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イェフス 43 


 十二月も中頃を迎えた土曜日の朝、セガワ家の敷地で耳を突く鋭い音が鳴った。住宅地の日常に発するにしては特殊に過ぎる音だった。その地区に長く住む老齢の住人らにしてみれば、町の警報機が誤作動を起こした程度にしか感じない。だが、休日の午前の平穏なひとときに彼らの家事の手をひとまとめに止められる程度には異質で不穏な音でもあった。
 店主の息子もまたその音を聞き取ってリビング・ダイニングに顔を見せた。父親を探して隣室とトイレと洗面所と風呂場を順々にまわり、その足で縁側へ向った。彼の目先には部屋着を身につけた店主の姿があった。
「隣りの家の人が木を切っているんだ」店主は息子に気付いて言った。
「うるさいね」と、息子もまた縁側から大窓の外を眺めた。
 家の壁に音が反射し、辺り一帯に小刻みな太い響きが鳴り重なっていた。音の上昇につれて、その鳴り渡る範囲が家の敷地の外へと広がった。店主が定期的におこなう庭の草刈もまた普段の家庭生活に生じる音量の比ではないが、この日の午前を切り裂く音といえば、そのまたさらに大きな音で耳障りに鳴っていた。店主は玄関を出て、門前の道をセガワ家の裏手へ回った。彼の視界の先では、初老の男が地面のアスファルトに膝を突いて作業を続けていた。生垣の木の一本が男の目の前をまっすぐに傾き、そのままセガワ家の庭にばさりと倒れた。男は上体を戻して一方の手を後ろ腰に当てて、息を吐きながら背筋を伸ばした。チェーンソーのエンジンを止めて、やれやれ、と言った。
「おはようございます」店主は様子を見計らって声をかけた。男は後ろを振りかえってチェーンソーを地面に置くと、軍手の表面に付いた木屑をかるく手で払い落とした。二本の木がセガワ家の庭に倒してある。どちらの幹も地面から三十センチあまりの高さで切り離され、その断面には綺麗な切り跡が付いている。店主は男の前に歩み寄って、二メートルほどの幅に空いた生垣の向こうに、草の伸びた裏庭と縁側用のシルバー色のシャッターを眺めた。初老の男は、保護メガネを外してチェーンソーを顎でしゃくると、それがホームセンターのレンタル品であったことを話した。そして男はそのあとエンジンの動作や刃の切れ味に対する好ましい印象を口に出して言いかけるのだが、ちょうどそのとき店主の関心が木のほうに向いていて、男の他愛ない世間話は宙に浮いたまま立ち消えていった。男は屈託ない笑みを浮べて店主の様子を眺め下ろした。
 二本の木の切断面には、どちらも二十本ちかくの年輪が付いていた。手を広げて株の直径を測ると、長さにしておよそ十五センチあった。隣り合わせで密接していた他の木々の側面にも枝の成長が見られた。緑色の葉こそ付いていないものの、陽光の遮られた枝陰の中にあって細々とながら確かに横枝が伸びていた。それまで何度となく生垣を剪定してきた店主自身にでさえ、その枝の成長の具合には目が行き届いていなかった。それはいつかセガワ夫妻から聞き知ったイェフスの木の性格そのものだった。枝の手入れをせずに木を放置し続ければ、やがて隣り合う木々のすべての枝々が互いに交差するように横這いに伸び続ける。
「休みの日に、すみませんね」男はすっかり緊張の取れた表情でチェーンソーを足元に見下し、腹の前で手を組んで気さくな口調で言った。「なかなか威勢のいい奴で。力があるけど、そのぶん音もでかい」
「ええ」そう言って店主は腰を上げると、ふつと沸き立った微細な感情にまかせて、男の目に視線を投げ返した。「どうして木を切ったんですか?」
 ここに小さい裏門をつくろうと思いまして。男は木の幹の断面からゆっくりと視線を上げて答えた。保護メガネの縁の跡がまだ彼の目の周囲に赤みがかって残っていた。男はそしてまたチェーンソーを手に取り、セガワ家の庭に寝かしてあった二本の木の後処理に取り掛かった。「ちょっと待っていてください」と、チェーンソーのエンジンをかけると、木の幹から伸び広がっていた枝をすべてチェーンソーで切り落とし、そのあと二本の幹をそれぞれ等間隔に小切って処理を終えた。
「手馴れたものですね」店主はいちど湧き立った感情を抑え込んで言った。
 男は恐縮めいた声で笑った。足元に散らばった枝や幹を庭の隅に片付けながら、バーべキューの予定をまた話題に挙げた。たったいま小切った枝や幹を天日で乾燥させて、それらを着火剤と合わせてドラム缶の中で焼却しようという考えだった。男は自分の手近に置いてあった新品のシャベルを土に突き刺し、株と根を掘り起こし始めた。一方の足に体重をのせて、いくつかの掛け声を敷地のまわりに響かせた。
 翌日、ホームセンターの担当店員が軽トラックに乗ってセガワ家を訪れた。施工の作業が始まってから一時間足らずで、家の裏手にアルミ製の門柱と片開きの扉が取り付けられた。

 その次の日、自宅の倉庫の中を引っ掻きまわす店主の姿があった。夕食後の静まり返った夜だった。庫内の天井灯の明かりを反射させた塵や埃が戸枠から外へと漂い出てきた。すでにもう小一時間ものあいだ、そうしてブランコの座板を探して手狭な庫内をあちこちと探し回っていた。思い当たる場所には見付けられなかった。防水用の塗料でうすく艶びく一枚の座板を、端材と見誤ってゴミに出したはずは無かった。それを持ち出した人物が他に誰かいるとすれば、自分の息子以外には考えられなかった。
 振り向きざまに店主は、戸口を流れ出ていく塵のかがやきを見て思わず息を止めた。倉庫の小窓と引き戸を開け放したまま家に戻った。

 息子は特に気おくれをする様子もなく、自室の奥の床に置いたダンボール箱から座板を取り出した。そしてそれを左右の手で胸の前に掲げて、眠気の差した顔を上向けて父親を見やった。ブランコの板の実寸は以前と変わりなかった。それを持つ手がまだ小さかった。
 だが、それよりも店主が気に掛けたのは、部屋の隅に置いてあるダンボール箱の方だった。以前、息子がリビング・ダイニングに持ち込んだ物とはまた別に、大きさの異なるもう一個のダンボール箱が彼の自室に置いてあった。一方の箱の表面には接着剤の商品名、そして、他方の箱には粉末釉薬の商品名が印字してある。店主は息子への対応に思案の声を漏らしながら、息子の背後にあるダンボール箱にそれとなく視線をずらした。箱の上面にある四枚の蓋がすべて外側へ斜めに傾いていて、その蓋の隙間からは白い布地が覗いていた。
「三年ぐらい前かな」と、店主は床に敷いてある絨毯に目を渡して言った。深い青色の毛足が夕凪の海のようだった。「ブランコから落ちただろう?」
「ジェットコースターみたいだった」息子は自分の記憶を辿った。
「だから取り外しておいたんだ」そうすることを提案したのは、店主ではなく瀬川知里だった。
「お前に預けておくよ」と店主は言い添えた。
 息子はいぶかしげな顔で父親の顔を眺めていたが、そのうちまたもういちど座板を手元に見下ろして一度うなずき、わかった、と言った。
「風呂へ行くか」店主は誰に言うともなしに言った。そして戸口の木枠から肩を離して外の廊下に後ずさった。その間際、店主は思い出したように言い出た。座板の正確なサイズを測っておきたかった。息子から受け取った板をダイニングの食卓に置いてから風呂に入った。
 午後八時を回ろうとしていた。
 息子は防寒着を羽織って自室を出ると、ガス台で温めた茶をマグボトルに入れてそれを片手に家を出た。
 冬の只中にあって夜の冷気が頬を刺した。息子は自宅の生垣に沿って歩を進めて、セガワ家の門前を横切ってぐるりと敷地の外を回った。下校時に回り道をして確かめてあったとおり、生垣の一部が切り倒され、その場所に裏門が頼りなく建っていた。アルミ材で出来た伸縮式の扉だった。レバー・ハンドルを下げて扉を右側に引くと、音を立てずに扉が開いた。
 歩道灯が淡い光を落としていた。アルミ製の裏門がおぼろに白く浮き上がっていた。その門の扉を閉じたあと息子は、足元にマグボトルを置いて生垣に背中をもたせ掛けた。手袋をはめた両方の手を防寒着のポケットに差し入れて首をすくめた。
 歩道を行く者は誰もいなかった。車道の脇に停めてあった一台の軽自動車がアイドリングを終えて走り去った。遠くにある門灯のひとつが消えて、そのあとしばらくしてまたひとつ他家の灯が消えた。瀬川家の裏庭から道を挟んで向かい側に立ち並ぶ板塀の表面を、暖かい灯りが斜めから射し照らしていた。地面に埋め込んだ小さなライトの明かりがひどく眩しかった。
 一方、歩道灯の光源をどれほど見続けていても、ほどんど目の疲れを感じなかった。星明りよりも目に優しく、星明りよりも彼の身近にあった。またさらにそのまま視界の先へと順々に目を移していく。遠くの十字路にある道路灯の光がいまにも消えそうなほどに薄白かった。光は十字の四方に伸びる道先をすべて短く断ち切っていた。何物も照らし出さず、ただそこに意味もなく浮かんでいるだけのようだった。
 生垣に沿って伸びる歩道に、冷えた風がゆるく吹き流れていた。店主の息子は左手の人差し指を口に咥えて、唾液の付いた指の皮膚で風の向きを確かめた。そして、ちらっと斜めを振りむいて裏門に注意を払った。門を隔てた向こう側に人の気配があった。よく通る口笛の音に合わせて何者かがセガワ家の裏庭を歩み寄ってくる。店主の息子は微かな不安に駆られて「さむい」と、背をこごめて自分の所在をそれとなく小声で打ち明けた。すると間もなく、その声に気付いた相手が門の外に首を突き出して声を放り落とした。
「こんな寒いときに、どういうつもりだ?」
 男の声には好奇の色合いが帯びていた。
「この場所が、すごく寒いんだ」息子は裏門を指で差すと、平静を装ってそう答えた。
 男は大きな懐中電灯の光を扉のフレームの上下に流し当てた。二箇所の鍵穴の位置を目で確かめたあと、家から持ち出してきた鍵をブルゾンのポケットに手探りし、中から取り出した二本組の鍵の先端に電灯の明かりを射した。息子は真鍮で作られた鍵の輝きから目をそむけて前に向き直った。
「鍵を掛けたって意味ないよ」息子は扉越しの背後に向けて言い放った。「こんな小さいドアぐらい、すぐによじ登れるから」
「だろうな」と男は言った。「けどな」そう言葉を続けたあと、門の格子に吹き入る風の流れに気付いて敷地の外に出た。「まさかとは思うけど、“鍵を掛けるから盗人が入る”なんて考えているんじゃないだろうな?」
「それ何?」息子は訊いた。
「だとしたら、それをキベンって言うんだ」と、かまわず男は断定の口調で付け足すと、歩道に出て視線を左右に渡した。風が右から左へ一方向にそよいでいた。そしてそれとはまた別に、門の格子の隙間にだけは引き寄せられる風の流れがあった。排水溝に流れ込む水のようだった。
「夏になるまで待てば良いのに」そう言って男は胸の前で両腕を組み、下唇を噛んで身を震わせた。「寒いと、小便が近くなる」
「お酒を飲むからだよ」息子は呆気を含んだ声で言い捨てた。向かいの家の板塀の隙間から民家の窓明りが細く何本も漏れ出していた。男は自分の口の前に一方の手をかざし、吐いた息の匂いをすっと嗅いだ。
 僕もそうだよ。と、店主の息子は思うままに言った。そのことを他者に話したのは初めてだった。
 それからしばらくして息子の話を聞き終えると、男は理解が出来ないといった表情を浮べて訊いた。
「寝小便をして困るのは、修学旅行のときぐらいのもんだろう?」
「おじさんみたいに一人暮らしをしてるんじゃないんだから、困るときもあるよ」
「お父さんは知らないのか?」
「夜になったら起きて、もう一回お風呂に入る」うなずいて息子は自分の習慣を話した。
「おじさんだって、仕事から帰ってきてもご飯を作ってくれる人がいないから困るけどな」
「分かるよ」息子の遠く目先に車のヘッドライトが点いた。
「お父さんがご飯をつくってくれるんだろう?」と男は訊いた。
「炊飯器だよ」と息子は答えた。「タイマーが作ってくれる」
「電気が作ってくれるんだよな」男は目を細めて笑った。
 息子の視界の遠く先で、タクシーの丸い行灯が滑らかに色を変えた。その視線を辿って男もまたタクシーの車体を眺めた。「おじさんなら、どこから風が吹いてくるのかなって、あっちを見るかな」そう言って逆の方向を指した。
「なんで?」と息子は訊いた。
「風がゆっくり流れてくるように見える」
 それを聞いて息子は物知り顔で“うん”と言った。風の流れを目で捉える方法が思い付かなかった。
「他にも何か話したいことがあったら、いつでも俺が聞いてやるから」
 そう言いながら男は一方の手のひらで息子の背中を軽く叩いたが、そのあと、ふと気まずさに口をゆがめて、あぁ、と、声をみじかく漏らした。一年後には瀬川家を出てまた別の土地に移り住む予定だった。
「どこかへ行くの?」と息子は訊いた。
「そう。どこへ行くかは分からないけど」
「それって、どこでも良いの?」
「体が健康なうちはな」
「大丈夫だよ、自転車に乗れるんだから」
 タクシーが二人の前をゆっくりと通り過ぎた。球形の行灯が何種類かの淡い色を数秒おきに移し変えた。制帽を浅くかぶった運転手が眼前のハンドルに置いた手の指を上下に小刻みに動かす。カーナビの画面にはニュース映像。車内の天井から吊り下げてある客用の液晶ディスプレイにもおなじく中年のニュースキャスターの佇まいが映し出されていて、そのキャスターの胸の前にはニュースの主旨が表示してある――人の記憶保存技術の今。記憶ビジネスと、その管理業務における課題
「あんなに歳をとった人でも、布団の中で漏らしちゃうんでしょ?」と、息子は男を振り向いた。
「体が衰えてくればな」
「だから漏らすの?」そう訊いて息子はそのあと、自分の記憶にある忘れがたい数夜を思い起こしてそれを男に話して聞かせた。
 あとになって息子はそれが不慣れな寝床に入った始末であったと知るのだが、当時はまだその因果関係には思い至らず、子供ながらに深く落ち込んだものだった。
 ――彼自身まったく予期していなかった。目覚めると、自分の下着の布がべったりと股間に張り付いてた。それに気付きながらも彼は、しばらく身うごきを取らずに天井の照明器具を眺め上げていた。丸い照明カバーの内側にある薄い板状の部品がゆっくりと静かに動いていて、カバーの内側に満たされた豆電球の灯かりが自動的にそのかたちを変えていった。月の満ち欠けのようでもあって、自分の気を鎮めるには十分な効果があった。
 息子は瀬川知里の寝息に注意を払ったまま身をねじった。かけ布団の片端をめくり上げて、温みの残るカバーの一箇所に指先をあてた。そこには僅かな湿りがあった。寝間着の股から尻の方にかけては、それとはっきり分かる程度にまでじんわりと濡れていた。息子はそれからベッドを下りて、足音を立てずに寝室の前の廊下に出た。暗んだ廊下の壁に手を伝わせて階段の降り口まで歩いていくと、壁づけの照明スイッチを押して天井灯の明かりを点けた。寝間着の薄青い布地がその色を濃く変えていた。
 廊下が異様なほどに静かだった。そんな中、他家の、それも自分の家の間取りを写し取った屋内で、なかば呆然と立ち尽くしている。誰のせいにも出来なかった。家のせいでもない。ただただ自分の起こした失態だけが目の前にある。
 階段を降りようと足を踏み出した矢先、その息子の背後から女の呼び声がした。つられて息子は早々と後ろを振り返った。ちょうど知里がショーツ一枚の格好で寝室を出てきたばかりだった。薄明りの中で見た知里の裸が、ちょうど息子のまっすぐ目の前にあった。知里は片方の手に持った室内用のスリッパを息子に差し向けて、他方の手の指先で自分の頭皮をざりざりと掻いた。息子は羞恥心の意味合いの微妙な変化を自覚する間もなく、さっと顔を背けて階段に向き直った。その様子を見て知里は “風邪ひくよ” と、つぶやくように言った。
 息子は知里に言われたとおり、洗濯かごに寝間着のズボンを入れて、風呂場のシャワーの湯で股間の汚れを洗い流した。洗面所から持ち出してきた大きなフェイスタオルをベッドに敷いて、半身を露出したまま知里の傍らにもういちど足を差し込んだ――
「大人の女の人に裸で寝られたら、そりゃ緊張して小便も出るよな」
 店主の息子の話を聞き終えて、男は気さくな口調でそう言った。
 二人の視界には近隣の家灯りが変わらず張り付いていた。風の流れを除いて、時間の経過を感じさせるものは他に何もなかった。息子は道の真向かいにある家の板塀から視線を逸らし、男の顔をふいと振り向いて言った。「セガワさん、ぜんぜん嫌な顔しなかったよ」
「お母さんみたいな人ってことだろうな」
 息子は小首をかしげて言った。「寝ているときはね」
「ロマンがあって良いじゃないか」男は感慨の息を吐いて冷気を吸った。夜の寒さに耐えかねて奥歯を小刻みに打ち合わせた。「だけどな。年寄りの寝小便は、また別の話なんだよ」

 風呂を出た店主が息子の不在に気付くまでに、そう時間は掛からなかった。店主の呼び声に応じる気配はなく、子供部屋に息子の姿がないとあれば、本人の居場所がセガワ家のどこかにあるものと考えるのが妥当だった。はじめにセガワ家の裏庭に思い当たったが、その想像に掻き立てられる自分の発想が何より疎ましく思えた。店主は、いちど閉めた扉をもういちど開けて、明かりの点いた息子の部屋をただ無言に眺め渡した。そうしているあいだにも、店主の注意はベッド脇にある二個のダンボール箱に否応なく引き寄せられていった。うちの一個には加護幸久の陶芸展で放映された数々の映像メディアが入れてある。となれば、もう一個の箱の中身もまた加護に関わる何物かであって当然だった。断定にも似た思いに駆られて、店主は部屋の窓辺へと歩いた。
 箱の中に入っていたのは女用の服だった。それを元妻の物であると推しあてるには、店主の記憶がひどく曖昧だった。妻の着ていた服など一枚一枚覚えていなかった。だが、箱の中から漂い出るその匂いだけは、明らかに彼の自宅のどこにも無かった。店主は気乗りのするとしないに構わず、むしろ自分の懸念を払う衝動にまかせて箱の中から服を取り出した。その服をささっと適当に丸め直してそれを絨毯の上に置くと、余計な考えを挟まずにそのまま箱の底を見下ろした。
 二個の白い袋が箱の底にあった。袋の生地や外見は、茶葉を入れた複合繊維のパックそのものだった。嗅ぎ覚えがあるその特徴的な匂いさえなければ、市販の防虫剤をそこに重ねて見たかもしれない。
 確かに、それは防虫剤の用途を成していた。袋の中身の性質を思えば、もう特に疑いようは無かった。店主の目に袋の中身が透けて見えた。粒の大きさに個々の違いはあったが、それをセガワ家の寝室で見た黒い粒状物以外の何に例えて見ることも出来なかった。店主は自分に言い聞かせるように、まいったな、と呟いた。
 玄関のインターフォンが鳴ったのは、このあと店主がリビング・ダイニングで息子への対応を考えあぐねていたときのことだった。隣りの家に済む初老の男に連れ添われて息子が帰ってきた。「裏門が珍しかったようで」と、男は店主の息子の代わりにささやかな弁解をした。それに続いて息子は、昼間に聞いたチェーンソーの音を理由に挙げて、無断で家を出た訳を手短に父親に伝えた。
「そんなところだと思ったよ」と、口元に微かな笑みを浮かべて店主は言った。
 息子の部屋に見つけたダンボール箱とその中身については伏せたまま、そのあと店主は風呂に入るよう息子をうながした。箱の中の衣服が瀬川知里の物であるなら、知里に対する息子の思い入れがまだ風化せずにあって違いなかった。

 後日、店主は数日ぶんの休暇を取って加護幸久の住む町で過ごす予定を立てた。息子を連れて家を空けるのは久しぶりだった。加護幸久に電話をかけてその旨を伝えたところ、手ごろな料金で泊まれる旅館を数軒ぶん紹介された。加護は、冬の時季に出される夕食の献立を思いつくままに話した。以前の通話と相変わらず、加護の話しぶりには酒の席の陽気があった。店主はそれを好ましく思った。たった一本の電話で、加護に対する偏見がいくらかは弱まった。加護から聞いていた“通話中の人の声について”、それが携帯電話の通話に限られた音質であるという旨を話した。固定電話の会話には通話者の声の波形がそのまま電線を行き交う仕組みとなっている。それを聞いて加護は「そうでしたか」と、抑揚のついた声で酒気をまき散らすように言った。「だから要するに、いま僕は“おたく”の本当の声を聞いているということでしょうな」
 加護はそのあと自分の工房への経路を説明した。それは彼の陶器の販売サイトに記載されていたとおりの内容だった。店主の住んでいる町から電車で四時間あまりを移動して、そして駅前からバスに乗り継いで三十分をかけて山間の町へ向かう。三年前に開通したバイパス道路を利用すれば、少なくとも林道のわきを川へと転げ落ちる心配はない。そう冗談まじりに言って早々、加護は迎えの車を出す用意を言い出た。新鮮な近海魚をつかった冬の地元料理を何品か紹介した。「とにかく、寒いですよ」と、防寒を念押ししておいて、それから最後に言い加えた。山間に吹き流れる風と朝晩の氷点下の気温に体調を崩しかねない。
「まだすこし気が早いですが、よいお年を」
 と言って加護は電話を切った。

 十二月に入って二週目の中頃にもなると、年の瀬の押し迫った世間を、人が小忙しく行き交っていた。その余流に乗って十二月の日々を繰り返している自覚だけは店主にもあった。人の流れに合わせて年末の時期が過ぎるように思えた。街中の雑踏に紛れて歩いていると一年を振り返らずに済んだ。時間と意識の平坦な流れを感じた。
 そうして十二月が滞りなく過ぎた。二十五日の夜、瀬川家に住む男から店主の息子に箱入りのショートケーキが手渡された。新年を四日後にひかえた二十八日の夜、瀬川家の玄関に正月の飾りが取り付けてあった。三が日の留守を挟んで、その後、男はポチ袋を持って店主の家の玄関をくぐった。七日の朝になって瀬川家の飾りが取り外された。近隣にあるゴミの集積所に、その飾りだけを入れた透明のゴミ袋が置いてあった。