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裏庭のバジル 38 

 セガワ家で男が首を吊ってから二週目の半ばに差し掛かろうとしていた。

 本人がそれを話題に出さない以上、その息子本人が自殺事故の一件を知ったかどうか店主には知りようがなかった。地元紙に小さく掲載されたのでもなければ、近隣の住人がぎこちなく同情を示すのでもなく、その一件を誰が知って誰が知らずにいるのか、考えてみても確かなことは何も分からなかった。と、店主はまたバツの悪さを覚えた。息子とセガワチサトの間にあった不可侵な関係性を思うがあまり、店主自身その二人の領域の周囲をぐるぐるとガードマンさながら歩き回っているようなものでしかなかった。そして、その結果として彼の心が満たされ、同時に蝕まれてもいくのだった。いつからとなく店主にも分かってはいた。死者に心を蝕まれる謂れは無い。息子に事実を知らせまいとするのは、セガワ家の裏庭で起きた一件と、その故人の身勝手を店主自身が忌んでいるからだった。一枚の布を頭に巻き付けて遺体が店主の前にぶら下がり続けるかぎり、店主はいつまでも一方的に男の存在を否定し、セガワ家の裏庭にチサトと息子の姿を見続ける。いつからとなく分かりつつあった。自分が苦しむ理由が他には見当たらなかった。

 セガワ家の裏庭にいるのは、しかし首を吊った男ではなく一人の見覚えのない女だ。もちろん見覚えがあるはずは無い。外国の女と接する機会は過去に一度も無かった。
 自宅の裏庭に面する縁側から女の頭を生垣越しに眺めていると、ふと店主の頭に頼りない予感が走った。そして彼は(結果としてそれは実際には起きなかったが)“二度目”に対する心積もりをごく自然に付けることが出来た。一度目をもって何かしらの確かな教訓を学んだわけではないが、その外国の女の横顔を眺めながら万一の事態を想定し、それに対処する方法を考えるぐらいのことは出来た。女はカーキーグリーンのセーターにベージュ色のロングスカートを身に付けていた。そのどちらもが女を小奇麗に見せていた。首元に巻いた長いマフラーと腰のわきに持った深緑のハンドバッグには、店主にとって縁遠いファッションの価値が示されているようでもあった。
 女は店主の視線に気付いていなかった。店主が生垣の上面に両肘をのせて「ハロー」と声をかけると、ようやく女は隣家の庭を振り向いてそこに店主の姿を認めた。女はサングラスを鼻元まで下ろして上目で覗き込むように店主の顔を見た。肩に掛かる長さの髪は薄茶色で、瞳は淡い青緑。サングラスを外して女が顔を上向けると、左右の頬と鼻に薄っすらと そばかす が浮いていた。女もおなじく「ハロー」と言った。
 それから店主はアーと声を漏らして「ユー・スピーク・イングリッシュ――アイ・スピーク・ジャパニーズ」と、あらかじめ考えてあった言葉を平坦な発音で口に出して言った。すると女は自分の胸元に一方の手を添えて「私、日本語、話せます」
「よかった」店主は息をついた。「そこで何をやっているんですか?」
「チサトの家を見ています」
「チサト?」
 女が頷く。
「彼女を知っているんですか?」と店主は訊いた。
 女は裏返るような調子を言葉の頭に付けて“イ”エスと答えた。店主は便宜的に「そうなんですね」と言って、それから女の傍らにある黒ずくめの物体に視線を寄せた。それは見ようによって人の影のようでもあった。

 きっかけは生地のフランスで観た一本の演劇だった。女はその舞台に立つ一人の日本人の姿を見て日本に関心を持ち、それ以降、日本のテレビ番組や音楽をうまく活用して日本語の勉強をつづけた。そしてそれから二年が経つ頃には、日用の日本語をだいたい話せるようにまでなった。日本語専攻科の教員がロールプレイの良い相手になった。
 チサトに舞台の出演を依頼したのは、同国で活動をつづける演劇プロデューサーの男だった。男は自国の芸術文化を紹介するコーナーをテレビ番組に観てチサトを知った。放送時間にすれば十分程度の映像だった。茶瓶の胴に取っ手をつけるその慣れた手付きに感心を覚えて、番組の放送中にかかわらずテレビ局に電話を掛けた。
「背が高いぶん、見栄えは良さそうだ」
 店主はチサトの背丈を思い起こして言いながら、チサトの居住地を思って心のうちに驚いた。加護幸久の作陶活動に密着したドキュメンタリー映像の中で“フランス”の一語がナレーションに組み込まれていたが、陶芸品の展示会場についてのそれが説明に過ぎないものとばかり店主は思っていた。まさかフランスにチサトが住んでいるとは思いもしなかった。
 女はセガワチサトに対する店主の評価を聞いて嬉しそうに相槌を打った。
「私以外にも、チサトのファンは多くいますよ」と女は言った。
 “ファン”の一言が気に掛かり、店主は思い立つままに訊いた。
「ということは、彼女は陶芸をやめたんですか?」
「やめたのは 舞台のほうです」女は小さく首を振って答えた。
「演技が上手くなかった?」
 女は清潔な笑みを浮かべて店主を見た。「たぶん、ほとんど演技なんてしていなかったと思います。チサトはただ舞台の目立たないところで陶芸家を演じていただけ」そしてそのあと「だけど」と、視線をもったりと浮かせて遠くの空を眺めやり、心もとない口調で自分に言い聞かせるように言った。「サツジンテキな魅力がありました」
「さつじんてき」店主の耳に馴染みのない言葉だった。
 女は店主の顔にあどけない表情を向けた。「ひとをころすみたいに」
「妙な日本語を覚えたな」と、店主は何度か曖昧にうなずいて言った。サツジンの意味を女が本当に理解しているのかどうか疑わしく思えた。
「椅子に座って手を動かしているだけなのに、そっちに目がひき寄せられるんです」女は言ったあと、それとなく同意を求めるように店主の顔をじっと見つめた。一方の店主がまた曖昧に頷くと、女はチサトの出演を振りかえって控えめでありながらも熱っぽく話をつづけた。店主の耳には女の話の内容がまったく入ってこなかった。その語り口調にファン心理を越えた執拗な賛意が見え隠れすることを除いて、他に感じるところは何もなかった。演劇の舞台上にあるチサトの姿を思い浮かべてみたところで、しかし店主の頭に浮かぶのはセガワ家の裏庭に立つチサトの姿でしかなく、どの場所にいようとその恰好と佇まいに変わりが無いようにも思えてくるのだった。店主は静かな相槌を打ちながら女の淡い青緑の目に見入った。頬には そばかす が点々と浮いていて、女のすぐ近くには変わらず濃淡の入り交ざる黒い物体があった。どれも女の個性を示す一部のようでもあるが、ただ、最後のひとつは見るからに女の影ではなかった。
「あの」と、それから女は気を良くした様子で、指差した方角に店主の注意を引いた。「あれは壊れていますか?」
 店主が振り向いた先にはセガワ夫妻の持ち込んだ一台のブランコがあった。たしかにそれは一見すれば壊れているようにも見えるが、実際のところはセガワ夫妻が家を空けて以降に一度も遊具として機能していないだけのことで、けっして壊れてはいない。店主は返事をためらった。踏み板が取り外されたその理由に触れるのを避けるために、「いまは使えません」とだけ答えておいた。
 女はしばらく静かにブランコを眺めていた。その間じゅう店主は見るでもなく女の後ろ姿を見ていた。セガワ家の裏庭に置いてある踏み石に座ったまま、そうと気付かず眠気にまかせて後ろに背をもたせ掛けると、その店主の体の重みで縁側の白いシャッターの鉄板が微かに音を立てた。女は後ろを振り返った。
「ひとつ訊いても良いかな」店主は上体を起こして言った。「どうやって君はこの家の場所を知ったんですか?」
「どうやって?」女は小首をかしげて訊いた。店主は女の疑問する理由に思い当たって今度は言葉を変えて訊いた「誰から教わったんですか?」
「チサトです」女は迷う様子もなく答えると、セガワ家の所在を知るに至ったいきさつを話し始めた。
 個人間の意思疎通を目的とするウェブサイトにセガワチサトの登録ページがあった。チサトは熱心なユーザーではなかったが、不定期でありながらも投稿を続けていた。そのほとんどがチサトの日常生活の一部――出先にある自然風景や料理などの撮影写真――だったが、それらの投稿のひとつにセガワ家の借主の募集記事があった。女はその記事のコメント欄にメッセージを打ち込んでチサトの返事を待った。そしてその後、募集要項に書いてあったとおり、個人間の賃貸契約を仲介するインターネットサービスに利用登録をして、それからまたあらためてセガワ家への居住を願い出た。家の敷地面積や間取りからすれば賃貸料が安く設定されていた。大学生である女には手の出しやすい物件だった。
「いまは休学中です」と、女は店主の問いに答えた。
「日本に来るために?」
「病気になれば簡単に休学できるんですよ」女は含みのある穏やかな表情で店主を見た。その言葉の示すところに思いを巡らせていると、店主の頭に思いがけず嫌な想像が浮かんできた。休学願いの受理を目的として、いったいどの程度の病気に掛かれば良いのだろう。
「これ以上、詳しい話は聞かないほうが良さそうです」そう言って店主はそのあと話の筋を変えて女の反応を見ることにした「それで、どうですか、この家――」自宅とセガワ家の見慣れた外観にさっと視線を巡らせる。
 女は微妙に表情を曇らせた。「“家”ですか?」
「セガワさんの家と私の家の並びを、いちどご覧になってください」
 セガワ家の玄関先に出るよう女に伝えたあと、店主自身もまた裏庭用のスリッパを履いたまま自宅の玄関先に向かった。携帯電話の画面には16:33の時刻が表示されていた。日曜日であるとはいえ、店主の息子が日没を過ぎて帰宅することはまずありえない。そのうち帰宅した息子が店主の不在に気付いて電話を寄こすに違いなかった。店主は息子の几帳面な性格を思い返しながら、“気にしているのは私のほうだ”と思った。セガワ家への入居者が決まったところで、店主自身に対する何の不都合もあるはずがなかった。不都合はすべて彼の想定の中にあった。
 まもなく二人は玄関先の道路で落ち合い、両家の敷地を二分する境界線のあたりに立ち位置を取った。女は納得したように表情をゆるめて「このことですか」と言った。店主の気兼ねも空しく、女は気に掛けるようなそぶりをまったく見せなかった。両家の対称的な並びについてはすでにチサト本人から知らされており、むしろそれをユニークな家構えだとすら思っていた――おもしろいですよね、と、女は屈託のない笑みを浮かべて両家の外観を興味ぶかげに眺めた。店主はその様子を見て少しだけ気が楽になった。彼自身がそれまでのあいだ抱え続けた負い目が失せていくようだった。
「この家について、彼女は他に何か言っていましたか?」と店主は訊いた。対する女が素直な顔で店主をじっと見つめたもので、彼は思わず小さく吹き出した。胸の奥に張り付いていた杞憂が失せていくのを感じて、ただ事実だけを女に率直に伝えておくことにした。「あとになって彼女と君のあいだでトラブルが起きないように、ここで前もって君に伝えておくほうが良いように思うんです」
 女の表情には特に変わりが無かった。店主はさらに続けた。
「あとになって、私が彼女から恨まれることになるかもしれませんが」
 言いながら店主は、前置きを二度も続けた自分をひどく頼りなく思った。
「トラブルって何ですか?」女の表情にわずかな陰が落ちた。店主は、うっかり口に出しそうになった“死”の一言を飲み込み、この家で人が亡くなったんです、と伝えた。
 店主の頭によぎった嫌な予感はあっさり外れた。女の不安はチサトとのあいだに起きうるトラブルに対するものであって、セガワ家で起きた自殺事故の一件にはなかった。「気になりません」と、女は安堵の思いに駆られて、かるく握った拳で店主の胸を小突いた。それから手を下ろしてセガワ家を斜めに見上げて言った。
「チサトのこと好きですから」
 女の発言の脈絡については考えないことにした。店主はそして女の心持ちを疎むのではなく、むしろ好意的に後押しをするつもりで訊いた。「本来ならきっと、彼女から君に事実が伝えられるべきだったんです。そんなふうに考えたことはありませんか?」――考えれば考えるだけチサトの無責任な対応が見えてくる。家の所有権がまだセガワ夫妻にあるのだとすれば、日本を離れたといってチサトに何も知らされていないはずが無かった。
「そうですね」女は視線を逸らして言った。「あなたの言うとおりです」
 そのとき二人の近くで声がした。
「お父さんの知り合いの人?」
 店主は声の出どころを振り向いて、かるく挨拶がわりに手を上げて息子の帰りを迎えた。「今日、庭で知り合ったんだ」
「庭で知り合うって、めずらしいね」息子は女をちらと見やった。「僕らの家って、外国と繋がっているんじゃないかな」
 それを聞いて女は満面の笑みを浮かべた。店主の息子の前に歩み寄って膝を折り、片方の手を差し出して“はじめまして”と、ほとんど癖のない発音で言った。息子は女の握手に応じながら、彼の眼前にある 淡い青緑の目 を物思いに見つめていた。
「この人、セガワさんの家に住むらしいんだ」
 店主は息子の横顔を斜めに見下ろして言った。
「なんで、こんな家を選んじゃったの?」と、息子は女の顔に視線を戻して訊いた。
 ただ単純に素朴な疑問を投げただけのことだった。何の含みがあるわけでもないのだが、そこにこそ息子の内心が垣間見えるようにも店主には思えた。
 女はセガワチサトを知った経緯をみじかく分かりやすいように説明して、居住の理由をチサトに対する好意に結びつけた。息子は無言に女の話を聞いていたが、ひととおり話を終えた女に名前を訊いて、その聞き知った名前を呟くように口に出して言った――ドロテ――「家の中、もう見た?」と息子は訊いた。ドロテは首を横に振った。近々、フランスにいるチサトから家の鍵が送られてくる手筈になっていた。店主は配送物の紛失を心配したが、ドロテにはその気持ちがほとんど理解できなかった。お父さんは考え方が古いんだよ、と息子は言った。
 その後、夕暮れの匂いが薄っすらと立ち込める時刻を迎え、ドロテは駅前のビジネスホテルに戻ると言って店主らに別れを告げた。息子は女の後ろ姿を遠くに眺めて、セガワさんよりもお洒落な人だね、と、静かな表情のまま誰に言うともなしに言った。

 後日、仕事から帰った店主の目にセガワ家の窓灯りが映った。チサトが家を出てから三か月あまりが経った日のことだった。店主が部屋着に着替えてリビング・ダイニングの出入り口をくぐろうとした際、家の玄関チャイムが鳴った。
 ドアの向こうにドロテが立っていた。数日前のものと同じ組み合わせの服を着ていた。ドロテは菓子折りを店主の前に差し出してそれが日本的な引越しの挨拶の様式であることを嬉しげに話した。それを聞いて店主も思わず笑ったものだが、ドロテはそのあと視線を下ろして躊躇の声を漏らすと、あきらめたような表情を微かに浮かべて店主の顔をもういちど見た。もともと休学期間に定められた半年間の定住を予定していたところ、先日の家見をつうじて予定を三か月に変更したのだった。
「気持ちが変わった?」と店主は訊いた。
「私ひとりで暮らすには広すぎるかなって」ドロテは答えた。
 店主は何度か小さく相槌を打って、そうかもしれませんね、と言った。店主と息子の二人住まいにあってすら家の余分な広さが感じられるほどだった。
 セガワ家には生活に必要な家具や家電製品がすべて揃っていた。どの部屋の灯りもすべて点いたし、水道もガスもすぐに使えた。掛け時計には正しい時刻が表示してあった。トイレと冷蔵室に入れてあった消臭剤の液体が無くなっていたのを除いて、チサトの生活の確かな跡はほとんど何も残っていなかった。冷蔵庫の中もゴミ箱の中も空っぽだった。料理皿やベッドシーツにも使用感がほとんど無かった。新しく生活を始めるにあたって自分で用意するものといえば、それこそ冷蔵庫に入れておく飲食物ぐらいのものだった。「こんなに楽な引っ越しは初めてです」とドロテは笑った。
 その明るい表情がわずかに曇るのを店主は見て取った。
「チサトからの伝言があります」ドロテは出し抜けに言った。その顔に差し込まれた愛嬌がどことなく不自然だった。
 表情に気を取られるあまり、店主はドロテの言葉を頭の中で反芻したあとに適当な返事を考えなければいけなかった。「なに――伝言?」と、そしてドロテを差した指をそのあと彼自身の顔に差し向けて言った。「私にですか?」
「はい」とドロテは一言で答えた。「ベッドの下を見てください、って」
 店主の眉間に真っすぐな皺が寄った。理解のできない状況を前にして思考回路が粘り付きでもしたようだった。店主は口をひどくゆっくりと開いて、好ましくない秘密を打ち明けるように小さな声で言った。「そういう趣味の悪いのは、きらいなんだけどな」
 ドロテは返事に困って視線をわずかに下げると、間もなく店主の表情をうかがうように上目で彼の顔を一瞥した。店主はその様子を見てとっさに表情を緩めた。
「ところで、誰の家のベッドの下を見ればいいんですか?」と店主は気を取り直して訊いた。

 先立って階段を上りながら店主は、チサトと酒を飲んだ一夜を思い返し、冗談交じりのチサトの言葉を記憶の隅から引き寄せた。その夜、チサトは建築に利用される木材が樹木の死細胞の固まりであることを店主に話して聞かせた上で、一戸の家屋そのものを棺桶に例えたのだった。またそれに加えて――木材で築き上げた家の中で人が生活をしているのだから、つまり人は一生の大半を棺桶の中で暮らし、一生の終わりを棺桶の中で迎えるのだと。
「これまで一度もそんなふうに考えたことないです」ドロテは突っ返すように言った。
 そのチサトの過去の言葉は店主とドロテの想像を掻きたてるには十分だった。チサトの性格の一部を知る店主にはそれがチサトのでたらめな発言であって当然のようにさえ思えてもくるのだが、こうして寝室に向かう最中にあっては、その話の内容に妙な真実味が感じられる。店主の後ろを歩きながら、ドロテもすっかり黙り込んでしまった。
「そこです」ドロテは店主の背後で声を上げて、視界の先にある一枚のドアを指した。
 店主がセガワ家の二階に上がったのは、これが初めてだった。階段の曲がる方角とその角度が店主の自宅のものと左右真逆になっていた。階段を上がりきった先にもまた彼の想像どおりに部屋が並んでいた。店主は三つの部屋のうちの最も広い一室の前で立ち止まった。そしてドアノブに手を掛けたまま後ろを振りむき、かたい表情を張り付かせていたドロテに気軽な調子を込めて訊いた。「ベッドの下に何があると思いますか?」
 ドロテは無言に首を振った。「わからない?」と店主が訊くと、ドロテは一度だけ無言に頷いた。「部屋の中に入るのが嫌だったら、ここで待っていてください」そう言うと店主は前に向きなおってノブを回した。扉の向こうに何があるかと、今しがた階段をのぼる途中で一度は暗澹とした気持ちになったものだが、もうそれどころの心境にはなかった。彼の気掛かりは他にあった。家の二階に立ち入らないままドロテ本人が三か月の契約期間を終えるのではないかと、彼女に対して同情せずにはいられなかった。
 そんな店主の気も知らず一方のドロテは、戸枠の前に立ったまま部屋の中をぐるりと見渡し、店主の耳にまで届くぐらいの音を立てて鼻から息を吸った。
 木材の豊かな匂いが部屋の中に立ち込めていた。その匂いを自宅に嗅いだことは一度もないが、出どころが何処にあるかは一目見て明らかだった。店主は生活感のない部屋を一方の壁際へと向かい、一台のダブルベッドの前で立ち止まった。それは見るかぎりベッド以外の何物でもなかったが、その重厚な造りには目を見張るものがあった。大型の本棚を横たえたような佇まいをしていて、艶びくベッドフレームの全体には東洋的な模様が彫り刻んであった。分厚いマットとグレー色の枕にセガワチサトの寝具の好みを漠然と思い浮かべでもしていないと、そのベッドの持ち主をどこかの高貴な家系に生まれた人物か何かと勘違いしそうになる程だった。店主はベッドフレームに掘り込んである二か所の取っ手を見下ろし、「ほら」と、寝室の出入り口に立っていたドロテに呼びかけた。「引き出しがあります」
 ドロテは関心と不安の入り混じった視線を店主の足元に投げた。
「開けますよ」と、自分に言い聞かせるように言ったあと、店主はフレームの取っ手に両手の指を引っ掛けて、身を屈めたまま後ずさった。ベッドの引き出しが音も立てずにレールの上を滑った。店主の無言を気にかけてドロテはおそるおそる部屋に足を踏み入れた。店主は棒立ちのまま引き出しの中を見下ろしていた。
「なんですか」と、ドロテは店主の足元から部屋の窓辺に注意を逸らして、たどたどしい足取りで数歩を踏んだ。一方、店主はうしろを振りむいて厄を落としたような表情で答えた、「ただの陶芸品ですよ」それから片方の手をドロテの前にかざした。
「ですが、これを見るかどうかは君自身で決めてください」
 ドロテは部屋の一方の壁に顔を背けた。「どういう意味ですか?」
「ただの陶芸品です」と店主は繰り返した。「ですが、これを見て君が気分を害するかどうか私には分からないんです」
 しばらくしてドロテは視野の一部に店主の姿をわずかに捉えたまま部屋の外へ引き返した。「どんな作品ですか?」彼女の履いたスリッパが戸枠の下辺を擦る。
 店主はベッドの引き出しの中を見下ろしながら説明の口調で答えた。
「人の体を模してあります。ですが、頭がありません」
 首の中が空洞になっていることから、全体が空洞になっているものと見て取れた。体表には濃淡の異なる茶系の色が複雑に塗り込めてあるが、その全面が透明なガラス質で覆われているため、塗料の塗り重ねによる凹凸がまったく無い。手足の指先まで細かく作り込んである。性別や個人を特徴づける物は何も無い。全身の線は細くも太くもなく、乳房や性器またはそれを思わせる類の物は何も付いていない。
 店主はその“隙間”に視線を這わせた。人の胴に当たる部位だけが上面と底面のパーツに分けられていて、パーツを重ね合わせた接面には僅かな隙間があった。店主は腰をかがめてその隙間に両手の指先を引っかけ、指を少しずつ押し込みながら胴部の上面を持ち上げた。陶製のことだけあって、ずっしりとした重みが左右の腕に伝わってきた。店主はそれを部屋の床に置いたあと、音を立てて息をながく吐き出し、覚悟をつけて引き出しの中をもういちど見下ろした。
 胴の底部には陶製の平らな板が埋め込んであった。板の全面には黒味がかった細かい粒が敷き詰めてあり、板の中央のあたりには木で作った小屋の模型が置いてあった。その小屋の模型を取り囲むようにして材質の知れない樹木の模型が何本も密に並べてあるが、葉に相当する部品が付いておらず、枯れ木を模してあるようにしか見えない。
 形状を留めたままそれを部屋の外に持ち出すのは難しく思えた。全長にして二メートルほどの丈がある。店主はベッドの引き出しをゆっくりと閉じて、そのあとドロテを振りかえった。ドロテは部屋の外の壁際に座り込んでいた。
 店主は部屋の出入り口に向かい、一方の肩を戸枠に寄せかけて言葉を探した。
「どうしますか?」と店主は訊いた。他に言葉が見つからなかった。
 ドロテは無言のまま店主を見上げた。
「あれをあのままの状態で家の外に持ち出すのは、なかなか骨が折れそうです」と、店主はドロテに視線を落とした。「だから、あのままベッドの下に置いておくか、もしくは金づちで叩き壊して家の外に持ち出すか――」
「チサトと何かあったんですか?」
 店主はしばらくドロテの顔を見下ろしていた。何のことを言っているのか理解できなかった。「何かって、何のことですか?」
「トラブルです」
「ないですよ」
 と、店主は廊下の壁を正面に見やって首を振った。「ただ、もしかしたら私と彼女のどちらかがトラブルの元になってしまっていたかもしれません。――それか、トラブルに引き込まれやすい――いや、だけど、引き込まれやすいように見える人がトラブルの元凶だったりもするから。――なんていうか、今のは、ものすごく有り体な言い方かもしれないけど」と、そこで店主は言葉を切った。ドロテの一言が具体的にどの類のトラブルを示しているのかと気にしながら、そこに隣人関係か男女関係にまつわる問題を当てはめて解釈をしようとしたが、そうしているうちに彼の口から突いて出たのは単なる弁解じみたものでしかなかった。「私と君のあいだに何もトラブルが起きていないのだとしたら、たぶんそれと同じ意味で、セガワさんと私のあいだにもトラブルは無かったんだと思います」
 言い加えて店主は寝室のドアを静かに閉じた。腕時計を手首に見下ろすと、『19:38』の表示があった。
 店主は鼻から息を抜いた。一介の父親としての面目にかかわる状況だった。「もうそろそろ帰ります」そう言ったあと、床に座り込んだドロテの腕をすくい上げるように手でつかんでその彼女の体を引き起こした。そして店主は足元の床をちょいちょいと指して、彼の記憶にあるリビングの様子を思い浮かべて言った。「一応、ソファの下も見ておきましょう」
 二人はそれから階下におりて、リビングに置いてある二台のソファの下を覗き込んだ。ほんの少しだけ埃屑が落ちていた。その他には何も無かった。「ここで眠れば、悪い夢を見ずに済みますよ」と、店主はソファの座面をかるく手のひらで何度か打った。
 ドロテはただ無言に肩をすくめて見せた。
「酒は飲めますか、ビールか何か」店主は思い付くままに訊いた。「もし冷蔵庫の中に買い置きが無いなら、私の家にあるやつを二、三本持ってきますよ」と、眉を上げて目をかるく見開き、それとなく返事をうながした。
「ありがとう、でも私、お酒が飲めないんです」とドロテは答えた。
「だったら、この部屋に何か音楽を流せば良いと思います、ラジオでも良いし――」
 リビングを見回してみたが、それらしい機器はどこにも見当たらない。CDプレイヤーもなければテレビもない。店主は迷うことなくリビングの一角の壁を指して、テレビのアンテナ端子の位置をドロテに言葉みじかく伝えた。「私の家のテレビで良ければ、いまから取りに帰るけど、どうかな」いつか息子に買い与えたテレビゲーム機もある。
 ドロテは落とした視線を自分の足元に泳がせたあと、首を何度か横に振った。その彼女の一挙一動に店主は注意を払おうとしたが、そうしているあいだにも彼の意識の隅のほうから時限が差し迫ってくる。無言の相手に対する気の利いた言葉が見つからず、ついには相手の胸中を察する時間に耐えられなくなる。
 ありがとうございます、でも、もう大丈夫です。と、ようやくドロテが口を開いた。
「気が落ち着かなくてどうしようもないときは、私の家に来てください」店主は胸を撫で下ろす思いで言った。「食べ物はあるし、テレビもある――テレビ・ゲームもあるし、それに他にも色々、電子レンジとか」
「電子レンジ」ドロテは力なく言った。その言葉尻に混じった薄笑いを聞いて、店主はわずかながら口調に勢いを付けて話した。「型落ちのノートパソコンとか、ウォシュレット付きの便座とか」さらに声を張って続ける。「ここ最近、電化製品を買い替えていて思うんです、取扱い説明書を読むのが私は好きなんだろうな、って」――言いながら店主は一方の手をドロテに掲げて見せて、そのままリビングの出入り口に向けて歩き出した。すると彼の背後から、“説明書”と、ドロテの声がする「私も読みますけど」
「そうでしょう」
 店主は語尾をわずかに上げて言ったあと、上着のジッパーを首元まで引き上げた。「それが、うちの息子ときたら、はじめから自分の勘だけを頼りにボタンを押し始めるんです、これはスタートボタンで、これは調節ボタン――見れば大体分かるじゃないか、という具合に」
「そういうときもあります、私も」とドロテは言った。とっさに歩を止めて後ろを振りかえり、廊下の壁にさっと手を伸ばした。玄関の照明スイッチを指で弾くと同時に、店主の視界の先に白い灯りが点いた。店主は斜めを見下ろして礼を言った。

「もしご迷惑でなければ、セガワさんに伝えてもらえませんか、“君の考えていることは私にはよく分からない”って」
 冷たい風が玄関先を流れていく。時刻は二十時を過ぎようとしていた。
「良いですけど、本当に伝えるんですか?」
「私なりにいろいろ考えてみたけど、分からないものは分からない」
「いいのかな」と、苦笑いを微かに浮かべてドロテは小声で言った。
 かまわず店主は頷いた。そして何ということなくドロテの首元に視線を落とし、思い付くままに口早に言った――あの模型のモデルになった場所に財宝が隠されているのかもしれない。でも、だからって、どうしろっていうんだ――仕事をやめて子供と一緒にフランスに来い――って言いたいのか?
 そう言うなり店主は腕時計を手首に見下ろし、表示板のバックライトを付けて――腹が減ったので帰ります――と言った。すると、ついさっき調子を取り戻しつつあるように見えたドロテの表情に、また薄っすらと不安の色が張り付いた。
「なにかあれば、うちに来てください」
 それ以外の言葉が店主の頭に浮かんでこない。
「チサトからの伝言がまだあります」
 店主は呼吸をしずかに何度かくり返した。冷え切った足首に他方の足首をこすり付けてみるが、スウェットパンツの表面を擦り合わせ続けたところで気分は少しも良くならない。「腹が減ったよ」と、店主は玄関の上がり框を指して、中に入れてもらえるようドロテに訊ねた。上着の左右のポケットに手を差し入れて、自宅から携帯電話を持ち出さずに来たことの不注意をまたもういちど思い返した。框に腰を下ろして足元のタイル床を眺めていると、そのうちポケットの中で指先が温みを持った。
 それから五分もせずにドロテは玄関に戻ってきた。右手にマグカップを持って、タブレットパソコンを左腕に抱えていた。「これ、どうぞ」と言ってカップを床に置いたあと、タブレットを抱えなおして指で画面の操作を始めた。店主はみじかく礼を言った。カップの中にはコーンポタージュが入っていた。

 私の身のまわりにいた方々と進んで関わり合いにならないでください。
 良い人もいますが、中には悪い人もいます。どちらの人も良い一面と悪い一面を持ち合わせていますが、そこにはもちろん程度があります。大きな善意より小さな善意の方に大きな力がある時もありますし、大きな悪意よりも小さな悪意のほうが厄介な時もあります。良い人は本当にそれが必要な時にだけ小さな悪意を持ちます。悪い人はそれと同じ小さな悪意をすぐに大きな悪意に持ち替えることができます。
 まさかフランスに来ることになるとは思いませんでした。昨日まで日本にいたのに、その次の日にはフランス行きを決めていたんです。やっぱり私は運が良かったです。私を認めてくれる人がいたので今も陶芸を続けています。だから、どこへ行っても陶芸を続けていけます。
 どこに行っても多かれ少なかれ人はいますが、ここは人の数が少なくて、人の流れも少ないです。私が住んでいる町にはお金持ちの人ばかりが住んでいます。ただでさえ住人が少ないのに、みんながのんびりと暮らしているので、時間の流れがゆっくりしています。襟首が伸びたシャツを着ている人もいますし、お客さんが来ないカフェを一人でやっている人もいます。森の小人の家みたいな家に住んで、すごく質素な暮らしをしている人もいます。
 しばらくここにいようと思います。次にどこへ行くことになったとしても、私を気にかけてくれる人はパソコンの向こう側にいるので、治安が良い町へならどこへでも行けます。パソコンがあるから、こうしてメッセージをすぐに送れます。
 私が作った陶器をインターネットで販売しています。日本への輸送料金は少し高く付きますが、もし気に入るのがあったら買ってください。表示価格よりも少しだけ安くします。http://untitleddd.nobody.jp/
 では、さようなら。

 聞き終えて店主は、ドロテの無言を気にかけて本人の顔をそれとなく横目に見た。
「直接、チサトとメッセージを交換しますか?」とドロテは訊いた。「もし私が文章の内容を読んでご迷惑でしたら」
「いや」と、店主は反射的に答えた。「それより、ひとつ気になることがあるんですが、いつも彼女はそんな手紙みたいな文章を送ってくるんですか?」
「私とは契約についてのメッセージを交換するだけです」ドロテは首を横に振って答えた。その淡い表情から本人とチサトとの関係性の程度が読み取れた。
「そうですか」店主は何度か小さくうなずいて見せた。うっすらとした眠気に流されてそのまま何度でも繰り返してしまいそうだった。「じゃあ、私からのメッセージを別のものに変えます」
 ドロテはそれを聞いて少しだけ怪訝な表情を浮かべたが、間もなく店主の言葉を正しく理解して「“さっきの”ですね、分かりました」と、タブレットを操作してメモ機能を立ち上げた。「どうぞ」と、器用な手つきで店主の伝言をタブレットの画面に打ち込んでいく。
「君は善意や悪意よりも“もっとややこしいモノ”を持っているよ」
 さらに店主は抑揚のない声で言った。「たぶん私は、君の一番ややこしい作品をベッドの下に見たんだと思う。だから申し訳ないけど、君が教えてくれた販売サイトでは何も買わないだろうな」
 そこで言葉を切って店主はカップをぐいと傾けて、その内側に垂れ流れるのを舌先に落とした。そしてそのあと、正座しているドロテの膝のわきに空のカップを置いた。
 
 帰宅して店主は上着のポケットに手を入れて、中から粒状の一つまみを取り出した。それはセガワ家の寝室から持ち出してきたものだった。ある思いに駆られて店主はその粒の匂いを嗅いでみた。チサトのベッドの引き出しを開けたとき、すでにその匂いが彼の鼻先を撫でてはいたが、それとまったくおなじ 微かな甘い匂い が彼の指先にある。店主には心当たりがあった。いつかセガワ家の庭からむしり取った草の断面にその匂いを嗅いだことがあった。
 どこだろうな、と店主は思った。セガワ家のベッドの下にあった模型の小屋が“もしどこかに実在するのであれば”、あの禍々しい色をした人型の作品がなぜ作られたのか、その理由が何か分かるかもしれない。そうしてしばらく考えていると、そのうち店主の頭にはっきりとした記憶が沸き起こった。加護の作陶活動を追った映像の中に本人の所有する広畑が映し出されており、そこに収録された英語のナレーションによれば、その畑に森をつくって畜舎を建てる、と、将来の理想を加護が語っていたのだった。




いま大体、構想の六割か七割のあたりを過ぎたところです。
奇特な方は、もうしばらくお付き合いください。