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ラフ画です。







 

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ラフ画です。mynaに関する画を五枚描きます。
これまで何かをイメージして線画を描き始めたことはありませんでしたが、いざ試してみると、こうして何かしらの題材を用意してから描き始めるほうが気が楽なように思えてきます。







 

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栃木レザーのケースです。
mynaの新曲のドラムを“録り”終えて、寒さに咳込みながら朝の農作業にむけて準備を始める早朝です。







 



松の株元の切断面です。透明の松脂が樹皮を垂れ落ちていきます。松脂は、桃源郷に向かう道中で香ってくるミューズの生来の体臭のような匂いがします。
手に付いた松脂を浴槽の湯に浸かってミューズの泡で洗い落とすとき、労働の麻薬性を実感します。もし仮に桃源郷に薪風呂が無いのだとしたら、汗を流して歩き続けることに多少の空しさが感じられるだろう気がします。






裏庭のバジル 35 


 電源の切れたテレビ画面にリビング・ダイニングの一角が映り込んでいる。そのテレビの前に敷いてあるホットカーペットの上では一人の男児が仰向けで眠っていて、天井灯の付いたダイニングには上下のスウェットを身に付けた一介の父親――(のちに自宅の一角を店舗に改築して駄菓子屋を始める男)――その店主の姿がある。このとき店主は食卓の椅子に座り、携帯電話を一方の手に持って卓上のノートパソコンを斜めに見下ろしていた。彼の手元のメモ用紙にはボールペンで“加護幸久”の走り書きがある。“ユキヒサ”の小ぶりな文字だけが二重線で記してあって、おまけに氏名そのものを幾重かの乱雑な楕円で囲ってある。
「ちょっと待って」と、店主の耳元にサワムラの声がした。「おかあさんに代わらなくて良い?」
 予想外の話に店主は思わず息を止めた。そして彼は語気のわずかな変化を自覚せず不平じみた声で訊いた。「なぜ君のお母さんに代わる必要があるんだ?」
「余計なお世話をしたくなる歳だから」と、きっぱりとした口調でサワムラは答えた。そのサワムラの声に冗談めいた調子を聞き取れず、店主はただ曖昧な相槌を打つにとどめた。
「“子はカスガイ”って言うのよ」とサワムラは唐突に言った。
「知ってるよ、もちろん」
「どうかな」とサワムラは素っ気なく言った。
「知ってるよ」と店主はもういちど言った。リビングのカーペットに横たわる息子の寝姿からノートパソコンの画面に視線を戻し、食卓に置いてあった湯呑を一方の手のひらで包んだ。「お互い、どこかで大事なタイミングを見逃していたんだと思う」
「なにそれ?」
「君のお母さんが言ったんだ」口元に寄せていた湯呑をかたむけて、微かに湯気の立つ茶を喉の奥に流し込んだ。いつか元妻と交わした会話の一部が彼の脳裏に張り付いている。
 数秒の沈黙があった。サワムラは声を弱めて「分かるよ」と言った。「きっと本当に、そんなふうに言ったんだろうなって、想像できる」
 店主は音を立てないように湯呑をテーブルの上に置いた。サワムラは喉の奥から息を捻り出したあと、「なんでかな」と言った。「おかあさんとおじさんが仲良くなっても、私、本当は嬉しくもなんともないんだけど」
「お母さんとおじさんが仲良くなっても、きっと誰も嬉しくならないよ」
「やっぱり、そうかな」
 店主は手元のメモ用紙に書いたばかりの“サワムラアリサ”の文字を楕円で囲んで、先に書き付けてあった“加護幸久”の文字とのあいだに線を引いた。「理不尽に傷付くのは、まず君自身だろうからな」そう言って店主はそのまま何の意味も成さない線状の落書きをつづけた。受話口からサワムラの子供っぽい思案の声が漏れ出してくる。
「あの子と電話で話をしていると、私があの子のおかあさんを取っちゃったような気がしてくるの」とサワムラは言った。「それって、すごく嫌な気分なんだけど、そういうのって分かる?」
「君が心の優しい子だってことは分かるよ」
 店主の手元のメモ用紙には無作為で意味のない線画が描いてある。
「ありがとうございます」とサワムラは僅かに険のあるの声で言った。「いつか加護さんに会えたら良いですね」
 店主は一言で相槌を打つなり、落書きの手をとめて視線を上げた。それから椅子の背もたれに寄り掛かり、自身の強気を冗談にくるみ込んで言った。「会わなくて済む相手には会わなくても良いというのが、おじさんの持論なんだけど。どうかな?」
 受話口から沈黙が漏れ出してくる。店主はキッチンの置時計を振り向き、そのあと前に向き直ろうとして、もういちど置時計を見やった。指針が十五時二十三分を指していた。とっさに店主はリビングの掛け時計を振り向いた。そこには現在の時刻が正しく表示されていた。
「よし、もう切るよ」
 店主は口早に言った。サワムラは「おやすみ」と呟くように言った。
 通話を終えて店主は携帯電話をスウェット・パンツのポケットに入れた。スリープ状態を解除したノートパソコンの画面にブラウザを表示させて、検索ウィンドウにキーワードを打ち込み、その検索結果の一覧に目を見張った。
 “加護”の姓につづく複数の“ユキヒサ”を想定していた。しかしそれらの男性名はひとつも表示されなかった。店主は世の中にいるカゴユキヒサが途端に身を潜めてしまったように感じて、“加護幸久”の氏名を持つその唯一の人物に親近感をおぼえたが、同時にその親しみの感情がほとんど意味を成していないようにも思えた。店主はそれから検索結果の最上部に表示されたタイトルにポインタを合わせて、パソコンの薄いモニター画面にページを表示させた。そして思わず両手を机に突いて、上体を前にかたむけた。
 パソコンの画面の明かりを薄っすらと顔に浴びて、すっと微かに目を細める。
 ページのタイトルは『yukihisa kago pottery store(ユキヒサ・カゴ陶器店)』――そのページの上辺には、鮮明な画質で撮影された一枚のヘッダー画像が配置してあった。撮影された窯小屋の外観には目立った経年の跡が見て取れない。店主は妙に違和感を覚えたが、例の記録映像の視聴を終えたばかりとあって、多少の経年に対する視覚的な違和感を覚えて仕方がないようにも思った。サイトに投稿されたヘッダー画像をのぞく全ての画像には、時間の流れに沿った加護の経年が見て取れた。その素朴な恰好や表情があってこそ、例の記録映像に撮影されていた加護の表情に“静かな険しさ”を振り返ることも出来るように思えた。
 サイトには加護の工房の住所や電話番号の他に、交通アクセスや窯焚きの体験コースの説明や料金などが記載されてあった。またそれとは別に、外部ページにある陶器の販売サイトが紹介してもあった。その販売サイトのメインページには、個別の商品ごとに鮮明な数枚の画像と、制作年の記載を含めた短い説明書きがあった。白を基調とした無機的なページにシンプルなデザインで構成されたウェブサイトだった。ページの最下部にはyukihisa kago potteryの文言を含むコピーライトの表記があったものの、ページそのものに対する印象から思い起こすのは、加護ではなく、妻のセガワの人間像だった。
 リビングの掛け時計を見やると、ちょうど午後8時に差し掛かろうとする頃だった。開きっぱなしにしてあったリビングのカーテンの向こうには、石敷きのアプローチを挟んで生垣が横並びしている。店主は食卓の椅子から立ち上がってリビングへ歩を運び、両開きのカーテンを手早く閉じた。そして手に持っていた携帯電話の画面に視線を落として、ついさっき打ち込んだばかりの電話番号の数字を左から右へ、これといって特に何を意識するでもなく目でなぞった。
 通話ボタンを押してから八度目の呼出し音が鳴り始めた直後のことだった。
「はい、もしもし」と、店主の耳元で女の声がした。
 店主はその声に聞き覚えを感じて一呼吸のあいだ黙り込んだが、その心持を率直に相手に伝えるわけにもいかず、はじめに自分の姓名を伝えておいてから、加護の記録映像と陶器販売のウェブページを話題にあげて、電話を掛けたいきさつを説明した。
「少々お待ちください」
 受話口の向こうに女の声が止んだあと、水のせせらぎを模したデジタルの保留音が流れた。店主は携帯電話を耳に押し付けたまま、リビングを横切って廊下に出た。玄関の鍵をあけて冷気に満ちた戸外へ踏み出し、彼自身の息子の所在を思い浮かべて玄関を振り返ろうとして、そうするのをやめた。電話の保留音が止んだのは、ちょうど店主が自宅の門柱を通り抜けようとするときのことだった。
「変わりました、加護です」店主の耳元に男の声がする。
「夜分に恐れ入ります」
 店主は頭を小さく下げて言うと、先と同じように自分の姓名を伝えておいて今度は電話をかけた“いきさつ”をいくらか簡略して話した。するとそれに対して加護は、やや掠れの帯びた太い声で応じた。記録映像に収録されていた本人の声と比べれば、冷たく乾いた響きが含まれていたが、同時にその豊かな低音の声には危うい陽気もうかがえた。店主は陶器の通販サイトにまつわる会話に一段落が付くのを読み取って、さりげない関心の含みを持たせた声で言った、「すこし、おうかがいしたいことがあるんですが」
 なんでしょうか、と加護は応じた。
「先ほどお電話に出られた女性は、加護さんの奥様かお嬢様ですか?」
「妻ですが」と加護は答えた。
 それを聞いて店主はわずかながら愛嬌をにじませて相槌を打った。「私の知っている方の声に似ているような気がしたもので」
 二秒ばかりの沈黙だった。店主が言葉を継ごうと声を漏らすと、それまで押し黙っていた加護が変わらず陽気な声で言った。「どなたの声に似ていましたか」
 店主はいちど記録映像の件に話を戻して、そこに収録されていた一人の女について話を始めた。隣人の関係にあったセガワ夫妻に関するところから、妻のセガワと“店主の息子”とのあいだに築かれていた“微笑ましい”と言って語弊のない微妙な関係性へと話は及び、そして最後に、店主の自宅にあった段ボール箱の中身へと話題が移った。【館内 放映用】と題された数本の映像メディアについて話を聞かされて加護は「うんうんうん」と、唸るように言った。「たしかに、あのとき、(館内の)いろんな場所に薄いテレビが置いてありましたよ、大きいのから、小さいのまで」
 まず店主はその陶芸展の話題に感心を示しておいて、そのあと陶芸家としての加護の名前に対する無知を恐縮の口調で伝えると、例の記録映像に対する好意的な感想を素直に話した。「ですので、あのビデオを私の家でお預かりしておいて良いものかどうか、いちど加護さんにおうかがいしておこうと思いまして」
「どうぞどうぞ」と、カゴは抑揚を付けた親しみのある声で言った。「僕もビデオのコピーを自宅に保管してありますから、そちらにとってご迷惑でなければ、どうぞご自宅に保管なさっておいてください。きっと、お宅の息子さんもそれを希望されるでしょう」
 そう言ったあとに加護は嬉しげに息を吐くと、それまで何度か繰り返したように「今夜は良い夜です」と言い加えた。それを聞いて店主は、ついつい陶器の販売サイトの件を振りかえって加護の機嫌をさらに取りたい気にもなるのだが、いやと思い直して、風邪に気を付けるよう加護に伝えた。古い友人にでも話しかけているような気がした。
 おなじく店主の体調に気を掛けて加護は、途切れた会話に言葉を投げた。
「うちの妻の声と 知里 の声が似ているのは、二人の声が生身の人間の声ではないからでしょうな」
 言い終えるやいなや、加護は耐えかねた様子で弱弱しい声を垂れ流した。そして、その彼の声が店主の耳元を遠ざかり、まもなく盛大な くしゃみ の音が鳴った。加護は鼻をひとすすりして短く息を吐き出すと、「すっかり冬ですな」と言った。店主は調子を合わせるつもりで、今しがたの加護の話に触れて疑問を投げた。
「聞くところでは、この僕らの声も、肉声ではなく機械の声なんだそうですよ」
 そう答えて加護は、さらに店主の無言にかまわず話を続けた。「この世の中に“同じ声”を持つ方々が何人かいるとすれば、きっと彼らは皆、自分の耳を受話機に押し付けて誰かと話をしているんでしょうな」
「なるほど」と、店主は表情のない声で言った。
「なるほど」加護は笑い、そして思い出したように言った。「そうだ。今夜のご用件をまだおうかがいしておりませんでした」
 店主もまた思い出したように相槌を打った。「取り留めのない、とでも言いますか、その、自分の見知った相手の若い頃の顔を見ていて……なんというか、感慨があったとでも言いますか」
「知里のことでしょうな」と、加護は淀みなく言った。
「はい」と店主は答えた。
「たしか、あの子が高校を卒業して以降だったかとは思いますが、これまでに一度もチサトとは会っておりません。ですので、ここ最近のチサトの様子は、私よりもあなたのほうがよくご存じのはずです」
「一度もお会いしてらっしゃらないんですか?」と店主は訊いた。
 一度も、と加護は答えた。「もしこのあと都合がよろしければ、なにかお話をお聞かせいただけないでしょうか、あの子のことを、どのようなことでも結構ですので」
「一度も、ですか?」
 たったの一度も、と加護は答えた。

 店主がセガワと初めて会ったのは、セガワ家の建築中のことだった。家の敷地の前に立っていたセガワ・チサトに通りがかりの挨拶をして以来、店主は隣家の玄関先で度々セガワと顔を合わせて事務的に挨拶を交わした。組み上がったその木枠の形状からすれば、店主自身の自宅のサイズとほぼ大体おなじで、いつかセガワ・チサトの夫から聞き知っていたとおり、両家のデザインは同じ種類のものだった。そして、やがて隣家の外観の造りに完成の目途が付く頃にもなれば、その家の固有の特徴が目に見えて明らかになった。店主の自宅の前面部の造りと対称するように、隣家の外観の左右の造りが逆になっていたのだ。住宅地の一角に両家ともが同じ方角を向いているだけのことあって、事の経緯を知らない近隣の住人がその立ち並ぶ二軒の家に奇異の目を向けるのも当然だった。
 チサトの夫は国内で自然塗料の開発に携わっていた。海外に出張して塗料の素材となる樹皮を日本に持ち帰ることをひとつの職務とするかたわら、日本語の臨時教員として短期間の海外生活を送っていた。それに対してチサトは若手の陶芸家であり、会派に所属して国内外の陶芸展に作品を出展する一方、自身の陶芸スタジオで定期的に作陶教室を開いて生計を立てていた。その二人の職種を思えば、夫妻それぞれの人柄と彼らの生活の根底に流れる静けさに魅力が感じられるようでもあった。店主は何かの折に自身の結婚生活を振り返ることがあった。多様な家庭の在り様について、感心に似た思いを持たずにはいられなかった。
 隣人関係が格別良いわけではない。といって、悪くもなかった。両家が付き合いを始めた当初から、店主の息子はチサトに懐いた。子供のいない夫妻のあいだに遠慮がちに入り込んで自分の居所を得ようとする様子がどことなく愛らしくも見えたが、その結果として夫妻の家庭環境に悪影響が出ることを店主は気に掛けてもいた。両家の外観は異様だった。それはセガワ夫妻の人柄とはまったく関わりのない無機的な異様だった。それにも関わらず、しかし同時に店主は砂を飲み込むような生理的な嫌悪感を覚えてもいた。彼自身、その感情の矛先をはっきりとは自覚していなかった。
 そして、その不可解の原因とも思える事実を店主はのちに知った。
 それはいつかチサトの夫に招かれてセガワ家を初めて訪れたときのことだった。店主は屋内の間取りに家主の執念じみた意図を見て取った。家の外観だけでなく、間取りもまた店主の自宅と左右対称を成すように造ってあった。あらかじめ描き換えておいた図面に合わせて排水管などの埋設工事までもしてあり、台所のシンクやトイレや風呂場など、夫のセガワに案内されたその屋内の行く先々に、店主の想像するとおりの家の構造があった。チサトの夫は、それがすべてチサトのアイデアであったことを店主に話した。
 さらに加えてもうひとつ、セガワ夫妻の提案によって両家の敷地のまわりに生垣が植え巡らされるのだが、生垣に利用される木々というのが、害虫の忌避効力に長けた樹種のものであった上に、一般的に見ればそれは生垣に利用される種類の木ではなく、さらにその特性として“人に幻視を見せる“というものだった。チサトの夫は一枚の画像をプリントしたコピー用紙を店主に見せて、そこに撮影されていた一本の木を『イェフス』と呼んだ。チサトの話によれば、それはいつか彼女の夫が臨時赴任したラトビアの現地で、住人らが愛称として呼んでいた造語だった――the tree of yephs(イェフスの木)
 そして、それからしばらく月日が経ち、何の前触れもなく夫のセガワが行方をくらました。やがてチサトまでもが持病の療養を目的として家を出た。彼女が三年あまりを暮らした家は、その後、住人不在のまま空家同然の静かな様相を見せていた。
 そんなあるとき、同家の裏庭で一人の男の自殺事故が起きた。男はチサトの所属していた会派のメンバーのひとりだった。脱会したチサトの行方を追うようにして男は彼女の自宅に向かい、失意のうちに首を吊って死んだ。既婚のチサトをひとりの異性として慕っていた。
 店主が加護幸久の名を知ったのは、その自殺事故から数日後のことだった。自宅のリビングに置いてあった段ボール箱の中に十数点の映像メディアが個々のパッケージに入れて収めてあり、そのうちの一本に加護の姿が撮影されていた。
 その動画には、加護の自宅のわきにある菜園の様子も収めてあった。園内の一角に一本の成木が植わっていて、枝の一本に取り付けた小さなアルミプレートには、マジックペンで『イエス』と書いてあった。その木には数種の果樹の枝が何本か接いであった。時季が来ればその枝々にそれぞれ別種の果実が付くのだと、加護が涼しい顔で説明していた。

 ひととおり話を終えて店主は、ゆるく息を吐きながら上体を前にかたむけて、そのまま重心を前に移動させて“踏み石から”腰を上げた。そしてその場に立ち上がり、左を向いて目先にある自宅の外観を見やった。横並びの生垣越しに自宅の縁側の軒が見えた。ごく微かな月明かりの中にあって、自宅そのものが夜の向こう側に浮かんでいるようだった。店主の視界の一角には、踏板を外したブランコが静かに佇んでいた。いつか彼自身の刈り払った芝草は短く生え揃っていて、そこに植物の成長を見て取ることは出来なかった。風は止んでいた。眼前の世界の時間が止まっているように見えた。それは何者にも犯されることのない夜の平穏だった。店主は、はっきりと自覚しながら安堵の息を吐いた。目先にある自宅を、彼はそのときセガワ家の裏庭から眺めていた。
「僕の家に保管してあるビデオと、そちらのご自宅に保管されているビデオとでは、すこし内容が違っているようですな」
 と加護は言った。その声には若干の陰りがあった。
 加護の意見を聞いて、店主もまた自身の感じ取っていた違和感について話した。店主の観た記録映像には、イエスの木を撮影した場面だけでなく、チサトの母親の姿までもが収録してあった。チサトの背中の露出に関しては、チサト本人の承諾があったのだから、それを映像化するにあたって特に何も問題は無かったはずだが、しかし、チサトの母親の姿が映像に収められたことには合点がいかない。クジラの座礁現場で撮影された生々しい血肉と、その現場の一角で吐瀉するチサトの様子をそのまま映像に組み込んだ理由も店主には分からない。
 話を聞いて加護は言った。「僕にしてみても、あの木を人目に晒すつもりはありませんでした。ビデオの撮影こそ禁止してはいませんでしたが、館内での放映は許可していなかったんです」
 それは店主の推測するところでもあった。木の存在の倫理性を見れば、映像の使用を差し控えておくのが妥当なところではある。
「あなたのお手元にあるビデオは、チサト一人に宛てられたビデオなんではないでしょうか」と、加護はそう言ったあと自嘲ぎみに笑った。「そんなビデオがあるとは誰からも聞かされておりませんが、そんなビデオが本当にあったのだとして別におかしくも何ともありません」
 店主もそう思った。セガワ・チサトの撮影参加を提案したのは加護だったが、(映像中にも語られていたとおり)あとになって映像の企画内容に変更を加えたのは撮影者その本人だった。収録された映像の多くの割合をチサトが占めているのは、それがチサト個人に宛てた映像だったからだ。
「ご迷惑でなければ、そちらにあるビデオを僕にも観せていただけないでしょうか」そう言って加護は鼻をひとすすりした。「この歳になりますと、過去をひとりで懐かしむのもまた一興です」
 それを聞いて店主は愛想を込めて短く笑い、映像の受け渡しを約束した。
「まだまだおうかがいしたいことがあるにはありますが、今夜はもう時間も時間です。また日をあらためてお話をお聞かせいただけませんでしょうか」と、声に親しみを込めて加護は言った。
 そしてその言葉の流れで通話の終わりに差し掛かかろうとしたとき、「ひとつ、よろしいですか」と加護が唐突に言い加えた。「“イェフス”という名前が付いた理由からしても、あの木と関わった者の心境がどれも似通っているのだろうという気がします」
「その名付けの所以を、加護さんは信用されますか」と、店主は短い沈黙を切った。
「ラトビアでしたか?」と加護が訊くと、「はい」と店主が答える。
「遠い国の話です。国の歴史をまともに知らない僕には確かなことは何も言えません」
 そこで言葉を切って加護は「ですが……そうですな」と、ゆるく一息を吐いた。「信用できるだけの根拠が無いんです、結局をいえば」
 それを聞いて店主は静かに相槌を打った。「仰るとおりです」
「ただ、いつの時代にあっても、その話が普遍の意味を持つには違いありませんよ」と、加護は何ひとつ声色を変えずに淡々とした口調で言った。「“イェフスとは何か”といえば、それは名付け親の後ろ盾であって、ときに、その本人を生かすための“身代わり”や生贄の象徴とありうるでしょう」
 淀みのない口ぶりだった。店主は左右の目尻に皺をよせて無言に笑った。イェフスの木の形状を人間に見立てて加護が話をしていることは明らかだった。
「加護さんも、ご自分の身代わりを立てられたわけですか?」
「いえいえ」と、おどけた調子で声に抑揚を付けて加護は答えた。「僕のあれは、墓標にするつもりです」
 店主はその聞き慣れない“ボヒョウ”の発音を頭の中で反芻し、ボヒョウですか、とだけ口先に漏らした。
「妻の死を考えると、どうも私には墓標が要るように思えます」
 その発音と語意を死に結びつけて店主は何がしかの返事をしようとしたが、とっさに何を言えば良いのか見当が付かず、「なるほど、墓標ですか」と、暗に語意の理解をだけ示しておいた。
「もちろん将来の話です。今のところ妻は健康でいますから」
「奥様がお元気でいらっしゃって何よりです」と店主は言葉を探しながら言った。そして他の余計な言葉を避けるために店主自身の思い当たる節に話題を移した。「その、私の立場に置き換えてみますと、私にとっては息子が墓標だという話になりますか?」
「不謹慎ですが、奥様は?」
 その問いに対して「はい?」と、店主の口から上擦った声が出た。
「奥様はご健在でいらっしゃいますか?」
「ええ」と、店主は率直に答えた。そして、ふっと息を吐くと、そのまま呼気にのせて遠慮がちに短く笑った。「いや、どうも、勘違いをしていました――妻とは数年前に別れまして、いまは私と息子の二人で暮らしています。それに、彼女は彼女で再婚して、どこかで新しい生活を送っているようです」
「そうですか」と、加護は親しみのある声で言った。「でしたら、あなたの息子さんは墓標ではなく、生き標でしょうな」
 店主は妙な感銘をおぼえて黙り込んだ。考えてみれば、社会生活において加護幸久のような人柄を持った人物に巡り会う機会は乏しい。日常生活の中で精神的な対人関係を実感できる相手はほとんどおらず、思い当たる他者といえば、シックな店柄のバーカウンターに立つ口数の少ない年配のバーテンダーぐらいのものだが、しかし実際のところを見れば、そのバーテンダーと店主自身の関係性は甚だ薄い。
 わずかでさえ精神的な関係性を実感出来てなどいないのかもしれない。カウンター越しの対人関係が妙に心地よく感じられるが、グラスを片手に酒気を吐き出しながらでは、お互いの精神性も何もあったものではない。
 自宅の風呂場の方から、湯を打つ音が聞こえてくる。店主はセガワ家の裏庭を自宅へと歩き出した。“生き標でしょうな”と言ったその電話越しの相手こそ、店主にとって面識のない他者そのものだった。




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Deru - 1979 (Full Album)




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――土曜日――

生まれ出でたは曜日の始めのここは古代のバビロニア。砂地に射し込む光に照らされ無数の砂岩に無数の陰り。熱に晒され赤みを差した石の一部に入った亀裂とそこから漏れ出る時刻の響き。傾く太陽、吹き乱れる風、日差しの温みに膨張する石。砂岩に浮き出た尖りの縦列二十六ある人型の標、鼓動に削られ溜まった砂粉に突き込む標に鼓動の分岐の響きあり。やがて雨風流砂に堀られた目鼻耳口おまけに額に文字の模り、風がイデアとその名を呼べば陰落ちた眼には光彩の浮かび。二肢の微動に揺れた胴部に生えた二本のそれがテロスを成す腕となる。無数の砂岩、生まれ出でたは陽の射る土曜日。






Terry Riley - A Rainbow in Curved Air - Full CD (HQ)




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