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裏庭のバジル 28 

 サイレンも赤色灯も使用せず、ただ道路灯の明かりに車体を過らせながら一台の救急車が店主の視界の先にあらわれ、そして近隣住民の誰に気付かれることなくセガワ家の前に停まった。 救急隊員の一人がハンドライトを、別の隊員が観察用器材の収納ケースを手に持ってそれぞれ車を下りた。 セガワ家の玄関先で彼らの到着を待っていた店主が隊員らを先導してセガワ家の裏庭へ移動をはじめた。 またもうひとり別の隊員が発電機と携帯バッテリーと照明器具をたずさえて店主らのあとを追った。 隊員らは現場に到着してまもなくブランコに吊り下がる男の観察を始めた。 項目化された観察作業をすべて済ませて男の死亡確認を取って、その場にいる全員で静かに手を合わせた。 救急隊員の一人が警察に連絡をして自殺現場の引き継ぎを求めた。 遺体の頭部に白いタオルを巻き直したあと、隊員らは救急車に乗り込んでセガワ家を去った。
 のちに数台のパトカーが先の救急車とおなじく静かに現地に到着した。すでに遺体の手足には死斑が生じていた。 首に引っ掻き傷は無い。 手の爪の内側には誰の肉片も付着していない。 現場検証の結果、自殺の線で男の遺体の回収作業が始まった。 半透明の納体袋が遺体搬送車の後部車室内に積み込まれ、パトカーは来た道を戻らずに、そのままヘッドライトの照らし出した進路に向けてセガワ家の前を去っていった。 現場に残った警察官が店主に対して、氏名、住所、生年月日、電話番号、そして最後にセガワ家の住民の所在について訊いたが、その最後の一点にだけは店主からの有用な返事が得られなかった。 場合によっては再度の事情聴取を行うため後日に地元の警察署への出頭を求められる、との説明を最後に、警察官らはそれぞれ残りのパトカーに乗り込んでセガワ家の敷地の前から走り去った。
 家を出てからおよそ一時間半後に店主は帰宅した。 少女は玄関の物音を聞き取り、リビングから廊下を歩いて内玄関に向かった。 店主は靴箱の前に立って少女の対処について思いを巡らしていたが、たったいま現れた少女を斜めに見上げてその身なりに視線を這わせた。 少女はまだダウンコートを脱いでおらず、おまけに頭にはフードを被せてあった。 それにまた彼女の腰のわきに下ろしてある右手には一個の陶器が握ってあり、店主の視線が自然とその位置に留まった。
「その器、気に入った?」 と店主は訊いた。 靴を脱いで上がり框に立ち、上体をかたむけて左右の靴を手で揃えた。
「わりとね」 そう答えたあと少女は陶器を胸の前に持ち上げた。 口を尖らせて器の内側に息を吹き掛け、その表面に薄く付いていた埃を飛ばした。 「これ、セガワさんが作ったの?」
「息子から訊いたらしいね」 と、さっき出際に自分の手で揃えておいた室内スリッパに足を通しながら店主は言った。
「まぁ、それに、セガワさんの映像も観たしね」
 少女の話の流れからして、その本人の言ったセガワさんというのが妻のセガワを指しているものと考えるのが道理だった。 そしてそれは同時に彼にとって初耳でもあった。 自分の息子がリビングのテレビ台の近くに一個の段ボール箱を運び込んでくるのを知ってはいたし、その箱の中身もすでに見知ってはいたが、そのうちの一枚に妻のセガワに関する映像が収録されてあるとは思いもしなかった。 店主は玄関の壁に手を伸ばして玄関灯と内玄関の照明のスイッチを切り、それから屋内に通じる廊下の照明を点けた。 「今日は大変だったな」 と、廊下を歩き出して言った。
 その彼のうしろを少女が付いて歩いた。 「申し訳ないなって思ってるよ」
「あのまま男を庭に放置せずに済んだのは君のおかげだ」 店主はそう言って自身の息子の居所をふと思った。 「めしを食いながらでも例の動画を観よう。 なんなら君も何か食べれば良いよ」

 あのあと風呂から出てきた息子の勧めで、少女はすでに夕食を終えていた。 食卓には数個の深皿が置きっぱなしにしてあり、それら一枚ずつに別種のおかずが入れてあった。 インスタントコーヒーとクリーミングパウダーの保存瓶が一本ずつ、そして砂糖の棒袋を多数まとめて入れた小瓶、またその他には数切れのリンゴを置いた平皿や、温州ミカンを入れた丸カゴなどが置いてある。 調味料の一群を載せた小型のラックの近くでは、ノートパソコンがスリープの状態のまま電源ライトをゆっくり点滅させている。
 台所の流しに立って、店主の息子は二人ぶんの食器をスポンジで洗っていたが、たったいまリビング・ダイニングに顔を見せた父親と少女に 「おかえり」 と一声をかけてから父親に夕食を勧めた。 店主は息子が身に付けている寝間着に気づいて、“眠たければ無理をせずに寝て良いぞ” と言ったあと、いそいそと食卓椅子のひとつに腰をかけてノートパソコンを手元に持ち寄せた。 「うがいと手洗いぐらいしてよ」 と息子が非難をにじませて言った。 対する店主は生返事をしながらノートパソコンの画面を開いた。 リターンキーを押してスリープ状態を解除し、ブラウザに表示させてあった動画プレイヤーの再生ボタンを押した。 タイムコードが秒数を数え、プログレスバーが再生位置を進めていった。 二秒間のフェードインにつづいて、町の昼間の景観が鮮やかな画質で映し出された。 その映像には手ブレが生じておらず、風の吹かれも撮影者の声も収録されていない。 はじめに町の路面が映し出され、数秒後には家並みの一部が画角に収まった。
 店主は動画の再生プレイヤーに目を凝らした。 タイトルと再生回数に視線を滑らせて、それから動画プレイヤーの画面を大きく占めたその一戸の家の門構えに見入った。 玄関の壁に取り付けてある表札には、まぎれもなく彼の名字が印してあった。
「まいったな」 と店主は言った。
 少女は棒袋の端を開けてグラニュー糖をカップに入れた。 「もうそれ以上、あまり再生数は伸びないと思うけど」
「もうすでに106人が観ているじゃないか」 と、店主はその数字に強調を加えて言った。
「今夜だけでも五回は再生したのよ」 そう言って少女は台所を振り向いた。
 店主の息子は少女に視線を合わせて何度か頷いたあと、やかんに沸かしてあった茶が沸騰の泡音を立てるのを聞きつつ、もう一方のコンロに載せてある味噌汁の鍋の加熱をはじめた。 「どうして、それ以上は数が伸びないって言えるの?」
「私がはじめてこの動画を観てから、ほとんど再生数が増えていないの」 少女はきっぱりとした口調で答えた。 「それこそ行き当たりばったりでこのページを見付けでもしないかぎり、こんな訳の分からない動画を観に来る人なんてそう何人もいるはずがないわ」
「なんだろう」 やかんを片手に持って息子は食卓に向かった。 「動画の投稿の仕方を勉強したかっただけかな」
「そんなとこかな」 と少女は言った。
 二人の会話に耳を傾けるかたわら、店主は動画のタイトルと投稿者の名前と視聴者のコメントに目を通した。 書き込まれたコメントは二件、そして動画の高評価を示すマークの横には14が表示されている――『二軒の家』―― 『arisawamura』―― 『おもしろい動画ですね 気付いた人は少ないと思いますが』 『Is it a kind of conceptual art?』――店主はそのあと動画の投稿者の名前にマウスのポインタを合わせてそこをクリックし、投稿者のユーザーページの “読み込み” が終わるのを待たずにバックキーを押して、元のページをパソコン画面に表示させた。 そして彼は画面に顔をぐっと寄せると、たどたどしい口調で投稿者のユーザー名を読み上げた。
 アリサワムラ
「どこかの村の名前みたい」 と、少女が店主の言葉のアクセントを笑った。
 店主の息子はガスコンロにミルクパンを置いて火を点けたあと、自分の父親が声に出して言ったそのユーザー名から――『アリサワ』 『アワムラ』 『サワムラ』――それら三種類の言葉を思い浮かべた。 そのうちの一つが息子自身の実母の再婚相手の名字と一致することの奇遇に “はっ” と一驚の息を飲み、そしてその自分の一瞬の心境の揺れから不意に妻のセガワを思い起こした。 映画やテレビドラマをつうじてセガワが (現実に即して描かれた) 架空の幸福や不幸を彼女自身の心理回復の過程に組み入れていたことを振り返り、 なんかセガワさんっぽいと息子は思った。 目の前にいる一人の少女が一枚噛んでいるものと考えるのが妥当だった。 何も起きなければ良いな、と思った。 ミルクパンの底に小泡が立ち始めた。
 店主は何度かその同じ動画を視聴してから、台所に自分の湯呑を取りに向かった。 自宅がビデオ撮影されたからといって過去に何か実質的な被害をこうむったわけではないのだが、ひとりの男の自殺と見知らぬ少女の存在がその撮影動画に端を発しているものとしか思えず、このあとさらにまた自分の日常の死角から想定外の事態が生じかねないのではないか、との心境にも陥るのだった。
 店主の息子はミルクパンと鍋敷きをそれぞれ両手に持って食卓に向かった。 それらを少女の手近に置いてから、また台所に引き返し、調理場に置いてあるカウンターチェアを両手で担いで食卓に戻った。 そして息子は少女の座っている近くにカウンターチェアを置いてそこに腰を下ろした。 少女はカップから引き抜いたマドラーを手近にある小皿の上に置いて、いちど食卓に這わした視線をそろりと息子に当てた。
「名前を訊いても良いかな」 そう言って息子は自分の氏名を名乗りながら食卓の上に片手を突いた。 そのまま彼は卓上に半身を乗り上げて、他方の手を食卓の片端に伸ばし、少女と夕食を取った際に使った湯呑を掴んでそれを手前に引き寄せた。 少女はわずかに距離が近まった息子からボディーソープの匂いを嗅ぎ取った。 息子はそのあと食卓の中央のあたりに置いてあったやかんの取っ手を掴んで上体を戻した。 そして彼の手元にある湯呑に茶を注いだあと、やかんを元の場所に戻した。 湯呑から立ち上る湯気が彼の挙動に合わせてもわりと動きを変えていった。
「初めて会った人に余計なことを訊くのは失礼なことなんだろうけど」 と、息子は少女から視線を逸らして言った。 「なんで君はここにいるのか、とか――どこから来たのか、とか――今夜はどうするのか、とか――それに他にも、終電の時間を気にしなくても良いのか、とか」 リビングの掛け時計の表示板に彼自身の就眠時刻の遅れを見て取ると、最後に息子は言い加える。
「君の顔をどこかで見たような気がするな、とか」
 店主は食器棚から持ち出してきた湯呑を食卓に置いて、息子の話の内容が意外な方向に進んでいくことに関心を寄せた。 少女は上体をかがめて対座する店主の手元からノートパソコンをなかばひったくるようにして自分の手元に移し置いた。 それから彼女は息子の顔に当てたばかりの視線をパソコン画面に戻してキーボードを軽やかに指先で弾いた。 まずは画面上にテキスト形式の新規ファイルを作成し、文字のサイズをいちど小さくしてから指先でキーをすばやく弾く。そしてつぎに文字サイズを44に変更すれば、つい今しがた打ち込んだ文言が一瞬にして大きく画面に表示される。
 さわむらです
「やっぱり」 そう言って息子はノートパソコンの画面から視線を外して父親に目配せをした。 ところが、店主の座っている場所からでは、少女の手元にあるパソコンの画面が目に見えない。 そこで店主は片手を礼儀的にかざして上体をかたむけると、両腕をぐっと前に伸ばし、そして彼の身近にノートパソコンを持ち寄せてその画面に見入った。 「この人、サワムラさんだよ」 と、息子は少女の顔をまたもういちど見やって、いつか自分の携帯電話に送られてきた撮影画像を頭の隅に浮かべた。 「なんか、前とは髪の色が違うような気がするけど」
 店主は動画の投稿者の表示名 『arisawamura』 にマウスのポインタを合わせてそこをクリックした。 投稿動画は一本だけだった。 男の自殺の一件よりもサワムラの存在のほうがいろいろと慎重に取り扱うべき問題のように思えてきた。
「なぜこんなことをするんだ」 と店主はなかば呆然として言った。
 店主の息子はいつか実母の携帯電話から送信されてきた画像を思い返していた。 そのときと比べると、サワムラの容姿がいくらかは大人びて見える。
「お義母さんが仕込んだようなものなんだけど」 とサワムラは言った。 動画の投稿者名にサワムラの氏名を含ませておくことを思い立ったのも彼女の母親だった。 「だけど私も、少しは気になったから――どうしてセガワさんの家があんな風になってるんだろうって」
 少女の顔を眺めながら、店主の息子はサワムラアリサの氏名を胸中に唱える。
「それに君の心の状態も、お義母さんほどじゃないけど、いちおうは気になるから」
 と、店主の息子の顔に視線を投げてサワムラは言い加える。
「私も気になるね、主にあのビデオのことが」 と、すかさず店主が返す。
「あの動画は、ちゃんと削除するよ、これからすぐに、します」
 そう言ってサワムラは、半身を食卓に乗り上げて店主の手元からノートパソコンをひったくり、ユーザーページにログインをして当の動画の 編集画面 に移動した。 「正直に言うと、いちど削除した動画を元通りのまま観られるサイトがあるにはあるんだけど」
「いますぐに削除できるのか?」 と店主は訊いた。
「アカウントごと削除しようかな」 とサワムラはパソコン画面を見ながら言った。 「もう必要ないしね」
「その前に、すこし確認しておきたいことがある」
 店主はサワムラの手元にあるノートパソコン本体の両側を手で掴んでそれを持ち上げ、その彼女の顔に視線を注いだ。 サワムラが何度か頷いて見せると、店主はパソコンを眼下の卓上に移し置いて、当の動画 『二件の家』 の再生ページに付けられたコメントの投稿者の “ユーザー名” にポインタを合わせてそこをクリックし、移動先のページに一覧表示してある内容を確認した。 そしてそのページの内容に犯罪的な意識の有無を見て捉えようとはするのだが、しかし、どうにもそのしようが無いように感じられる。 動画にコメントを残してあったのは二人のユーザーだけで、うちのひとりは日本語、そしてもうひとりは英語を使っていたのだが、一見すれば、そのどちらのユーザーとも動画共有サイトの健全な利用者であるように思えたからだった。 一方のユーザーの再生リストには膨大な再生数の付いた流行りの音楽や映画のトレイラーなどが並べてあり、それらの動画の中で扱われている話し言葉と字幕はすべて日本語だった。 また他方のユーザーにしてみても、再生リストに並べてある動画のタイトルやその内容にほとんど英語が用いられていることを除けば、その本人の特徴とおぼしいものはこれといって何も見当たらない。 たとえば何か、ユーザーの変態性を思わすような趣味が垣間見えるといったようなこともなく、ただ一見すればそれがいたって健全な気質を備えたユーザーであるふうな印象をしか受けないのだった。
 店主はそれから次にサワムラのアカウントページに移動した。 やはり彼女の投稿動画は一件だけ。 その動画の過去の視聴回数が日付に分けてグラフ化されていて、十一日前の投稿時から次第にその視聴回数の減っていく様子が明らかに見て取れる。 ついで店主はまたさらに各種の編集機能を操作するページの各項目を手当たり次第クリックして、その各ページの内容にすばやく目を走らせていった。 自宅を撮影した動画の再生ページにオカルト系の動画ばかり関連付られていることが気に入らなかった。
 店主の息子はさっきサワムラが言った “心の状態” という言葉の意味を考えていた。 それが妻のセガワではなく彼自身の心の問題を指していたことの理由を考えようとするのだが、つよい眠気が邪魔をしてどうにも具体的なことを考えられない。
 ようやく目的の項目を見付け、店主はマウスのポインタをそこに合わせた。 その 受信メッセージ を送信したのは Man equals man というユーザー名の人物だった―― 『どこでこの動画を撮ったんですか? ご迷惑はかけません。 見に行ってみたいです。』
 サワムラを一視したあと店主は、つぎに 送信済み のメッセージをパソコンの画面に表示させた――『すみません。 お答えできません』
「すみません、お答えできません」
 店主はメッセージを読み上げてから、またもういちど視線をまっすぐに上げた。サワムラの顔には年齢相応のあどけなさが見て取れたが、その薄曇った表情から彼女の心境をまで推し量ることはできなかった。




『店主と息子とサワムラアリサ』

konoです。
頻繁に寄せ鍋をつくって食べていると、冬のワンディッシュが鍋を指さず何を指すだろうかと思えてきました。シチューを食べ終えたあとの皿に白飯を入れてもそれはただの白米ですが、寄せ鍋の汁に白飯を入れてその鍋を火にかければそれは雑炊です。白飯ではなく雑炊です。ワンディッシュです。ラー油を入れると美味しいです。刻んだ青菜か三つ葉を雑炊に入れると、その歯ごたえや風味のおかげで雑炊を食べ飽きずに済みます。ひとつためしに刻んだ柚子の皮を入れてみるのはどうかと考えていますが、雑炊と柑橘系の相性について疑問に思ってインターネット上の料理レシピを見てみたところ、けっして相性が悪いわけではなさそうでした。

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