untitle db log

淑々として裏庭 26 

 午後十時を過ぎ、帰宅途中の路上に近隣住人らの姿は無い。 電車を利用して繁華街に向けて四駅も移動すれば、その街のどこそこに仕事帰りの者らを数多く見受けられるが、店主の住まう住宅地ではその姿がまずほとんど目に付かない。 以前であれば彼はそんなとき、どことなく薄ら寒いような、それでいて同時に深い安堵にも似たような思いに浸ったものだった。 皆、本当に帰ってきたのだろうかと冗談まじりに懐疑しながらも、むしろその住民らの見当たらない町並みに味わい深さをすら感じてもいた。 それがいつからか、住宅地の静けさや窓に囲われた室内灯の明かりが一日の夜を示す記号として彼の視界の隅を滞りなく流れていくようになった。 といっても毎日の習慣によってその記号化が起きたのではない。 以前とおなじく道路脇に立つ防犯灯の球切れをたった一度でさえ見掛けたことはなく、酔い潰れた会社員はおろか本人の吐瀉物にすら出くわすこともない。 住民の精神的な環境としては以前からすでに適度な質を備えていたが、しかしそこにきて数年前の区画整理を機に土地の文化形成がまたひとつ進み、それにともなって町並みと住人の歩き方にもまた変化が起きたのだ。 帰路をまっすぐ歩き抜けるにあたって見通しは申し分ない。 路上に吹く風の主流に沿って人が歩いているようなものでもある。 数多くの防犯灯が等間隔に路面を照らし出し、その薄明かりは住人らの移動範囲に渡って区内を巡っている。 整理された町並みには風土と歴史の印象の薄まりが感じられ、家々の静かな面構えが夜中にひっそりと僅かに浮かび上がる様子がただひどく余所余所しい。

 店主は何の気構えもなく自宅の門柱を通り抜けて玄関ポーチに目を凝らして立ち止まり、次に取るべき行動を思いながら目先の状況を眺めた。 ひとりの見知らぬ少女が玄関灯の下で肩をすくめて立っていた。 グレーのダウンコートとブルージーンズを身丈ぴったりに着て、両手をコートのポケットに入れ、まれに両膝をばねにして軽く全身を小刻みに上下させていた。 足元には中型のショルダーバックが置いてあった。 ダウンコートのフードが目深に被せてあり、そのフードの両脇からは長い横髪が垂れていた。 声を掛けるかわりに店主が左右の手のひらを軽く二度打ち合わせると、その音を聞き取った少女が一息をおいて玄関先に顔を向けた。
「やっと来た」 少女は口から体温を溢してわずかに身震いをすると、もったり重々しく瞬きをしてからセガワ家の方角を顎で指した。 「あのひと死んだよ
 店主は自分の耳を疑い、少女の発言に奇妙な音の響きを感じた。 その シ の乾いた語感が 死 という言葉の本来の意味にはそぐわない。
「このまえの人、いたでしょ」 と少女は言った。
 店主は少女の次の言葉を制しようと、両手を前にかかげて石敷きのアプローチを歩き始めた。 その足取りはひどく緩慢としていた。 「人が死んだ?」 と、声を抑えつつ語尾をやや吊り上げて訊くと、対する少女が視線をわずかに落として一度うなずいた。 その表情に注意しながら店主は相槌を何度か重ねて見せて、少女にその場で留まっておくよう事務的な口調で伝えたあと、ビジネスバッグをかいこんで自宅の前の町道をセガワ家へと向かった。 隣家の門柱から表通路に立ち入り、前日の草刈りの成果を横目に歩を進めながら、 先の少女の言葉をもとにして彼自身のまだ記憶に新しい人物を思い返した。 そしてその人物の死後の容貌に対する心積もりを済ませたところで、ふと店主は少女の言葉に何の信憑性もないことを思った。
 ところが実際には少女の言ったとおり、人が首を吊って死んでいた。 着衣が先日のものとは違っていたが、店主には当人の背丈や体型に確かな見覚えがあった。 夜の薄闇に滲んでいるせいで死後変化の有無が目には見えない。 白い布が男の頭部にぐるりと巻き付けてあって、少なくとも男の人相からそれを人の死であるとは判断できない。 店主はその男の顎下の高さにまで懐中電灯の明かりを上向けて、顔を照らし出すのはやめた。 ブランコ台の金属棒にはネクタイではなく腰ベルトが引っ掛けてあり、男の体はブランコの正面ではなく側面を向いていた。 左右の腕が体の両わきに垂れ下がっていた。 靴先が地面に着いていた。 上体をいくらか前にかたむけて膝を折って腰を落とし、ちょうど足休めのために椅子に座ろうとでもしているようだった。 ブランコ台の頂点に渡してある金属棒からは二本のロープが垂れ下がり、そのロープは輪状の腰ベルトに比べればずいぶんと細く見える。 店主はセガワ家の裏庭の端に立って、目先に浮かんだその静かで平べったい光景を無表情に眺めていたが、やがて彼は手に持っていた携帯電話の照明を切って手早く電話機能を立ち上げると、119の番号を押そうしてその手をとっさに止めた。 それから彼はもういちど携帯電話の照明を付けて後ろを振り返り、さっき来た道をたどってセガワ家の玄関先へと向かった。 自宅のリビングから最も離れた場所として、とにかく家の敷地を覆っている生垣の外側へ向かうべきように思った。
 その間、せいぜい十分足らずといったところだ。
 店主は自宅の門柱を抜けて敷地に入ったところでまた手のひらを二度かるく打ち合わせ、玄関わきに立っている少女の注意を引いたあとに何度か手招きをした。 少女はショルダーバッグを玄関ポーチのタイルに置いたまま店主のもとに歩み寄った。
「救急車を呼んだよ」 と、店主は携帯電話を片手に言った。
「もう間に合わないと思うよ」 と少女は言った。 その語尾にはわずかな掠れが帯びた。
「たしかにもう間に合わない」 と店主。 「だけど、救急隊の人に死亡確認を取ってもらわないといけないだろう?」
 それを聞いて少女は一人の男のからだが静止する様子を思い起こした。 当時、少女は男が息を吹き返すのを恐れていた。 人の死ではなく蘇生を怖れた。
「それより、君はあの男とは知り合いだったのか?」 店主は左右の手を膝に突くと、すっと腰を落として気兼ねない口調で訊いた。  少女は店主の顔を斜めに見下ろし、ごく微かに首をよこに振って “知らない” と答えた。
「あんな人目に付かない場所で誰かが死のうとしているところにたまたま居合わせるなんて、君はかなり運が悪いぞ」
 と、店主は目尻にうっすら皺を寄せて言った。 気軽な冗談を含ませたつもりだったが、少女の表情には何の変わりもない。
「また戻ってくるだろうなって思ったの。 だから私、おとついも昨日もここへ来てた」
 店主は少女の発言の真偽を思って黙り込んだ。 少女の先の言葉を振り返ってみれば、つまり数日前にセガワ家の裏庭で起きた自殺未遂の件を少女が見知っていたということになる。 「君は、私がとなりの家の庭にいるところを見ていたんだな」
 すると少女はどことなく小動物を想わす挙動で一度だけ小さく頷いた。
 店主はそれからまた携帯電話をスラックスのポケットから取り出して、その液晶画面に現在の時刻を確かめて言った。 「それで君は今夜もまた、あの男の様子を見ていたわけだ」
「自分の家にもブランコがあればよかったって、あのひと言ってた」
「話をしたのか?」
「独り言だったんじゃないかな」
 男の独り言であったことの可能性を思って店主は相槌を打ち、そうかもしれないと思った。 顔に巻き付けた白地のタオル越しに男が辞世を、それも少女の視線に気付いていながら素知らぬ振りをして声に出したとは思いたくなかった。
「まだまだ君にはいろいろと訊きたいことがあるんだけど、でも、もうこのあたりでそろそろ家に帰ったほうが良いかもしれないな」 そう言って店主は携帯電話の画面を手元に見下ろし、現在時刻を読み上げたあとにまた少女の顔を見上げて 「君はこのあたりに住んでいるのか?」
 少女がにわかに怪訝な表情を見せる。 「まあまあ遠いよ」
「君のお父さんかお母さんと話をさせてもらえないかな」 そう言って店主は携帯電話を少女の前に差し出す。 「これを使ってくれて良いから」
「電話なんてしたら親にばれる」 と、少女は両手をダウン・コートのポケットに入れて、店主の顔からさっと視線を逸らした。
「私の身にもなってくれ」 店主は声に気苦労を滲ませて言った。 「君を家まで送り届けるか、ご両親のどちらかにここまで迎えに来てもらうか、そうだな、もしくはタクシーをここに呼んで、君の手に数千円を握らせるか――とにかく何かしらの方法で君を家に帰さないといけないんだよ」、そのあと眉間にうっすらと皺を寄せて首を振った。 彼は救急車の到着を待たなくてはならず、その彼自身が少女を家に送り届けられるはずがない。
 少女は店主の顔に視線を戻した。 目の前で膝を折って座っている男のことが少しだけ哀れに思えた。
「もうあまり時間がない」 店主は少女の首元のあたりを斜めに見上げながら言った。 「だから、そうだな――ここで二つ提案させてもらうよ。 もし、その提案のどちらかを君が選ばないなら、もう君の好むと好まないには関係なく、私の判断におとなしく従ってもらわないといけなくなる」、そして彼は少女から目を逸らし、「まずひとつは、そのうち警察がここへ来るまで、私と一緒にここで待つ。 君は第一発見者だから、本来であれば事情聴取を受けないといけない立場にあるんだ。 警察から訊かれることにすべて正直に答えないといけない。 何も後ろめたいことをしていないんだから警察にびくびく怯える理由も無い。 もちろん何か話したくないことがあるなら無理には話さなくても良いけど」
 そこで言葉を切って店主は少女の反応を待った。 少女は自身の頭に手を寄せてダウンコートのフードを少しだけ引き上げた。
「でも、身元を訊かれたらそれだけはちゃんと答えないといけないだろうな。 君の名前や家の住所や、それに電話番号やら何やらを知っておくのは彼らの職務のひとつだからな――君の家に電話をかけてお父さんかお母さんと話をして、この場所か、もしかしたら警察署まで、君を迎えに来てもらえるようお願いしないといけない」
 少女は先と変わらず無言に店主の顔を見下ろしている。
「そしてこれが二つめ。 このあとすぐに私の家に来て、警察がいなくなるまでのあいだ静かに身を隠しておく」
 店主はそれから視線を少しだけ落とすと、自宅のほうを眺めやって彼の息子について静かな口調で話を切り出した。 「――中学一年で、性格はどちらかといえば大人しい。 あまり人見知りはしないから、きっと誰とでも仲良くやれると思うよ、たぶん――もしかしたら女の子には消極的な態度を取るかもしれないけど――でも、まず少なくとも、うちの息子は君に危害を加えるようなことはしない」 そう言って店主は立ち上がって今度は少女の顔を見下ろすと、もの思わしげに息をついた。 「このあと君がひとりで家に向かっている途中、もしどこかで殺し屋とばったり鉢合わせでもしたらどうなる?――君は酷い目に遭って、私がとても嫌な気分になる」
 少女は肩を小さくすぼめて 「そうね」 と、切々とした情感を込めて言った。 目の前にいる男を哀れに思う一方、ほんの僅かながら愛おしくも感じた。 ジーンズの布地をとおして夜の冷気が脚を冷やす。 風呂に入りたいと少女は思った。

 その陶器を玄関の靴箱の上に置いたのは店主だった。 以来、ずっと同じ場所に置いてある。 造形をした店主の息子にはもちろんのこと店主自身にでさえ、それがそこに置いてある理由をはっきり見て取ることができない。 店主の息子はその陶器を記憶の拠り所として妻のセガワを思い出そうとはしないし、一方の店主にしてみても、それを息子の記念物として靴箱の上に飾っておくつもりは初めから無かった。
 店主は内玄関の土間から段差のついた横木へと一歩を踏んで、「さて」 と、溜息まじりの一声を漏らした。 そしてそのあと靴箱の天板にある置き時計を見て時刻を確かめて、すでに足元の床に並べてあったスリッパに足先を引っかけた。 靴箱の右端にある片開きの戸を開けて、中から取り出した客用のスリッパを床に並べ、そうして斜めに傾けたばかりの上体を小さな掛け声に合わせて起こしていく。 「気楽にどうぞ」 と、店主は気軽な口調で言って廊下に足を踏み出す。 その彼の背後に 「おじゃまします」 と、少女の声が響きを立てる。
「しかしまた、なぜ君はわざわざこんなところまで来たんだ?」 と店主は訊いた。 「このあたりには君の喜びそうな場所なんてひとつも無いように思うんだけど」
「知らないところへ行きたかったから」 と、少女は気のない声で答えた。
「ここはそんなドラマチックな場所じゃないだろう」
 少女は靴箱の上に置いてある陶器をじっと眺めていたが、その陶器をひょいと手で掴み上げてから店主の後を追った。 「これはこれで良かったんだと思う」 と少女は微笑した。
 店主はさも感じ入ったように相槌を打って 「それは良かった」 と口早に言い終えるが早いか、ついで歩を止めて後ろを振り返り、「ひとつ君に頼み事がある」 と、少女の前に掲げていた両手を下げてから語調を弱めて言った。 「隣の家で起こったことを息子には話さないで欲しい」
「どうして」 と少女は囁くように訊いた。 その顔には関心の色がうすく帯びていた。
「あそこは誰か人が死んで良いような場所じゃない」
 大切な場所ってことね、と少女は眉を寄せて言った。
「正直に言えば、他にもまだ込み入った理由があるにはあるんだけど、それはまた別の話だ」
 わかった――そう言った少女の顔の表情にわずかな陰りが差した。 それから少女はちょうど前に向き直ったばかりの店主の後ろ姿をじっと見上げながら、今こそとばかりに 「あの」 と、声にはずみを付けて言った。 「わたし本当は、この家と、となりの家を見に来たんです」
 店主はうわごとを漏らすように一言で相槌をみじかく打ったあと、すぐに立ち止まって背後を振り返った。 「この家を動画で観たから」 と、少女はそのあと事実を偽りなく口に出して言うのだが、対する店主の耳にはその言葉の意味と句切りの位置が正しく伝わらない。 どうがでみたから
家がひとつに見えるって話だったんだけど」 と、店主に構わず少女は言った。
 店主の表情がやや強張る。 「どういう意味かな」
 少女は怪訝な表情を浮かべてショルダーバッグから携帯電話を取り出し、その液晶画面を他方の手の指先で小突いて見せた。
 



『店主とダウンコートの少女』

konoです。
このところ、姪一歳と接する機会がよくあります。 その本人の小さい手足に血液が流れていることが不思議なことのように思えてくる瞬間があります。 何も疑問することが無いようでいて、あれ、あれ、と何かが分からなくなるような感じです。