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裏庭のバジル 27 

 男女の会話の声が廊下を伝って屋内に伸び広がる。 店主の息子はリビングの液晶テレビから視線を逸らして後ろを振り向き、そのくぐもった声々を室外に聞き取っていた。 男女の声を聞き分けて、うちの一人が自分の父親であることにすぐ気付いたが、もう一人の女の声には聞き覚えが無い。
「これで見る?」 と、少女は携帯電話を自身の肩越しに背後へ掲げて見せた。
「それじゃ画面が小さいよ」 そう答えてから店主は前を歩く少女に廊下を左折するよう左手の指で示した。 「ちょっと、その椅子にでも座って待っていてくれ。 おじさん、今からパソコンを取ってくる」
 そして彼はコーヒーか茶を淹れるよう息子に言い付けておいてから廊下に足音を立てて家の奥へ向かった。 少女はリビング・ダイニングを広く眺めるかたわら、微かなトーストの匂いを室内に嗅ぎ取った。 寝間着に厚手のフリースを羽織っている息子がリビングのテレビの前を離れて少女に軽く会釈をしたあと、少女のわきを歩いて台所の調理場に向かった。 その途中、彼は今しがた父親が自身のことを “おじさん” と言い表したのを思い返して息吹くように笑った。 息子の歩いたあとに微かなボディーソープの香りが尾を引く。 少女がその白石鹸の匂いを胸に吸い込む。
「大きいテレビね」 と少女は呟くように言った。 リビングの端に置いてある液晶テレビの画面を何の気なく眺めていた。
「どっち?――お茶かコーヒー」
「コーヒー」 と、調理場を振り向いて少女は言った。
「砂糖とミルクは入れる?」
「うん」
「もう夜だけど、コーヒー飲んでも大丈夫?」
「私、まだ眠れないから」
「(何度か頷く)    中学生?」
「(いちど頷く) あなたは?」
「おなじ」
「(頷く) そう」
「(頷く)」

 店主はパソコンを両手に持ってリビング・ダイニングの出入り口をくぐり、トーストの匂いを室内に嗅ぎ取った。 少女はダイニングの椅子に座って食卓に頬杖を突き、リビングのテレビに映し出される映像を眺めていた。 テレビ画面には何らかの場面が描写されていたが、その映像はテレビ画面に映し出される状況をどのようにも説明していない。 ゆっくりと複雑に入り混じる光と音が混沌めいた何がしかの様子を表していて、そこから地下爆発の長引く余韻を思い浮かべることも出来れば、水面下でうねり合う海流をも連想できる。 店主は食卓に置いたノートパソコンの電源を入れて、立ち上げたブラウザに動画サイトのトップページを開いた。 その店主の手際から視線を逸らして、少女はまたもういちどテレビ画面を見やった。 透き通るコバルトブルーにうすく黒を混ぜた色がテレビ画面を広く覆っていて、鈍く重々しい音がなだらかにその程度を下げていく。 少女はテレビ台の前に敷いてある広いカーペットを見渡した。 カーペットの上には背もたれをかたむけた座椅子と一個のリモコンが置いてあった。 その他、どの種類のメディアのパッケージも見当たらない。 テレビ台のガラス扉は開いている。 中の棚には映像の再生機器が置いてあり、デジタル式の経過時間が白く表示されてはいるが、少女のいる場所からではその数字の切り替わる様子を確認できない。
 少女はまずノートパソコンのキーボードを操作して動画サイトの個人ページにログインすると、それから台所の調理場を振り向いて店主の息子の呼び声に応じた。
「コーヒー、自分で好きに淹れたほうが良いんじゃないかな」 と店主の息子は言った。
 少女はいちど頷いて “そうする” と応じたあと、手元のパソコン画面に向き直ってそこに表示させた 『お気に入り』 の登録カテゴリーの中にある動画の縮小画像をクリックしてそれをパソコンの画面に大きく表示させた。 それまで少女の近くに膝を折ってパソコン画面に見入っていた店主がもっそりと立ち上がり、スラックスのポケットから携帯電話を取り出してその液晶画面に視線を落とした。 そこには誰からのメッセージも表示されていない。 少女は店主の表情を興味ぶかく眺めた。
「ちょっと用事が出来たから、君はしばらくここでゆっくりしていてくれ」 そう言って店主はつぎに台所の調理場にいる息子を見やった。 「この子はお父さんの知り合いなんだ。 今夜は、すこし用事があってうちまで来てもらったんだけど」
 息子は “いいよ” と無表情に何度か小さく頷いたあと、少女の顔をふいと見やって親しげに “よろしく” と言った。 店主の姿がちょうど室外に消えた。
「なんだろう、こんな時間に」 息子がガス台の火力を弱めると、直後、湯の沸き返る音が止んでミルクパンから湯気が立ち上ってきた。
「仕事場にでも呼び出されたんじゃない」 と少女は何気ない口ぶりで言った。 手元のノートパソコンのカバーを閉じて椅子から立ち上がり、店主の息子とすれ違いに台所の調理場に立ったあと、リビングに置いてあるテレビを指し示してそこに店主の息子の注意を引いた。 「あれって映画か何か?」
「さあ」 と息子はかぶりを振って言った。
「さあ?」 と少女は口元をほころばせて言った。
「よかったら観てみる?」 息子はリビングの座椅子に腰を下ろして息をついた。 「正直、よく分からないんだ、ストーリーとか、なにも無いし。 ――まぁ、もしかしたらセガワさんは “そういうのが良い” って思ってたのかもしれないけど」
「セガワさんね」 と少女は口先に溢した。 その名字を店主の息子が特にためらう様子もなく口に出して言ったことを可笑しく思い、また同時に彼女は自分の胸中に微かな安らぎを自覚した。 隣家の裏庭で人の死姿を見たときと同じように、なにか神経の端々に優しく触れられてでもいるような感覚を覚えた。 少女はそのあと取り澄ました顔で息子から視線を逸らすと、なんということもなくリビングのテレビ画面をちらと見やった。
 画面の右下の位置に、一人の男の姿があった。 男はグレーのトレーナーと黒のスラックスを身に着けて、後ろ腰に両手を重ねて上体をやや前傾させるようにして立っていた。
 その画面には薄暗い室内の様子が映し出されていた。 画面の中央のあたりに部屋の片隅が位置していて、部屋の三辺の端がその画面の中央の一か所に集合している。 天井部は映っておらず、部屋には何もない。 部屋の一方の壁の上部に取り付けられた巨大な換気扇の羽根がゆっくりと回転している。 換気扇のシャッターは開ききっていて、その開口部から差し込む太陽の白い光が室内の底部の一か所に張り付き、その部分だけが部屋の白壁よりも鮮明に白い。 換気扇の羽根の回転に合わせて、数枚の羽根の影が規則的に動いている。
 いつからか少女の気付かないうちに場面が転換していて、すでに先の抽象的な映像はテレビ画面に映し出されていなかった。 画面の右下にいる男が英語を流暢に話し、その男の話の内容に沿ってテレビ画面の右側に日本語の字幕が表示される。 部屋の広さと比較すれば男の姿だけが縮尺表示されているようにも見えるが、少女にはそれが合成映像であるかどうかの見定めが付けられない。 ただひとつ、そこに特殊な映像表現が目的とされていないことだけは見て取れる。 その男の佇まいや口調に、テレビのリポーターか天気予報士の立ち姿が思い重なる。
 テレビ画面の右側に新たな日本語の字幕が表示された。 少女は、リビングの座椅子に座っている店主の息子にビデオ映像の一時停止を口早に求めた。 ミルクパンに沸かし直したばかりの湯をコーヒーカップに注ぐと、馴染みのある種類の香ばしい匂いが少女の鼻元に漂ってきた。

(日本語字幕)
『道路が途切れていてそのすぐ先に海が広がっていたり、テレビ画面に番組が映し出されていてもテレビ本体の背面から延びる電源コードが途中で分断されていたりするわけだ――それで、な、ちょっと考えてみてくれよ――たとえば地球が縦にぱかっと割れて、こちら側とあちら側が完全に二分したとするだろう? ……するんだよ、ぱかっと……そして、その両者のあいだには空白があるものとするよ。 一本の道路と海原を隔てているのが、厚み五十メートルの空白なんだ。 そこには何もない。 文字どおり空っぽの白だ。 鳥はその空白を横切らないし、風が流れていきもしない。 右から吹いてきた風は厚み五十メートルの空白のすぐ向こう側に流れていく。 ――と、さて、それとおなじような具合にまたひとつ想像してみてくれ――テレビの背面から部屋の壁に向かって電源コードが床を這っているんだが、その電源コードが厚み数センチの空白で分断されている。 そうありながらも、テレビ画面にはノイズの一片すら生じない。
 そこで私はこう思うわけだ、なるほど、こちらとあちらが連続的には実在していないんだなって。 いわば連続的ではなく断続的なんだ。 きっと人は、その空白をまたいで世界を見たりモノを考えたりしている。 自分の目の前にある断片的な物や出来事を連続させながら、同時に自分自身を一時的に断片化させてこの世界を一続きに見ようとしている。 ………言い換えればこうだ、人は自分の断片化を前意識的に仮想する。 そしてこの世界と自分、その互いの不連続な実在に連続性を錯覚している――』

 男はそこで話を終えると、スラックスの前ポケットに入れていた左右の手をそれぞれ引き抜いて右に向きなおり、少女の目から見てテレビ画面の左端へと歩き始めた。 硬い靴音が画面内の部屋に鮮明な響きをみじかく立てた。 まるで金属板を床に打ち付けるような音だった。 男はそのあと画面の端まで来たところで、なにか古めかしい無音映画をでも思わすふうな動作で体の全体を小刻みに震わしながら歩いた。 やがて画面の外に退場してなお、男の靴音だけは規則的に鳴り続けていた。 換気扇の羽根が画面内の床の一部に変わらず影と光の花片を回転させていた。
「これ、何なの?」 と、少女はテレビ画面から視線を引き剥がして言った。
「この部屋の中にあの男の人がいるってことを言いたいんじゃないかな」
「なるほど」 そう言って少女はリビングの室内をぐるりと見回した。
「イメージビデオっていうんだ」
「そういうことを突然しらっと言わないでくれないかな」
「正直、僕の趣味じゃないんだけど」
「セガワさんの趣味ってこと?」
「他にもあるよ」 息子は何度か頷いてそう言ったあと、あなぐるように少女の目をじっと見つめた。 「セガワさんのこと知ってるの?」
「あなたがさっき言ったでしょ、セガワさんって」
「言ったっけ」 と息子は小首を傾げた。 一方の手をカーペットの上に突いて、ほぼ四つ這いの恰好で二、三歩ぶんテレビ台へと這い寄り、映像の再生機器の上面に置いてあったメディアのパッケージを手で掴み取ってそれを自分の後方に向けてカーペットの上に滑らせた。 それから彼はテレビ台のわきに置いてある小包用の段ボール箱に手を伸ばし、その箱のふたを手早く開けた。
「パーマネントリンク、コイグジスタンスリンク」 と、少女はメディアケースを手に取ってタイトルをゆっくりと読み上げた。
「それ、英語?」、段ボール箱を手前に引き寄せながら息子は少女のもとへ這い戻った。 少女はリビングの天井に視線を当てて一考したあと、手に持った携帯電話の画面に指先を器用に滑らせてそこに表示された一文字ずつをゆるやかに区切るような発音で口に出して言った。 「永続するリンク、併存するリンク」
「えいぞく?」 と息子が訊いた。
「ずっと続くリンク」
「りんく?」
「輪っかのこと」
「授業で習ったかな」 息子はカーペットの温もりを尻に心地よく感じつつ、やや離れた場所に正座している少女の姿に視線を沿わせた。 屋内にもかかわらず少女はダウンコートを着て、おまけに頭にはまだフードを被せてあった。
「まだ習っていないような気もするし、もう習ったような気もするけど」
 少女はそう言ってから携帯電話の画面に表示させた英字を指で小突いて見せた。
「それって、習ったってことになるかな?」
「どうかな」 と少女は答えた。
 店主の息子と少女が段ボール箱の中身に関心を寄せるその一方、テレビ画面にはまた別の場面が映し出されていた。 男の姿はどこにも無い。 硬い靴音だけが相変わらず一定のリズムを刻んでいる。 少女は段ボール箱の中から取り出した一個のプラスチック製のパッケージの裏表を何の気なく見返して、先とおなじくそれが非売品であることに気付いた。 段ボール箱の中に積み重ねてある他のメディアのパッケージにもおなじく無地のコピー用紙が挟み込んであり、そのコピー用紙に貼り付けてある四角い白地のラベルシールには 【館内放映用】 という文言と、各々の映像のタイトルが簡素に印字してある。 中には市販品の映画も含まれていて、販売価格や発売日や発売会社などがすべて英語で表記してある。―― 「black, blue」 「days」 「you make me dry」 「visitors」 「sakaki」 「vital data」 「hakoniwa」――
 店主の息子は少女の唇の柔らかい動きに関心を覚えた。 いつか彼自身もまた同じようにそれらのタイトルを誤読を交えながら口に出して読んだはずだが、その時とはまったく違う言葉を少女が発音しているようにも聞こえてきた。
 と、そこで映像内の靴音に男の声が混じる。
(日本語字幕)
『君の視点が変わり、君自身がそこに同期する。 その一瞬時、君と視点が分離し、視点の移り変わったその先々に君はいるだろう。 同期を終えるまで、そのごくわずかな時間に思考の電気信号の授受をやめて、そして自分の視点がどこかに着地するまで君はここからいなくなるんだ、いや、どこか未開の領域に自分の無意識を静止させている、とでも言ったほうがより適当だろうか、
 どうだろうな』
「これ、ぜんぶセガワさんの?」 と、少女は真向いに店主の息子の顔を眺めて言った。 すべてのタイトルに目を通すつもりはなかったが、彼女の一挙一動に店主の息子が純然とした、それでいて何か観察対象を見張りでもするような好奇の視線を注いでいたため、少女としては段ボール箱の中を空にするまでメディア・ケースの一枚一枚を手に取らざるを得なくなったのだ。
『――瞬きを重ねて夜の海上に白昼の空を見ている人や、水を抜いたプールに寝転がって泡を吐き上げている人を、もし何処かで見掛けたなら――』
 店主の息子は何度か相槌を打ったあとに答えた。 「正しく言えば、セガワさんの旦那さんの持ち物ってことになるんだと思うよ」
『――それはつまり、君も彼らとそう大して変わらない場所にいたということだ。
ほんのわずかな距離ですれ違うような場所に君がいたということだよ』
 そのあともしばらく靴音だけが単調に鳴り続いていた。 テレビ画面には天地の区別のない乳白色の一面が広がっていて、その画面の全体が霜がかったように鮮明さを欠いているが、あるとき画面の中央寄りの上辺から一滴の液体が流れ、その伝い落ちると同時に引かれた透明な一線の向こうを黒い姿がさっと一瞬だけ横切った。 映像に遠近を見て取ることはできない。 少女の目にはその何者かが画面の向こうの遠く離れた場所を歩いていたようにも見えた。 テレビ画面の向こうの間近を極小の姿が横切っただけであるようにも思えた。
 その後、男の靴音が止んで画面が暗転した。 クレジットはおろか、画面の中央にFINやENDの文字も出ない。 メディアの再生機器の前面パネルから映像の経過時間の表示が消えてそこにSTOPの文字が出る。 テレビ画面にはメディアの操作選択の表示があり、その画面の黒の範囲にはダイニングリビングの一部が映り込んでいる。
「おわり」 と少女は言った。 手元のコーヒーカップが空になっていた。
「どうだった?」 店主の息子はカーペットに立ち上がり、リビングの壁の掛け時計を見上げて言った。 「またちょっとお風呂に入ってくる」
 少女はカーペットの上に積んである十数個のメディアケースを指差し、息子の歩き去っていく方向に顔を向けて映像の鑑賞を願い出た。
 いいよ、と息子は答えた。 ――コーヒー、好きなだけ飲んで。 もし寒かったら、ほら、そこ、テレビの台の上、それエアコンのリモコンだから適当に温度を変えてね。 ご飯は炊いてある、おかずは冷蔵庫の中で、食器は乾燥機の中に入れっぱなしだ。 もしお茶が飲みたかったら、やかんに沸かしてあるから温めなおして飲んで。 やかんは、あこそ、台所の、ほら――息子はそこで言葉を切って、そのあと何度か “ほら” を繰り返しながら台所をちょいちょいと適当に指差さした。 少女は “わかった” と言って、部屋の出入り口に視線を戻してから “ありがとう” と言った。 出入り口の木枠のあたりに揺れていた息子の手が廊下に引っ込んだ。




『店主と息子と少女、現実空間における内外の定義』

konoです。
何かしらの物を買って、その物をつうじて自分を別の角度から知ることが出来るというのは、今更ながら面白いことだと思います。

その際の自己認識というものが、やはりあくまでそれを購入した時点を経てのみ果たされたものであると、そんなふうな気がします。
つまり、どういうことでしょうか。
物欲が満たされたと同時に冷静さを取戻し、なおかつ自己開発の達成を錯覚し、そしてその物品を自分に従属させた(そうさせたような気になる)ことによって私的な好みをより具体的に知る(知ったような気になる)、という認識過程がそこにあるということでしょうか。