を立ててその上に半身を被せるようにして座っていた。 どことなく若枝を折り曲げたような佇まいをしていた。 靴裏を地面に着けたまま男が首を吊ろうとしたものと店主は見当をつけたあと、ブランコ台の内側の庭草が地面に押し付けられた理由をそれであろうと推測した。
「なにか話したいことは?」 と店主は訊いた。
 返事は無い。
「君が思いを遂げるまでのあいだ、私は家の奥に引っ込んで待っておくべきかな」
 やはり返事は無い。 男は視線を落として目先の芝生に浮かぶ白い懐中電灯の明かりを眺めた。 そしてそのうち彼は庭草の丈に気付いた。 みじめな気分になった。 首吊りに失敗して、おまけにその自分の失態を他人に見られてしまったのだ。 返事をする気力が無いわけではないが、たとえ一言目をどのように口に出して言うのであれ、できればその弁解じみた言葉を自分自身では聞きたくなかった。 男はそうして 「いいえ」 の一言に置き換わる効率的な返事を無気力な無言で並べ立てていたたが、やがて彼の顔付きに薄っすらと微妙な変化があらわれた。 というのも、妻のセガワの不在を幸いと思いつつ店主が言ったのだ、「君はその家が空き家だとでも思ったのか」 と。
「戻ってくるんですか、セガワさん」 そう言うと男は感情と言葉のどちらが口から漏れ出しているのかを自覚しないまま――「あの人にもう会えないと思ったら、このままいろいろな楽しいことや悲しいことを、もうほとんど、感じないだろうなって気がしてきて――モノを考える、とっかかりが無くなってしまったような、何をするにも動機が曖昧になって、わからなくなるんです、なぜそうしているのか、とか」
「何も感じていないときにでも、人は何かしら考えながら生きているよ」
 店主はそう言ったあとに何ということなく男の歳を思った。 男の風貌に刻み付けられた心労の影がその本人の実年齢にひと回りぶんの歳を加えているようでもあった。 「ところで、ひとつ訊きたいことがあるんだが、君の言っているセガワさんというのは、陶芸作家をしているほうのセガワさんだな」
「そうですよ」 と、男は語尾の消え入りそうな声で応じた。
「彼女のことについて何か思い当たる節があれば教えてくれないかな」 と、店主は眉を開いて気軽な調子を込めて言った。

 男はセガワとおなじ美術会派に属するメンバーだった。 ここ最近になって会派の名簿からセガワの氏名が消えていることに気付き、ついに彼女の脱会が決まったのだと、胸の締め付けられる思いに駆られた。
 その脱会がセガワ本人の決意にもとづいていたかといえば決してそうとは限らない。 つぎに突拍子もなく男はそんなふうに言った。 それから彼はしばらく黙りこくって自分の足元にまで伸びた懐中電灯の仄白い明かりを眺めていたが、ふと視線を上げて光源のまばゆさに眉をしかめると、とっさに目を閉じてそのまま顔をすっと自分の足元に向けた。 そして、わずかに感情の入り混じった口調で、会派の古株にあたる人物について話し始めた。 その古株というのが、セガワを会派に招き入れ、会派主催の展覧会に作品を出すようセガワにつよく勧めた人物だった。 当人の後ろ押しがあってこそ国内外で催される展示会にセガワの作品がほぼ毎年のように出品されることとなり、ときとしてその作品が受賞対象に選ばれることにもなるのだった。 それがセガワの作品に相応しい評価であったかはさておき、そうして彼女が異例の出世コースを歩んできたことは確かだった。
 前途洋々の歩みを重ねているかに見えたが、ちょうど一年ほど前からセガワの氏名が会派の主催する展覧会の “出品者名簿” の一覧に載らなくなり、ほぼ時機を同じくして国内外の展示台から彼女の作品の置き場が失せた。 そしてそこにきて、ここ数か月のあいだ、その本人が会派の打ち合わせに顔を出さない。 男はセガワを慕っていた。 彼女が既婚者であることを知ってはいたし、彼女の工房でまれに陶芸教室が開かれることも知っていた。 会派に所属する女性作家らの中にあって、セガワの存在は一人の異性として特別だった。

「つまり、その名簿にこの家の住所が載っていたわけだ」 と店主は言った。
「ここには以前、何度か来たことがあるんです」 そう答えた直後、男の表情がわずかに強張りを見せた。 懐中電灯の明かりが男の目先の芝生を照らし出しているため、その表情の変化に店主は気付かなかった。 男はそのあと無言に表情を押し殺したが、すでに理性の膜はぼろぼろに破れきっていて、その声がどことなく危うい。
「そうだ」 と、男はわずかに喉を震わせる。 「セガワさんの連絡先を知りませんか」
 店主は黙って首を振った。 セガワ家にある固定電話機の番号は知っていた。
「携帯電話を持っているふうには見えなかったな」
「持っていませんよ」 と、男が肩を落とす。
 それを聞いて店主はふと自宅の縁側を振り向くと、すばやく男の存在から意識を切り離して耳をそばだてた。 どこかに何がしかの音が鳴ったように感じた。 自分の息子が近くにいるように思えてそれが気掛かりだった。 店主はそれからセガワ家の裏庭に向き直り、わずかな苛立ちに眉をひそめて言った。
「もう家に帰れよ」
 男は立てていた片膝を下ろして胡坐をかくと、左右の手をそれぞれ両膝に突いてから頭を垂れた。 そして彼は大きく音を立てて鼻をすすったあとに浅く溜息をついた。
「明日になれば、意外とまだ動けるよ。 だから今日のところは余命を使い果たすつもりで家に帰れ」 いくらか陽気を込めて言ったあと店主は踵を返して自宅の裏庭を歩き出し、「ちょっとそこで待ってろ」と、そう言い残して隣家に向かった。

 妻のセガワが家を空けて以来、その玄関先に立つ者といえば、郵便配達員か新聞屋か宗教信者ぐらいのものだった。 といって当然のことながら彼らの前に住人が現れるでもなく、ただただセガワ家は空き家の様相を強めていくばかりだった。 おまけに店主の自宅からは隣家の裏庭の様子がよく見える。 裏庭の芝草が伸びていくのを生垣越しに眺めていると、ただそれだけで黙々とした色味のない時間の経過を否応なしに実感させられる。 家と敷地から住人の気配が失せていき、それらは次第に一種のオブジェと化していく。
 ブランコの座板を取り外して以来、セガワ家の裏庭に立ち入るのはそれが初めてだった。 敷地内の場所によっては日照の関係で草があまり伸びていないが、裏庭の草だけは比較的よく伸びていた。 店主のズボンの裾のあたりに芝生が擦れて、さわさわと小気味よい音が鳴った。 まるで夜の草原をでも歩いているような気分だった。 そのまま草を伸ばし続ければ秋虫の一匹でも居着くようになるかもしれないが、そうして季節柄の風情が強まるに反して、空き家の景観に侘しさが増していくに違いなかった。 セガワ家の裏庭の手入れをしておけば、店主自身だけでなく、彼の息子の心理状態にも何かしらの効き目があるかもしれない。 ただ庭草を刈るだけで良いのだ。 自宅の物置に保管してある草刈り機を使えば、三十分程度で敷地内の伸びた草をすべて刈り払うことができる。
 男はすでに立ち上がり、上着を羽織って店主が来るのを待っていた。 ブランコに掛けてあったネクタイは上着のポケットに丸めて入れてあった。 懐中電灯の明かりが男の羽織った赤味のカーディガンを夜の裏庭に浮かべていて、その様子はどことなく不気味でありながらも妙に鮮烈だった。 店主は遠慮もなく男の顔やら足元に明かりを投げかけた。 夫のセガワに比べると男の背丈はずいぶんと高いように見えた。 男の首には皮下出血こそ起きてはいないが、はっきりそれと分かる程度には擦過の跡が付いていた。
「首にサポーターでも付けておいたほうが良いんじゃないか」 と店主は言った。
 それを聞いて男は手を自分の首に引き寄せた。 ひりつくような感覚だけは得られるが、首の皮膚の状態をいまいちよく把握できない。
「嫌なことを訊くようだけど、今でもまだ死にたいと思うか?」
 ゆるい風が辺りに流れていた。草の擦れ合う音はしない。
「しばらくは、あまり深くモノを考えずに適当に生きてみたらどうだ」
「そうしたらもう、あとはセガワさんを忘れていくだけだ」と、あきらめにも似た思いを男は吐き出す。
「君にとってはどうでもいい話かもしれないけど、私だって、いつか自分の目の前にあった妻の顔やからだの匂いをもう覚えていないよ」と、店主はまた少しだけ陽気を含ませて言った。 妻の考えそうなことを思い浮かべるのは簡単だった。
「あなたには子供がいるから良いんだ」 と、男は責め立てるような口調で言った。
「だからこそ、妻を忘れていくのは自然なことじゃないか」
 それから店主は場を切り上げようと背後を振り返ろうとして、すんでのところでやめた。 男の姿に視線を戻して、懐中電灯の燦々とした明かりを男の顔にまっすぐ浴びせかけた。 どこかで一度ぐらいは会っていたかもしれないと店主は思った。

 セガワ家の前を立ち去っていく最中に男が後ろを振り向くと、それに合わせて店主は目先に向けていた懐中電灯の明かりのスイッチをでたらめに入り切りした。 男はなんら慌てる様子もなく前に向き直った。 まだ近所の家々には明かりが付いていて、まれに男の姿が路面にはっきりと浮かび上がりもしたが、やがて男の長身は一本の道路灯の向こうに消えた。
 店主はその場に立ったまま何ということもなく先と同じふうに懐中電灯のスイッチの入り切りを始めた。 そろそろ自宅に戻らなければいけなかった。 自分の息子に何も勘付かれないよう配慮しなければいけないのは当然のこと、まず何より店主自身が気持ちを切り替えなければいけなかった。 そのためにはセガワ家の敷地を出て自宅に戻る必要があった。 彼の胸中には微かながら不穏な揺れが生じていた。 それは動揺ではなく期待の思いに近かった。 妻のセガワに関する記憶が薄まっていくのをしばらく引き留めておくには、その一人の男の自殺未遂の現場に居合わせただけでもう十分だった。
 店主はそのあと自宅ではなく、いったんセガワ家の裏庭に戻った。 ブランコの内側に踏みしだかれた庭草を見て、その二日後に控えていた週末の私用に草刈りの作業を思い立った。
 自宅からは流し湯の音が漏れ出していた。 風呂場の窓から立ち上った湯気が夜に吸い込まれた。

「この家を建てたのは、きっとセガワさんでしょうね」
 男は去り際にうしろを振り返ると、どことなく皮肉な薄笑いを浮かべてそう言った。
「私はもう見慣れたよ」 と、店主は唇の端を微かに曲げた。 そのとき男の目の焦点がどこに結ばれていたのか店主には分からなかった。
 そして翌日以降、特に何事もなく三日が過ぎた。 電車に乗って店主が帰路を辿っていた最中のことだった。 一人の男がセガワ家の裏庭で首を吊って死んだ。
 その成り行きを店主はあらかじめ頭の隅に置いてあった。 いつか彼自身の妻と観に行った映画の中に、それと似たような話があったのかもしれなかった。




『店主と息子、誰でもない一人の男』

konoです。

違和感を覚えること。 その違和感の原因を見付け出す能力と、それを手早く修正するための技能を身に付けること。
(疑うこと)

 疑うこと

横書きで文章を書いていると、文章のリズムの取り方が見えにくくなってきます。
そんなときは文章を縦に表示させると良いです。
リズムは基本的に縦を向いている。 その点においては文章も音楽も同じであるような気がします。
ということは、日本語のリズムと英語のリズムにおいて何が違うでしょうか。それは国民性の違いでしょうか。